映画「ドリームキャッチャー」

期待に違わぬバカ映画ぶりで大満足であった。「スタンドバイミー」+超能力もの+エイリアン侵略もの、って書くと安っぽい幕の内弁当のようだけど、さにあらず。この作品の本当の持ち味はその下品さにある。

だってあれだよ?エイリアンの侵略のきっかけって、吹雪で迷子になったジジイが木の実と間違えて動物のクソを喰ってしまったことなんだから。そのクソの中に入っていた「ギョウ虫」のようなエイリアンが、腹の中でデッカくなって肛門をぶち破るのだから。こんなにバカバカしい設定の侵略の仕方って、これまでなかったよな。またエイリアンの姿が、マンガの「寄生獣」みたいなんだよな。

冒頭で苛めっこが小児マヒの子に犬のクソを喰わせようとするシーンがあったり、血まみれ&クソまみれの便所で、尻丸出しのジジイの死体を横に、エイリアンと攻防合戦を繰り広げるなど、何つうかやたらとクソに拘った作品である。世界滅亡の原因となる(と予知されている)のが、エイリアンの幼虫(っていうか見た目はギョウ虫そのもの)っていうのも、実に下品で下らなく、素晴らしい。そして何より素晴らしいのが、この下品極まりない作品を作ったのが名匠ローレンス・カスダンというところだ。いや、つうか映画オタ的には別に名匠でも何でもないんだけど、アカデミー賞的には一応名匠じゃない? これまでは結構気取った映画を撮ってきた人だから、この転回ぶりは何事かと目を疑ってしまう。まぁ面白いからいいのだけど。

まぁ絶対に観るべき映画!ってほどではないけれど、観といても損はしない映画だと思うな。少なくとも話のネタにはなるしね。

「藍より青し〜縁〜」第1話・第2話

典型的なハーレムラブコメであり、スタッフもそのことに対して非常に自覚的に作っている。だから非常に風通しが良く、爽やかな作品となっている。良いと思う。

ここで述べた「ハーレムラブコメ」という定義は、何も本当に主人公が女の子を取っ替え引っ替え横にはべらかして、毎晩SEXにうつつを抜かしている、ということではない。アニメ好きな人なら分かると思うが、「まぶらほ」でも「藍青」でも実際にSEXを描かれることは全くない。パンチラや、着替えの覗き、胸タッチなど、嬉し恥ずかしシーンは山盛りでも、それがSEXに発展することはない。勿論、観客がそれを不満に感じることもない。むしろ、観客はぬるま湯のような女の子たちと主人公の関係を期待していると言っていいだろう。

「ハーレムラブコメ」とは、男女の恋愛模様を描くことを本義としているものではない。もしそうであるならば、女性同士の関係がもっとギスギスしたものになるはずだが、「藍青」における女の子たちはみんな仲が良い。そうでなければならないのだ。「ハーレムラブコメ」が指向する世界観とは、誰もが幸せで、仲良く、平和な関係性を維持していくことにあるのだから。

「幸福な共同体」の形成と維持。これこそが「ハーレムラブコメ」が指向し、また提示するものであるだろう。一見、「モテモテの男の子を巡って女の子達が争い合う」ように見える設定も、実は「一人の男の子を中心に配した、調和のとれた共同体」=「家族」的な世界観が構築されていることに気付くだろう。つまり、主人公=花菱薫は「女の子達の恋人」である以上に「父親」である、ということになる。

上に記したことは第1話における神楽崎雅の以下のセリフで暗喩的に示される。
「私にとって、(薫を)好きか嫌いかは重要ではありません。 薫様は、絆そのものです。」
この後で、「縁(えにし)」という単語を用いて、作品世界における「幸福な共同体」のあり方を説明している。(物語内では、「葵は薫のことが好きなのか」としつこく食い下がる水無月ちかに対して、「私たちは縁でみな繋がっている」と優しく語りかける場面がそれにあたる)

この説明よりは、雅のセリフの方が作品の世界観をよく表している。が、それは大して問題ではない。重要なのは、物語の第1話で、作品が明確に「幸福な共同体」を指向したものであることを示した点にある。これまでも、「ハーレムラブコメ」は「幸福な共同体」を指向してきた。しかし、ここまで明快に「共同体性」を主張し、また肯定的に示した作品は、僕が記憶する限り存在しなかったように思う。これを「成熟」ととるか、「開き直り」ととるかは、まだ判断が悩むところである。しかし「藍より青し」の作品の魅力や、また作品が提示する幸福な世界観や優しい視線を、僕は非常に愛していることだけは疑うことのない事実である。

うーん、第2話でも記しておきたいことがあったのだけど、それは次回に回すか。少し長く書きすぎたし。

「おねがいツインズ」第5・6話

「ハーレムラブコメ」が提示するものは「幸福な共同体性」であることは先に書いた。この共同体における関係性をもう少しだけ説明すると、主人公(男の子)と周囲の女の子の関係性は「友達以上恋人未満」と言えるだろう。また、「疑似家族」的な関係性であるとも言える。このややこしくも曖昧な関係性をどういった匙加減で描いていくかということが、「ハーレムラブコメ」の肝となる。

藍より青し〜縁〜」では「敢えて踏みとどまること」、すなわち、関係性を明確にせず放置しておくことで「幸福な共同体性」の維持を図ろうとしていた。対して「おねがいツインズ」という作品では登場人物3人のヤヤコシクアイマイな関係性を、いずれは解決されなければならない問題として提起されている。つまり、「敢えて踏み込む」という匙加減をこの作品は選択したことになる。

勿論、本気で男女の恋愛関係を真っ正面から描こうとしている訳ではない。そうでなければ、(華恋はともかく)深衣奈と麻郁はキスだけでなくSEXに発展してもおかしくないはずである。また、深衣奈と華恋が結ぶ恋愛同盟というのも高校生にしては余りに幼すぎる発想のように思える。

しかしだからこそ、この作品は「ハーレムラブコメ」の「幸福な共同体性」を守りつつ、主役3人の関係性の発展・成長を描いていく青春ドラマとして(これまでは)展開できているのだ。「幸福な共同体」を描きつつも、それは「卒業」されるべき場所であり、いずれは各人が選択を迫られることになることを、登場人物達も自覚しており、また視聴者にも明示的に示されるのだ。

「肉親かもしれない。他人かもしれない」という何度も繰り返される問いかけはこの作品で非常に重要な意味を持つ。本来の「ハーレムラブコメ」は「肉親であり、恋人でもある」という関係性を肯定してくれるものである。また、それがゆえに視聴者を心地良い気分にさせてくれるものだ。しかし、「おねツイ」においてはこの曖昧な関係性は決して心地よいものとして描かれていない。むしろ、曖昧であるからこそ、個々人がとても苦しい、ツラい想いをしているのだ。

「未決定の状態」の描かれ方が「藍青」と「おねツイ」では非常に対照的に描かれている。
「藍青」第2話で、ちかが定期に入れていた薫の写真を友人に見られて、彼氏と間違われてしまう場面がある。ちかは即座に否定すればいいのだが、何故かそうしようとしない。それどころか、二人が彼氏(だと思い込んでいる)薫を一目見ようと遊びに来た時に、あれこれと画策して二人に薫と出会わさないようにする。ちかの行動には、「薫を彼氏であるとはっきり否定しない」ことで、「薫と自分が彼氏になる可能性があるかもしれない」可能性を残しておく意味を持っている。「未決定の状態」であるからこそ、様々な可能性を残しておくことができるのだ。(それは永遠に「可能性」のままなのではあるが)
対して「おねツイ」では、「未決定の状態」というのは非常にツラいこととして描かれている。「肉親かもしれない」という状態が、恋愛段階へ進んでいくのを阻んでいるのだが、しかし「他人かもしれない」という状態により、二人のうちどちらかが麻郁の家を出ることになり、三人の共同生活(共同体性)は失われてしまうことになる。共同体を維持したい気持もある、しかし、恋愛に発展したい気持もある。深衣奈と華恋、二人ともがどちらか一つを選択し、どちらかを諦めなければならない。

本来、「共同体」と「恋愛関係」とは同時に成立するものではない。「共同体」とは集団の関係性で、「恋愛関係」とは個人対個人の関係性だからだ。しかし、多くの「ハーレムラブコメ」では、その二つがあたかも同時に成立しているかのような錯覚を与えてしまっている。「おねツイ」では敢えて「共同体」か「恋愛関係」かキャラクターに選択を迫ることで、「ハーレムラブコメ」というジャンルの世界観を根底から覆すような物語を展開してみせる。それをあくまで「ハーレムラブコメ」の中で行っているのが、「おねツイ」の新しく、面白いところだと思う。うん、いいと思うな。第5話から第6話にかけて、大分持ち直してきた感じだ。このまま頑張って欲しい。

「マリア様が見てる」第12話

これも「共同体」の話だよね。アニメってホントに「共同体」の話ばっかりだよな。それが悪いって訳じゃなく、むしろ大好きなのだけれど、何つうか別のテーマで話を作って欲しかったりもして。ファーストフード店での祐巳と祥子様って、まるで子供と母親の関係そっくり。楽しい場所に行こうと、子供が母親を引っ張っていく、みたいなね。