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2009-05-18

30.大学院

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、”I.Asimov: A Memoir” (1994)の第30セクション「大学院」の翻訳です。

22から飛んで、30です。この間のセクションは、ジョン・キャンベル Jrハインライン、スプレイグ・ディ・キャンプ、クリフォード・シマック、ジャック・ウィリアムソン、レスター・デル・レイ、セオドア・スタージョンについてという贅沢なアシモフの思い出話のセクションなんですが、飛ばします*1。なんといいましてもこの翻訳は、非モテ非コミュロールモデルとしてのアシモフがメインなので。

このセクション、全体としては、「ダメ院生ども、あつまれ!」とかねねねさんに(雪野五月さんボイスで)怒鳴ってもらいたい感じで、いいですねぇ。ダメ院生だった自分としては泣けます。でも、そんな中でもアシモフは負けないんだなぁ。見習おう。


30.大学院

しかし、1939年がどれほどサイエンス・フィクションの執筆とサイエンス・フィクションの人達との交流によって満たされようとも、ある大きな問題がそれで消えてくれる事はなかった。197ドルで一年間を生き延びる事はできない。つまり、執筆は心躍る副業であっても、それ以上のものではないとみなすほかは無かったのだ。

医学校への進学に失敗した以上、大学生活の終わりが近づいてくると、一体何をこれからしていくのかを考えなければならなかった。いまだに、学位号だけを手に外の世界へ出て行くのは無駄だと思われた。仕事など見つからないだろう--だから学校に残っていなければならないのだ。

M.D.(医学博士号)が無理ならば、博士号(Ph.D.)取得を目指すことになる。Ph.D.が就職の助けになるのかどうか確信がなかったが、しかし重要な点はそれが2年から4年の間、私を学校の中に留めておいてくれることだった。時が経てば、問題も解決するかもしれない。

しかしPh.D.を目指すとして、何の分野にするべきだろうか?大学時代、私は歴史に魅了され続けていた。もっと幼い図書館通いの頃、そうであってのと同じくだ。ヘロドトスやエドワード・ギボンズを読むようになって長くなっていた。

私は職業歴史家になるべきなんじゃないかと思っていた事を、はっきりと覚えている。そうなりたかった。しかし、さらにこう考えたのだ。もし職業歴史家になれば、仕事先は大学教員以外にはなくなる。それも恐らく小さいところだ。実家から遠く離れたところへ行って、そして大してお金にもならないだろう。

それで、私はなにかの科学者になる事に決めたのだった。そうすれば、どこかの企業か、なにかの重要な研究機関で仕事が見つかるかもしれない。お金も一杯できるだろう。名誉も得て、ノーベル賞だって手に入るかも(誰にわかるというのだ)。そして、その他もろもろ。

そして、慎重にじっくりと時間をかけて判断すれば、時には結果もでるものだ*2。私は科学者なった。そしてどうなったか?大学の教職を得たが、かなり小さなところで、実家からは遠く離れており、そしてお金にはならなかった。(幸運にも、その他の出来事によってこれらは相殺された。後で説明する。)

しかしながらお分かりだろうが、歴史家になりたいという思いが消え去ったことはないのだ。私の弟のスタンの息子、エリックは大学教育を終えた後、歴史の博士号取得のためにテキサスへ行ったのだが、私は妬みの感情に襲われ、もし私もそうしていたらどうなっていただろうかと考えてしまった。(しかし、エリックは心変わりしてニューヨークに戻り、父親と同じ、ジャーナリストになった。)

科学の分野でPh.D.を取るとして、ではどの科学にするべきか?幸運にも、この疑問にはすでに答えが出ていた。大学入学時に専攻分野を選んでいたのだが、医学校を目指すのだから医学校進学の為のコースを取るべきだと思っていたので、私は動物学を専攻していた。これは私のまったく信じがたいミスのうちの一つだ。動物学には耐えられなかった。いや、もしそれが本を読んで勉強するだけなら、問題なく出来ていたはずだったのだ。しかし、それだけではなかった。実験があって、ミミズや、蛙や、サメや、そして猫などを解剖するのだ。私はそれがどうにも嫌いだったが、なんとか慣れてはいった。

問題は、野良猫を捕まえて、クロロフォルムを詰めたゴミ箱の中に放り込んで殺さなければならない事だった。愚か者のごとく、私はそうした。結局、私は教師が命ずる事に従っていただけだったのだから。絶滅収容所のナチの職員達のごとく。しかし、私はその事から立ち直れなかった。その私が殺した猫はずっと私に付きまとい、半世紀以上がたった今日になっても、その事を考えると、苦痛に身がよじれるのだ。

その年の終わりに、私は動物学をドロップアウトした。

ところでこれは、知的な理解と感情的な理解の違いの一例である。知的には、医学が進歩する為の動物実験の必要性を私は理解している(実験がどうしても必要で、出来る限り苦しみ無く行われるものとした上で)。その必要性のために雄弁に語る事もできる。

しかし私は、どんな状況になろうともそういった実験に参加する事は、観察するだけですら、金輪際ないだろう。動物が運ばれてきたら、私はかならず逃げ出すのだ。

動物学がダメとなって、私は化学が物理のどちらかを選ばなければならなかった*3。物理はすぐに対象からはずれた。あまりにも数学的過ぎたからだ。何年にも渡って数学を得意としてきた後、ついに積分にたどり着いた私は壁にぶち当たり、それが私の行ける限界なのだと理解した。そして今日にいたるも、本当に表面的なこと以上には、それを越えたことを理解していない。

よって、化学しか残っていなかった。化学数学的過ぎてはいなかったのだ。これは要するに化学の不戦勝という事だった。職業選択の理由としては酷いものだが、とにかく他にはなかったのだ。

残念ながらもともとM.D.を目指していたのであって、Ph.D.を目指していたわけではなかった私には、大学院への入学申し込みは難しかった。学部の化学のクラスは多くとっていなかった。医学校には十分だったが、大学院には不十分であった。さらに、化学学部の学部長は私を好きではないようだった。実のところ、私の事をかなり嫌っているのだろうと思われた。

嫌われているという事自体は、特別私を悩ませはしなかった。私には教師や教授に嫌われてきた長い歴史があったのだから。それも間違いなく、正当な、十分な理由つきで。しかし、学部長は私を大学院に入れない事が出来るわけだし、そして学部長はそのつもりのようであった。

私たちの間に対決が始まった。学部長は私をいつでもオフィスから追い出したが、そのたびに私は、私が大学院に入学できるということを示す学校規則を手に戻って行った。取っていない学部のクラス--物理化学*4--に合格するまで仮合格*5となるだけのことだったのだ。

執念深さがついに勝利を手にした。学部の他の教員からの同情を私が得て、ついに学部長が折れた。しかしそれでも学部長は出来る限りのことをした*6。私は物理化学のコースを取る事ができる事になったが、しかしその他の多くのコースも取ればという条件で、である(それらはみな、物理化学修得済みが条件のコースであった)*7。さらに、少なくとも平均でBの成績を取らないと、そのすべてのコースの成績がなしとされた上で、学費も戻ってこないのだ*8。これはひどくきつい条件だったが、しかし私は同意した。他にどうしようがあったろうか?

私はやり遂げた。ルイス・P・ハメット(Louis P. Hammett)による物理化学のコースでは、私はその大きなクラスの中でAを取った、たった3人の中の一人だった。これによって、半年のうちに私は仮合格から正式な大学院生に変わることができた。

その時、私は20歳で、これが私の学業での最後の勝利であった。

実際のところ、私の学業のキャリアはそのすばらしい始まりから後、落ちていく一方だった。大学では、私はまだ頭のいい学生であった。大学院に行く頃には、私は平凡程度であった。他の大体の生徒達は、講義の内容を私よりもよく、そして簡単に理解しているようであった。そして実験室では、私はただ単にどうしようもなかった。私がやると実験はほとんどうまく行かず、そしてうまく行っても、クラスの中の誰よりもへたくそで未熟であった。

ある面、これは驚きでもなんでもなかった。他の学生達は化学をその人生の仕事としているのだ。彼らはアカデミックかそれとも企業でのポジションを真剣に目指して進んでいた。私は進んでなどいなかった。ただ他にはどうしようもないから化学をやっているだけ、いつかくる職を探し、そして職を見つけられない日(陰鬱ながらそう感じていた)を、ただ先延ばしにしているだけだったのだ。

では、私の(子供の頃に深く刻まれた)、私は特別なんだ、という確信はどうなったのだろうか?もはや輝ける優秀さの記念碑でもなんでもなく、ただの普通にいるBレベルの学生でしかなくなった私は(しかしいまだに教授達からは嫌われていた)、もっとおとなしく控えめにして、人の言うことに従って、目立たぬ埋没した人生に備えていただろうか?そしてすばらしい始まりをきった後、惨めに続くこととなった人生を後悔する準備をしていただろうか?

不思議なことだが、そんな風にはならなかった。私はぜんぜん動揺せず、私の確信は強固なままだった。というのは、私は賢くなっていたのだ。私は、学業の成果とは成績やテストの点以上のものだということを理解するようになっていた。そういったものは学校における若者の進歩を計る為の、結局多かれ少なかれいい加減でつまらない基準でしかないのだ。私が学校で(そして図書館で)学んだことの本当の価値は、多くの様々な分野での知識と理解の基盤を築いてくれたことにあったのだ。

私の周りの化学大学院生が私よりも化学について優れているのは、まったく問題ではなかった。そのほとんどは、私が深く知る多くの事柄について、事実上何の知識も持ってはいなかったのだから。

私は、自分は専門家ではないのだとみなすようになっていった。知識のどんな分野についても、私よりもその分野の事をより深く知っていている多くの人達がいる。その分野で生計を立て、名を上げて、私にはできない事をやれる人達が。私は<ジェネラリスト>なのだ。ほとんどどんな事についても、かなりの事を知っている。数百、数千の異なる分野の専門家がいる。しかし、と私は自分に語ったものだ、アイザック・アシモフはたった一人だけなのだと*9。この信念は、最初はおぼろげなものだったが、時と共に急速に確信へとなっていった。

誇大妄想?否!私は自分の能力と才能についての確固たる理解があったのだ。そして私はそれを世界に示すつもりであった。私の化学における成功が遠のいていくなか(悲しいかな、ドンドンと)、執筆における私の成功は輝いていった。そして以前より、私はすばらしいという信念は、さらに強固に(そして、恐らくは、よりロジカルな)ものとなっていくのであった。

*1:でも、ハインラインについての正直なコメントとか、やっぱりそう思ってたか!って感じですが。

*2:原文"But a lot of good reasoning can do sometimes."

*3医学部進学の為の専攻分野として。

*4:原文"Physical chemistry"。

*5:原文"probation"。

*6:"but didn't make it easy for me."

*7:原文"I could take physical chemistry, provided I took a full program of other courses (for all of which physical chemistry was the prerequisite."

*8:アメリカの大学の学費は取ったコースごとにかかるので、多くのコースを取ると学費がかさむ。

*9:どんだけ自分好きなんですか!笑

KimuraShinichiKimuraShinichi 2009/05/18 23:45  早くも次の翻訳が読めて幸せです。

 アシモフは理想像としてのアイザック・アシモフになってみせるという固い意志を持っていたんですね。うわごとでも「なりたい、なりたい」と口走るほどだそうですが。(S-Fマガジン1995年12月号のアシモフ追悼特集でこのエピソードを記したこの本「I.Asimov」のエピローグの翻訳がありました。)他の誰でもない自分とはこんな人物だというイメージをしっかり見すえてそこを目指して邁進していったんですね。

*2のところ、「結果は出るものだ」というのならその段落のそれに続く文章が芳しくなくて、なんだか妙な感じですね。原文でもよくわかりませんけど。

okemosokemos 2009/05/20 13:00 >KimuraShinichiさん、どもです。
アシモフ特集って、95年でしたっけ?無くなったのは92年だから、随分経ってますね。俺もその号は買ったはずなんですが、あまり覚えていないなぁ。引越しして色々処分しちゃったので、もう雑誌も多分持ってないでしょうし。でも、たしか特集監修(というのかどうか)は伊藤典夫さんでしたよね?以前、古本屋回りをしてSFマガジンのバックナンバーを探していた事があったんですが、70年代の号で伊藤さんのアメリカ旅行記が載っていました。ニューウェーブの残り火があった当時、伊藤さんはまたニューウェーブ派だったようで、どこかのパーティーで出会ったアシモフについてかなーり、嫌な事を書いていて、ちょっとショックでした。でも時代が変わり、90年代に入る頃にはアシモフの事を評価するようになってたんですよね。
それから注2ですが、英語的な表現、という事なんじゃないでしょうか。まあ俺の英語力のなさといわれたらそれだけですが、こういうのを訳す時には、大胆に文章を変えなきゃならないのかな、とは思います。あまり変えないようにしようとすると、どうも分かりにくい日本語になりますね。

KimuraShinichiKimuraShinichi 2009/05/20 22:01  はいS-Fマガジンのアシモフ追悼特集は1995年12月号です。おっしゃるように監修は伊藤典夫さんでした。(「かなーり、嫌な事」ってなんだったんですか?気になる…。)
 雑誌はあまり買わないほうなんですが、ずいぶん昔のSF雑誌「SF宝石」創刊号(1979年8月号)を古書でたまたま見つけて買ったときは、SF宝石がアシモフズマガジンとの提携ということもあって若い小松左京とアシモフの対談や写真が掲載されていて興味深かったです。

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