怒りのパターンマッチング

例ののまネコ騒動について、uboshiさんとこでこんな記事が紹介されていました。

今回ののまネコ騒動で思い出すのが何かと言うと、『金田一少年の事件簿』の盗作問題なのだ。

あー、あれはミステリ好きにとっては極めて遺憾な事件でした(ご存じない方はその一例についてファンによる割と中立な文章がありますのでご覧頂きたく)。

あたかもパクった方がオリジナルであるかのように人口に膾炙していくのを見るにつけ筆舌に尽くしがたい無念を感じたものです。

「別にパクりでもいいじゃん、面白ければ」的な無神経な戯言を吐く馬鹿に今でも出会うが、その度にはらわたが煮えくり返って仕方がない。こういう体験、自分が愛してやまないものが圧倒的にデカい敵に蹂躙される体験は、レベルの差こそあれ誰しも体験しているだろう。

もう、「あるあるあるあるあるある!」って感じです。

でも、「だからこれも2ちゃんねるモナーを愛してやまない人々による無念と怒りの運動なのだ」──という話ではないんですね。ちょっと違います。

モナーに対しては何の思い入れもないが、同じような体験をしてきた人の怒りの話なのだ。2ちゃんねるという幻想の共同体に強い帰属意識を持った人々の抵抗運動ではない。そこから始まった話ではあるけれど、私のように帰属意識を全く持っていない人まで「avexふざけんな!」と言っているのは、もっと普遍的な話だからである。

かつて似たような経験をした人は、どう見てもモナーをパクった「のまネコ」を見たその瞬間に「あのとき」と同じ未来を見てしまうのです。

あのときと同じように「コピーによってオリジナルが蹂躙される」──そんな未来が見えてしまうのです。

2ちゃんねるモナーそのものに思い入れなぞなくても、「あのときと同じ構図」のうちの「あいつ」、すなわちavexに対して強い敵意が芽生えるのは極めて自然な感情の流れでしょう。

「笑い」や「泣き」にもパターンがあるように、「怒り」にもパターンがあるわけです。「のまネコ」問題はそのパターンに極めて高い一致度でマッチしてしまったんですね。

こう考えると、「avexの行動は褒められたものじゃないだろう」という点では衆目の一致が認められるものの、各論に入った途端に議論が収束しなくなる理由も分かる気がします。各論に踏み込むと普遍性を失いますからね。つまり「怒りのパターン」へのマッチ度が減るわけですから、その分その怒りに共感する人々が減るのは当然でしょう。

それにしてもグッズの発表を皮切りに、「何ら制限するものではございません」発言や、どう考えてもダミーと思われる著作権管理業者の登場など、「のまネコ」関係者は見事に人々の「怒りのパターン」にマッチする言動を繰り返しているわけですが、それは天然なのか、わざとやってるのか。

天然だとすると、そういうこと平気な顔してやれる人達は自分が似たような無念を味わったことがないんですかね。特定の対象に思い入れを抱いてしまいそういう感情を頻繁に味わうことになってしまうのはオタクとかマニアと呼ばれる人々だけなのかなー。