[マリみて] いやいや、マリみてで描かれているのはまさに恋愛感情でしょう。

季節合わせ読みをしてる関係で『くもりガラスの向こう側』以降を読んでないのでとんちんかんなこと書くかも知れませんが、かーずさんとこで紹介されていた記事について。

「似たような話をどこかで読んだなー」と思って検索したら、ありました。

──『黄薔薇革命』のあとがきで紹介されていた「ソフトだけど完全に百合」というフレーズが一人歩きしてしまった結果、「百合」という言葉の持つ意味が誤解されてしまったのでは──という仮説ですね。

だとすると後発作品が云々と言うよりはむしろ、元々「百合」という言葉にはマリみてから想起されるような「プラトニックな関係」みたいなニュアンスはなかったということになりそうです。

そうすると、マリみてと似て非なる作品の濫発は、どっちかというと「本来の百合」への回帰現象と言えるのかも知れません。まあ『たんぽ』とか、何も考えないでパクっただけにしか見えない作品もありますけどもね。

まあそれはともかく、どっちかというと「百合=男性向けレズビアンポルノ」というイメージであった当時、そういった要素は皆無のマリみてにおいて、一体どんな要素が一読者をして「ソフトだけど完全に百合」と言わしめたのかというと、

──やっぱりそれは女生徒達の間に流れる恋愛感情としか解釈できない何かだと思います。

最初に紹介した記事では、マリみてにおいては、個人個人の関係に恋愛感情は基本的に存在していないとされています。この記事では特に、姉妹関係が恋愛感情によるそれではないことが、1巻において、祐巳が一回祥子さまの申し出を断っていることで端的に示されている、としています。

が、私に言わせるとそれは逆です。

祐巳が祥子さまのロザリオを断った一番大きな理由は、自分には祥子さまに対する恋愛感情の自覚があるにも関わらず、祐巳には祥子さまからの自分に対する恋愛感情を感じられなかったからです。

だからクラスメイトに囲まれて祥子さまが、本気で私なんか妹に選ぶわけないじゃないと言って泣いてしまうのです。

その後、祥子さまの「人間らしさ」に触れていくにつれて祐巳は、自分が今まで祥子さまに対して抱いていた感情は恋愛感情ではなくただの憧れに過ぎなかったということに気付きます。

そこに描かれているのは「憧れ→恋愛感情」へのシフトであって、「憧れ≒恋愛感情→それを超えた人間関係」へのシフトではありません。少なくとも第一巻の時点では、まだ。

ここまで特に断りなく「恋愛感情」という言葉を使ってきましたが、別に、祐巳が同性愛者だ──というわけではありません。ただ、祐巳にしても他の登場人物にしても相手への寄っかかりっぷりが恋人に対するそれ、なんですよね。

そもそも高校生くらいだと「彼氏(彼女)を作る」ということが「自分が自分を認めるための手段」になってることが多々あります。アイデンティティ確立の手段、といいますか。

自分の存在を認めてくれる誰かがいる。その誰かがいることで初めて、自分が自分の存在を認めることができる──という、ちょっと回りくどい方法じゃないと自分を認めることができないなんて話が、高校生くらいだとよくあるわけです(志摩子はその典型でしたね)。

もちろん、勉強や部活で成果を上げるとか、他に自分を肯定できる要素があればそれによってアイデンティティを確立することができます(蔦子さんは好例でしょう)。

しかしながら、ほとんどの人はそんな才能や機会に恵まれません。

そんな「悩める高校生」を救ってくれるのが、一般には恋愛であり、リリアン女学園では姉妹制度なわけです。

いずれにせよそういう時期には「相手に自分を認めてもらいたい(≒自分で自分を認めたい)」という欲求と恋愛感情とがごっちゃになっています。そして自覚的でなければ、自分ではそれらの区別がつかないのが普通でしょう。

「認めてもらいたい」なんて気持ちは恋愛感情じゃない──と言い切ってしまうのも結構ですが、そうすると今現在高校生くらいで「恋愛」をしている人たちは一体何を信じればいいのかわからなくなってしまいます。

相手は「好きだ」と言ってくれるけど(あるいは「抱いて」くれるけど)、それは自己のアイデンティティ確立のためであって、恋愛感情に依るものではないかも知れない……? そもそも自分が相手に対して抱いている感情も、もしかしたら……?

だったら、どうせ区別がつかないのだから、恋愛感情だとしておいた方が幸せです。ほんとのことに気付くのはずっとずっと後でいいのです。

別に、「恋愛はアイデンティティを確立する手段に過ぎない」なんて醒めたことを言いたいのではありません。アイデンティティが確立していく時期においては、誰か特定の相手に自分を認めてもらいたいという要求はまさに恋愛感情の発露に他ならないのです。

──という視点でマリみてに登場する人々の人間関係や姉妹制度を見直すと、マリみてが百合作品だと目される理由がわかるような気がします。そこに描かれているのはアイデンティティ確立の過程であり、まさに「高校生の恋愛感情」そのものだからです。

マリみてはそのあたりの描写がきちんとしているから登場人物が生き生きとしています。後発作品でそのへんが描けてない作品があるとしたら、それには「マリみて的な面白さ」はないのが道理でしょう。

実はマリみてと後発作品の違いというのは、人物描写の描き込みの違いの問題であって、恋愛感情あるなしの問題ではないのではないか──というのが私の結論です。