鬼とカッパ

今日は節分で明日は立春。でも寒い・・・。
豆をぶつけられる鬼はさぞ寒かろう、痛かろうと思う。


泣いた赤鬼。子どもの頃、せつなくて悲しくて、訳がわからないなりに不条理に腹が立って仕方がなかった鬼の物語。
親によく連れて行かれた小さな遊園地のお化け屋敷。最後の関門は、棍棒をもった赤鬼。棍棒が上下に動くその下をくぐらないと、外に出れなかった。怖くて泣き叫ぶ妹の手をひき、何度もなだめすかして最後の関門を時間をかけてクリアーするのが、長女である私の役目だったのだが、作り物の鬼はちっとも怖くなかった。
作り物の鬼よりもよほど人間のほうが怖いと思う。・・。


鬼は怖がれ忌避され山奥に隠れ住む。ずっと疑問があった。
大善寺玉垂宮の鬼や、神楽にでてくる鬼達は、人の世の汚れや欲をその身に引き受けたり、あるいは赤ん坊を抱き上げ神に無病息災を願う役割を担う。
その姿を見たとき、あれって心にひっかかっていたものが動き出した。そもそも鬼ってなんだろう。


去年行った曽於市開催の鬼サミット。全国の鬼の祭りのパンフと紹介、そして鬼についての基調講演。
講演の前にずっと見たかった、深川の鬼追いが特別出演。会場を奇声をあげて走り回る。



しべに覆われたこの鬼は、曽於市深川の熊野神社で正月暴れまくる。真ん中の鬼を樫の木で作った棍棒をもった二人の男衆が支え、真っ暗の境内を奇声をあげながら走り回り、人々を叩いて回る奇祭として知られる。鬼が振り回す棍棒をかいくぐってしべをゲットできると、1年無病息災で過ごせるという。樫の木の棒で叩かれるとかなり痛く、毎年救急車も出動するそうだ。
鬼は騒げば騒ぐほど、福を招くという。


講演はこの鬼追いの祭りを取り上げながら進んだのだが、昭和の頃の貴重な写真。真っ暗な境内を奇声をあげて走り回る鬼は、もの凄く怖かったそうだ。



鬼はまれびとだったという。海の向こうからやってきた稀なる人、客人。ホゼ、としどん(なまはげの兄貴分にあたる)等、南の海から渡ってきたまれびと(渡来の神)が人々に福を与えるというのが、鬼のそもそもの姿だった。それがいつのまにか仏教やらなんやらいろんなものと習合して、災いや害をなすといった意味合いが付加されていったように思う。



それと似たものが河童かなあ。


久留米大石神社に残る河童の由来。




河童族は、タクラカマン砂漠のヤルカンド河から果てしない旅のすえ、列島に渡来したという。この伝説をつたえているのは長崎県松浦郡田平町にある神社。河童も遙か昔に日本に来た渡来民族だった。湊の石垣を積み、護岸工事をおこない、川をさかのぼり鉱山採掘に従事し、工事がうまくいかなければ、人柱をささげる河童の祭りをおこなった。その跡というか伝説が九州各地に残っている。うちの近所にも。霧島の牧園だったか、落ちてきた和気清麻呂のおつきのものが、かっぱの祭りをやめさせたという立て札が残る。
人柱になるのは、若い女、子供だった。

菅原道真の祖先、能見宿根が人柱の代わりに人形(ひとがた)を流すよう改めさせたと古事記にある。「ひょうすべが 約束せしをわするるな 川立男 氏はすがわら」壱岐の川祭りの護符が伝えている呪歌。
カッパ、ガラッパ、ヒョウスベ(兵主部)、河太郎、名前は各地いろいろだが、河童族の風習・生活習慣は、その当時畏怖の対象として、人々の記憶に残り、いつのまにか、妖怪と姿を変えて語り継がれたのかもしれない。



鬼も河童ももう私たちの血に混じり混じり合って、行く末はわからなくなってきているが、ふと第2次戦時中の特攻・神風なんていうのは、河童の祭りの、形を変えたものかと思ったりもする。若い、これからの命を矢面に立てねばならないほど、ことは切羽詰まっていたのかもしれないが、身震いするほど危険な悪しき考え方だと思うのだ。若い命を犠牲にする集団には未来なんてあるはずがないと。