飛翔

日々の随想です

お汁粉とぜんざい

お汁粉と善哉(ぜんざい)の違い

 今日のおやつは「お汁粉」
 私は関東出身なので「お汁粉」と言います。「お汁粉」はつぶあんで、汁ありを指しますが、「ぜんざい」とよぶところもありますよね。お雑煮と同様に、おしるこも地方や家庭によって様々な呼び方や種類があるようです。私はおしること言えば、粒あんで焼き餅が入ったお汁粉が好きですが、みなさんはどうですか?
  ところで、「お汁粉」と「ぜんざい」の違いはなんでしょう?
答え:食事として食べられていたものを「ぜんざい」といい、おやつとして食べられていたものを「お汁粉」といいます。
ぜんざいが生まれたのは室町時代。名付け親は、かの有名な一休さんです。
 お寺で出されていた祝い膳の一つである、粒あんの汁にお餅が入った料理を食べた一休さんが、「食べて善き哉(よきかな)」と絶賛したことから「善哉(ぜんざい)」と呼ばれるようになったそうです。
 一方お汁粉は江戸時代、冬に屋台で小豆を甘く煮たあんこを温かいお湯で溶かした簡単な食べ物が、箸無しでも食べられると庶民の間で大人気となり、おやつとして広まったといわれています。
 ちなみに、京都の「酬恩庵一休寺」では毎年1月最終日曜日の「一休善哉の日」にだけ、一休さんが愛したぜんざいを味わうことができます。
 

七草がゆと七草爪

七草爪

七草がゆ」と「七草爪」
  明日は七草粥の日。
七草とは1月7日の朝に、7種の野菜が入った粥を食べる風習のこと。
 芹(せり)薺(なずな) 御形(ごぎょう繁縷(はこべら) 仏の座(ほとけのざ) 菘(すずな)= 蕪(かぶ) 、蘿蔔(すずしろ)= 大根(だいこん)
この7種の野菜を刻んで入れた粥(かゆ)を七種粥七草粥)といい、邪気を払い万病を除く占いとして食べる。
 呪術的な意味ばかりでなく、御節料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もある。
 七種は、前日の夜に俎(まないた)に乗せて囃(はや)し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れる。
 つまり今夜はこの七草をまな板に乗せて叩いて水にひたしておくのである。 明朝。ここが肝心。明日の朝、七草粥を作る前にすることがあるのだ。それは両手の指の爪を前の晩ひたしておいた七草の水につけるのである。 それから水にひたした爪を切る。
この年の初めに初めて爪を切るのを「七草爪」と呼ぶ。
「七草爪」はその年一年の邪気をはらうというおまじない。
江戸時代からの風習。みんな、やってますか?
まだの人。今から七草を刻んで水につけておきましょう。
明日おきたら、その水に爪をつけて、きりましょう。
 

能登半島地震と原発

地震列島に原発は不要!

能登半島最北部に位置する珠洲市で「珠洲原発」建設計画は、1975年に公表された。
北陸電力中部電力関西電力の電力3社が、中部電力珠洲市北東部三崎町で、北陸・関西電力は北部の高屋町で共同開発(関電が主導)する計画だった。

それぞれ100万kWクラスの原発2基を設けて、2024年に運用を開始する予定だったが、市民たちの長年にわたる反対運動によって2003年に計画がついに凍結された。


珠洲市民の28年もの原発反対運動の闘いがなかったら、福島の原発事故以上の大惨事になっていた可能性が高い。
石川県能登地方では、志賀原発の建設以前に、より北の珠洲市関西電力中部電力、北陸電による「珠洲原発」の建設計画があった。候補地の一つだった同市高屋町は、今回の震源となった地区と隣接する。志賀原発廃炉を求める活動をしている金沢大の五十嵐正博名誉教授は「珠洲原発は住民による根強い反対運動で計画が中止となったが、もし高屋町に建設していたら、大変なことになっていたと思う」と想像する。

また
23年3月、隣接する2号機の再稼働の前提となる新規制基準への適合審査会合で、規制委は「敷地内に活断層はない」とする北陸電の主張が妥当だとし、16年の判断を覆した。「一刻も早く再稼働できるよう心から願っている」と訴えていた。
 まさに今年、再起を図っていた志賀原発だったわけだが、今回の地震は大きな影を落とす。
東京新聞より引用抜粋しました)
原発増強を言う岸田さん、「一刻も早く再稼働できるよう心から願っている」と訴えていた経団連の十倉雅和会長に、今回の地震原発増強への考えを聴いてみたい。

 

お正月らしい一句

「よめが君」

  お正月らしい一句を紹介しよう。
 
    ・明くる夜のほのかに嬉しよめが君(其角)
 
※「よめが君」とは、鼠(ねずみ)の異名。俳句の季題で新年にかぎって使います。
お正月と云うのはものみな静かで、ねずみが出てきてもめでたい気分になる。
そんな句ですね。
 それにしても日本語と云うのは何と素晴らしいのでしょう!
 そういえば、東北地方ではネズミのことを「上の姉様」とよぶそうな。
昔はコンクリート生活でなかったのでネズミが家の中のどこかにひそんでいてそれこそ生活を人間と共にすごしてきた「お仲間」いや、「家族」でさえあったのでしょうかねえ。
人情ってものが動物にまで及んでいた善き時代があったのですね。

抱負

今年の抱負

 ノーベル文学賞を受賞したドリス・レッシングの言葉:


 お金持ちになるか貧乏になるか、楽しく暮せるか、悲しい暮しとなるかは、じつはどうでもいいことなのです。人生で一番大切なのは、どれほど良い人たちと出会えるか、またその出会いをあなたがどれほど大切にできるかなのです。

 

とある。

 インターネットはもはや欠かせないツールとなった昨今、ネットで知り合いになる人が多くなった。

 子供の頃、母親に知らない人に話しかけられても返事をしても対応してもダメと言われて育った。

 今はどうだろう!知らない人、顔を見たこともない人がいっぱいいるインターネットでの知り合いが百人を超えそうである。

 しかし、暗黙の了解というか、信頼関係の上で、絆のようなものができつつある。

 ひょんなことで、メールのやり取りをした人ができた。その人から思いがけない詩が届いた。

 すごい詩だ。

 あなたの詩も読みたいから送ってくれと言われ、即興で作った詩を送った。

 ところがどうだろう。二日たっても返事がない。稚拙な詩を推敲もせず送ったことを深く後悔した。

 詩心もないのに、素晴らしい詩に刺激されて咄嗟に作った返詩だった。

 深く恥じていたら、返信メールが来て、詩に対する感想があった。そして、さらに私が書いた一文を少し変えて詩にして送り返せと言ってきた。

 最初に寄越した詩とは趣を変えた自詩が二篇添えられていた。

 こうしておもいがけなく、見たこともない人と詩の交換がはじまった新年。
 昨年は心理学で頭がいっぱいで、書評も書かず、映画も見ない一年だったが、今年はニコラス・スパークス著『最後の初恋』を読み、同名のDVDもみた。そして竹西寛子著『「あはれ」から「もののあはれ」』を読了。今は小川洋子著『人質の朗読会』を読んでいる。

 それは年賀状が機だった。小学校以来の友人の年賀状に「書評家としてご活躍ください」の一文に発奮したからだった。
 読書熱がまた復活した。ありがとう、友よ!!!
 しかし、新年の挨拶をできない人がいる。それは書評仲間のKさんだ。Kさんは、私が文を書く、書評を書くきっかけを作ってくれた人だ。そのKさんに新年の挨拶ができない。それは昨年ほとんど書評らしいものを書いていないからだ。
 昨日ニュースで留萌本線が雪で運休だという映像が映し出された。留萌本線の終着駅は増毛だ。雪深い増毛の地に思いを馳せ、Kさんへ思いを馳せた。
 そして今、文を書くこと、詩を書くこと、評論を書くことに想いを馳せている。
 おもいがけなく詩友となった見知らぬ人、Facebookの友人たち、カウンセラー仲間、小学校以来の友人、高校からの親友、サンフランシスコ研修で無二の友となった人、書評仲間、瞑想教室の友人たちとのつながりを大切にしたいと思う新年の幕開けである。


 今年は、もっと肩の力を抜いた文を綴って行きたいと思います。
 
 

書いて書いて

書きまくることに

 

 同人誌を脱会した。
 添削してくれる人が「他人(ひと)の不幸は蜜の味っていうから、絵に書いたような,めでたしめでたし,はつまらないのよ」との評が毎回返ってくるのに嫌気がさしたからだ。
 評者は無名の人。姑根性丸だしで、これでは良くなるものもならないと確信したからだ。 その人の色に染まるのも嫌だし、染められるのはもっと嫌だ。
  この同人誌に入会する数年まえ、地元の文芸誌発刊のために部員を募集していたことがあった。
 どんなものか覗くだけと思って参加した。
 作品を持って来いというので、エッセイを持っていった。
 数人しか集まらないシケた文芸部だ。
 私のエッセイが輪読され、合評があった。
 それはあるエッセイコンテストで最優秀賞をとったものだった。
 ひとりの女性は:
 「つまらなかった。何も残らない作品だと思った」
 との評があった。どこがどうつまらないか聞いてみたが答えはなかった。
  次の女性は:
 「なかなか味のある文でひねりもあって、クスッと笑える部分もあって面白かった」
 との評だった。
 文芸部の顧問の先生は:
 「これはプロの文ですね。直すところはひとつもなく完璧です。ただし、エッセイではどんなにうまくても売れないから、小説を書きなさい。それも男女の絡みがあるものをかいてみるといいよ」
 との評だった。
 これだけのメンバーの文芸部では高校や中学の文芸部よりも劣ると思い、一回参加しただけでやめてしまった。
 文を書くのに、何も群れる必要はない。ただ独りよがりの文では先がないと思ったから参加してみたのだったが、無駄足だった。
 大体私はお調子者でおだてに弱く、けなされるとすぐめげるタイプだ。
 群れて、集団で批判されたら、青菜に塩。ナメクジに塩となる。
  直木賞作家の佐藤愛子さんが私に「とにかく書いて書いて書きまくりなさい。書いているうちに何かが見えてくるから」
 と励まされた。

 書いて書いて書きまくった挙句、見えてきたものは才能のなさだったりして!!!
 ま、そうなったら諦めて美貌で勝負よ!!!
 間違えた。
 備忘の間違え。
 
 
 
 

初詣

難を転じる年となす

 

「初詣」
除夜の鐘と同時に家を出て氏神様に初詣するのが毎年の習い。
 かがり火をたいた境内には
年男たちが「お振る舞い」のテントの中で
 年越しそば、お神酒、甘酒を振舞う。
 ヒノキの香り豊かな、升(ます)に注がれたお神酒をいただいていると、
かがり火の中に懐かしい顔がちらほらと見え始める.
毎年、初詣の境内でかつての教え子たちと再会する。
中学生だった彼らもいい年のおばさん、おじさんになっている。
 「先生!うちの子です」と子供の頭を下げさせるのは、
塾の帰りに家出してしまったA子。
深夜の街を親御さんと一緒に探し回った子だ。
みんなふるさとに残って真面目に生活しているのが嬉しい。
東京から嫁に来た私は
慣れない田舎暮らしが寂しくて泣いたものだけれど、
塾の子供たちがいるこの街が、
今では私のふるさとだ。
 ふるさとに帰れない東北の人たちや、
ふるさとが今や戦火の中という国のひとたちを想う。
 戦いのない、放射能に怯えない平らな世の中を願う初詣となった。

地震

命を守って!

 

日本海側の皆様、地震の被害が少ないことを祈ります。

懐中電灯、温かい衣類、食料の確保、携帯をもって高台に逃げましょう!

ご無事なことを祈ってます。



 

「この地域ではこれまでにも大きな地震が繰り返しあり、震源地が北へ動き、浅く、海岸に近くなっている。今後も大きな地震が起こる可能性がある」(東京大学 佐竹健治教授)

それなのに、いったい幾つ原発があるんだよ!この地域とこの国には!!

今までだれが責任取ったのだ?東京電力は電気料金を値上げして原発事故のツケを国民に払わせて、幹部は高枕で寝てる現実!


この国は地震以前に、政治で国を崩壊させているのではないか?

国民の為より、自分の為、自分の選挙の事しか考えていない政治家は、政治屋だ。

アンポンタンな二世三世のお坊ちゃま君は、貧しさなど知らない。

そんなお坊ちゃま君が、政治を司る?笑っちゃうよ!

しっかりしよう、私たち有権者よ!

 

昭和のお正月

お正月の思い出

子供のころ、お正月は、こないほうがよいと思うほど家中が忙しかった。
 年始の客が,ひきもきらず、我が家はてんてこまいの正月三が日を過ごしてきた。
 「猫の手も借りたい」とはまさにその時の状況をさし、小学生の私も借り出されてお手伝いをさせられた。三姉妹の末っ子だった私は玄関の掃除と門まわりの水うち、台所のお皿洗いとお客様の靴を揃えること、運転手付の乗用車でみえるお客様には待っている間の運転手さんに熱いお茶を出し、御年賀のおひねりを差し上げ、家の中にとってかえるとビールやお酒のお運びなどをさせられていた。


 大晦日、母は五人家族の三段重ねのおせちのほかに、お年始の客用のおせちをいくつも作り、オードブル作り、グラスやさかずきの準備におおわらわであった。<
 また家中のお花を活けるのも母の役割だった。玄関ホールの花は豪華に、応接間には真っ赤なベネチアングラスの花入れに胡蝶蘭や洋花を華やかに活け、八畳二間をぶちぬいた和室の床の間には伝統にのっとって、柳の枝を一結びした「結び柳」を床柱の上から床(ゆか)まで長くたらした。子供心にその長くやわらかな曲線の美しさにみとれたものだ。
 
 「結び柳」

 部屋には客用に「手あぶり」と呼ばれる小ぶりの火鉢がいくつも準備された。



 闇のように黒い漆が塗られた火鉢には、純白の化粧灰が埋められ、中央には真っ赤におこった炭という、しつらいだった。黒、白、赤という取り合わせの妙は実に見事であった。また午後の日差しが障子にやわらかくさしこむ佇まいは端正で和室の美を極めていた。

 紅白歌合戦が終わった頃、母はやっとすべての準備を終了させすっかり冷え切った手と足を炬燵で温めるのだった。しまい風呂に入った母は一年を感謝しつつも最後の風呂場をたわしで入念に洗ってから寝るのが常だった。
  翌日のお元日には家族全員、斎戒沐浴(さいかいもくよく)し、真新しい下着と衣類に着替えて朱塗りの屠蘇器から一人ずつ盃をとってお屠蘇を注いでもらって飲む。食卓には寿の箸袋に入れられた箸が用意され、今年の抱負を一人ずつ言っておせちを頂く。

 父は大島の羽織と着物を着て「おめでとう」と新年の挨拶をし新しい年が始まるのだった。

 父はお屠蘇がきいてきたのか陽気になって「そろそろ子供たちに玉でもぶつけてやろう」といい始める。「わ〜い、ぶつけて!」と私は大はしゃぎして「お年玉」をもらうのだった。

喜んだのもつかの間、やがて続々と訪れる客の接待で大わらわになるのだった。
 立場上何十組と仲人をしてきた父と母は子供づれの年始客にはおもちゃやお菓子を、夫婦にはお年賀の品を持たせて帰すので、その品々を間違えないよう渡すのも一苦労だった。

 客が帰った後も台所は戦場のようになっている。洗う者、拭く者、次に来る客の準備と殺気立っている。客が一度にやってくると八畳二間をぶちぬいた広間と応接間だけでは足りず、家族のくつろぐ茶の間にも座っていただくことになる。
 そんな時、おっちょこちょいの私が料理をひっくり返そうものなら姉たちからこっぴどく叱られ、つくづくお正月など来なければよいのにと思うのだった。

 そんな息つく暇もない忙しさではあったが、母はただの一度も愚痴をこぼしたことがなかった。一方、父は要職から離れるにつれ客が年々少なくなると寂しそうだった。父にとってはお正月は晴れがましいことだったのだろう。そして母にとっても、訪問客で賑わうお正月は、苦学してゼロからのし上がった父を支えた自分への目に見えるごほうびだったのかもしれない。
 門の外に黒塗りの乗用車が列を作っていたあの正月の風景は、何の後ろ盾もなく無一文からのしあがり、激動の昭和を生き抜いてきた父と母の輝ける「正月」だったにちがいない。