リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

胎児の標本

ハンセン病関連のニュースで,胎児標本の作製には医学的根拠がなく……とくり返し言われている。医学的に根拠があるかないかは,専門家でないわたしには分からない。ただ,18世紀の終わり以降,特に胎生学の創成期である1910年代から1950年代にかけて,アメリカでも受精卵(専門的には接合子)〜胚〜胎児の標本が盛んに作られたそうだ。こちらも医学的に特に理由があったわけではないし,そもそも当時の胎生学は,医学よりも,むしろ生物学の延長として始まった。その探究は,「ヒトの発達を理解したい」という科学的情熱のみに支えられていた。

結果的に,1940年頃までには,様々な発達レベルの標本が揃った。初期妊娠について一日単位の標本を作ることが,このプロジェクトに取り組んだ研究者たちの目標だった。しかし,ごく初期の受精卵はなかなか集まらなかった。なにしろ偶発的な流産や子宮摘出や剖検などで得られたサンプルを,医師たちから(女性たちから,ではない)「寄付」してもらっていたのだから……言ってみれば,効率が悪い。

そこで,とりわけ熱心だったボストンのある医学研究者2人は,直接的に初期妊娠をしている可能性の高い子宮を集める仕組みを編みだした。すなわち,子宮摘出を予定している「既婚で夫と暮らしている,知的で,少なくとも3回の妊娠と満期出産歴があるだけの生殖力を有し,月経の記録と,避妊をしないで行なった性交の記録をつけることに同意する」(おまけに40歳未満の)女性ボランティアを募ったのである。2人はその方法で200個を超える子宮を集め,30数個から受精卵を回収した。

そうやって完成された一日単位の受精卵〜胚〜胎児の標本は,ほぼすべての胎生学の教科書に使われるようになったが,教育以外には,ほとんど用を為さず,これを元にして論文が書かれたりもしなかったという。なお,このプロジェクトが完了した頃から,胎生学は生物学ではなく医学の領域に移っていった。

だが,このプロジェクトの結果,「胎児」イメージはがらりと変わった。バチカンは,この標本が表現している「受精から誕生まで」の連続性を根拠に中絶に反対するようになった。ボストンの医師たちは,自分たちのしていることを非倫理的だとは全く思っていなかったくらい,この標本が作られる以前,胎児はほとんど誰からも顧みられることのない存在だった。だが,この種の標本を見ていたある女子学生は,こう言ったという。「私はしだいに40個の別々の生命を見ているということを忘れて,発達していく1人の胎児の姿を見出すようになった。一列に並べたその配置によって,40個の別々の標本をあたかも1人の人間であるように見せかけるフィクションが構築されているのだ」

出典はLynn M. Morgan他(1999)Fetal Subjects, Feminist Positions

重要な蛇足。中絶が非合法だった当時のアメリカでは,望まない妊娠を処理する最後の手段としてなにがしかの理由をつけた子宮摘出が行なわれることもあった。

さらなる蛇足。このケースの子宮摘出は、最終手段としての不妊化(永久避妊)であったと理解するほうが妥当だろう。(2008.8.28追記)