リプロな日記

中絶問題研究者~中絶ケア・カウンセラーの塚原久美のブログです

今,親子英語サロンを企画している。どんなサロンを開こう……と考えていると,わくわくしてきて,なんだかとても懐かしい気分になる。娘が3ヶ月のとき,東京の某市の公民館で子育て当事者による「育児ボランティア・グループ」として親子参加のサロンを開いたのは6年半以上も前のことだ。あれから2年間に仲間と共にいろんなことを仕掛け,それなりの成果をあげた……つもりだけれど,4年前にわたしは石川に移り住むことになってしまった。

東京の友人たちは,わたしが石川に行っても「子育て支援」を続けるものだと思っていた。でも,わたしは,そうはしなかった。「産み育てるほう」は,わたしでなくともできると思ったし,石川に来る時点ではもはや我が子は次の段階に育っていたから。むしろわたしは,移転をよい機会として,「産み育てない選択をする女性たち」のほうを研究する道を選んだ。それはコインの裏表だから。同じ女性の光と影にある「選択」なのに,影の選択の方は,常に「沈黙」に押し込めれられてきたから。

だけどここに来てまた,「産み育てる」ほうを考えているわたしがいる。それはそれでいいような気もする。たぶん,人生は螺旋状に昇っていくものだから。以前の「子育て支援」一色で突っ走っていたわたしでは見えなかったものが,おそらく今のわたしには見えるだろう。人生,なにごとにも決して無駄はない。

ところで,「英語」をキーワードにしたのは,自分を活かすため。置かれた状況のなかで,自分の能力や経験をフルに使えるものを考えると,どうしてもそこに落ち着く。自分の限界を知り,可能性を活かすこととして……。

児童英語や早期英語教育に批判的な人もいる。たしかに,数年後「英語」が小学校の教科に導入されるからといって,早期教育を施すことで「楽に」「成績アップ」し,「受験で勝てるように」……などと考えることは,まったくもって愚かだと思う。早期教育という言葉に踊らされるのではなく,英語を子どもに学ばせるということの意味と,幼い頃から英語になじんでいくことに含まれる「人作り」の可能性を親たちにも訴えかけていきたい……。

実際,本来,見るべきなのは「教科としての英語」ではないのだ。そこに射程を合わせた早期英語教育は,ほぼ間違いであり,たいてい無駄だと言えよう。これからの子どもたちにとって重要なのは,英語を運用できる能力――つまり,「日本語を話せない人たちとのコミュニケーション」の能力だ。そのために,従来とは比較にならないほど,「英語教育」が重要になることは間違いない。自分の娘のことを考えていて,心からそう思うようになった。「日本語」という限界の中で視野の狭い情報に踊らされるのではなく,国際社会の動向をじかに知り,いざとなれば世界に羽ばたいていけるようにするためにも。わたしは自分の娘を日本の学校に「預けて」いられない。それはあまりに彼女の世界を制約するし,右傾化の進む今のこの社会においては恐ろしいことでもある。わたしはそこまで今の日本という国を全面的に信頼できない。

いい悪いを超えて,日本語は基本的に「日本」という国だけで使われている言葉だ。わたしは,娘を含み,日本の次代の子どもたちに,国を超えて考え,行動できる人間になってほしい。世界の人々とじかに語り合い,仲良くなり,グローバルな視点からものを見ることができるような人間になってほしい。だから子どもたちに,できる限り,英語の力を伸ばしてあげるためのお手伝いをしたい……と,わたしなりに真摯に考えている。

「大学院はどうするの?」といろんな人から問われる。しかし,これまで研究してきたことは,最終的にはたぶん,無駄にはしないし,ならないだろうと思う。

第一,たぶん,わたしの人生は,もう少し時間が残されているんじゃないか。急いで「博士号」を取ったからといって,わたしが高等教育で教鞭を執れる可能性はほとんどない。そちらの道はほとんど閉ざされている。それに,仮に大学院中退になったとしても,わたしの知識はネットや本を通じて残していけるだろう。だとしたら,ここで焦らなくてもいい。学位は得られなくとも,わたしの知識は消えないのだ。一方,子どもの成長は待ってくれない。娘が巣立つまでに,わたしは彼女と彼女の同朋になるはずの世代の子どもたちのために,自分にできる限りのことをしてやりたい。

……そんなことを考えている。負け犬の遠吠えだと言われるだろうか。しかし,つまるところ,英語子育てや児童英語教育,あるいは親子に対する英語を通じたメッセージ活動も,わたしにとっては「リプロ」の一環に他ならないように思う。