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原発 恐山 未来

2 卒業間際

「ドノミチと言います」改まって男の子は言った。「それが名前。そう呼んでください」

「ドノミチ?」僕は驚いたが、それは単にその名前が変わっているからというだけではない。「ミチ」とついていることにも驚いた。僕の名前は「道々」で、父の名前は「北道」だった。祖父の前には「道」は入っていないので、これは僕の父が始めたことだ。僕も自分の息子にあるいは「道」をつけるかもしれない。つけようと思えばつけられる。僕が「道」を選んだとすると、それが奥野家の伝統となって延々受け継がれていくのだろうか? 「どういう字なの? どういう漢字?」

「ナニナニの何に道と書いてドノミチ。そう読ませてるんだ。ちょっと無理があるかもだけど」

何道。ドノミチ。その顔には年齢相応の無邪気さと年齢不相応のなにかが入り混じっていた。寒々しさ、なんらかの欠落感、不如意さ、そういったものが。それがすぐには親近感を感じなかった理由かもしれない。自分と似ているとは感じなかったし、血がつながっていると言われても信じられなかった。

僕はお定まりの質問をぶつけた。未来から来たという証拠はあるのか。本当に僕の子孫なのか。タイムトラベルが可能になったのか。何十年もしくは何百年先の未来から来たのか。そして、そこはどういう未来か。動機は。なにが目的でここに来たのか。

「まず座りましょう」ドノミチは言って、その場で椅子に腰掛けた。ただし椅子は見えない。あたかも椅子があるかのように中腰になって、しかも完璧に寛いでいる。「正確に言えばこれはタイムトラベルじゃないんです。時間をまたいではいるんだけど、映像と音声だけで、そっちに僕の実体はない。僕の姿だけが選択的に投影されて、だから椅子は見えないの。エクトストリーム方式といって、時空を超えて自意識を行き来させる技術なんだ。正確なところは知らないから、これ以上は聞いても無駄だよ」

そして唐突にひょこんと跳ねて僕に触れた。ドノミチの手は僕の腕をすり抜けて、僕は血の気の引くような思いだった。「ごめんごめん」ドノミチはすぐに謝るが、明らかにおもしろがっている。大人びた口をきくかと思えば、妙に子どもっぽい真似をする。

「僕がここに来たのは純粋に宿題のためで。僕の時代がどうして今のようになったか知りたいんだよ。いろんな考えがあったろうし、いろんな選択肢もあったはず。その現場に突撃取材して、直接話を聞こうってこと。ご主人様も自分の未来に興味あるでしょ?」

なんだって? 「それはつまり、未来の自分に会いに行くってことか?」

「ピンポーン!」ドノミチは嬉しそうに言って、後ろを振り返った。「このオクミチハウスの誕生がすべての始まりなんだ。だから正確に言えば今日が始まり。ゼロ時点。オクミチハウスのありかたを巡って歴史が変わる。ご先祖様の選択の結果、どんなふうに物事が変わったのか、じかに話を聞きたいんだ。僕のこと、僕の時代のことは言わないよ。ぼちぼちわかることだしね」

オクミチハウスの存在はそんなに重大なものなのか?

「それじゃ、さっそく行きましょうか。そんなに時間があるわけじゃない。お友達はなんだかんだで一時間は戻ってこないけど、こっちもなにがあるかわかんないしね。パッパと済ましちゃいましょう。手始めにごく近い未来、大学生のご先祖様とご対面!」

    *

いったん僕の前に立ちはだかったドノミチがするりと横に滑って、空いたスペースに右手を差し出すと、そこにはガラス窓があった。きれいに磨かれた大きなサッシ窓であり、その窓がはめ込まれているのはまだ新しい木造家屋だ。僕は屋根を見上げ、左右を見た。大きくはない。大きくはないが、それは平屋建てのまっとうな一軒家だった。もはや納屋でもなければ、あばら屋でもない。周囲は草が刈り取られていて、県道に通じる道路には砂利が敷き詰められている。家の左手は草が刈り込まれていて、畑が作られているようだった。

「ここは?」僕が尋ねると、ドノミチは「もちろん未来」と答える。「僕の時代のサーバを経由して、ご先祖様をこの時代に接続したんだ。ここでは、ご先祖様は僕と同じくヴァーチャルな存在なんだよ」

人差し指をいったん自分の唇に当てて、その指で今度は窓の中を指さした。畳敷きの室内にいるのは座布団に座った三人の男で、誰が僕かはすぐにわかった。Tシャツにスウェットのズボンのラフな姿。無精髭を生やし、今よりちょっとだけ年を食った、それは僕にほかならなかった。僕と向き合っている二人のうち、一人は半袖のYシャツにネクタイを締めた若い男で、きれいに髪をなでつけてあるが、その卒のなさそうな顔には見覚えがあった。芝ではないか。

もう一人の年長者はわからない。赤ら顔に目鼻立ちがやけに派手な中年男で、前のめりになってなにやらまくしたてている。額に浮かぶ大粒の汗と飛び散る唾。それぞれの前にはコップがあって、角氷の浮いたお茶が半分がた減っている。大学生の僕はどこか落ち着かない。理由を見つけて、すぐにでもこの場から逃げ出したいといったふう。向かい合う両者の間には綺麗な包装紙に包まれた箱が置かれていた。菓子折りだろうか。「早送りするね」僕の隣でドノミチがつぶやく。「百倍速!」

室内には未来の僕が一人きり。コップのお茶をごぶりごぶり飲み干して、ふうと一息ついたところだ。室内が荷物で溢れかえっていることにそのとき気づいた。六畳間には不釣合なほど大きな薄型テレビ、小卓の上のデスクトップ・パソコン、畳に転がるゲーム機のコントローラ、自動掃除機、ロッキングチェア、傘の大きいライトスタンド、映画やらアニメやらのディスクの箱入りセット。さらに壁際には未開封の箱が山積みだった。洋菓子やコーヒー、タオル、食器、洋酒といったものだ。「ちょっと話つけてくるね」ドノミチが言う。「未来から来たとか、夏休みの宿題とか、そういった前置きを先に済ませとく。ご先祖様の時間を無駄にさせるわけにいかないからね」

「ちょっと」と僕は人差し指を立てる。「そのご先祖様ってのはやめてくれない? どうも落ち着かない。一気に年食ったみたいな気になって」

しかし、本当の理由は、どこか小馬鹿にされているような気分になるからだった。

「敬意を表してるんだけどな」ドノミチは不満そうに言うが、それほど敬っているようには見えない。「それじゃ、ご先祖さん。それでいいでしょ?」

「こっちこっち」一瞬のうちにドノミチは五メートルも移動して、家の角に立っていた。角を曲がると玄関があり、元の納屋の木戸があった場所と同じだが、もちろんはるかにしっかりしている。そして玄関前にもたくさんの品物。マウンテンバイクと原付バイク、芝刈り機、小さなトランポリン、一輪車、スノーボードとなんでもあり、ゴルフバッグまで転がっていた。

ドノミチは曇りガラスの引き戸をすり抜けて中に入る。僕は一旦ためらってからそれに続くが、なにかにつまずいてしまう。「足下に気をつけて」ドノミチが注意する。「ご先祖さんはご先祖さんの時代を歩いてんだから、例のボロ小屋に入っちゃったんだよ。透過度を下げるね。足下は確認できたほうがいいからね」

目の前に広がる明るい和室がすうっと薄れていくのと入れ替わりに、粗末な板張りの床と壁が影のように浮かび上がる。それは僕の時代の納屋であり、僕がつまずいたのは上り框に違いなかった。

「やあ!」未来の僕は畳の上にあぐらをかいて、にこやかに僕らを出迎えた。「話は聞いた。高三のときの僕だってね。懐かしいなおい!」いたって軽い調子で言って、これが自分だとはにわかには信じられない。四年の大学および東京生活で、僕はこうなってしまうのか? あるいは、身内ばかりという気安さのせいか。一風変わった身内ではあるけれど。「入って入って。座ってよ。座布団どうぞ。なんか飲む? あいにく冷たいのは切れちゃったけど、コーヒーがある。いいコーヒー」

「お構いなく。飲めないんで」ドノミチが断る。「座布団も遠慮しなきゃ。ちなみに僕はこのまま座れるけど、ご先祖さんは注意だよ。汚い床に座っちゃうから」

僕は外からビール箱を持ってきて、それに座ることにした。ビール箱と僕の腰から下が畳にすっぽり埋もれる形になって、まるでバグったテレビゲームだった。

「時間がないんだってね。手短に説明するよ」大学生の僕は上機嫌で続ける。「今は大学の四年生。留年しなかったから、来春には無事に卒業だ。夏休みだから帰省してんだ。これ」と言って右手を上げる。「立派になったろ、オクミチハウス! 輝男が工務店と話をつけて格安であげてくれた。あいつ、大工になったんだよ。余った材料とか廃材とか利用して、うまいことやってくれた」

大学生の僕はいったん立ち上がって、右手の障子を開けると、「書斎」と言った。そこは畳一畳の狭い部屋で、ただ窓は不釣合いに広く設けてある。この草原のむこうの空は津軽海峡を見下ろしているはずだ。「あとキッチン」と言って、奥のガラス戸を開けると、そこには冷蔵庫、流し台、食器棚があって、生活臭が漂っていた。冷蔵庫のドアにはマグネット、食器棚には複数の食器、流し台にはひっくり返ったザルが見えるのだ。

「トイレは別棟。どう? 結構気に入ってんだ。書斎は僕のリクエストでね、松浦武四郎の一畳敷をモデルにした。知ってる? 知ってたっけ? これから知るのか?」

「タケしゃん!」ドノミチがいきなり歓声を上げる。「知ってる。武四郎。僕もファンだよ。武道の達人、熱血漢、正義の味方。たった一人で極北の流刑地に乗り込んで、原住民を奴隷としてこき使う帝国主義の悪党どもをバッタバッタ切り捨てるんだ。アニメで見たよ。『北斗の剣』! モシㇼの平和を守るため、三つのカムイと共闘だ。コタンコㇿカムイは空を跳べ! レプンカムイは海を行け! ホロケゥカムイは地を駆けろ!」

「突っ込みどころ満載だな」大学生の僕は苦笑している。「武四郎は江戸時代の探検家だよ。和人、ってまあ日本人だけど、その横暴に苦しめられているアイヌの人に同情し、書物で訴えたり有力者に働きかけたりしたんだ。晩年は一畳敷と呼ばれる書斎で悠々自適の毎日を送ったらしい。未来には変な具合に伝わってんだな。アニメね。ちょっと見たい気がする」

「取り乱してしまいました」ドノミチは素直に謝った。「本題に入ってくれますか。早くしないと、敷香ちゃんが戻ってきちゃう」

大学生僕は腑に落ちないといった表情を見せるが、黙って名刺を畳に置く。右肩に「フルーティー開発」という会社名が置かれ、中央には古内うんぬんという名前が載っていた。「むつの不動産屋だよ。電力会社の依頼を受けて土地の交渉にあたってる。不動産関係には会わないことにしてんだけど、芝が連れてきたからね。しょうがない」

さっきの男がなにに似ているか思い出した。鬼だ。赤鬼。様似の話に出てきた不動産業者だろうか。様似の紹介なのか。

「顔はちょっとこわいけど、態度はいたって紳士的だったね。脅しめいたことも一切言わないし。まあ、原子力業界全体がソフトな印象になってきたんだけどね。以前は善良な市民をヤク漬けする暴力団みたいに、国民を電気に依存させては、やれ電気がないと困るだろ、停電なんてごめんだろ、だったら原発がいらないなんて口が裂けても言うなクズと、最低の恫喝を繰り返していたけど、マガシマの原発事故以来、いろんな悪事が明るみに出て、さすがにこのままで立ちいかないってことで方向転換したんだ。今は情報のすみやかな公開を旨として、粘り強く住民の説得にあたっている。そういう話だ。そう聞いてる」

「マガシマ」僕は耳慣れない単語を繰り返した。「マガシマと言いましたか? それは?」

「フクシマのことだ。福島第一原発は事故後四年を経過して、当然のことながら収束していない。循環冷却システムはガタピシ言いながらも稼動して、最悪の事態は免れたものの、汚染水は溢れかえる一方で、地中と海洋への漏洩も頻発している。子供には甲状腺の障害が現れはじめて、若年層の癌罹患率も上昇傾向にある。PTSDの発症も多数報告されていて、いわゆる『ぶらぶら病』の症状を訴える者も多い。政府放射線の影響を断固として認めていないけどね。『科学的に証明されていない』の一点張りで。福島の大部分は立ち入り禁止区域に指定され、少なくともあと五十年は人が住めない見込みだ。福島は事実上消滅したも同然だけれど、福島を故郷とする人たちはそれを認めたくなかったんだな。誰だって自分の故郷を災厄の代名詞として記憶したくない。だから、福島県人は原発に襲われた土地を『福』の『島』でなく、『禍』の『島』、『禍島』と呼んで、自分たちが暮らした懐かしい故郷を記憶の中に封じこめた。もちろん公式には通用しない言葉だけど、福島の人と話すときは注意しないといけないよ。『ご出身は?』『フクシマです』『原発事故で大変ですね』『あれはマガシマ。私の出身はあくまでもフクシマです!』」

「すると、原発はいまだに全廃にはなってないんですか?」

大学生僕は大きくうなずく。「脱原発の動きはあれから大きな盛り上がりを見せ、代替エネルギーの研究開発は活発になったし、過剰消費文化を根本から見直そうという動きも多くの支持を集めたけれど、結果的になにも変わらなかったと言っていい。電力各社は頑として発送電分離に抵抗したし、計算省はいまだに原子力推進派の巣窟で、政治家は顔をおぼえる間もなく次々と首をすげ替えられる。311は歴史の転換点、悪い膿を残らず出して、新しい門出をする好機と捉えられたけれど、日本はその絶好機を華麗に逃した。急にチャンスが来たんで、ビックリしちゃったんだろうな。QCK。確かそんなふうに呼ばれてたっけ。安全対策の徹底的な見直しということで、この件は片付けられてしまったんだ」

なんてことだ! あるいはなにも変わらないのではないかと危惧していたが、それが現実のものとなってしまうとは。この四年はいったいなんだったのか。これからの四年はいったいなんなのか。

「見直しは本当にきちんとされたんですか?」

「もちろん。まず、以前にも倍して大量に金をばらまいて、原発にそっぽを向きつつあった各種メディアをつなぎとめた。マガシマの件でまったく役に立たなかった御用学者、つまり無用学者はあっさりお払い箱にして、反対派の学者や反骨のジャーナリストの取り込みにかかった。金に動かなくても名誉だのポストだのに動く人はいたし、マガシマ原発を収束させるため、あるいは被災者を救済するためという名目で、同じ土俵にのぼらせることはできたからね。あとは真綿で首を絞めるようにじわじわ自分たちの懐に引きずり込めばいいだけだ。潤沢な予算がつぎこまれたPR施設にはさらに遊園地、ペットショップ、レストラン、ショッピングモールが併設されて、入場料無料どころか、お帰りの際にはクッキー、ワイン、文房具、ぬいぐるみ、商品券がプレゼントされた。貧乏ファミリーも金欠カップルもこぞってPR施設を訪れたもんだし、無料のデートセンター、結婚斡旋所もあるから独身者だって殺到したさ。原発カップルが次々と誕生し、原発結婚も珍しいもんじゃなくなった。原子力がもたらす限りない幸福を徹底的にアピールしたんだ」

僕は大学生僕の顔をまじまじと見た。「あの、冗談言ってます? それ、安全対策じゃないでしょう?」

「そう言えば、まっとうな対策もあるな。核燃料を取り巻く五重の防壁に、さらに一重を加えて合計六重の防壁にしたり、十五メートルの津波が想定されている海岸には十六メートルの堤防を築いたり。原発に問題があったときのために、隣接して漏れなく火力発電所を建設した。これでもう、いつ故障しても大丈夫。心置きなく原発を動かせるってわけだ」

やっぱり、ふざけているとしか思えない。僕はドノミチの顔を見るが、口もとにうっすらと笑みを浮かべて、考えていることがつかめない。

「ただ、もっと画期的な対策は、放射線に匂いをつけたことだろうな。元来は無臭のガスに匂いをつけたのと同じ発想だ。これはすばらしく効果的だった。この技術が実用化したことで、どんな放射性物質がどれだけ漏れたか、すぐにわかるようになったんだ。ヨウ素131は腐った牛乳の匂い。セシウムは餃子とキムチとビールがブレンドされたゲロの匂い。ストロンチウム90は真夏に取り残された生ゴミの饐えた匂い。プルトニウム239は糖尿病病棟の汲み取り便槽から漂う甘く危険な香り

僕が困った顔をしているのを見て、大学生僕は笑いだした。

「これでもましになったんだ。初期はごくありきたりな匂いを使ってた。ヨウ素は屁、セシウムは加齢臭、ストロンチウムは一日履いた靴下、プルトニウムはドブ川の匂い。だもんで、通勤電車でだれかが屁でもこいたものなら大騒ぎだった。母親は危険な加齢臭と靴下臭を嫌って、子供を父親にすら近づけなかったし、渋谷はしばしばプルトニウム・パニックに見舞われて町が麻痺した。この大衆路線が大失敗に終わったんで、ややマニアックな匂いにチェンジしたわけだ。サンプルがあるよ」

大学生僕は机の下から薬箱のようなものを取り出した。中にはプラスチックの蓋のあるサンプル瓶が一ダースも並んでいる。その一本一本を喜々として取り出してみせる。

「原発から半径五十キロ圏内の世帯に配られたんだ。これが最新版。日頃からこれらの臭いに慣れ親しんでおいて、いざというときにすぐに逃げ出せるようにという配慮だな。本当に秀逸な匂いなんだ。即座に逃げ出したくなるような匂いというか。嗅いでもらいたかったな。残念だ」

僕はちっとも残念じゃない。

放射能を汚物と同列に扱う発想の延長線上で、原子力関連施設の名称も変更された。原子力発電所は『原子力発便所』と改名されて、六ヶ所にある放射性廃棄物の処分施設は『六ヶ所便槽』。むつ市の野晒しな中間貯蔵施設は『肥溜め』だ。ちなみにむつ市自体も名前を変えたよ。今では『おむつ市』と名乗ってる。お上からありがたくも頂戴した、やんごとなき核ウンチを断固守りぬくという覚悟がそこに示されてるんだ。『絶対漏れない! 絶対蒸れない!』ってね。そういうスローガン。看板になってる」

「どうも本当のこととは思えないんだけど」僕はついに口にした。この四年後の僕は残念ながら、信頼のおけない語り手と言わざるをえない。

「同感だ」大学生僕はすぐに同意した。「僕も本当のこととは思えない。銀行口座に毎月、金が振り込まれてるなんてそんな現実。十万円。決まって十万円。一万円だと自分の金かとうっかり勘違いしかねないし、百万円だとさすがにビビる。その点、十万円なら、ほどほどにまとまった金額で、いろいろ使い道を思い浮かべられてお得感があるし、この程度の金額くらい、その気になればなんとか返せるという気安さもある。大学在学中の四年間ずっと続いた。結構な金額になっているよ」

「電力会社の仕業なんですか?」

「一応、個人名にはなってたよ。ハラコツトムって名前の人。わかる? 『原子力』を人名になぞらえた、古典的なSFギャグだよ。むこうにもシャレの分かる人がいるんだね。ただのSFマニアかもしれないけど」

「まさか手をつけたわけじゃないでしょうね」

「あたりまえだ。その物騒な口座は忘れることにして、普段は別の口座を使ってるよ。すると、それを察してか、今度は直接僕に現金を渡す方針に変わった。駅の切符売り場で、財布を忘れて慌ててたら、すっと横から十万円差し出されたことがあったし、スーパーで精算しようとしたとき、逆に十万円渡されたりした。自転車で車に傷つけて、こわい人が修理代払えとすごんできたときは助かった。通りすがりの郵便局員が上着のポケットに十万円つっこんでくれて事なきを得たよ。手元に金があれば、なにかと便利なことは確かなんだよ。同級生が怪我でバイトできなくて、部屋代払えないって泣いてたときも、ポンと気前よく貸すことができた。新発売のiBandが残り一個ってなったときも、手元に現金がなければゲットできなかったところだ」

「手をつけちゃってんじゃないか!」僕は呆れた。

「急に金が入りような時があるんだよ。こんなにあるんだし、少しくらい使ったって構わないじゃないか。それに返そうと思えば、すぐに返せる。本当だ。なんの問題もない」

恐ろしいことだ。ゾッとした。十万円十万円と渡され続けて、感覚が麻痺してきたのだろうか。口では原発を嘲弄しながら、同時にいつの間にか原発に取り込まれている。よくある話だ。よくある話ではあるけれど、まさか自分がそうなるとは。

「これもそうなんでしょ?」僕は部屋を埋め尽くす品物の数々に目をやった。「プレゼント攻勢ですか」

「電力会社だけじゃない。いろんなとこから届くんだ。僕が帰省した途端に始まって、毎日十個も二十個も。一週間たってさすがに落ち着いてきたけど。電力は最終的にこの土地が手に入ればいい。相手は問わない。だから抜け駆けしようと、みんな焦ってるんだ。道を歩けば、だれかしら声をかけてくる。『久しぶりだな』『懐かしいな』『覚えでらか? 昔、よく遊びに行ったべ』『メシ食っていかねか?』『友達のよしみで話があるんだけども』。だれが言ったかは言わないよ。君の時代にはまだ、そんなこと言うような人たちじゃないからね。昔の同級生だとか先生だとか親戚だとか父さんの友達だとか、まあ、そういう人たちだ」

うん、それなら聞きたくない。

「で、芝も来たんですね」

「面と向かって交渉はしないようにしてたけど、あいつは断れなかった。電話してきて『今行くぞ』って強引に押しかけてきた。東京の会社に就職が決まったらしいが、こっちで親父の仕事も手伝うとか。商売する上で原発反対なんて言ってられないからな。この原子力半島で」

芝はそもそも原発に深い関心は持っていないはずだ。その意味で推進派とは言えないが、経済のためやむなしといった態度だろう。

「この四年でこの周辺一帯の土地は電力会社の所有になった。母体は原電開発。大間のフルMOX原発と同じ会社だ。小津川の町自体はまだ残っているし、皆本やバーさんの実家も引っ越しちゃいない。しかし、このあたりは事実上、このオクミチハウスが最後の砦と言っていいんだ」

おっくみっちくーんっ! と不意に外から声がして、玄関の戸が勢いよく開いた。「遊び来たよーっ」と言いながらサンダルを脱ぎ捨て、六畳間に飛び上がったのは、薄っぺらな服を着たマネキン人形じみた女だった。弾けるような笑顔を見せ、明るいエネルギーを発散している。「笑川?」大学生僕が驚いている。僕も驚いた。笑川とは高校で三年間一緒だったが、気楽な口をきける仲ではない。

「一回来たいと思ってたんだよ」笑川は構わず続ける。「ほら、最初にここ作るとき、手伝うって言って、結局来なかったでしょ? それをずっと気にしててさ。悪かったなあって気に病んでた。いい家だねえ! 見晴らしもいい。ちょっと狭いけど、十分住めるね。その気になればいつでも建て増しできるし、なんて言ってもここは全部オクミチくんの土地だものね。今すぐ売るわけじゃないでしょ? だったらそれまでのんびり暮らすのもいい。わあ、贈り物がいっぱい!」

一畳の書斎に行って窓から外を眺めたり、キッチンに飛び込んで冷蔵庫をのぞいたり、壁際に積み上げられた箱を一つ一つ確認したりと、いっときたりと休むことのない笑川だった。

「別にここで暮らすつもりはないよ」大学生僕が言う。「いかにも暮らす態で作っちゃいるけど。芝と来たの?」

「知らなーい。私、遊びに来たのよ。こっち帰っても暇だし、どこか行こうと思って。どっか行かない? 天気もいいし、まだ明るいし。車ないんだっけ。バイクでもいいけど。免許あるでしょ?」

「遊びに行くとこなんてないだろうに」

「だったら作ればいいのよ。作れるよ。映画館、カフェバー、ボーリング場、スタジアム。これからバシバシ作るのよ。助成金をがっぽりもらって、地域発展、経済成長、目指せ東京、エイエイオーッ! なんだって作れんだから。本当だよ。ブランドショップ、スケート場、ライブハウス、ラブホテル

ララララブホテル?

「おやーっ、シャンパンあるじゃない。飲んでいい? やだ冷えてない! ビールにしよっと。オクミチも飲むでしょ?」

笑川は箱の中からシャンパンの瓶を引っ張り出したかと思うとすぐにうっちゃって、冷蔵庫に飛びつくや、缶ビールの六本パックを持ってきた。プルタブを開けながら、大学生の僕に一本を放り、自分の缶をそれにぶつけて「かんぱーい!」と叫ぶと一気飲みした。パーッ! 「おいしいっ! 夏はやっぱりビールだねっ!」

「僕は昼間っからビールは」大学生僕がためらっているうちにも、笑川は二本目のプルタブを開けて傾けていた。パーッ! 「だって、遊ぶとこないんだったら、ほかに楽しみ見つけなきゃ。ほら、このあたりにいろいろ楽しみがありそうじゃない?」

「封切るな、袋破るな、物出すな!」大学生僕は吠える。「これはみんな返すつもりなんだぞ。やめろってば!」

「すごーい! これ、高級品だよ。旦那、いいモン持ってますな。ふわふわ〜っ!」

笑川はビニール袋を剥ぎとった羽毛布団にするりと紛れ込み、「来て、あなた」と言いながら、両肩から肩紐をするりと外した。胸から下は布団に隠れているが、肩は剥き出しになって、裸で布団にくるまっているように見える。

チリリッ、と鈴のような音がして、大学生僕は慌てて腕時計を耳に押し当てる。「もしもし」「うん」「えーと、なにか冷たいものを」「お茶と水とジュースと」「重いか。無理しなくていいんだけども。持てるだけで、うん、適当に」と会話する。大学生僕が左手首にはめている腕時計はどうやら電話らしい。携帯電話が進化したのか。

「ということで人が来る」大学生僕はにわかに硬い口調で言う。「悪いけど帰ってくれないかな」

「嫌だと言ったら?」挑むような目付きをする。一大事だ。しかし、笑川は「うそぴょ〜ん!」と言いながら、羽毛布団をはねのけて、サンダルを突っ掛けて出ていった。「また来るからねーっ!」と捨て台詞を残して。

アハハハ! ドノミチが笑いだす。子供にはいささかよろしくない場面だったが、ドノミチは気にならないようだ。

「なんだったの?」僕は尋ねた。「笑川がなんでまた」

大学生僕は、僕らの存在をようやく思い出したようだ。「まあ、俗に言う色仕掛けってやつだろうな。まさか笑川がそんな恥知らずな真似するなんて思いたくないが、そうだとしか考えられない。ありえないよ。高校卒業して以来、一度も会ってないんだぞ。高校んときも全部で百語くらいしか口きいてない。それがいきなりやってきて、ほとんど裸になったも同然なんだ。あと数秒で裸になってた」

「あわよくば、とか思ってたでしょ?」ドノミチが楽しそうに言う。「罠と知りつつ、罠にはまって、それからどうなったろう。はめられた! って地団駄踏んで悔しがって、心置きなく土地を手放すのかな?」

僕は驚いて大学生僕を見る。「まさか、ここを手放す気じゃないでしょうね」

「昔とは事情が違うんだよ」大学生僕は言って、床にぺたりと座り込んだ。「君の頃はまだ呑気に原発反対! なんて拳を振り上げてりゃよかったろうけど、この年になると、なかなかね。もうすぐ大学も卒業で社会人だ。無職で社会人なんてゾッとする」

「就職が決まってないんですか?」

「だけど、それは一概に僕が悪いってわけじゃないぞ。311以降、経済は結局回復しなかった。原発に反対している者はまず書類審査で弾かれるんだ。大学の友達にもいたよ。脱原発の市民デモに付き合いで一度参加したきりなのに、『電気をいらないって人を家電メーカーで雇うわけにはいきませんなあ』と面接官にイヤミを言われ、証拠写真まで突きつけられた。どこで手に入れたんだか。だれか友達が売ったのか。やつらはどこに潜んでいるかわかったもんじゃない。こんなオクミチハウスなんぞ守ってりゃ、そりゃ、どこも雇ってくれないよな」

大学生僕は急にやさぐれたようで、笑川が残していったビールを飲み始めた。

「だから、こっちに帰ってくることになると思う。芝が就職先を世話してやると言ってきた。自分とこのスーパーで雇ってもいいし、ほかの仕事だって斡旋できるって」

「で、代わりに土地を売れと?」

「そんなことは言ってない。ただ、現実的に原発は必要だろうとやつは言い、仕事は心配するなと言う。それだけだ。まとまった金が入ったら、ここでないどこかに新居を構えりゃいいじゃないか。結婚もできるし、地域は潤うし、万事めでたしめでたしだ」

本気で言っているのだろうか? それとも無理やりそう信じ込もうとしているだけか。気持ちが揺れていることは間違いない。僕はドノミチの顔をのぞき見る。僕の子孫はいったいなにを望んでいるのか。少なくとも原発のある未来を望んでいないことは確かなように思われた。

「初心を思い出してください」僕は真剣な気持ちで言った。「原子力は人間関係を壊し、土地を汚し、故郷を奪ってしまうんです。そのために僕らは立ち上がったんじゃないですか。がんばりましょうよ。まだ仲間はいるんでしょ? 輝男も厚司も」

「裏の畑は厚司が作った。僕が東京にいる間、『趣味だ』って言って世話してる。大学中退してからむつで働いてるが、土日だけこっちに戻ってね。キューリだのトマトだのユウガオだの作って、母さんに持ってくる。そうだよ、そもそも厚司だよ。こんなことを炊きつけたのは。オクミチハウスを守れって。こんな土地、僕はどうでもよかったんだ。こんなものがあるばかりにゴタゴタに巻き込まれて」

なんてことを言うのか。僕は信じられない思いだった。「口が過ぎますよ」

「僕に今、言えるのは君がどうしようもない能天気だということだ」大学生僕はもはや僕を見もしない。「青臭いことしか言えない世間知らずのガキだってことを自覚したほうがいい。僕を批判する資格なんかないぞ」

おもーいっ! いきなり外から声がした。「戸開けて! 両手塞がってんの。下にシバくんとエミちゃんいたけど、ここ来たの? また来るねーとか言ってたけど。あの人達、いい車乗ってんだね」

「退却」ドノミチが言って、目の前のオクミチハウスが急速に薄れていく。僕の時代の納屋が形を取ってくるのを見ながら、さっきの声を思い出した。皆本。外にいるのは皆本なのか。

一目見たかったのに。気がきかないぞドノミチ。

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