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原発 恐山 未来

4 恐の山

「ちなみに補足しておけば」ドノミチがポツリと言う。「ゾンビの歌はナイジェリアの反体制ミュージシャンの代表作だね。自宅を国家として独立させたら、軍隊が攻めてきたんで、この曲を大音量でぶつけて対抗したんだ。ゾンビってのは自分の意志を持たない軍隊のことを言ってるみたい。『泣けばいい』はアホモリ県出身の歌手の歌。『夢は夜開く』って曲のほうが有名で、カルピスが大好物だったとか」

「君がアホモリ県って言うな」僕は動揺していた。「なんて未来だ。僕がオクミチハウスを必死で守った結果があれなのか? 原発をたかだか一基食い止めることができただけで、あとはなにもいいことがない。町は過疎化し、家族は離散し、皆本は病気で死にそうだ。いっそ原発を受け入れたほうが良かったのか? 少なくともあの三十代の僕はそうしろって言ってる」

「いろんな可能性を考えるのはいいことだよ」

「皆本! 皆本が死んじゃうよ!」

「もうシスカでいいんじゃない? あの人だったら、他人行儀だって言うよ。このまま順調に行けば、ご先祖さんのお嫁さんになるんだし。ちなみに、僕の大大大大お祖母さんでもある。あっ、大の数は適当だよ」

「重大事故が起こらなかったのは本当なのか? マガシマ以来、原発は大きなおいたをしなかったのか?」

「さあね」ドノミチはすっとぼける。「あのマガシマに匹敵するような事故はさすがにそうは起こらない。なにせ世界に誇る堂々のレベル7、無用学者が揃って口をあんぐりした想定外のレベル7だもの。でも、そこまで行かない3、4の5なら、あっちやこっちで起こったかも」

「マガシマの件で世間の目は厳しくなった。脱原発圧力は増していく一方だろうし、その中で原発の運営は一層シビアなものが求められる。古い原発は次々と廃炉になったはず。甘々だった耐震基準も見直されたはず」

「変だな。なんだか言い訳を探しているみたいに見えるぞ」

「事態を公平に見ようとしているだけだ」

「隠れ推進派の人がしてきたみたいに? 自分が冷静で客観的で現実的だと思って?」

「茶化すな。僕は皆本を助けたいんだ。いや敷香。もう敷香って呼んじゃうぞ。奥さんを助けたいのに理屈もなにもない。原発に問題がないなら、それに越したことはないって話だ。もともと反対派ってわけでもないし。なんとなくイヤだなあって、その程度だったし」

「うん。もちろん僕だってご先祖様にはみんな元気で健康でいてほしい。いずれは寿命が尽きるにしても、なるべく、あそこに行くことは遅くなってほしい。あそこって? どこに行くんだっけ? 教えてよ」

ドノミチが言わせようとしていることはすぐにわかった。

「お山?」

「そう! それが聞きたかったの。うれしいなあ。あの伝説のフレーズを生で聞けた。これまで本でしか知らなかったんだ。フルで言ってもらえないかな。死ぬことをなんて言うの?」

「お山に行く」

うひゃあっ! ドノミチが歓声を上げる。なんだ、こいつは。

「お山」とは恐山のことを意味する。下北の人間は死ねば恐山に行くと決まっている。下北では伝統的に「死ぬ」ことを「お山に行く」と表現するのだ。下北出身のあの人気俳優もグラビア・アイドルも漫画家も落語家も、死ねば恐山に行くのである。

「ってことで、次のステージ行ってみよっか」

    *

どんよりと暗い空の下、それよりも暗い林の中を大勢の人が歩いていた。帽子を目深にかぶり、大きなバスタオルを羽織り、マスクに手袋の重装備で、身を寄せ合って、落ち葉の目立つ土の道を急いでいた。さほど急でない上り坂。即座に連想したのは戦争だった。銃火に追われて着の身着のまま逃げ出したような。手近のものをリュックに放りこみ、猫のミルク皿をひっつかみ、乳飲み子を抱え、とにかく遠くへ、少しでも安全な場所へと駆けだしたのだ。子供の泣き声とそれをなだめすかす声、苛立つ声、咳きこみ、独り言、怒声に混じって、急流のせせらぎが聞こえてくる。川が近いらしい。

「いた」隣でドノミチが言って、群れの中を指さした。そこにいたのは死んだ父だ。二年前に死んだ父が見慣れない紺のジャンパーと着古したジーンズを履いて、とりわけ道を急いでいる。人と人の間を注意して擦り抜け、その際、左右を見回して、どうやらだれかを探しているらしい。「でも今は話しかけられないね。僕らと話してるところを見られたら、気が触れたと思われかねない。まあ気が狂ってもおかしくない状況だけどさ」

それは死んだ父ではなかった。僕の未来の姿なのだ。「これは?」僕が尋ねると、視界が左に移動する。道が左に曲がった角にワゴン車が一台止まっているので、人はその脇をすり抜けて進むしかなかった。左手の急な斜面にはさらに自動車が一台見えて、太い幹に鼻面を押し付けている。さらにその下方には黒い川がうねっていた。急流沿いの狭い山道。こんなところに自動車で押し寄せてはいけないのだ。「時間と場所を選ばなくちゃ。こんなに人が多いと難しいけど、こんなときこそ話を聞きたいからね」

いきなり景色が身震いした。連なる木々が頭を振り乱し、人々はキャーッ! ワーッ! 甲高い悲鳴を上げて地面に膝から崩れ落ちる。これは!

地震

「よお」眼の前にはさっきの中年男。背後は暗い草むらで、さっきとは違う場所だった。「高校生か。懐かしいな。こっちはもう、お父が死んだときの歳に限りなく近いよ。お父よりは長生きしたいな。お父は早く死にすぎた」

父は五十で亡くなっている。この未来の僕は四十代の半ばあたりか。「状況を説明してくれって言われたが、たいしたことはわかってないんだ」

四十代の僕は石の上に座っているらしい。どこか投げやりな口調だった。表情が見えないほど暗く、夜が押し迫っていることがわかる。視界に人影こそ見えなかったが、あたりには大勢の人がひしめいていた。話し声、すすり泣き、呼び声、なだめすかす声、大声、ビニールや紙の擦れる音、足音、物を運ぶ音、土を掘るスコップの音。

ラジオは雑音だらけで、なにを言ってるのかさっぱりだ。携帯電話もつながらない。ただ、確かなことが一つある。未曾有の大地震大津波が下北半島を襲ったってことだ。震源地は十勝沖らしい。近い。大畑がこんな津波に見舞われたんだものな。幅百メートルの大畑川が一キロの大河になって、もう大大畑川とか呼ばなきゃいけないくらいだ。はは、はは、ははは」

四十代の僕は力なく笑う。

大地震。大津波。なんてこった!

「敷香と此道のことなら心配ない。母さんと一緒に小津川の社宅にいて無事だった。あそこは高台になってるから。わいは様子見るために引き返したんだ。だけど、人の波に巻き込まれた。知り合いと出くわしたら、無駄だ、全滅だ、とにかく逃げろって言われて諦めた。今みんなを追っかけてるところだ。全然進まないんだ」

「ここはどこですか?」まるで見覚えのない場所だった。川に沿った林の道。

「恐山に登る道だ。大畑口。小津川に沿って関根橋まで行って、そこからまっすぐ恐山に通じる。この道あるの知らないだろ? わいも最近知ったばっかりだ。田名部から登る道より近道なんだ。狭くて未舗装だけども、カーブが少ないから車にはいい」

「恐山?」僕は心底驚いた。「恐山に向かってるんですか? どうして?」

オクミチーッ! 遠くから声がした。「どこいる? こっち手伝えじゃ!」

「離脱」ドノミチが言って、僕らは納屋に戻った。

「なかなかね」薄暗い壁から白く浮かび上がってドノミチは言う。「あの混雑じゃ一人きりになる機会は少なくて。さて、どうしようか」

「君はこれを知ってたんだな!」僕はドノミチに噛みついた。「大地震! 大津波! 311の悲劇、再びだ! 原発はどうなった?」

ここから一番近い東通原発が気になるところだった。砂原。自分たちの村にある原発を不安がっていた彼は果たして無事なのか? 僕の時代には建設途中だった大間原発はどうか。完成して稼働中だとしたら、そっちのほうも心配だ。

「事故ったよ」ドノミチはあっけらかんと言う。「当然のように、お約束のように、待ってましたとばかりに事故った。いくら安全基準や堤防の高さが見直されたと言っても、元が元だからね。特に下北半島の耐震基準がよそに比べて低く設定されていたというのは有名な話だ」

「だったら、原発を選ぶ選択肢なんかなかったじゃないか! それどころか、一刻も早く原子クソを下北から追い出さなきゃいけなかったんだ! なんで教えてくれなかったんだよ」

「僕がそれを言って、ご先祖さんは信じたかな? 巨大地震が高い比率で起こるってことは、さんざん指摘されてきたじゃないか。それを真剣に受け止めればよかっただけだ。どうして真剣に受け止めなかったの?」

「僕だけじゃないだろ、受け止めなかったのは。僕だとしても未来の僕、これからの僕だ。僕のバカ!」

「どうしてかな」

「そりゃ」僕はいったん口をつぐむ。「やっぱりこんなことが現実に起こるとは信じられなかったんじゃないかな。どうせ大丈夫だろうって高を括ってた。考えたくなかった。ワーワー騒ぐのが恥ずかしくて、かっこつけてたのかも。あるいは偉い人たちがなんとかしてくれる、そう思うことにした。そんなとこだ。いつでもそうだ。僕らはいつでもそうなんだ。僕らのバカ!」

「戻るよ」

あたりは暗闇に覆われていたが、足下に光が灯っている。ランタン、それもどうやら電池で灯るランタンのようで、絞られた光に下から照らされて三人の男が座っていた。頭には帽子やマスクが貼り付き、ティッシュやらマグカップやらを持っている。そこは林に開かれた空き地らしく、三人の背後には幾張りかのテント、電灯、焚き火、動く人影が見える。咳き込む声やひそひそ話が聞こえてくるが、前よりはだいぶ落ち着いている。風の音が梢を揺らし、帽子や襟が震えている。心持ち肌寒そうだ。季節は秋。

「よっ」口を開いたのは四十代の僕だった。向かって左の端にいる。「戻ってきたか。こっちは一息ついたとこだ。田名部から物資がまわってきた。あっちはだいぶましなようだ。津波もなかったし。いろいろ情報も入ってきてる」

「誰としゃべってる?」右端の男が言う。「電話か? じゃないのか?」

「一人きりは無理だったからさ」僕の隣でドノミチが言う。「背に腹は代えられない。ほかの人がいたっていいやって思って」

「わいも構わない。いい気晴らしだ」そして、二人の連れに向かって言う。「珍客だ。わいの子孫と高校の時のわいがお手々つないで訪ねてきたんだ」

「なによ。夢でも見てるのか?」中央の男が言うが、その声には聞きおぼえがある。「子孫? 高校生? なんじゃそりゃ! 放射能浴びると幻覚見るんだっけか?」

「わいには青空、見えてるよ」地面の方から声がして、三人の背後にさらに一人が身を横たえているのがわかった。四十代僕が体をずらすと、マットレスに寝そべっている男が見えたが、目には包帯を巻いている。「青い空に白い雲が浮かんで、カモメがミャーミャー鳴いてんだ。幻聴まで聞こえてるかも」

「輝男は目をやられた。なんも見えない」四十代僕の口調は硬い。横たわっているのは輝男なのか。「眼医者が来てくれることになってるけども、いつ来るのかわからねえ。わいは吐き気がひどかった。焼酎飲んだら、少しは収まってきたけども」

手に持っていたマグカップを掲げるが、その中に焼酎が入っているのか。

「わいはだるいし、鼻血がひどい」右端の太り気味の男が言って、彼が砂原だということに気づいた。鼻には確かに丸めたティッシュが詰められて、足下には血に染まったティッシュが山になっている。「このままじゃ何百枚あったって足りねえじゃ。血がダダ漏れ」

「わいは体じゅう熱いじゃ」中央の男は厚司だった。見れば額からだらだら脂汗を流し、手拭いでひっきりなしに拭いている。「喉も痛え。イガイガが詰まってるみたいだ。薬とか持ってねえのか、お客さんたちは? 飴でもいい? どこにいる? 握手でもすべしよ」

「お客さん、お触りはご遠慮ください」と四十代僕。「わいにしか見えない聞こえない。そういうルールなんだ。物品の受け渡しも禁止だ」

僕はドノミチの顔を見る。これは放射線障害だろうか。この小津川の四人衆はどれだけの放射線を浴びたのか? 

「あれからわかったことを教えてよ」ドノミチが問いかける。

「地震から一昼夜たって、最低限のことはわかった」四十代僕が話しだす。「ネットとラジオと噂話で。マグニチュードは九・〇。震度は五、六、七とさまざまだけども、地震自体の被害はそれほどじゃなくて、ひどかったのはやっぱり津波。下北半島は山に覆われて、人は海沿いの土地にへばりついて生きてきた。そこを津波に襲われたんだ。ひとたまりもねえ。311のときの十メートルの津波を待つまでもない。その半分の高さの津波で、津軽海峡沿岸の町村は壊滅だ。陸奥湾の方は無事で、だから食い物やら薬やら届いてくれる。子供にはすみやかにヨウ素剤が配られて、そこだけはなんとか過去の惨事から学んだって感じだ。むつの知り合いには何人か連絡取れたけれども、まだ停電が解消されてなくて、たいして話せていない。様似、白縫、恵山、そのあたりとは電話で話せた。電池が惜しくて、ラジオもネットもそれほど利用できないんだ」

そのとき、クイーン、クイーン! いきなり警告音が響きわたる。テントから先を争うように人が転げ出ると、じきに地面が揺れ動いた。林が咆哮して、悲鳴が満ち、まるで天が落ちてくるようだ。余震だ。揺れは三十秒も続いておさまったが、人の動きが活発になり、輝夫を除いた三人もあっちこっちへ飛んでいく。「しょうがない。地震は現在進行形だ」ドノミチがつぶやく。「ちょっと早送りする」

四人がいるのは変わらなかったが、全体にくだけた雰囲気に変わっている。目の前に空の焼酎瓶が一つ横倒しになり、寝そべっている輝男を除いて、全員がコップを持っている。マグカップと紙コップ。さっきは見えなかった透明の瓶とミネラルウォーターが突っ立って、ツマミの袋も三つ四つ転がっている。口元には笑みさえ浮かんでいた。お酒は暖を取るために飲み始めたのかも知れないが、すでに宴会と化している。「ご機嫌だね」ドノミチが話しかける。「ちょっと飲み過ぎなんじゃないの? 非常時なのに」

「また来た! 未来少年と過去少年の新旧コンビ!」四十代僕は言って、うひゃうひゃ笑う。「これは放射能対策だ! アルコールが放射線を撥ねつけるっていう医学的事実があってな。チェルノブイリのときだって、現場の作業員はウォッカ漬けで作業した。ほれ、その本場のロシア産ウォッカが手に入ったんだ! これは飲まなきゃ嘘だろが」

地面にそそり立つ透明の瓶はそのウォッカの瓶なのだ。

「続き、話せる? おねむする前に聞いときたいんだけど。原子力関連の被害のこと」

「続き。わかった。しゃべるぞ。原子力関連だな。ちょうどいい。こいつら、まさにその現場から逃げてきたんだ。アルファ線ガンマ線ベータ線がピチピチ飛び交う新鮮な話が聞けるぞ。まず東通代表、砂原氏!」

「暗闇に向かってしゃべるのか?」四十代の砂原はどちらに向かって話せばいいかわからなくて落ち着かないようだ。鼻の穴には相変わらず血塗れたティッシュをぶっこんで、話しているそばから、新しいティッシュをいじっている。「変な感じだ。聞き手がいるって態でしゃべればいいのか? 暗闇の主張!」

「うん。幽霊だとでも思ってくれれば」とドノミチは言うが、それはもちろん砂原には聞こえないはず。

「東通の四つの原発はマガシマの再現になった。想定外の津波で全電源を喪失したという話だけど、たぶん最初の地震で全滅かな。圧力容器内に充満した水蒸気が爆発して、建屋が景気よくバン! バン! バン! と吹っ飛んだのもおなじみの展開。再現ビデオでも見てるみたいだったよ。炉心は今、刻一刻とメルトダウンが進行中で、これからまた三十年前と同じ、地獄のような冷却作業が繰り返されることになるんだろう。ただ、マガシマより状況は悪い。こんな僻地に作業員も機材も簡単には届かねえもん」

新幹線は相変わらず野辺地には停まらないしな」四十代僕が口を挟む。「むしろ年々スピードを爆上げして、もはや目にも留まらない。すごいぞ、今じゃ光の速さで下北を置き去りにしてる。下北はもう眼中にないってわけだ。野辺地からは、遠ざかる新幹線は赤方偏移で真っ赤に燃えて見えるとか。燃える燃える新幹線、火の車! なんだかんだで赤字らしい」

光の速さはさすがに冗談としても、東通の原発のことは本当っぽい。僕の時代には一基が稼働し、一基が建設途上だった東通原発が、この時代には四基に増えているようだ。そして今、そこが事故を起こしている。そこまでマガシマの第一原発の再現になったとは。

東通村に住んでいたのかと僕は尋ね、四十代僕がそれを伝えた。砂原は東京の美大に進学して、アートの世界で身を立てるのが夢だったのだ。

「ムサビに行こうと思ってたけども、入学したのはムササビだった。武蔵野サ美術大学って言って、サは詐欺のサ。うはははは!」武蔵野美術大学はムサビと呼ばれていたが、「詐美術」大学の方は初耳だ。詐欺の美術、偽造品でも学ぶのだろうか。「アーティストは職業じゃなくて生き方だから、今もアーティストはアーティストだよ。ただし身は立っていない。長男だから戻ってきたんだ。仕事はいろいろやってるよ。旅館経営、弁当の仕出し、サウナ、クリーニング、トイレ清掃。原発の定検で作業員が押しかけてくるときしか稼げないけどな。こうなってみれば、親が亡くなっていて幸いだったな。こんな災害、お父にもお母にも遭わせたくなかったもの。ああでも、嫁を見せられなかったのは残念だ!」

叫ぶと同時に血塗れのティッシュが二つ飛び出し、鼻の穴から二筋の血がねっとりと垂れた。

「大間原発も被災したが、こっちは非常用電源がかろうじて持ちこたえた」四十代僕が話を続ける。「だけど、東北電力が鼻高々と『当然です。想定内ですもの』と発表した直後に、想定外のことが起きた。輝男、しゃべれる?」

「お客さんは見えないけど」輝男は起き上がっていた。目には相変わらず包帯を巻いて、おまけに顎には髭を生やして、すぐには輝男とはわからない。しかし、その几帳面な声は輝男に違いなかった「声がなんか聞こえるんだよな。甲高い小学生の声とか」

「僕もいますよ」と僕は言ったが、それが聞こえたかどうかはわからない。

「大間ではテロだ。原発テロが起きた。おぼえてるか? オメガ真理教。半世紀前にテロを起こしたあのカルト教団の残党がまた仕出かした。サリンなんていう子供だましよりかもっと強烈な放射能に目えつけたんだ。初代教祖の生まれ変わりを自称する現代教祖が炊きつけた。豚腹将校って名前の下品なやつ。初代の叶えられなかった遺志を継いで、今度こそ本物のハルマゲドンを起こしてやる、この世のすべてを丸禿ドーン! と壊してやるってブヒブヒ煽りまくったんだ。大間原発で使われてるのはMOX燃料。地上最大の毒物であるプルトニウムをたんまり含んでいる。そのままだと飲んでも食っても大丈夫らしいが、コロイド状態で大気拡散すれば、肺にたっぷり取り込まれて、内側からじっくり蝕まれる。最終的に何十万何百万人死ぬことになるのか。大鮪は人口密集地じゃないが、海をほんの三十キロ隔てて、人口三十万の函館がある」

「魔法の薬で死人が増えるね。ポアポア〜ン!」いきなり厚司が歌いだす。「古いか、これは!」

「信者が多数、原発内部に潜り込んだ。学力優秀な信者が多かったんで、社員になるのもお手の物。基本は組織に忠実なんで、責任ある部署を任されて、地元の人とも積極的に交流を図った。いたって真面目に仕事に励みながら、テロの機会を伺ってたんだ。そして、まさに千載一遇の機会が到来。地震、津波であたふたしている隙に乗じて、大MOX原発を占拠した。ロシアから輸入した銃器火器を手に、非信者の社員作業員を拘束し、目指すは最大規模の水蒸気爆発。冷却水の注入を中止して、核燃料を熱々にメルトダウン、圧力容器を華麗にメルトスルーさせて、プルトニウムを周辺数十キロにぶち上げるつもりだ。最大のターゲットは函館。百万ドルの夜景に放射性物質でさらなるきらめきを添える。現在、自衛隊とドンパチしているようだ。オメガは湯水のごとく砲弾銃弾をばらまいて、まるで戦場だ。原発周辺、市街地でも、あっちこっちが爆発して、腕、脚、腸が飛び散っている。テレビでも生中継されて、あさま山荘以来の高視聴率を稼いでるとか」

「あのう」僕は口を挟まずにはいられなかった。「本当のこととは思えないんですが」

「疑われてるぞ」四十代僕がおもしろそうに言う。「わいも正直ふざけすぎてると思う。輝男、昔から真面目な顔して冗談言うタイプだったし。工務店の長女と結婚して会社継いで、年々真面目になっていく一方で心配してたんだ。ここぞとばかりに冗談を吐き出しているのかも」

「ホンズナシ! わいの娘がオメガの信者なんだよ!」輝男が意外な事実を明かす。「せっかくいい学校にやったのに、まさかこんな最悪カルトにはまるなんてな。勘当して家を追い出したが、あいつは電力の社員になって戻ってきた。わざわざ下北に来たってことは、わいどのそばにいたいって気持ちが少しはあるってことだろ? わいはあいつの居所を見つけて、家に戻るよう説得した。アパートだ下宿だ寮だと引っ越すたびに追いかけた。原発周辺の仕事を進んで引き受けて、大鮪にアパートも借りた。なにかあったら、すぐにあいつのもとに駆けつけるつもりだった。結局なにもかも無駄だったけども。携帯が通じたんで、今すぐこんなことやめろ、いい子に戻れ、と怒鳴ったら、ミサイルが飛んできた。お日様が落ちてきたみたいだった。ものすごい爆発で体じゅうが蒸発したような気がして、そしたらどういうわけかオクミチハウスを思い出したんだ。あの誕生のとき、夏休み、太陽がまぶしくて、みんなでわいわいおもしろかったな。バーちゃんがいて、瑞穂がいて、みんなニコニコ笑ってた。それで気がついたら崖をゴロンゴロン転げ落ちて、オクミチがそこに立ってたのよ」

「大鮪からおむつ市まではスーパーバイパスがあるからな」四十代僕がぼんやりつぶやく。「その道をまっすぐ吹っ飛ばされて、宇曽利湖を南に迂回するところを直進したんだろう。最初はお星様でも落ちてきたかと思った。全身がキラキラ輝いてて。思わず願い事を言いそうになったよ。神様、どうかこれが夢だと言ってください!」

「光っているのはわいはわからなかった。真っ暗だったから。そのとき初めて、目が見えないことに気付いたんだ。見えない以上、本当にこいつらがいるかどうかもわからない。全員が幽霊だとしても驚かねえ」

話し終えると輝男はウォッカを一杯ぐっと飲み干し、「これでいい」とつぶやきながら横になった。

「厚司は六ヶ所で魚釣って田んぼ耕して踊ってたんだ」四十代僕が続ける。「休みとって大畑まで車で帰宅途中に地震に遭った。津波に追われて関根橋まで車で登って、なんとか難を逃れたって」

「適当な説明だな」厚司がカルテットの中でも一番酔っているように見えた。確かに魚釣りだの田んぼだのはおかしい。厚司はもともとは教師になろうとしていたのだ。「こっちか? こっちでいいのか?」と、僕とドノミチがいる方角を四十代僕に確認してから、「六ヶ所の中学で先生やってたのよ、わいは」と厚司は語りだした。「それで、むこうにはやっぱりいるんだよな。どんなに金を積まれても嫌がらせされても、頑として土地を手放さなかった気骨ある人たちが。高齢化して跡継ぎがなくてどうしようって土地があったんで、わいが引き継いだ。田んぼを作れば米が獲れる。釣り糸垂らせば魚が釣れる。そんな当たり前なことがおもしろくてしょうがないのよ。別に金稼ぐつもりないから気楽なもんだ。満月の晩には気の合ったやつを誘って、酒酌み交わしながら踊るんだ」

「その話は後でしゃべれ」四十代僕が釘を刺す。「時間ないんだって」

「下北半島の太平洋岸になにがあるか知ってっべ?」厚司は一転して真剣な口調になった。「軍事施設と原子力施設がサンドイッチになった土地で、昔から危険だ物騒だ言われてた。核配備された三沢の米軍基地! 天ヶ森の核投下練習場! 六ヶ所の核燃料サイクル基地! 泊の自衛隊射撃場! 東通原発! 防衛庁の弾道試験場! ごてごて高カロリーに積み上げて、メガ・マックならぬメガ・ヌークだった。そこへ米軍機が墜落したんだ。三沢基地を四機編成で飛び立った戦闘機が、爆撃訓練を終えて、いざ帰還しようってときに大地震が起こった。目の前で地形がタイルパズルみたいにぐるんぐるん動きまわって、混乱したんでないかな? 基地だと思って飛び込んだとこが、同じ基地でも核サイクル基地。とんだ基地違いだ! キチチガイ! キチチガイ! キチチガイ! 『帰ったどーっ!』と頭から突っ込んで、爆発炎上。日本じゅうからわんさとかき集められた核廃棄物が花火みたく飛び散った。前々からこの辺は墜落事故のメッカとして有名だったべ。あいつら、まるで墜落自殺するために三沢に来るようなもんだった。落ちる落ちる。宅地に落ちる。学校に落ちる。病院に落ちる。木の葉のように落ちる。核サイクル基地にいつ落ちたっておかしくなかったんだ。おまけにそのうち一基は北西へ、国家石油備蓄タンクに流れた。五十基の石油タンクのど真ん中にどんぴしゃり。あたり一帯、火の海だ。消防施設はあったけども、取ってつけたようなもので、こんな大災害には対応できない。火山にションベンひっかけるようなもんだ。もう手がつけられない。アメ公のB29がわいどの土地をまた火の海にしやがったんだ」

「B29って」砂原が笑う。「F16だべ。爆撃機じゃねえ」

「BがFでも爆撃機が洗濯機でも変わらねえ。高価な大量殺戮オモチャがまたまたわいどの生活を踏みにじった。石油タンクには、そいでも、おもしろいおまけがあった。自衛隊機が一機、どこからともなく飛んできて、アメ軍機が倒しそびれた石油タンクを次々なぎ倒して、見事スペアを取ったって話だ。うははははは! なんでも搭乗していた自衛隊員が六ヶ所の出身で、村をズタズタにした虚大怪発が憎らしくてならなかったとか。このまま何百年何千年、クソ忌々しいタンクが居座るよりも、いっそすべてご破算にしたほうが按配ええと思ったらしい。さもありなん。ってことで、国道二七九号線は封鎖された。あっぱれ、下北半島は本州から切り離されたわけだ」

切り離された? 「それじゃ救助は?」僕は尋ねた。「どこから来るんです? 海から、空から来るしかない」

「海は時化てる」四十代僕が答える。「おまけに津軽海峡側、太平洋岸で津波に見舞われなかった港はない。空からは来れるとして、下北には飛行場がないから、せいぜいヘリか。ヘリでどれだけの救助隊や物資が運べるか知らねけど」

下北半島は孤立したわけか?

「もう一度言いますが、本当のこととは思えませんね」

四十代僕が僕の言葉を伝えると、「まったくだ」「同感」とカルテットは口裏を合わせたように言う。「誰とは言わないが、ずいぶん変なことを言ってるやつがいる」「一つ一つは十分ありうることだけども、まさか全部が一緒に起こるなんてありえねべ」

僕はドノミチの顔を見る。未来から来たこの少年は正解を知っているはずだ。

「種明かしは勘弁」ドノミチは肩をすくめる。「だけど一つだけ言えるのは、あの311の大災害だって、起こる前は誰もそんなの信じなかったってことだよ。ほんの三分前に、これからマグニチュード9の大地震が来ますよ、大津波で沿岸が壊滅ですよ、絶対安全原発がレベル7で大事故りますよって警告しても、笑って相手にされなかったはず。だけど、311は現実に起こったんだ」

四十代僕がドノミチの言葉を伝えると、カルテットは黙り込んだ。「つまんねえことしゃべるな、おめの子孫はよ」と厚司は言って、ウォッカをあおる。「おじさんのささやかな夢を壊すんじゃねえよ。どれかひとつでも嘘だったらいがんべと思ってんのに」

確かめたかったことが一つあった。最初から疑問だったことだ。

「どうして恐山に向かってるんですか?」

カルテットは顔を見合わせた。輝男もまるで目が見えているかのように、ほかの三人に顔を向ける。

「どっかに逃げねばならなかったべ」四十代僕が答える。「地震が起きた。そら逃げろ。津波が来るぞ。そら逃げろ。もちろん、それだけだったら、ここまで来ることはねえ。原発に異常があるとは言われなかった。まずは有線放送、それからテレビ、ラジオで、『原発にはまったく問題ありません』と公式のアナウンスがあって、それで初めてヤバイと焦って逃げ出したんだ。『問題がある』と言い出したときは、もう手遅れってことだからな。逃げろ! 逃げろ! だがどこへ? 海に行くのは論外だ。港は壊滅し、海は荒れ、またいつ地震と津波が来ないとも限らない。陸沿いに青森・八戸方面に行くこともできね。下北の付け根は四万ヘクタールにわたる火の海プラス放射能の嵐で、下北は完全に閉ざされた。そして、セシウムストロンチウムネプツニウム、プルトニウム、アメリシウム、その名もきらびやかな放射性物質の大群が刻一刻と迫ってくる。少しでも高いとこ、遠いとこへ逃げようと思った。その結果がこれだ。北通りの人たちは津軽海峡に開いた大畑口から、東通りの人たちは陸奥湾に開いた田名部口から、西通りにいて田名部まで辿りつけない人たちは今はあまり使われない川内口から、恐山に向かったわけだ。下北の中心、下北のへそ、下北の心臓である恐山に」

恐山はそれほど高くない。亜硫酸ガスが噴出し、硫黄の流れる岩場の恐山は避難所として適切なものとは思えなかった。宿坊や食堂はあるにしても大人数には対応できないだろう。

「だな」僕の指摘に四十代僕は素直に同意する。「だども、ここに来るしかなかった。来るしかなかったと思った者がこれほどいたのは本当なんだ」

「もう近いんですか?」

「あと何百メートルかで田名部口と合流する。恐山では順番に避難民を受け入れていて、わいどはここで待たされてるんだ。恐山は正式に避難所に指定されるかもしれない。明日の朝には入れるだろう。みんなとも会える。敷香、此道、お母と。そしたら少しは気も楽になる」

ドノミチが僕の顔を見るので、僕はうなずく。潮時だ。砂原は船を漕ぎ出しているし、厚司は横になっている。

「そんじゃ今日はお開きってことで」ドノミチが言う。「朝また会いましょう。おやすみなさい」

僕も挨拶をしようと口を開いたところで、目の前が明るくはじけた。朝だ。外輪山と暗い森に縁取られた、宇曽利湖の静かな湖面が広がっている。空は曇ってはいたが、光量は十分ある。人声がして右手に目を転じると、まず目に入ったのは太鼓橋の迫り上がった上り面。その前の広場にも恐山に通じる道路にも、避難民があふれていた。まだ大半はテントやらマットレスやらに横たわり、あるいは赤ん坊をあやし、犬をからかい、家族でささやかな食事を取ったり、雑音だらけのラジオに群がったりしていたが、気の早い者はのろのろ走る乗用車や自転車に混じって、総門に向かって歩きだしている。服装は乱れ、髭も生えっぱなし、見るからにやつれてはいたが、それでも見た目よりは元気そうだ。とりあえず落ち着き場所があるということ、苦難をともにする仲間が大勢いるということ、そして朝が来たことが、力を与えているのだろう。

「太鼓橋!」僕の隣でドノミチが嬉しそうに叫ぶ。「恐山の宇曽利湖から唯一流れ出る川が三途の川。それが下ってご存知、僕らの小津川になる。その三途の川に架かっているのが太鼓橋。赤塗りの太鼓橋がこの時代は本当に赤いね! この橋を渡ることは、この世からあの世へ渡ることと象徴的に見なされたんだ。あはは!」

ドノミチがいきなり笑い出したのは、その太鼓橋をわざわざ渡っている人を見たからだった。被災し疲労困憊しているのに、すぐ隣りを平らな舗装道が走っているのに、大きく湾曲したこの橋をわざわざ歩いているわけだ。僕だって歩くだろう。恐山にはこの橋を渡って入山すると決まっているのだ。とは言え、橋の手前で立ちすくんでいる人たちが見える。「ホントだ! 聞いてたとおりだよ。渡れない人がいるじゃないか!」太鼓橋をにらみつけながら、一向に足を踏み出そうとしない人たちだった。三十代の女性、年配の男性、厳つい顔をした背広の男が青ざめ、震え、同行者がいくら促しても、「ダメだ!」「渡れない!」「絶対無理!」と首を振っている。「知ってるよ。この橋は善人には普通に広く見えるんだけど、罪深い人ほど細く見えるんだよね。糸みたいに細く細く見えて、どうしても渡れない。あれっ、そっちのご先祖さんはどうしたのかな」

四十代僕はドノミチの隣に立っていた。明るい光の下で見ると、思っていたほど僕の死んだ父には似ていない。かと言って、僕が順調に経年変化してこの顔になるかもわからない。一気に十歳も年を食ったように見えたが、昨夜は暗くてよく見えなかっただけか?

「おはようございます」僕はおずおずと挨拶をした。「もう恐山に行けるんですね。ほかのお三方は?」

「おはよう。砂原は先に恐山に行ったよ」四十代僕の声はしわがれている。「鼻血が止まらなくなって、一刻も早く医者に見せたいんで、厚司が連れてった。輝男はわいと残ったが、朝起きたら影も形もない。幽霊だったのかもしれない。そりゃミサイルをまともに食らったら、普通は生きてられないよな。最後に挨拶に来てくれたのかも。昔から義理堅いやつなんだ。うん、会えてよかったよ」

「輝男さんの魂に安らぎあれ」ドノミチが神妙に言う。「僕らは早く恐山に行こうよ。みんな、むこうで待ってんでしょ?」

「鬼だ。鬼が見てんだよ」四十代僕は妙なことを言って、背後を親指で示す。その方角に目をやるが、道路の向こうには木々が重なっているばかりで、なにも見えない。「鬼石があるのを知らないか? 真っ赤な憤怒の形相で、太鼓橋を渡る亡者をにらみつけてんだ」。その岩のことは聞いたことがあるが、奥まったところにあるのか、見つけることはできない。もちろん鬼の姿などない。

「昨日の話」とドノミチ。「事故った原発のくだりで、言わなかったことがあるよね。話しといたほうがいいんじゃない?」

「わざと言わなかったわけじゃない。タイミングを逸したんだ。小津川原発は津波でそれなりの損傷を受けたが、定検中だったから原子炉自体に異状はなかった」

小津川原発?

「オクミチハウスは解体した」四十代僕はちらりと僕の顔をのぞく。「土地は結構な額で売れたぞ。あそこは文字通り最後に残った一ピースだったからな。かれこれ十年も前になるか。原発が完成したのは五年前。改良に次ぐ改良を経た、小型で高性能の溶融塩原子炉『FUJIMI』。マガシマ原発はあの311の時点ですでに時代遅れのどうしようもない骨董品だったが、小津川原発はモノが違う。世界で最も安全な次世代型の原発として軒並み高い評価を得てる。過去に頻発した事故をしっかり教訓として、この完全無欠と言っていい原発が完成したんだ。東通だの大間だの旧世代のガラクタと一緒にされちゃ困る。あっちはもう二十年以上使い倒して息も絶え絶えだった。大昔のお粗末な技術の産物だし、設計ミス、データ改竄、手抜き工事もてんこ盛り。動いているのがおかしいくらいの代物だった」

「それじゃ、どうしてそんなにあわてて逃げてきたの?」

「別に逃げちゃいない。変な言いがかりつけるな。わいどは小津川の原発から逃げてるわけじゃない。東通、大間、六ヶ所から放出される放射能から逃げてるんだ。小津川のこは無視していい」

「そこで働いてることは言わないの?」

なんだって?

「今言おうと思ってたとこだ。しかたねえべ? ほかに勤め先なんかないんだし。別にあそこで働いているから擁護してるわけじゃないぞ。掛け値なしの客観的な事実を言ってるだけだ。そう、この世界一安全なFUJIMI式の原発だったからこそ、心置きなくオクミチハウスを手放せたとも言える。嘘は一つも言っていない」

「現場にいなくていいんですか?」僕は尋ねた。この未来の僕が現場放棄をしたのじゃないかと危惧したのだ。たとえ原子炉が安全だとしても、地震や津波の被害に遭ったのなら人手はいくらあっても足りないはずだ。

「そこは紙一重だった。とどまるのと逃げるのと。小津川原発で働いちゃいるが、正社員じゃないし、年がら年中仕事があるわけでもない。人はあり余っていて、一週間働いて一ヶ月待機、三日働いて三ヶ月休暇と不定期もいいとこ。その仕事にしたって、いきなりどっかの穴蔵なり小部屋なりに連れていかれて、自分がなにをしているのかもわからないで、ネジを締めたり床磨いたり埃まみれになったり転げまわったり。そんな一介の半労働者があの偉大な原発様にどれだけの責任を持てばいい? むこうはこっちなんぞ歯牙にもかけてないってのに? それでも一度は引き返した。仲間が頑張っているだろうと思って。けど、泡食って恐山に向かう人たちに巻き込まれて、そのうち輝男が空から落ちてきた。担架作って恐山に運んでる最中に、厚司、砂原と出くわして、なんだかんだでここに辿り着いたわけだ。わいを無責任だ卑怯者だ言うのは簡単だ。けど、現場にいなきゃわからない成り行きってもんがあるんだ。こんな橋なんか渡れるべ。糸みたく細いわけじゃねえ。ただ足を踏み外しそうなだけだ。平均台は割と得意だったし。両手をこう、水平に広げて、無心の境地で前だけを見て」

しかし、やっぱり進めない。歯を食いしばり、脂汗を流し、足を踏み入れようとするのだが、一歩も進めない。

ドノミチがもの問いたげな視線を向けてくる。僕らは元の納屋に戻っていた。小津川のせせらぎがかすかに聞こえ、この上流、小津川の始点で四十代の僕は今なお立ちすくんでいるのかと思ったが、事が起こるのは先の話だ。三十年も先の話だ。

「滅茶苦茶だ」僕はつぶやいた。「原発に反対してきたんじゃないの? なのに土地を手放して、その原発で働いてるなんて! おまけに原発の悪口をさんざん並べて、だけど小津川原発だけは安全だって、どういう神経? そこで働いているくせして、関係ないって態度だし。それに敷香と母さんと息子と、自分の家族を守ることもできない。同窓会みたいに酔っ払ってグダグダ馬鹿話してただけだ。最低だ! あんな大人にだけはなりたくない」

「ずいぶんな言いよう」ドノミチが微笑む。「このままだと、三十年後、橋の前で立ちすくむのはご先祖さんになってるんだよ」

「ならない! ならない!」

アハッ! ドノミチは破顔して、景色は再び一変した。

そこは霊場恐山の敷地内。焼けただれた溶岩の丘から菩提寺や境内が見渡せる。いたるところに小石の山があり、噴出口から硫黄ガスが噴き出ている。卵の腐ったような硫黄の匂いが今にも鼻をつきそうだった。目を転じると、そこには目にも鮮やかな白砂が広がり、宇曽利湖につながっている。今その宇曽利湖にむかって四十代僕がしゃがみこみ、傍らには僧衣をまとった僧侶が一人立っていた。「もう来ないかと思った」四十代僕が驚いている。「会えて嬉しい。いやホントに」

「その後のことを知りたいんだけど」挨拶も抜きでドノミチが言う。「昔のあなたに説明してくれないかな」

「こいつ」と言って、四十代僕は立っている僧侶を指差す。「誰かわかるか?」

「オクミチ、誰と話してる?」僧侶は訝しんでいる。禿頭で痩身、やや険しい形相をしている。四十代僕は過去の自分と未来の子孫がお手々をつないで訪ねてきたのだと教えて、「見えねのか? 厳しい修行を何年も重ねて悟りを開いたんじゃなかったか?」とからかった。

仏教者は霊能者とは違う」僧侶は単純に事実を述べる。「そちらはイタコさんの仕事だよ」

「北見だ。高校を出たあと出家したんだ」四十代僕が意外なことを言う。キタミ! あの引きこもっていた北見なのか。出家したとは。僧侶とは。「世の中わからないもんだ。恐山菩提寺の院代として何年か前からここに来てる。本を出したりブログ書いたりして今じゃすっかり有名人だ」

たしかにこの険しい顔つきには昔の北見の面影がある。

「からかうのはよせ。時間がない。そろそろ真面目になってくれよ。過去のオクミチくん、未来の子孫くんにも頼もうか」北見は見えない僕らの方に顔を向けるが、残念、位置がずれている。「下北半島全土に退避勧告が出た。大湊から船が出る。そいつに乗って脱出しろと言ってるのに、こいつはそれを聞こうとしない」

退避勧告!「被害がそんなに拡大したんですか?」

「恐山で多いときは線量が5マイクロシーベルトあった」と四十代僕。「今はもう怖くて測っちゃいないけどな。いや、測ってるんだが、寺で公表していないだけか? 公表して危機感を煽ったほうがいいんじゃないか? 真っ先に逃げて手本を見せたらどうだ、北見?」

「動けない人がいて、動かない人がいる。おまえは動けるじゃないか。俺はここに一人でもいる限り降りるつもりはない。また来る。説得しなくちゃならないジョッパリがまだごまんといるんだよ。オクミチくん、ドノミチくん」そう言って、今度はまっすぐ僕と目を合わせてきた。ようやく照準が合ったようだ。「君たちからもよろしく言ってくれよ。命は粗末にしていいもんじゃない」

院代の北見はそう言って、溶岩の山を降りていく。北見は四十代僕の身を案じているのだ。

「歩きながら話すか」四十代僕はすっくと立ち上がって歩き始めた。今さら見るまでもない景色ではある。焼けただれた溶岩の起伏の中、踏み固められた細い道を歩けば、右に左に付き添うは積み重なった無数の小石、くるくる回る風車、小さな地蔵、お賽銭、突如噴き出る亜硫酸ガス、硫黄の黄色い流れ。そのお馴染みの光景は、この未来、三十年未来にもまるで変わるところがない。僕が恐山を訪れたのは三度ほどにすぎないが、一度見ただけで忘れない。この景色はひとつのマスター・デザインとして脳裏に刻み込まれ、ひとつの原風景としていつでも思い出せるのだ。

四十代僕が道々話したのは以下の通りだった。大鮪原発はテロリストの手によって意図的に水蒸気爆発が引き起こされ、その後に続いた豪雨の影響もあって、放射性物質は半径三十キロにわたって拡散した。大鮪市はもちろん、おむつ市の大部分は警戒区域に指定され、東通原発と六ヶ所核サイクル基地の事故による警戒区域と重ねあわせれば、下北半島はほぼ全域が警戒区域の対象となった。全住民が退避を命じられたのだ。

かねてから大鮪原発に激しく抗議していた対岸の函館は避難区域に指定され、住民が自主的に避難する中、ネットの動画共有サイトに突如、一本の動画が投稿された。覆面をかぶった四人組のバンドが切々としたバラードを奏で始めるのだが、それはとある有名バンドの比較的マイナーな曲のパロディだった。「汚されて汚されて 汚れ染まる頃 電力だけが知っていた むごたらしい離別を」「電気が灯っても 夢は壊れていた」。そのバンドは「DEATH GRAY」と名乗り、メンバーはそれぞれ「テルル」「ストロ」「セシ」「ジル」と放射性元素を思わせる名札を首にぶら下げていたが、それは明らかに函館出身の往年の国民的ロックバンドに間違いなかった。社会派的な主張とは無縁だったビジュアル系バンドによるこのセルフカバーは、彼らの怒りと悲しみがどれほどのものであったかを示して余りあった。「『死の灰』は正式には別の単語なんだろうが、こっちのほうが連想ゲーム的にわかりやすい。日本人にとっては」四十代僕が補足する。「すごかった。メンバーは全員が六十の坂を下って、演奏もままならないんだ。弦の上で指は滑り、リズムはバケツみたいにドタバタ、歌唱はあふれんばかりの思いが高音域の彼方へ突き抜けて、聞き取りは事実上不可能だった。メンバーもそれはわかってたんだろうな。しっかりとスーパーを入れて、意味を取り違えないよう配慮してた」

恐山ではガイガーカウンターの値が跳ね上がり、避難民は温泉に殺到した。かねてより万病に効くとされていた、硫黄性のぬるぬる泉質が放射能にも効果があるという噂が流れたのだ。体にこびりついたセシウム、キセノン、ストロンチウム、プルトニウムを洗い流そうと、敷地内の五つの温泉小屋へ我も我もと詰めかけた。外で待っているときからすでに衣類を脱ぎ捨てて、建屋の狭い入口から無理やり体をこじ入れ、十人も入ればいっぱいになる湯船に五十人が押し合い圧し合いし、掻き出されるお湯に注ぎ込まれるお湯が追いつかない。妙齢の女性も人目をはばからず裸で飛び込むが、それはもはやエロティックでもなんでもない。ひたすら浅ましいだけだ。さながら恐山に新たな地獄が現れたかと思うほどだった。この騒ぎが落ち着いたのは子供が一人、圧死したせいだ。「目を覚ませ!」一喝したのは院代の北見だった。「おのれを見よ! 恥じよ! 詫びよ! 死んだ子と母親に詫びよ!」

おむつ市から救援物資を積んでくるはずのトラックは、運転手が急病になっただの、ガソリンの都合がつかないだので再三遅れ、結局やって来なかった。このとき、恐山に避難していた数千人は、恐山がもはや避難場所でなくなったことを悟ったのだ。その後、ヘリが救援物資を運んできたが、投下場所を探しあぐねたのか、あろうことか宇曽利湖に投じた。小舟を漕いで取りに行かなくてはならなかったが、その間にも何個かが水中に没する有様だった。「宇曽利湖の湖面が破られたとき、悲鳴があがった」四十代僕の声は怒りが滲んでいた。「喜びの悲鳴じゃなかった。土足で踏みにじられたような感じだった。ハート型の宇曽利湖は下北の心臓。シモキタ・ハート? それには今後別の意味が出てくるのかも知れないけどな。チェルノブイリ・ハート。マガシマ・ハート」

震災による被害が少なかった大湊港に救助船が着岸するという知らせを受けて、避難民は先を争って下山を始めた。出発時刻にはまだ余裕があったが、乗員数が限られているとか、この救助船が最初で最後の救助船になるとか、さまざまな噂が乱れ飛んで、みんな置き去りになるのを恐れたのだ。雨は間歇的に降ったりやんだりを繰り返し、好条件とはいかなかったが、とにかく下りるのが先決だった。

「厚司も下りた」四十代僕は言う。「けど、やつは逃げるために下りたんじゃない。六ヶ所に戻ったんだ。『ちょっと休暇を取り過ぎた』『そろそろ戻らないと』『墓掘りぐらいできるだろ』なんて言って。ホンズナシだ。あいつはホントに正真正銘のホンズナシだ」

「砂原は死んだ」四十代僕は続ける。「血が止まらなくて止まらなくて、一人でブルブル震えてた。流れる自分の鼻血を惜しんで舐めては、『まじい。まじいよ、オクミチ』と泣き笑いしてた。死ぬときは自分の家で死にたいとほざくんで、大丈夫、自分の鼻血を舐めて喜んでいるようなやつは長生きすると保証してやった。『まだ死ねない。嫁ももらってないし』って言うから、まだ大丈夫だと思ったんだ。ふと目を離したすきにいなくなったが、それほど遠くに行っちゃいなかった。太鼓橋を越えて宿屋のあたり、例の鬼石が頭上から赤くにらみつけている路上に倒れてた」

そして、恐山には一握りの人が残された。残された? いや、みんな自発的に残った人たちだ。老人、怪我人、病人、独り者。いくら降りるよう促されても、頑として首を振らなかった人たちだった。四十代僕が足を運ぶ先々にその人たちの姿が見える。ぼんやり景色を眺めていたり、歌を口ずさんでいたり、座禅を組んだり、思い思いに過ごしている。不思議に見覚えのある人たちだった。大畑の、あるいは田名部の町を歩けば、道端ですれ違い、バス停で同じ列に並び、店頭で言葉を交わした、そんな顔たちばかりだ。

どうしても知りたいことがあったが、それを口にする機会がなかった。ドノミチと視線を合わせて、その意図を無言で伝えたが、ドノミチもやはり無言で微笑むだけだ。僕が口に出して問わなかった質問に対して、しかし四十代僕はようやく答える。再び極楽浜に出て、波打ち際まで白沙を踏みしめ歩いたときだ。「此道は死んだ。敷香は死んだ」と簡潔に言う。「わいが殺したも同然だ。わいはもう生きていてもしょうがねんだ」

温泉に入ろうとして圧死した子供が此道だという。敷香は半狂乱になって、雨で増水した三途の川に身を投げた。遺体ははるか小津川の下流、河口に近いあたりで見つかった。小津川原発で収束作業にあたっている同僚から連絡が入ったらしい。そこには敷香の従兄弟がいて、葬儀次第はすべて自分たちで取り仕切るから、四十代僕は一切手を煩わす必要はないとのことだ。

此道の死が敷香の落ち度なのかどうか僕には判断できなかった。恐山の温泉が放射能を洗い流すなど、愚かな話だと切り捨てるのは簡単だったが、そこに一縷の望みがあるならだれでもすがろうとするだろう。母親なのだ。四十代僕がそこにいたら事故を防げたかどうかもわからない。僕は未来の僕を見ることができなかった。浜辺に沿って目を泳がせると、熱心に小石を積んでいる者が見えた。あちこちから拾い集めてきたらしいたくさんの小石を傍らに置いて、砂地にぺたりと座り込んで、一個一個丁寧に積んでいる。ずいぶん小さな背中だった。

「ここで死ぬつもりなんですか」僕はついに口にした。

「死ぬにはいいところだ」四十代僕がびっくりするほど晴れやかに言う。「死んだらどうせ恐山に来なくちゃいけないんだ。いちいちえっちらおっちら山をのぼる手間が省ける。わいどは正式に救助拒否を表明したんだ。俺たちのことはほっといてくれ、と。もう誰も恨まない。ただ、そっとしといてくれと」

子供! 恐ろしいことに気がついた。小石を積み上げているのは年端も行かない男の子ではないか。せいぜいが小学校の低学年か。「子供は下ろさなくちゃダメでしょ! どうしてここにいるんですか!」

「子供?」四十代僕は訝っている。あたりを見渡し、男の子のいる場所を見ても、男の子を認識している様子はない。

「これはエクトストリーム技術だよ」ドノミチが口を挟む。「僕らはそのカメラ越しに見ているから、僕らと親和性の高い霊が見える。あれは死んだ此道くんだ」

「此道? 此道がどうしたって?」四十代僕がうろたえる。

「だれ?」此道が僕とドノミチに気づいたようだ。その顔。だれに似ているかといえば、ドノミチに最も似ている。ドノミチの弟だと言っても通るくらいだ。

「仲間みたいなものかな」ドノミチが答える。「知ってるよ。これは回向っていうんだよね。生きている人のために祈ってるんだね」

「父さんが生きてるから。早く死んでごめんなさいって石積んでんだ。積めば積むだけ、父さんのためになるんだよ。そう聞いた」

ドノミチは四十代僕に、死んだ此道の発言を繰り返した。このバカが!

四十代僕は絶叫しながら宇曽利湖に駆けていく。

オクミチ! オクミチ! 遠くから北見の声が響き渡る。「どこ行く! やめろ! 早まるな!」

そして、僕らは暗闇に落ちた。

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