Hatena::ブログ(Diary)

原発 恐山 未来

5.にぎにぎしい未来

「恐山のうんちく言うのを忘れた!」納屋の暗闇でドノミチが素っ頓狂な声を上げる。「語源はもちろんアイヌ語で、『ウソㇿ』。『入り江』『湾』って意味があって、これはハートの湖、宇曽利湖のことを言ってるみたい。それでその辺一帯が『ウソリ山』って呼ばれるようになったんだけど、それに『恐山』って当て字したのはすごいよね。天才だ。これが宇曽利山のままだったら、永遠にブレイクできなかったところだ」

「おまえが殺したんだ!」僕はドノミチを責めた。「此道のことを言わなければ、あの人が自殺することはなかった」あの人とはもちろんあの僕、四十代の僕のことだ。

「死んだと決まったわけじゃない。素面で水に入って、そう簡単に死ねるもんじゃないでしょ?」

「此道は死んだ。敷香は死んだ。そして誰もいなくなった。どうなってんだよ。未来は閉ざされちゃったのか」

「困ったね」

「なにが困っただ、嘘つきめ! 子孫は途絶えたんだぞ。だったら君がここにいるわけない。パッと消えてしまわなくちゃおかしいじゃないか。なんで君はここにいるんだ?」

「さあ」ドノミチはあっけらかんと答える。「僕だってなにもかも把握してるわけじゃない。しょせんは夏休みの宿題でうんうん言ってる小学生にすぎないもの。つけようと思えば説明はつけられるよ。過去が改変されたとしても、影響がすぐに現れるとは限らないとか。あるいは子供は此道くんだけじゃなかったのかも。別の息子がいたのかも。娘かもしれないけど」

そう言えば。極楽浜で石を積んでいた此道はドノミチよりも幼かった。四十代僕が五十も間近だったとしたら、四十のころに設けた子供ということになる。その前に一人か二人、子供がいたっておかしくない。しかし。

「だとしたら教えてくれたはず」

「二度目の結婚だったかもしれないよ。一度目の結婚のときに作った子供は前の奥さんのところにいて、だから、あえて言わなかったのかも」

その可能性がないとは言えないにしても、手がかりがなさすぎる。納得できるわけがない。「今から行って調べられないのか?」

「意味ないよ。未来は確定されていないんだ。前の奥さんが誰とわかったとして、それがなんになるの? ご先祖さんがこれからどんな人生を歩むかで、未来はどうにでも変わるんだ」

「結局なにもわからないってことか! なにひとつハッキリしない」

「だけど、それが普通なんじゃないの? ハッキリしないってことが。世の中ハッキリ割り切れることのほうが少ないはず」

「だけど、君はハッキリしてもらいたいんじゃないの? オクミチハウスの誕生を聞きつけて、君は時空を超えてきた。オクミチハウスの動向が気になるんだろ? どうもわからなくなってきた。オクミチハウスを守ろうが手放そうが、なにも変わらないんだから。オクミチハウスの上に建てられた原発が仮に無事だったとしても、大間、東通、六ヶ所で重大事故が重なったら、結果は同じだ。下北の壊滅は避けられない」

「鈍いね、ご先祖さん」ドノミチは焦れたように言う。「要はオクミチハウスを手放す手放さない以上のことが必要ってことだよ」

「以上の?」僕は訝った。「下北から原子力を追い出せってことか? 無理だろ。手に余る。誰の手にも余る。どこにも行き場がなくなったからこそ、放射能クソは下北に来た。下北が僻地も僻地、文化果つる地、お上のお達しならなんでも『へへーっ!』とありがたがる奴隷地だからこそ、この悪臭紛々たるクソが投げ込まれたんだ」

「だから、なにもご先祖さんが独力でどうこうできるなんて思ってやしないよ」

「力を合わせろってことか。だよな。大多数が『あっち行け』『出てけ』って声をあげたら、原発ごとき追い出せるはず。結局はそういうことになるのか」

「具体的なことはまかせるよ。僕は傍観者にすぎないからね」

「どうもわからない」僕はドノミチに疑いの目を向ける。「君は単に判断材料を提供しているだけって顔して澄ましてるけど、ホントに? なにかシナリオがあるんじゃないのか? 特定の方向に導こうとしてるんじゃ?」

「勘繰り過ぎだよ。僕はご先祖さんが選んだ道を忠実になぞっているだけだ。大学卒業間際のご先祖さんが就職が決まらなくて悩んでいたことは事実だし、原発を退けたことで苦境に陥ったご先祖さんがいっそ原発に来てもらいたかったと願ったことも事実。恐山で死を待つご先祖さんが、自分の土地に建設された原発で働きながら、原発を呪い続けたのも事実。タイミングを図りはしたけど、ヤラセはなかったよ。僕は夏休みの宿題をきちんと片付けたいだけだ。これ以上付き合いきれないって言うんなら、無理じいはしないけど」

「いいよ。最後まで付き合ってやる。今度は五十代なのか?」あそこで死ななかった僕。「そういう未来があるんだろ?」

ドノミチはうなずく。心なしかホッとしたような顔だ。

「でも、それはどういう選択でそうなるんだろう?」

「それは蓋を開けてのお楽しみ。開けるよ、ポン!」

    *

一転、あたりは眩しかった。柔らかい白光に満たされた広い室内に、男が一人座っている。バスローブのようなゆったりした白い衣服に身を包み、座り心地のよさそうな肘掛け椅子に深々と身を沈めている。足は裸足。床はリノリューム風の滑らかな素材で、鈍い光沢を放って、塵ひとつ落ちていない。「やあ」愛想よく挨拶してくるその顔は、一瞬自分の顔とわからなかった。スキンヘッドにしようと思ったことはなかったし、室内でミラー・グラスをかけるセンスもわからない。そのミラーに僕らは映っていなかった。僕らは幽霊としてそこに立っているのだ。

「懐かしいなあ! 高校生か。わかるよ。いろいろ悩んでいたときだ。勉強に、恋に、友人関係に。未来になにひとつ明るい展望がなくて、心は深い絶望の淵を彷徨い、いっそ死んでしまえとさえ思いつめていた、そんな暗黒時代だった!」

大げさな。僕はそれほど思いつめたおぼえはない。未来のこのスキンヘッドの僕は、かつての自分をそういうふうにとらえているのか。記憶の上ではそうなっているのか。顔にうっすらと化粧が施されているのが見て取れた。しかし、その下で皮膚はたるみ、皺が寄り、五十代から六十代に近いことがわかる。

「なにをしようにもどこに行こうにも、原発、核廃棄物、放射能が重くのしかかっていた。この害毒複合体がのさばっているかぎり、明日に希望など持てるわけがなかった。下北は、日本は、世界は破滅の道へまっしぐらだった」

先の原発事故を見るかぎり、僕の気分はたしかにそれに近いものはあった。

「だが、安心しろ。すべて解決した!」五十代僕は力強く言い切る。「君は思い悩む必要なんかこれっぽっちもなかったんだ。技術の進歩は素晴らしい。人間の能力は限りない。君の時代には到底不可能と思えたことがいともやすやすと実現したのさ。溜まり続ける一方の死の灰、十万年も管理し続けなくちゃいけないという、笑っちゃうほど不条理な状況にあった放射性廃棄物の問題が全面解決しだ。放射能を封じ込める簡単で安上がりな技術が開発されてね。素粒子レベルのネバネバ膜で放射性核種を包み込み、外に放射線を逃さないのさ。霧吹きスプレーでシュッと一吹き、あるいは雑巾でサッと一拭き、たったそれだけ! 携帯型はその辺のコンビニでも買えるし、ヘクタール規模の広域を除染するためのトラクターも活躍している。今じゃもう放射能で汚染された土地なんか存在しないよ。チェルノブイリは豊穣な穀倉地帯となって蘇り、スリーマイル島は風光明媚なリゾート地としてにぎわっている。マガシマの上には福々しいフクシマが上書きされて、県民は残らず戻ってきた。今では大福島と呼ばれ、大福餅が新たな名産品になっているとか。地球はかつてないほどクリーンになったんだ!」

えええっ! 僕は心底驚いた。「すぐには信じられないですが」

「だろうね。未来の技術を予想することには限界がある。思いがけない飛躍といったものを考慮できないからだ。どうして考慮できないかというと、それがまさに思いがけないことだからさ。あはははは!」

屁理屈じみた言い方だが、言いたいことはわかる。それにしても。

「すごいじゃないですか! 放射能を除染できたなんて。それが最大の問題だったんですから。それじゃ原発は今もあるんですか? 放射能が無効化できるなら、原発もそんなに危険なもんじゃない」

「君が知っているような原発はもう一基も稼動していないよ」五十代僕は余裕しゃくしゃくで答える。「かつての原子力発電というものは、核分裂の莫大なエネルギーでただお湯を沸かすだけという、なんともお寒い技術だった。そのくせ金だけはべらぼうにかかった。危険な放射能を封じこめるために厳重な壁が必要だったからね。分厚い鎧にお寒い脳。まるで恐竜だ! ここでも飛躍的な技術革新が実現し、ウランの核分裂から直接エネルギーを取り出せるスーパー技術が開発された。エネルギーの変換はごくコンパクトな装置で実現できて、今では広く一般家庭まで普及した。人類は事実上、無尽蔵のエネルギーを手に入れたんだ。未来永劫、エネルギーの心配はなくなった! そりゃ紆余曲折はあった。手痛い失敗を繰り返し、取り返しの付かない事故に見舞われて、おびただしい犠牲を強いられた。だが、そのすべてが最終的に報われたんだ。五十を越し、人生の折り返し地点を過ぎて、こんなバラ色の未来が待ってたなんてね! ああ、めでたい!」

そのスキンヘッドの顔は肯定感に満ちあふれていた。その顔を取り巻くあらゆるものが、祝福の光を投げかけていたのだ。電灯、電球の類は見当たらず、壁、床、天井が内部からじんわり光っている。背後の壁は右手で大きく開けて、奥をのぞくことができたが、ドアも仕切りも段差もなしに連なる部屋また部屋も光の洪水。いたるところが柔らかい白光に満たされ、机の下にも棚の脇にも一切の影がなかった。

さらに奥をのぞきこもうとしたところで、ズシン、と腹に響くような地鳴りがあった。壁、椅子、棚がプルプル揺れる。地震の記憶がいまだ生々しかったので、思わず身構えたが、すぐに収まる。

奥の部屋からとっとこ歩いてきたのは小さかった。身長は五十センチほど。丸い盆に山盛りのカプセルとコップを載せて、五十代僕の前に差し出した。「お薬です」男の子の声だが、電気で合成されたものだ。

「ありがとう」五十代僕は言って、一ダースものカプセルをまとめて口の中に放り込むと、コップの水で飲み込んだ。「過去と未来のお客さんが来てるんだ。挨拶しなさい」

こちらを振り返ったその顔はまん丸く、シルクハットのような小粋な帽子をかぶり、手足が不釣り合いに細い。そしてシャツの胸には「5」の数字。どこかで見たことがあるような。「僕、いっぱい君! よろしくね」

ロボットですか?」

「そうだよ!」いっぱい君は自分で答える。「スーパーコンパクト原子炉、通称スパコン炉のおかげで半永久的に動けるのさ。前の勤め先をクビになったところを、オクミチ様に拾われた。今はご主人様の忠実な召使として日夜一所懸命働いてんだ!」

「お注射です」再び奥からやってきたのは、おかっぱ頭にリボンを載せた、まったく同じ顔をした女の子だった。右手に注射器を構えていて、とっとこ近づいて来るや、いきなり五十代僕の腕に突き刺した。透明な液体を一気に注入する。

「痛くはないんだ」五十代僕が説明する。「針がすごく細くてね、おまけに強力な空気圧であっという間に注入できてしまう。挨拶なさい」

「私、マリちゃん!」おかっぱ頭の女の子ロボットは電子声で快活に言う。「オクミチ様の健康管理が仕事なの。昔は広告塔を務めてた。ホームページとかパンフレットとかでニコニコしてるだけの簡単なお仕事だったけど、あれが意外とつらかった。糞詰まりでふうふう苦しんでるのに、笑顔を絶やしちゃいけなかったんだもの」

そこへ、ワンワン吠えながら駆けてきた犬もロボットに違いない。だが、激しく尻尾を振りながら尻からボロボロ落ちるものは糞ではないか。いっぱい君とマリちゃんの間を嬉しそうに駆けずりまわったあと、片足を上げてマリちゃんに小便を引っ掛けた。

「私もしよっと!」そう言って、マリちゃんは立ったまま排便を始める。スカートの下から足下へ、ウサギの糞のようにコロコロしたものが落ちてくる。「快感! 今はこうやって心置きなくウンチもオシッコも垂れ流すことができるのよ」

思い出した。このトリオは。「マスコットキャラクターだ。六ヶ所村の核PR施設の」

「正確に言えば、そのスペアなんだ」と五十代僕。「六ヶ所村のげんき君、リサイクルのリサちゃん、その二人のペットである犬のロク。その三者になにかあったときのために用意されていたトリオだ。ちなみにこの大小便はデモ用だよ。現状では廃棄物はそんなに出るわけじゃないが、どんどん出しても大丈夫だってアピールするためのものだ」

「げんき君はある日突然、元気でなくなったの」いっぱい君がにこやかに言う。「だから僕が代わりに働くことになった。二人合わせて『げんきいっぱい』だったのにね。僕一人だと、なにが『いっぱい』なのかわかんないよ! ホントはわかってるんだけどね。みんな、わかってたんだけどね」

「リサちゃんはリサイクルに情熱を燃やしてたの」マリちゃんがにこやかに言う。「だけど、なにをやってもうまくいかなくて、穴があったら入りたいほど恥じ入ってた。だもんで、穴に入っちゃったんだな。放射能ゴミと一緒に生き埋めになった。私は糞詰まりのマリちゃん! きっと私のほうが実情に近かったのね」

ワンワンワン! ロボット犬が電子声で吠えると、「犬のロクは処分された」と五十代僕が解説する。「いなくなったご主人様を探して、いたるところで穴を掘りまくっては放射能を拡散させてたからね。ここ掘れワンワンで、ザックザック出てくるのが大判小判ならぬ放射線バンバンじゃ洒落にならなかった。代わりにゴー。これも実情に合わせた形だ。六つの村が集まった六ヶ所村は、核サイクル基地に一つ潰されて、事実上五ヶ所村になってたからね」

五ヶ所村のいっぱい君、糞詰まりのマリちゃん、犬のゴー。「五」から始まり「ゴ」に終わる。元ネタの「六」と「ロク」がそもそも閉じたサイクルを作っていたのだ。

床には今、たくさんの小人が群がっていた。背丈は十センチ。手に手に箒や塵取り、雑巾、洗剤、霧吹き、ビニール袋を持ち、たがいに協力し合いながら、ゴーやマリちゃんの大小便を片付けているのだ。これも見たことがある。「東通原発のキャラクターだ。PR施設にたくさんいた。たしかトントウ」

「正確にはトントゥ」五十代僕が口をとがらせて発音する。「フィンランドの森の妖精を、東通をトウツウと訓読みすることで無理くり関連付けた。自然と共生する妖精を引っ張り込んで、原子力のエコであることをアピールしたんだ。よくある話だ」

「初代のトントゥは死に絶えた」あごひげの生えた小人が一人、僕の前に立っていた。「代わりに私らが作られたが、二代目だからトン2と名乗ってる。小さいからって甘く見てもらっちゃ困る。私らの中には高性能なスパコンロが埋め込まれていて、でっかいやつらのやることなら大抵できる。このアトミックワールドがこんなにきれいなのも私らのおかげなんだ」

「そうさ、なんでもやってくれる。掃除、洗濯、点検、修理。最高のハウスキーパーだよ。いてっ!」

トン2が一人、いつのまにか五十代僕の顔に這い上がって、鼻から鼻毛を引っこ抜いたのだ。「潔癖症なのが玉に瑕でね、ちょっとでも汚れたところがあると、これだ。我慢できないらしい」そう言っているそばにも、足の指に別のトン2が張り付いて、自身の体の半分ほどもある爪切りで爪を切ろうとしている。「このくらい伸びてもなんてことないんだが、これがどうしようもない汚点に見えてしまうんだろうな。こいつらはクリーンな環境を維持するために、自然を矯正するのが習い性になってるのさ。いてっ! やめろ、ナイフを突き立てるな! それはホクロだって何度言ったらわかるんだ?」

五十代僕は、ナイフで腕のホクロをえぐりとろうとしていたトン2を振り払った。床に飛び散った血はすぐさまトン2によって拭き取られ、腕の刺し傷にもトン2が絆創膏を貼ろうとするが、「それは私の仕事でしょ!」とマリちゃんが割って入る。「そうだ、マリちゃんの仕事を奪うな!」といっぱい君が加勢すると、犬のゴーが興奮してワンワン! 吠えながら糞をボロボロ落とす。「いてっ! もういい! 深爪はするな!」足指の爪をトン2たちはまだ切っていたのだ。

ズシン! そのとき強い衝撃が室内を貫き、五十代僕は椅子ごと床を投げ出された。その衝撃は、ここを訪れた当初から感じていたものだ。五十代僕が話している間、思い出したように床や壁が揺れ、それが次第に威力を増していることに気づいていた。その特大版がついに来たのだ。

「あ〜そ〜ぼっ!」破鐘のような声がして、振り返ると、壁に開いた大きな出入口が巨大な顔で塞がっていた。太い眉の下のどんぐり眼、団子鼻、口髭、それらが横倒しになっている。その下にはおそらく巨大な口があるのだろう。巨大な体があるのだろう。

「大丈夫、こわくない」背後で五十代僕が言う。見ると、いっぱい君とマリちゃんに支えられて、なんとか椅子に這いずり上がろうとしているところだ。どうやら足が不自由らしい。

「ジャンボMOXだ」ようやく椅子に落ち着いて説明を始める。「大鮪原発のキャラクターでね、ウランとプルトニウムを混ぜたMOX燃料を用いるってことで、こんなデザインになったんだが、なにせこの図体だろ? できた時点ですでに時代遅れの木偶の坊だったという、かわいそうなやつさ」

いっぱい君とマリちゃんにむけて、「行っといで」とつぶやく。「僕もこれから出かけるから」

顔が退いた出入口の向こうには舗装された滑らかな道路と平地が見えた。五ヶ所村トリオはそこから外に飛び出して、重々しく遠ざかる足音を追って見えなくなる。「これからマラソン大会が始まる。みんなエネルギーが満ち溢れてしまってるからね、暇さえあれば走りまわってエネルギーを浪費してるんだ」

浪費? 「電気が余ってるんですか? どうして? うまく活用すればいいのに」

「まったくだ。せっかくの電気。ありあまる電気。なのに連中は!」五十代僕は忌々しそうに吐き捨てるが、それ以上の説明はなかった。

「町を案内しよう」

椅子は滑るように動き始めた。そのまま玄関から外に突き抜けて、この自動椅子が車輪によらず、ホバークラフトのように風圧を利用していることがわかった。僕とドノミチは目配せしあって後を追う。明るい午後の陽光の下には、起伏に乏しい平坦な土地が広がっていた。目の前の道路は十車線もありそうで、両脇に設けられた歩道がまたテニスができそうなくらい広い。巨大な建物があちらこちらに散在し、それはときに円筒形、ときに釣鐘状、ときに鉄屑を組み合わせたような奇抜なものだ。

五十代僕に促されて振り返ると、僕らが出てきたばかりの建物が見えた。平屋建ての白い外観で、壁はガラスのようにつるつるしている。相当大きい。横幅はちょっとした体育館ほどもありそうだし、当然奥行きもあるのだろう。「オクミチパレスだ」五十代僕は誇らしげに言う。「わかるか? オクミチハウスの最新ヴァージョン。中には五十も百も部屋がある。帰ってきたら案内しよう。あまり物は置いてないんだけどね。ゆったり使いたいからね」

僕はオクミチパレスをまじまじと眺め、広くて心地よさそうではあるが、まったく僕の趣味ではないと思った。「オクミチハウスはどうなりました?」松浦武四郎をならって一畳の書斎を備えたあのこぢんまりした家。「ここは小津川じゃないですよね?」

「あれは歴史的遺物として小津川に残しているよ。原発が信用ならない技術であり、放射能アレルギーが蔓延していた愚かしい時代の象徴としてね。対して、このオクミチパレスは輝かしい時代の象徴さ。スパコン原子炉が中央で稼働して、その電力で下北半島全体をまかなっている。スパコン原子炉としては破格に大きいが、それでも大昔の電話ボックスほどのサイズしかない」

今は交通が少ないからと、五十代僕は椅子を車道に乗り入れる。家の内外、敷地と歩道、歩道と車道、すべてが滑らかにつながっていて、バリアフリーが徹底されているのがわかる。意外に高速で移動する五十代僕を追いながら、僕は疑問を抱かずにはいられなかった。ここはどこだ? オクミチハウスがあった小津川周辺とは思えない。あそこはここまで平坦じゃないし、遠くに海もしくは山が見える。記憶にある土地で最も近いのは東通村だった。原発に伴う交付金によって、だだっ広い土地に次々と村役場、消防署、小学校、介護センターといった、不釣り合いに真新しい建造物がボコボコ建ち並んだものだ。

「ここはむつ市だよ」僕の心を見透かしたように五十代僕が言う。「正確に言えば漢字で『陸奥市』。一度『おむつ市』に改称したことがあったが、どうも赤ちゃんの例のものを連想して落ち着かないといった意見が根強かった。かと言って元に戻すのも芸がないし、ひらがなの市町村名も今となっては新味がないんで、ここはあえて漢字表記を選択したんだ。『陸』の『奥』という本来の意味を思い出させるためにもよかった。今どきの若い連中は名前の由来も知らないからね」

道路は一直線に続いて、たまに車とすれ違ったが、運転席には誰もいないか、もしくはロボットが座っているだけだ。路上やビルの内外にはそれなりに人影があったが、よく見ると、それはすべてロボットのようだ。いたるところで建設や道路の補修が行われていて、そこには必ずといっていいほど多数のトン2の姿が見えた。

「駅前通りと言ってわかるかな? かつて鉄道が走っていたとき、駅からまっすぐのびていた繁華街。それをパワーアップして蘇らせたんだ。昔の建物も復刻した。現代風にバージョンアップしてね。ご覧、あれはかつての松本屋デパート、あれは下北じゅうのバスが集まる陸奥バスターミナル、あれは下北随一の品揃えを誇ったボンジョルノ書店、あれは老舗の突飛内旅館、全国の妖怪ファンを歓喜させた妖怪ミュージアム。土地はあり余っているからね。高層にする必要はないんだ。ほとんどが平屋建てか二階建て。空が広々として気持ちいいだろ」

気持ちいいし、なにもかもがきれいだった。すでに数キロも続いている駅前通りの両側には、総ガラス張り、金属仕上げ、石造りの立派な建物が、たっぷりと間を置いて並べられ、まるで建築物の原寸大見本市会場だった。だが。

ドノミチの顔を見ると、なにも言わないのにうなずいた。

「人はいないんですか?」僕は五十代僕の横顔に尋ねる。さっきから人っ子一人見ないのだ。教育施設は小学校から高校まで複数あり、大人数が居住できる低層のマンション、たくさんのベッドを有するらしい病院、観光シーズンに余裕で対応できそうな大きなホテル、決して地方レベルとは言えない遊園地と、何十万の都市にふさわしいような施設が満載だったが、ただ人だけがいない。笑い声も泣き声もない。

出生率はかなり落ちたが、それはしかたないことだ」五十代僕はこちらを見もしない。「ガンガン子作りに励んで、ガツガツ経済を発展させ、ガシガシ突っ走る人生なんてものは、知性も感性もない前時代のガサツな価値観にすぎない。われわれの時代はようやく、真にゆとりある大人の生活を手に入れたんだ。おいしいもの、すばらしいもの、美しいものは数あれど、なにごとも食べ過ぎはよくないってことだ。腹八分で楽しんで、胸焼けのない健やかな眠りを貪るのさ。人が見たいのかい? はい、どうぞ!」

あまりにも長すぎる駅前通りの突き当りは二メートルもの高さのある白い柵で塞がれていて、その一角に柵と同じ素材からなる鳥籠のような四阿がくっついていた。今そこから出てきたのは、分厚い防護服を身にまとった人物だった。マガシマ原発の事故に際してさんざん見た。ブーツと一体化した白い服。フードの中はごついマスクに覆われて顔も見えない。ガガガガガガガガガガガガガ! その耳障りな警告音もすでにお馴染みのものだった。これは!

「やれやれ」五十代僕が嘆息する。「飽きもしないでまたこんな当てこすりを。トン2! 剥がせ」

すると、どこからともなく現れた数十体ものトン2が、くだんの防護服に蟻がたかるように群がって、バナナの皮を剥くほどにあっという間にひっペがしてしまった。「もう!」と罵りながら現れたのは、純白のシャツとスカートに身を包んだ女性だった。ガガガガガ! 地面に落ちた計器を拾いながら立ち上がると、長い髪がふわりと舞った。

「そのガーガーカウンターも止めなさい。どうせ大した数値は出ていない」

「毎時3・8マイクロシーベルトが大した数値でないってのは、そっちの一方的な見解よ」

シスカ! 驚いた。すぐ目の前に立っているのは、あの皆本敷香にほかならなかった。顔を見るのはずいぶん久しぶりの気がしたが、実時間ではたぶん三十分とたっていない。飲み物を持ってくると言って去った敷香。しかし、その地点と現在の間には、何十年もの時間がはさまっているのだ。だが若い。恐らく二十代。高校生のときよりはるかに成熟し、今が盛りとはち切れんばかりに輝いている。敷香はなんという素敵な女性と花開いたのか!

「こらこら」五十代僕が上機嫌に言う。「自分の娘に興奮するやつがあるか」

娘? 

「僕と敷香の娘のカスカだ。微香と書いて『カスカ』と読ませている。今日は娘とデートなんだ。サッカー見て、お茶して、コンサート聞いて、食事して」

「お父さん」カスカの声音はいささか硬い。「誰かとお話ししてるの? 電話? 私を無視するんだったら、いつでも帰るけど」

「独り言が増えるのもしょうがないだろ。架空の友達の一人や二人、持ちたいお年頃なんだ。今日のお友達は右も左もわからない高校生と、不思議な未来少年なんだ。よかったら聞き流しておくれ。ソノミチはどこにいるのかな? 早く会わせてくれないかな」

「だから」カスカの口調には苛立ちが交じる。「連れてこれるわけないでしょうに。もう何度も言ってるでしょ。とぼけるのはやめてちょうだい。疲れるんだから」

「娘がいたの?」僕はドノミチに尋ねる。「息子だけじゃなくて?」

「だから」ドノミチはカスカの口調を真似てみせる。「未来は揺らぎの中にある。この未来では、あなたには娘しかいないのかもしれないし、息子と娘の両方がいるのかもしれないし」

「それにしてもそっくりだ」僕は自分の娘とされる女性の顔をまじまじと眺める。「でも、ちょっと表情が冷たいな。笑ってくれればいいのにな。そしたらもっと光り輝いて」

いや、すでに十分光り輝いているではないか。カスカが光に包まれているのは、僕の目にそう見えるというのではなくて、現実のものだった。

「これか?」五十代僕が僕の言葉に反応した。「後光だとでも思ったか? 残念。特殊なフィールドを全身に張り巡らしてるんだ。強力な磁場で環境を遮断して、声も実は生じゃない。空気も濃縮酸素を使って呼吸してる。銃まで防ぐことはできないが、まあ護身用の服だよな」

「なに言ってんの。放射線対策よ。この汚染地に無防備な体で来るわけないでしょ。知ってるでしょうに」

汚染地だって! 僕は驚いた。どういうことだ? 放射線の問題は解決したのじゃなかったのか? 線量計が3・8マイクロシーベルトを示したのだとしたら、それは安全と言っていい数値ではない。

「過敏で困るよ」五十代僕は僕らに向かって肩をすくめる。「そういったやり取りは今日は少なめでお願いしたいんだが」と、これはカスカに対する言葉。

「行きましょ」カスカは僕らが来た方角へ歩きだした。

「待て待て。歩いて行くつもりじゃないだろうな。ジャイロはどうした。父さんが持ってきてやろう。待ってなさい」

鳥籠の四阿に飛んでいくと、格子の向こうに白い制服を着た男が一人立っていた。「ジャイロを貸してくれ」と言って、五十代僕は押し黙った。

「知多か」係員らしき男の顔をじっと見つめている。「おまえ、知多だろ。久しぶりだな。おまえにどうしても確かめたいことがあった。原子力の一大飛躍が、どうしておまえにわかったんだ?」

「なに言ってるんです?」その係員はたしかに知多ののっぺりした顔つきとそっくりだった。ロボットのようにも見えたが、そもそも知多自身がロボットじみていなかったか。ただ、ここにいる男はせいぜいが二十代で、僕と同級生だった知多ではありえない。「時間は限られてるんですよ。早く出発したほうがいい。ジャイロです」

フリスビーのような円盤を五十代僕は受け取ったが、納得の行かない顔だ。「なあ、これで本当に良かったんだろうか? われわれは画期的な技術革新のなされたすばらしい未来に生きている。なのに、ちっとも認められない。感謝されない。利用されない」

「正しい者が常に正当な評価を受けるわけじゃないでしょう? あなたの成し遂げた事業は紛うことなく偉大なものであり、見るべき人はしっかり見てくれています。いずれ必ずやあなたの業績は見直され、あなたの名声はうなぎ登りとなることでしょう」

「いずれなのか? 今じゃないのか?」五十代僕の顔を暗い影がよぎる。

「意外に早く来るのかも知れませんよ。なんなら明日にでも。タイムキーパーをお渡ししますね」

「私、ちくでんこちゃん!」と言って、幼女のような背格好の女性が係員の後ろから飛び出てきた。ひっつめの髪を赤いリボンで結び、セーターと長スカートの上になぜかエプロンをしている。これもスパコンロを搭載したロボットなのだろう。「ちくは『貯蓄』の『蓄』じゃなくて、『逐一』の『逐』なんですよ。意味は辞典で調べてちょうだい。ダメよ、本名は聞かないで! 本当の私を知ろうとしないで」そして、いきなり声を潜めて、「私がここで働いていることは内緒ですよ。特に夫には」と付け加えた。思い出した。とある電力会社のイメージキャラクターではないか。原発の事故以来とんと顔を見なくなったが。

カスカはなんのためらいもなしに「ジャイロ」を足下に置く。その上に立つと同時に、ふわりと三十センチほど宙に浮く。一瞬バランスを崩しそうに見えて、すぐに体勢を整えると、すーっと前に滑りはじめた。シュルシュルシュルというかすかな回転音が聞こえる。どうやらジャイロスコープを用いて、宙に浮かびながら移動できるものらしい。五十代僕を先頭に、僕らは鳥籠ゲートをあとにした。

僕が背後を振り返ったのは、柵が気になって仕方なかったからだ。どこまでも続く白い柵。線路のように右に左にどこまでも延びる。そう言えば、この場所はかつて鉄道が走っていたあたりではないか。カスカは向こう側からやってきて、こちら側には五十代僕がいる。ここは果たして柵の中なのか、外なのか?

駅前通りを外れれば、そこには広大な芝生が広がり、さらに巨大な建造物が目白押しだった。五十代僕が指さして教えてくれただけでも、野球場、陸上競技場、オペラハウス、劇場、美術館、図書館とあって、「えーと、あれはなんだったかな?」と用途を忘れてしまったものさえあった。「すごいだろ。スポーツ施設は冷暖房完備で、屋根の開閉が自由自在。真夏日でも豪雪日でも台風がまとめて襲ってきたって、平気でスポーツを楽しめる全天候型施設なんだ。音楽施設は完璧な残響効果を誇り、スタインウェイピアノ専門のコンサートホールだってあるんだ。ここではオリンピックだって音楽祭だって大相撲だってなんだってきるくらいだ」

「知ってるわよ」カスカがつぶやくと、「人は時に確認したくなるものですよ」と、ちくでんこちゃんが弁護する。「自分の功績を、成果を、栄光を。それを正当に認めてくれる人がいないときは特に。そこはわかってあげないと」

「でも、ほどほどにしてもらいたいわ。聞き飽きてるのよ。時間もないのに」

「僕らはもっと時間がない」ドノミチが僕にささやく。「先回りしよう」

ズシン、ズシンと遠くから重く響く足音は、件のジャンボMOXの足音だろうか。その音を腹の底に感じながら、僕らは瞬間移動をし、巨大なスタジアムの客席に立ったが、足音はなおも遠くから聞こえていた。眼下に広がるのはサッカーのグラウンド。頭上には屋根がかぶさっていたが、観客席を半分がた覆っているだけで、あとは気持ちよく開いている。青空に絹のような白雲が浮かび、屋根の円弧に縁取られて清々しい。

「来たね」傍らの布張りのシートに五十代僕とカスカが座っていた。そのうしろからひょっこり顔をのぞかせたのは、タイムキーパーのちくでんこちゃんだ。「ここはサッカー専用スタジアムでね。五万人も収容できるんだ。すごいだろ」僕らがいるのはピッチを左右に等分に見渡すことのできるセンター席だ。「われらの郷里が誇るプロ・サッカー・チーム、『アトミックボンバー陸奥』のホーム・スタジアムになってる。今日は公式の試合じゃなくて親善試合だけどね。岩手のグルージャ盛岡が対戦相手だ」

「サッカー・チームですか? 下北の?」僕は興奮した。Jリーグで地元のチームを応援したいと常々思っていたのだ。「そりゃすごい。サポーターになりますよ。名前がちょっとアレですけども」

「アレコレ言うな。下北半島は原子力のおかげで奇跡の大躍進を遂げたんだ。それを誇りに思っての命名だ。『ボンバー』は言うまでもなくサッカー界では非常に名誉ある称号だ。抜群の得点感覚とポジショニングで泥臭いゴールを得意とし、どんな体勢からでもゴールを奪った『デア・ボンバー』、爆撃機のゲルト・ミュラー! あの絶頂期の日本代表ストライカー、高原もドイツでは『スシ・ボンバー』と呼ばれていたし、日本が誇る鉄壁のディフェンダー、中澤も『ボンバーヘッド』だ!」

勇ましい行進曲が流れると、期待に胸が膨らんだが、客席はもちろん空っぽで、サポーターの熱のこもったチャントもなければ勇壮な旗振りもない。それでも、審判に続いて両チームの選手がピッチに現れると、興奮して思わず拳を突き上げてしまった。見ると、五十代僕もドノミチも拳を突き上げていて、僕らは顔を見合わせて苦笑する。サッカー好きなのはどの世代も変わらないらしい。もっともカスカだけは白けていたが。

興奮がすぐに収まったのは、人数が奇妙だったからだ。審判は一人だけで、線審もいないし第四の審判もいない。選手もそれぞれ五人だけで、これではフットサルより少ないではないか。キャプテンの腕章をつけた選手がこちらに深々と頭を下げて、マイクを構える。「本日はこのような強化試合を組んでくださり、非常に感謝しております」口を大きく開けないで小鳥のように早口にさえずる。「オーナー様の名に恥じないような、魂のこもった試合をしたいと思います。本日の対戦相手は名将小笠原監督のもと現在リーグのトップを走る強豪グルージャさんで、降格圏を行ったり来たりしているわたしどもにとってはいささか歯ごたえがありすぎますが、そこは不屈のアトミック魂で特攻、粉砕あるのみです」

甲高いホイッスルとともに試合が始まったが、公式サイズのサッカー・コートに総勢十一人とはいかにも寂しすぎる。青のユニフォームのアトミックボンバー陸奥は開始早々チャンスを迎える。ピッチ上の四人の選手は果敢に敵陣に攻め込んで、小気味よくパスをつないで、あっさりゴールを決めてしまった。よっしゃああああっ! 五十代僕が雄叫びをあげる。「その調子でドンドン行けええっ!」

ドンドン行った。敵ゴールキーパーのクリアミスを拾って追加点を奪い、コーナーキックとフリーキックとPKでさらに三点を追加した。たった五分で五点も取るとは、なんという派手な試合展開だろう。敵側のプレスがあまりにも弱すぎる気がしたし、致命的なミスが目立ちすぎたが、試合はまだ始まったばかりだ。むこうにも挽回のチャンスはある。と思う間もなくホイッスルが鳴る。

「順調な滑り出しだぞ」五十代僕はいたって満足そうだ。「後半もゴールラッシュが期待できるな」

「早送りした?」僕はドノミチに尋ねる。突っ込みどころ満載の試合だったが、省略なしで見たかったのだ。しかし、ドノミチは首を振る。「完全生放送。ディレイもなし」

「今日は五分ハーフなのよ」ちくでんこちゃんがこっそりささやいてくる。「総滞在時間を三十分と制限することで、あの人たち、かろうじてオファーを受けてくれたの。フィールドは張ってあるけど、運動量が半端ないんで酸素消費が激しいんだな。それに、いくらフィールドに守られていると言っても、不安な人は不安だろうし」

「これ、おもしろいの?」カスカがつぶやく。「わたしだってサッカーを楽しめないわけじゃないけど、さすがにこれはどうかと思う。こんなあからさまな八百長、見る価値ないよ」

「おもしろいかどうかなんて二の次さ」五十代僕は首を振りながら答える。「ここでやることに意義があるんだ。このスタジアムでサッカーの試合を見るのが夢だった。せっかくのホームスタジアムなのに、これまで一度も来てくれなかったからね。それが叶えられてこの上ない満足だよ」

後半もアトミックボンバー陸奥の一方的な攻撃が続き、さらに十点を加えることに成功した。フォワードの一人とミッドフィルダーの一人とディフェンダーの一人はそれぞれハットトリックを達成し、敵チームの度重なるオウンゴールにも助けられた。五分はまたたくうちに過ぎて、かつロスタイムは0分。ファールもなく、カードも出ない、極めてクリーンな好ゲームだった。審判と選手はこちらにむかって一礼すると、逃げるようにピッチを後にした。「ムーツー! ムーツー! アットボーン、ムーツー!」五十代僕は興奮して、応援歌らしきものをがなりたてる。「原子の力だ、ギュンギュギュン! 今日も勝利だ、ドッカーンッ!」

ズシン。ズシン。再び重い地響きが聞こえて、ドノミチはいきなり「ちょっと見ていかない?」と目を輝かせる。なにを? 僕が返事をする前に、僕とドノミチは日のあたる路上に立っていた。巨大な物体が目の前をよぎり、その風圧で飛ばされそうになる。それは全高五十メートルもあろうかという巨大ロボットだ。「ジャンボ!」ドノミチが呼ぶと、そいつはこちらを振り返って片手をあげた。愛想のいい巨人、ジャンボMOXだ! 大きく開いた胸元で紐の交錯するシャツにベストを着て、なかなかオシャレないでたちだ。全体にバランスがいびつで、腕がやたらと長いのに、極端な短足だった。片足に全体重を預けながら進むので、そのたびによろけ、今にも倒れそうだ。

それでもほかのロボットたちは、危険など存在しないかのように、その足下を、股間を、わらわらにぎやかに駆けていく。五ヶ所村トリオも走っていたし、トン2たちも多数混じっていた。ペンギンじみた変な生き物、ピエロ風、不思議の国のアリスのような少女、眉毛が異様に長いカエル、頭に「Pu」と記したヘルメットをかぶった男の子と、ユニークなキャラクター揃い。ドノミチはこのときばかりは年齢相応の男の子に戻ったかのように、実に嬉しそうで、手を振ったり、握手したり、このアトラクションを楽しんでいる。その中に一体、見覚えのありすぎるキャラクターを見つけて、僕は心底驚いた。国民的なキャラクターと言ってもいい、未来の猫型ロボットだ。

「僕、ドエりゃーもん!」僕の視線に気づくと、気安く近づいて来た。「名古屋から来たんだ!」

「未来じゃなくて?」僕は尋ねる。

「名古屋。僕はこの時代のロボットだからね。未来から来たなんて言ったら誇大広告もいいとこだ。僕の中には『どえりゃーもん』、つまり『どえらいもの』が入ってるんだ。なんだかわかる?」

「どこでもドアとか?」

「やめてよ。あんなの無理なんだから。原理的に可能だとしても、人一人飛ばすのに、どれだけ莫大なエネルギーが必要になるか。正解はスパコン原子炉!」

「なるほど」驚くほどのこともない。この猫型ロボットの動力が原子力だというのは以前からよく知られた事実だった。

「この仕事、好きだったから、ずっと働いていたかったんだけど、野比太君、だんだん体調を崩していってね、最後の頃にはほとんど寝たきりだった。遊びに行こう、冒険しよう、どら焼き食べようって誘っても、体がだるい、やる気がしない、食欲がないって動かない。静ちゃんのお風呂をのぞきに行こうって切り札出してもダメだった。信じられないよ! 世話志君がお医者さん鞄で調べたけど、『因果関係は不明です』って匙投げられた。結局、野比太君、僕が来る前よりもダメダメ人間になっちゃって、僕はあっさりお払い箱さ。あ〜あ」

「それはつまり」僕が尋ねようとすると、ドエりゃーもんは「あっ、誰か来たみたい」と言って走り去った。

「どういうこと?」僕は代わりにドノミチに尋ねた。「嘘だったのかな。放射能の問題が解決したってのは。野比太君は放射線による病気でしょ? カスカは線量を警戒してたし、サッカー選手は脱兎のように逃げてったし。あの僕が健康に問題があるのもひょっとして」

「完全とは言えないのかも」ドノミチは奥歯に物の挟まったような言い方をする。「安全な閾値や低線量被曝の影響について、見解の相違があるのかもしれないし。どっちにしろ、このすばらしい原子力文化に万人が万歳してるわけじゃないってことだよ。僕はロボットはもういいけど、次行っていい?」

場所は瀟洒なオープンカフェに変わった。白い丸テーブルが何十個と並んでいるが、客は当然のように五十代僕とカスカの二人だけで、ちくでんこちゃんの姿は見えない。テーブルにはホットドッグと野菜サラダとフライドポテトと白い飲み物があるが、口をつけているのは五十代僕だけだ。「やあ、どこ行ってた?」五十代僕が愛想よく挨拶してくる。「軽食取ってから次はコンサートだ。うまそうだろ?」

確かにうまそうだ。チリソースと炒り卵が色鮮やかに並んだホットドッグ、トマトとレタスと紫タマネギがたっぷり盛りつけられたサラダ、イチゴジャムとナッツの入ったヨーグルト。ただ、細いグラスに入った飲料だけがわからない。カフェオレかと思ったが、微妙に茶色がかっているし、表面がぷつぷつ泡立っている。

「全部、地元で獲れた新鮮なやつだ。近くに菜園と牧場があって、ほとんどの野菜、卵、肉が手に入る。栽培、収穫、調理、盛りつけ、すべてロボットがやってくれて、僕はもう王様気分さ」

「またお友達と話してるのね」カスカがおもしろくもなさそうに言う。「王様気分って、実際、王様じゃないの。とても平和な王国だわ。臣下はみんな忠実で、反乱も革命も起こりっこない。望むものはなんでも手に入り、好きなことだけやってられる。お気に入りのコーラも紹介したら?」

「これか!」五十代僕は喜々として白い飲料を持ち上げる。「見てくれ。これは僕が研究開発したコーラで、原材料は米糠だ。すっきり爽やかに炭酸がきいて、健康にもいい和風のコーラなんだ。コマーシャルも作った。健康な老若男女が打ち揃い、瓶を掲げて高らかに叫ぶは、『ヌークと呼ぼうヌカ・コーラ!』。NUKEは通常は『ニューク』と発音するが、ここはあえて『ヌーク』と呼ばせてもらうよ。地元の名産として売り出しているが、それほど受けはよくないな」

「飲んでもらったらいいわ。私の分をどうぞ。全然口をつけてないから。ホットドッグもヨーグルトも」

「それには及ばない。出そうと思えばいくらでも出せる。それに僕の友達は別の世界の住人だから、これには口をつけられないんだ」

「それじゃ私も同じだわ。私はこことは別の世界の住人だから、これに口をつけるわけにはいかない」

「やれやれ。形だけでも口をつけるといった気遣いもできないのかね。口に入れるふりして、床に落とせばいいじゃないか。僕は見て見ぬ振りをする。そして心の中で感謝するんだ」

「よくもそんなことが言えたものね!」カスカが意外な怒りを見せる。「実の娘を危険にさらして平気なの? それで私に愛情を持っていると言えるの? 私は母さんと違うのよ」

「神経質すぎると言っているだけだ。いいよ。よこせ。僕が食う」

五十代僕はカスカのホットドッグその他を手元に引き寄せると、「うまい」「うまい」とあてつけがましく繰り返しながら騒々しく食べ終えた。最後にヌカ・コーラをごぶりごぶり飲み干すと、ゲップを一つして、それがスイッチであったかのようにゲエゲエ床に嘔吐しはじめた。

「ほら、無理して食べるから!」

五十代僕が吐いたゲロを掃除するためにトン2たちがモップ、バケツ、洗剤を持って押し寄せてきた。その後ろから「お薬です」と言って、お盆にカプセルを持ったいっぱい君、「お注射です」と言って、注射器を構えたマリちゃん、ワンワン吠えて駆けまわるゴーが現れる。「食事をするのはいいですけど、薬もちゃんと飲んでもらわないと困りますよ」「注射する前に胃薬も飲みます?」「ワンワンワン!」

「お時間です!」ちくでんこちゃんもエプロン姿で走って来た。「次行きましょう次」

「僕らも」とドノミチは言って、僕らも次から次と移動した。

その後、五十代僕とカスカは、コンサートホールで交響曲を鑑賞し、新装開店の寿司屋に立ち寄り、妖怪ミュージアムを訪れた。一千人収容のコンサートホールで、総勢十人のオーケストラによって演奏されたのは、五十代僕のリクエストだというブルックナーの大作だったが、通常八十分かかる交響曲を五分のダイジェスト版で済ませた。寿司は大間の新鮮なマグロ、陸奥湾の新鮮なホタテ、大畑の新鮮なイカが出て、五十代僕は「うまい」「うますぎ」「やっぱり下北の寿司は最高だ」と激賞した。「こんなうまい寿司を食えないなんて、連中、本当にかわいそうだな!」と当て付けがましく付け加えたが、どこの連中のことを哀れんでいるのか不明だった。妖怪ミュージアムには世界中の妖怪が実物大蝋人形として展示されていたが、妖怪は正確に千体と数が決められていて、スペースがあり余っていたので、特別に二十世紀中庸から出現した半妖怪が展示に加えられていた。頭が二つある牛とか、羽根のないニワトリとか、脳がない子供とか、そんなものだったが、カスカはそのコーナーに差しかかると、金切り声をあげて逃げだした。「やれやれ」五十代僕はまたも溜め息をつく。「核アレルギーもここに極まれりだな。これは二十世紀後半を陰鬱なイメージで覆い尽くした悪質なフィクションにすぎないのに。ジョークだよジョーク。ここに展示してあるのはさ」

しかし、たとえジョークだとしても、あまり趣味のいいものとは思えなかった。逃げていった僕らの娘、カスカのことが気になったが、ちくでんこちゃんが「わたしにまかせて」といったふうにウインクして追いかけていった。

「一つだけ聞かせてください」僕は尋ねる。「実際のところ、放射能はどうなんです? あなたは安全と言ってますけど、あの人は、カスカさんは」

「これは言いたくなかったんだが、娘は頑迷保守勢力に加担してるんだ」五十代僕は妙なことを話し始める。「旧世代の原子力が失墜する中で力を得た、エコでロハスでスローフードなエロス派だ。異なる背景を持つ三つの流派が倒錯的にチュッチュチュッチュと睦まじ合って、ファッショな力を手に入れた。原子力に並々ならぬ敵意を燃やし、恐怖! 恐怖! と煽りたて、その活動をグローバルに展開して、反原子力の巨大なうねりを生み出したんだ。だが、風力だの地熱だの太陽光だのを前面に押し出しながら、実際は化石燃料に頼っていた。枯渇する枯渇すると言われながらも、まだまだ余裕があったんだな。しかし、それも永遠には続かない。スパコン原子炉の誕生とともに、人類は初めて真の原子力を手に入れた。簡安除染の確立によって、放射能汚染の心配も消えた。さらに、放射能の健康に及ぼす影響も実際は無視できるほどのものであり、むしろそれに対する恐怖こそが病気を助長するということが科学的に証明された。下北半島はその一大実験場として輝かしい成功を収めたんだ。なのに、原子力を敵視しているエロス派は頑として主義を変えようとしない。時代の趨勢はいまだ反原子力の側にあり、強い方に流れる政治家官僚、新聞、テレビ、これらの恥ずべき変節漢どもは、真面目に話を聞こうともしない。下北は放射能まみれだというキャンペーンが繰り広げられ、人口の流出が止まらなくなった。スパコンロの需要は伸び悩み、ここで生み出される電気には放射能が混ざっているというデマまで流されて、利用者も減る一方だ。そして、誰もいなくなった!」

ええ? ええ? えええええっ? と何度も驚かされる発言の連続だった。本当なのか。どれが本当で、どれが希望的観測で、どれが妄想なのだろう。

ズシンズシンズシンズシン! すでにおなじみとなった重い足音が聞こえてきたが、テンポがやけに早かった。短い間隔で震動が続いて、思わず不安がかきたてられる。「まずいな」五十代僕が顔を上げてつぶやいた。「暴走が始まったかも」

ドノミチと僕が逸早く外に出ると、広い車道の前方から走ってくるジャンボMOXは明らかにおかしい。酔っぱらいみたいな足取りでふらつき、長い腕をぶるんぶるん振りまわしている。早い。その一跨ぎは十メートルで、足下のロボットたちは駆けつ転びつしながら逃げまわっている。逃げ遅れたロボットもいるようだ。ジャンボMOXがやって来た方角には、ペシャンコになった機械回路と半身でもがいているロボットが散らばって、トン2たちはその処理に大わらわだった。「ジャンボ!」ドノミチが呼びかけるが、もう気安く応じてくれない。巨大な目玉が上下左右にぐるぐる回って、完全に自分を失っている。

ついに道を外れたジャンボMOXは広大な芝生に足を踏み出し、行く手を遮るあれやこれやを容赦なく蹴散らし始めた。巨大な腕はガラスの塔や鉄骨のビルをあっけなくなぎ倒し、巨大な足は丁寧に仕上げられた花園や何万羽ものニワトリがひしめく養鶏場をずたずたに切り裂いた。その巨人の進撃は、映画館も図書館も消防署も食い止めることができない。タイルと鉄骨、キャベツ、雑誌、ガラス、ヌカ・コーラが盛大にまき散らされ、ウシ、ブタ、ロボット、ミツバチがモーッ! ブギャッ! ギギッ! ブーン! 悲鳴をあげて逃げ惑う。

僕らは必死で追いかけた。五十代僕は椅子を猛スピードで走らせて、僕とドノミチはドノミチのコントロールで背後にピタリと貼りついた。「ここで食い止めろ!」五十代僕が唐突に叫ぶが、それは僕らに対してではない。前方に現れた柵は、内と外を区切る例の白い柵で、右手には件の鳥籠ゲートが見える。ぐるり一周して舞い戻ってきたのだ。ジャンボMOXはその柵に向かって突き進む。千鳥足でよろけていても、その雄大な歩幅は馬鹿にできない。一分後には柵を蹴倒して、向こう側に突き抜けているだろう。

と、鋭いジェット音が急速に高まり、矢のようなものがジャンボMOXの足を直撃した。そのまま膝を貫くと、いったん上昇するかに見えて急旋回し、片脚を失ってよろけている巨大ロボットのもう一方の脚も粉砕した。巨大な音を立てて横倒しになるジャンボMOXを尻目に、その少年ロボットは僕らの前にするりと降り立つ。ジェットの炎を噴いていた足は、芝生の上に立つころには黒光りするブーツに変わっていた。「任務完了です、オクノミチ博士」身長は一メートルにも満たない。尖った角のようなヘアスタイルと上半身裸の黒パンツ、その姿はあまりにも見慣れたものだった。これもまた国民的ロボットと言っていい。「お怪我はなかったですか?」

「いや大丈夫」五十代僕がそう言うと同時に、キャーッ! と悲鳴が上がった。鳥籠の方角からだが、建造物に隠れて見えない。「とにかくご苦労だった。いつも悪いね」

「仕事ですから。またいつでも呼んでください。それじゃ彼は工場に運びますね」

少年ロボットは五十メートルの巨体を軽々と持ち上げて飛び立った。まったくマンガの通りである。

「ジャンボはもう少し足を短くしなくちゃな。今日は危うく外に飛び出しかけた」

「あれは、まさかあれですよね」僕は自分の目で見たものがまだ信じられなかった。「ここにいたんですか?」

「なんだかんだ言って地上最強のロボットだからね。だけど戦争には使えないんで、ここで雇ってる。トラブル処理係として。手際はいい。今もたった二度の攻撃で機動力を見事に奪った。いたって効率的に案件を処理してくれるってことで、今では辣腕アトムって呼ばれてるよ」

「カスカさん、帰っちゃうよ」ドノミチが言う。一瞬、姿が消えていたが、様子を見に行っていたのだろう。「ちくでんこちゃんが引き止めてるけど、ゲートに向かって歩きだしてる」

「どうして⁈」五十代僕が仰天している。「まだ早いじゃないか。まだ二時間もたってないぞ。まだ予定があるのに」

「ジャンボの砕け散った破片がむこうまで飛んでったんだ。ものすごい勢いでフィールドをかすめて、動力系統に不調を起こしたみたい。フィールドが破れて、カスカさん、パニくっちゃった。ちくでんこちゃんが応急処置したんだけど、それでも帰るってきかなくて」

しかし、ドノミチが話し終える前に五十代僕は鳥籠ゲートに走っていた。二つ三つの建物をやり過ごすと、カスカは今まさに白い鳥籠に入ろうとするところだった。五十代僕がその腕をつかんで、早口でまくしたてている。「フィールドが破れたってほんの数分じゃないか。健康に害があるわけない。大丈夫なんだよ。みんな、見えない影に怯えてるだけだ。放射能なんてのはだ、健康な生活をして、ニコニコしてれば、よりつかないものだ。あと三時間はいてもらわないと困る。すばらしい噴水が完成したんだ。きれいにライトアップされて、バーの二階から眺められる。ちくでんこ、君からも言ってくれよ」

「無理。行きたい者は止めらません」

「君たちからも言ってくれ!」五十代僕は僕らに言うが、カスカに僕らの声が届かないことはわかりきっているではないか。「僕のかわいい娘だぞ。唯一残った身内だぞ。なのに半年に一度しか会えない。それもたったの五時間だ。それが今日は二時間。そんなの耐えられるか」

しかし、五十代僕が熱弁を振るっている間に、カスカは鳥籠に入ってしまった。閉じようとするドアに片腕をねじ入れ、五十代僕はなおも訴える。「それじゃ、せめて約束してくれ。今度は其道も連れて来ると。五時間とは言わない。三十分ぐらいなら構わないじゃないか。もう五年も会ってないんだぞ」

「絶対に連れてきません」カスカの眼差しにはもはや憎悪の色しか見えない。「私が生きている限り、この汚染半島に息子は絶対に連れてこない。父さんは原子力と心中したんだから、ここに骨を埋めるといいわ。下北最後の人間として寿命を全うしなさいよ。父さんが死ぬと同時に下北半島もこの世から消えるのよ」

あっ、と悲鳴をあげて、五十代僕は勢いよく腕を引っ込めた。電流でも流れたのかもしれない。そのすきにドアは閉じた。内部では仕切りが開いて、例の係員が顔を出す。その背後にはワゴン車が一台見えた。これに乗ってやって来たのだろう。「知多! 知多!」五十代僕は今や絶叫していた。「なんでこうなった? こうなることをどうして言わなかった? 僕はすべてを手に入れた。違う! すべてを失ったんだ。こうなることがわかってたら、僕は王様になんかならなかったぞ。嘘つきめ!」

知多かどうか定かではない係員の顔にはなんの表情も浮かんでいない。しかし、彼がいるのは向こう側なのだ。五十代僕を言葉の上で賞賛しながら拒絶している。鳥籠の中で仕切りが閉まると、あとは五十代僕の懇願だけが残された。カスカ! カスカ! 戻ってこい! もう一度! 顔を見せてくれ! お父さんの手を握っておくれ! 頼む! その絶叫を追い風に、ワゴン車が急速に遠ざかる。

「かける言葉もない」僕はドノミチにささやいた。「なんでこんなことに。おたがい意固地になって。親子なのに。話を聞こうともしない」

「基本のところで対立してるからね」ドノミチもやはりささやき声だ。「そこに折り合いがつかない限りどうしようもない」

「別れはいつも悲しいわ」いつの間にか、ちくでんこちゃんが傍らに立って、しみじみとつぶやいていた。「優しい夫とかわいいネコちゃん。オール電化の真っ赤なおうち。暗い部屋でも幸せだよと義父は言い、のんびりやっていきましょうよと義母は言う。息子がリストラされて欝ってるのに、なんて呑気な人たちでしょう! そのとき、あいつはささやいたのよ。義姉さん、どうして暗い顔してるの、僕に明るい顔を見せてよ、いいとこ知ってるんだけど、義姉さん、どうだい、一緒に行ってみない? 電気をバンバン使えて気軽に暮らせるパラダイス! 義姉さん、水着は持ったかい、オイルは僕が塗ったげる、義姉さん、行こうよ、手に手をとって、まだまだ明るい僕らの未来。あの金髪ニート助平野郎! 盤太さん! 私の裏切りを許してください! 帰りたい! でも帰れない!」

その昼ドラめいた告白に気を取られたせいで、五十代僕が走り去ったことに気づくのが遅れた。直線の車道を一気に走りぬけ、ボーリング場の陰に隠れて見えなくなった。僕とドノミチは顔を見合わせた。嫌な予感が。「先回りするよ」

オクミチパレスの中に僕らは立った。まだ案内してもらっていない奥の部屋。壁際のデスクに行こうとする五十代僕を、いっぱい君、マリちゃん、トン2たち、ドエりゃーモンが必死で引きとめている。「やめてやめて!」「どうしてそんなことするの?」「僕ら、楽しくやってるじゃないか! このままずっとやってこうよ!」「まだもうちょとなら生きられるからさ!」「みんなもそのうちわかってくれるよ!」

それでも五十代僕の進みを止めることはできない。いっぱい君とマリちゃんは左右の腕にしがみつき、犬のゴーは脛に噛み付いている。トン2たちは爪楊枝とフォークとアイスビックを首なり足なりに容赦なく突き立て、鮮血をほとばしらせると同時に、薬を塗ったり絆創膏を貼ったりしている。そのすべてを引き連れて、五十代僕はデスクの透明なカバーを開く。その中心にあるのは白いボタン。

「もうなにもかも嫌になった! 今すべてを終わらせてやる。この世界のスイッチを押すのは俺だ。あああ! 今すぐ消えるアトミック・ワールド!」

「離脱」