鉄塔 武蔵野線 その1

 正兼様は、もう90歳をこえたおばあちゃんですが、聡明で、好奇心が強く、博学で、趣味は旅行と絵画の収集、それに本をこよなく愛しています。応接間の椅子に腰をおろして、壁に掛かった絵(美術館か画集のなかでしかお目にかかったことのない絵です)を眺めたり、装丁のきれいな本(本好きならよだれを流しそうな本が並んだ本棚があります)を手に取ったり、旅の思い出(スペインから南仏に入って、マチスが描いた漁村の見えるホテルに泊まり、美術館を巡りながらパリまでゆっくり北上しました。コースをかえて数年にわたり何回も)にひたっているときがいちばんしあわせといいます。それと来客が大好きで、ぼくもおじゃますると、いつも3時間くらいおしゃべりしあいますが、それでもおいとましようとすると、不機嫌になって無口になります。
 その正兼様から昨年の春、「本をさがしてくださらない?」と電話をいただきました。「いえね、いま沢野ひとしという方のエッセイ集を読んでおりましたら、『鉄塔 武蔵野線』という本のことが書いてありましたの。そうしたら、なんだか読んでみたい気になりまして」
 正兼様には以前にも、北原白秋の詩集や谷崎潤一郎の小説をおさがししたことがありました。お安い御用です。さっそく神田と早稲田の古書店を日を分けてしらみつぶしに歩きました。ところが驚いたことに1冊もみつかりません。10年前の日本ファンタジーノベル大賞受賞作ですが、単行本どころか絶版になったばかりの文庫本さえ見当たりません。がっかりして家にもどる途中、たまたま眼にしたブックオフに車を停めてはいってみました。ぜんぜん期待していませんでしたが、文庫の棚に1冊、あまりきれいとはいえない本が並んでいました。ほかにない以上、仕方がありません。翌日、この本を正兼様にお届けしました。お届けして、また3時間ほど昔話におつきあいして、帰宅するときに、車が混んでいつもと違う道を通りました。そこに古本屋がありました。どうして忘れていたのか、この隣町の古本屋は、散歩のときに覗いたことがあったのです。ここでもう1冊、文庫の「鉄塔 武蔵野線」を手にすることになります(神様は、いつもこうなのです)。
 その晩、なんの気なしに「鉄塔 武蔵野線」をひらいてみました。はじめのうちは、かったるい小説だな、とおもいました。それも少年小説です。いつ本を閉じてもいいつもりで読みすすめました。そのうちに、いつしか物語のなかに引きこまれていました。読みおえたとき、すこし微熱が出たかな、といった感じでした。感染したのは、風邪ではなくて、鉄塔のウイルスでした。映画にもなりましたし、ちょっと調べれば、武蔵野線という送電線の位置はすぐわかりそうなものですが、ぼくは小説の記述(発電所や変電所、地名といったものがすべて変名でした)と10年前の道路地図を照らし合わせて、鉄塔の位置を地図の上にたどっていきました。ぼくはクイズが好きですし、ミステリも大好きなのです。
 休日に、車で、物語の発端になる「75ー1」のプレートのついている鉄塔を確認しに行くことにしました。とても大人のすることじゃないわね、と、助手席のカミさんは意地悪そうに笑いました。そのころ、正兼様は、なんど文章を読み返しても、すこしも理解できない、と、この小説に腹を立てているところでした。が、じつは小説のせいではないことが、じきにわかることになります。(つづく)