号外 たのしい編集-3

 その晩、ぼくも、早速、Amazonに注文した。本はすぐ届いた。


 ぼくは、本を読むとき、たいてい「あとがき」から読む。「まえがき」がついていたとしても、「あとがき」を先に読む。むかしからずっとそうだ。きっと、せっかちだからだろう。
「たのしい編集」にも、ちょっと長いあとがきがついている。タイトルは、「墓碑銘の文句――あとがきにかえて」。


 本をつくることがビジネスになってしまった、などと嘆息すると、「そんなのあたりまえのことじゃないか」と一喝されてしまう。年を追うごとに下降していく出版業界全体の売上をまえに、経営の効率化、マーケティングの強化、電子書籍への投資など、状況はますます厳しくなり、編集者も、うつむきがちだ。僕が出版社に入ったころ、本をつくることは、一攫千金を夢見るいかがわしい商売だったり、人類の足跡を記録する知的な行為だったり、人生の深い味わいを教えてくれる身近な教科書だったり……つまりは、わくわくできる仕事だったように思う。
 まず、本書を読んでくださった方に、こころからお礼を言いたい。そして、本書に書いてあることが多少とも参考になったとしても、食べ終えた枝豆の莢のように、ぽいと捨て去ってほしい。


 著者が雑誌記者の友人と山歩きしていたとき、友人のいった言葉が強く印象に残ったという。「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ、というからな」
 それが、本書を執筆中に「臨済録」を読む機会があって、仏陀殺しの謎がとけた。


 達磨の墓塔を訪れたとき、臨済は「仏も祖も倶に礼せず」と断言していた。だが、それは「仏」や「祖」という外在的な権威を認めない、というだけのことではない。もし、それを敷衍して、自らの内なる仏祖を信ぜよ、などと説いたならば、臨済からただちに一喝されること必定である。外のみならず、自らの内にもそうした聖なる価値を定立しない、それが臨済の立場だからである――
    出典「臨済録――禅の語録のことばと思想」小川隆著、岩波書店


 自分の外にも内にも、ある種の絶対的価値をつくりあげてはならない。そんなことをすれば、当の価値そのものを失うことになってしまうと。乱暴に言えば、編集者に逢ったら編集者の言うことなど無視しろということだ。だが、「答えだけは、自分自身で出すよう要求されるのである」。そんなふうに本書を読み、忘れてもらえれば本望である。


 一九七九年、第二次オイルショックで就職難の年に大学をでた僕は、ドイツ語専門出版社の三修社に入社した。砂漠でガソリンが切れ、立ち往生しているときにタンクローリー車が通りかかったようなものだ。入社したてのころ、「アト・ランダム」という本を読んだ。アメリカの老舗出版社ランダム・ハウスの社主ベネット・サーフの自伝本である。出版人はどんなふうに仕事をしているのか知りたかったからである。


 オイルショックねえ。ぼくより五歳下の著者は、二年浪人して八年大学に在籍していたぼくと、ほぼ同じ時期に社会に出たわけか。
(つづく)