Hatena::ブログ(Diary)

読む書く歌う旅をする      by 姜信子 Twitter

2018-08-03   日毒ここに極まれり

 八重洋一郎詩集 『日毒』 怒りの爆発!!


「日国 琉球侵入以来 各島々は如何になったか」 その知らせを中国の福州琉球館にもたらした八重山の役人がいる。

それをうけての中国側の記録はこう伝える、

「……光緒五年日人が琉球に侵入し国王とその世子を虜にして連れ去り国を廃して県となし……只いま島の役人が 君民日毒に遭い困窮の様を目撃 心痛のあまり危険を冒して訴えに来閩……」


日毒



「祖母の父の居室であった地中深くから ボロボロの手文庫が見つかり その中には

 紙魚に食われ湿気に汚れ 今にも崩れ落ちそうな

 茶褐色の色紙が一枚 「日毒」と血書されていたという」


そして今、また、


「日毒ここに極まれり

(その腹中はどんなに他人を犠牲にしても、自分だけは生き残る)

(血の色の大輪咲かせ己れだけは生き残る)

 日毒ここに極まれり」


これは、

「くるひゆく しづけさのほの暗い言葉」

正気であるからこそ、くるふほかない者の 言葉  詩。


※思い出す、小野十三郎『詩論』の中のこの言葉、

「悲しみと怒りの極まるところで、新しい方法を持て」。

2018-07-17 『大海に生きる夢」(シャマン・ラポガン)  メモ

台湾の蘭嶼の先住民タオ族の社会では、子を持つようになると、「孫の父」「こどものお父さん」と呼ばれるようになる。作家シャマン・ラポガンは、「ラポガンの父親」なのだ。

土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。


蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代の侵略? 介入? 略奪?)によって、海から離れ、山から離れ、生態系の環から切り離されてゆくばかりのなかで、シャマン・ラポガンは、若き日に島を出て、放浪して、そしてふたたび島に戻って来る、その道程はそのまま、命がこの世界との本来の生き方/つながり方を忘れてゆくばかりの近代を超えゆく新たな道の模索となる。

ひとりの台湾先住民作家の半生がそのまま、みずからをのみこんでゆく近代の腹の中で、近代を超え出てゆく歌/生態系への信仰を育んでゆく至難の道のりなのである。

日本の近代の縮図たる水俣で、原初の時を想い起こしつつ、やはり近代を超える歌を紡ぎ出した石牟礼道子を想う。

あらためて言う。

近代にさらされて、、近代に破壊されて、近代に断ち切られてきた、土と水と風のなかの生きとし生きる命たちのつながりが、近代を乗り越えて、もう一度繋がりなおそうとするときに、そこに、単なる近代以前の世界の復古とは異なる強靭な「生命」の歌/思想が現れてくる。

それは、つながる命の詩だから、必然的に、水俣も蘭嶼もわたしもあなたもつながっていくはずなのだ。

つながるための至難の時間、その彷徨いの旅路をゆく力をわたしたちが持つ続けていられるのなら。

舟をつくること。そこにすべての「命」の歌がある。 台湾・蘭嶼、タオ族の倫理。


★5歳の時、1962年9月の舟の完成祝いの祝賀会の情景。

父の語り聞かせてくれた物語を、50歳のシャマン・ラポガンは繰り返し夢に見る。


「山の深い谷間で干上がった川の丸石に、五人の男たちが老人を囲んで座っている。彼らはコーヒー色のからだをして、タオ語のことば、考え方で、これから伐り倒す龍眼の木に向かって、樹霊を敬い、幸せを願う古調の詩を歌っている。老人は厳かな表情を浮かべており、歌声が静かな深い谷間に、自然人と自然環境がしっかり溶けあったように響き、いまだ異民族の文明に干渉されていない信仰を伝えている。老人が口ずさみ、若者が古調の旋律をまねて吟唱している。柔らかく沈んだ音律大自然の樹霊を讃えるとき、ひきしまった筋肉に木を伐るための力がどんどん満ちてくる。それは形をあらわした竜骨がはや海上を風に乗り波を切って進んでいるような感覚だった。」


「舟造りとは海との関係から、祈祷や儀式、宴や民族の科学をあらわしている」


「山と海のあいだを行き来する生活のリズム」がある。

タオの男は山をめぐってあちこちにある林を世話し、同時に海で長い時間をかけて生きることを学び、季節の気象に慣れ、大海からどのようにして魚を得るかを学ぶ。


「舟を造るというのは、祈りと儀式と山の神と分かち合う宴をあらわしており、心にさらに深く確かな感覚を探しあてさせることだと僕は考えていた、僕は山にのぼる前の晩は、斧の霊魂を静かに休ませ、山の住民(樹木)や山の神に安らかさをお与えくださいと願った。」


(女たちの祈りの言葉も心にい染み入る。シャマン・ラポガンの妻はイモを植え付けるときにイモたちにこう語りかける。

「十分に土地の養分を吸ってください。あなた方は私たちへの贈り物です。それにあなたたちのおかげで私たちは土地と親しくなりました。美しく育ってくれたら、もっとお世話します。喜びが増せば、私たちはどちらも丈夫になるでしょう」

人間が口にする言葉の中でも、実に美しい言葉。)



★「舟を造れない男は低級な男だ。」とシャマン・ラポガンの父は言った。

そのような「男」は人間は環境の生態種のひとつに過ぎないということが理解できないことを述べている、とシャマン・ラポガンは記す。



「山林にいるのは、自分で舟を造る必要があるからだ。そうしてはじめて民族科学によってトビウオ招魚祭を行い、海に出てトビウオ漁ができるのだ。だからトビウオや海のほかの魚を捕ろうとするなら、舟をつくらねばならない。これは生態が永続するための循環概念であり、生存倫理である。」


「山林の木や海の魚がみな死に腐るように、肉体(木の肉、魚の肉を含む)は土に帰るまえに、どの種もみなその知恵や環境の違いによって、異なる生存の習性や民族の文化をつくりだすのだ」


「必ず自分で山に行って木を伐る仕事をし、海に行って漁をしなければならない。これは「肉が腐るまえに、生態種は生存の延続のために、互いに利益を与えあうからだ。だからタオ人は「儀式文化」で生態種に対する敬愛の念を体現するのだ。もし舟をつくらなければ、木の美しさや魚の優雅さを理解するのはたいへん難しい。さらに生態圏の知恵を理解しないのは、路傍の雑草や低級な人間と異ならないのだ」



★シャマン・ラポガンは、伐り出されてやがて「舟」となる木に向かって、歌いかける。

 これも美しい歌。


おまえが村の幼なじみなら

おまえは僕の最も親しい友だちだ

だから僕らはいっしょにトビウオを釣り、シイラを釣ることができる

小蘭嶼まで航海していっしょに漁をしよう

いま、おまえの樹肉がコウトウラノキのように柔らかくて、僕を楽にしてくれることを願う

僕らは早めに美しい湾で休むことができるだろう。



★シャマン・ラポガンの父は、息子にこうも言った。

「わしらの時代がどう変わろうとも、おまえは孫を連れて山に行き海に潜らなくちゃならんぞ。わしらの島の精霊に孫を知ってもらうのじゃ。」

「山と海におまえの体臭をかぎ分けさせる」のだと。



★筆を擱く前にシャマン・ラポガンが言う言葉。

「もはや伝統儀式の継続の問題だけではない。現代的な文明が虫食いのように、僕らの内部から野性純度の優れた遺伝子を食いちぎってしまうことが大きな問題なのだ。」

「先人たちは去っていった。野性環境に適応した彼らの美しい姿と共に。からだは土に帰り(台湾で死んではいけない)、林の木が再生する有機養分と化した。僕は自分で造った舟を漕いで夜の漁に出る……僕はとても飢餓感を覚えていた。

2018-07-11 『浪花節 流動する語り芸』(真鍋昌賢 せりか書房) メモ

浪花節は、国民国家の展開と資本主義の展開がからみあっていくなかで生成し変容していった、二〇世紀における最もポピュラーな「語り物」だった。


国民国家を草の根から支えた「声」としての「浪花節」(兵藤裕己)。

近世の封建国家の忠孝のモラル」から「近代の国民国家の一元的な忠孝のモラル」への「変換装置」となったのが、「大衆社会」に流通し浸透していく物語だったという認識。

※1 桃中軒雲衛門を中心に草の根ナショナリズムを支えるものとしての「浪花節」を論じる兵藤の論は非常に説得力のあるものなのだが、「いや、でも、そういうことばかりではないのだ」という現役浪曲師からの声。


※2 説経「さんせう太夫」の鴎外による近代文学山椒大夫」への書き換えを想起せよ。

しかし、文字に固定された「国民国家」のモラルは、それが文字であるかぎり、いったん記されたものは揺らぐことも逸脱することもないが、「声」は文字のようには従順ではない。



●そこで重要なのが、本書の以下の視点。

「本書の後半においては、浪花節が「国民」としての「大衆」をつくりだしたという指摘は終点ではなく、戦時下の大衆文化議論するうえでのむしろ出発点である。大衆文化がファシズムを能動的に支える側面を了解しつつも、「国民」や「国民国家」という概念を、予定調和的な帰結点としてイメージさせてしまうことには慎重さを保持したうえで、「国民」をつくりきれなかった破綻や逸脱に目を凝らしていくことになる。」(『浪花節 流動する語り芸』P14)


声の<逸脱>、声がもたらす<破綻>、これが重要。


★ まず、なぜ「浪花節」は草の根ナショナリズムの「声」たりえたか?

1.フシが重要であったということ。

  聞き手による再現可能な「歌」として聞かれたということ。


2.地方と都市を結ぶ芸能であったということ。

(村から都市への移動の時代でもあった「近代」を想起せよ。近代において都市は、地方出身者の集合体となっていったということ)


「浪花節は明治後半期において、都市へ流入してくる人々に講談落語以上に受けとめられていく、明治三〇年代には専門席が増殖していった。浪花節は、都市で生まれ育った者のみならず、それ以外の者にもひろく開かれていった」


「出身地の違いが、つまり文化的・言語的な地域差が、浪花節を楽しんだり、演じるう上での障害になりにくかった」


平易な表現によって、また韻律(フシ)にのせられて展開する浪花節の物語をたのしむ上では、江戸文化や上方文化の素養は基本的には必要ではなかった」

※清元・常磐津・端唄長唄といった「江戸固着の演芸」や、都市文化である「落語」を楽しむ層とは異なる層としての近代の大衆の出現としてこれを考える。


3.演者の個性を最大限に認める。/ フシの定型個人に集約。

「定型」(家元制度)のような縛りはなく、個々の演者が独自の「フシ」を持つ自由さと、それゆえの裾野の広がり。



4.レコードラジオをとおして家庭に入り込んでいく。


浪曲は「武士道鼓吹」という大義名分をスローガンに、それに見合った演出によって<劇場化>され、近代的メッセージの器として<媒体化>され、レコードとして<複製化>されてゆく。

(※ただし、劇場だけでなく、日本中の小屋で演じられていたのだということも、浪曲を論じるうえで大事なこと)



4.浪曲は素人が真似ることのできる芸能。真似るための条件が整っている芸能。

  レコードをキク・ヨム・マネル (戦後の浪曲教室の隆盛。素人ながら玄人はだしの天狗連。)

 

★「愛国浪曲」は、実際には、どのように聴かれなかったのか?


まずは「愛国浪曲」のこんな一節。

「今の日本は国を挙げ、大君のために益良男(ますらお)が、命捧げて支那の空、銃後の民を心して、新体制の旗の下、ともども進む非常時に、いくら正しい利益でも、私ごとや色酒に、湯水とつかふは何事です。しがない芸者のあたしぢゃとて、ラジオニュースや新聞を、日毎聴くたび読むたびに、何時も感謝で泣けてくる」

(『浪花節 流動する語り芸』より)

こんなセリフは演じるほうも、聞かされるほうも、かなわない。あからさまの国家からのメッセージ。

客ウケしなければ、いかに国家推奨の浪曲であっても、演じつづけるのは難しい。

おしなべて、愛国浪曲の寿命は短かったという。

つまらぬ愛国浪曲は客に「浪曲」とはみなされず、ある愛国浪曲発表会の場で、客席から、「浪花節(浪曲)をやってくれや」という声が飛んだという事例が『浪花節 流動する語り芸』に紹介されている。

さらには、「語り芸」においては、聴き手の側に、おしつけがましい国家からのメッセージをよけて物語を聞く自由がある、耳に入る語りの声を自分の想うままに解釈して受け取る自由がある、自分の好きな部分だけを耳をダンボにして聴く自由もある。

あるいは、言葉は戦意高揚の勇ましいものであれど、演じる側がそれに悲哀に満ちた節をつけるならば、その悲哀のほうに聴き手の耳は反応する。

声というものは、いかに枠をはめたとて、逸脱するのである、ということを『浪花節 流動する語り芸』の叙述は示唆する。

語り手にとっても、聴き手にとっても、声は逸脱するものなのである。

それこそが声の危うさであり、声の力であり、声の魅力なのである。

2018-06-28 『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 メモ

いきなり第7章。「歴史の限界とその向こう側の歴史」  大事なところです。 ここでは、西洋出自の<普遍的>歴史学が直面する歴史の限界と、その向こう側に広がる普遍化を否定する歴史の数々、いわば「危険な歴史」の位相が語られます。


まずは、章扉に置かれたこの言葉。噛み締めるべし。


アボリジニのあらゆる情報システムにおいて、知識とは特定の場所と人々にかかわっています。別の言い方をすれば、アボリジニの知識体系で最も重要なのは、知識を普遍化しないという点です。知識が特定化されて地方化しているという事実は、その知識が価値をもつための鍵なのです。(デボラ・B・ローズ) 


ここで語られているのは、土地を失った知識、命を育む風土を知らない知識とは対極にある「知識」ですね。

「命」とは土地に根ざして生まれ育まれ生き死んでゆく、あくまでも「具体」なのだということ。

cf 管啓次郎『野生哲学』。ここで語られていることとも強く響き合う)



●『ラディカル・オーラル・ヒストリー』は、歴史が歴史学者によって独占され、<西洋性=普遍性>が当然の前提となっている、その前提に果敢に揺さぶりをかけてゆく。

それは、

アカデミックな歴史学とは異なる場所で営まれている多様な歴史実践を、神話や記憶といった歴史の外部へと排除せずにとりあげる試み」



●扱われるのは、「普遍的歴史」に対する、オーストラリアのアボリジニであるグリンジの歴史実践としての、「地方化された歴史」、「超自然的な歴史」。具体的にはグリンジによる「オーストラリア植民史」。



●グリンジの歴史物語りには、明らかに史実とは異なるものがある。

・グリンジ・カントリ―には来なかったキャプテン・クックが、グリンジの者たちを撃ち殺したとされている。

・キャプテン・クックをめぐってはグリンジ内に複数の物語がある。

・グリンジの歴史実践においては、一見相互に矛盾する複数の歴史物語が共奏することが多い。

  

それゆえに、このサヴァルタンの語りは、アカデミックな歴史としては受け入れられないことになる。


<地方化された歴史>

全体性を想定しない断片

<普遍的な>歴史時空に還元不可能な歴史

地域社会の歴史ではなく、地域社会化された歴史

アカデミックな<普遍的>歴史学により拒絶される<断片的な>歴史。

しかし、これは<間違った歴史>なのか?


「歴史学者が「その歴史は間違っている」と語るとき、そうした発言がいかなる知識体系に条件づけられているのか?」

「アカデミックな歴史時空からのみ発話する研究者は、はたしてグリンジの語る歴史が正しいか間違っているかを判断できる立場にいるのであろうか」

「その判断は、いかなる権力・真実の準拠枠のうちになされているのだろうか」


「このようなアボリジニの人々による歴史実践が我々に突きつけているのは、歴史時空の根源的多元性であり、西洋近代を普遍化することに取り憑かれてきたアカデミックな歴史の限界である」

「こうした「危険な歴史」を「間違った歴史」として排除することは、アカデミックな知の権力が世界にひろがる多様な歴史時空を植民地してゆく営み以外の何ものでもない。」



<ポスト世俗的な歴史叙述></

1924年 ウェーブヒル牧場の洪水は、グリンジの男性がレインストーンを使って降雨を惹き起こした」とする歴史解釈をアカデミックな歴史学は許さない。

人類学的解釈をすることはあるだろうが、その事実については信じていない。

そこには歴史学にとって「還元不可能な多元性」がある。

近代化=世界の脱魔術化は、世界を支配する唯一の原理か?

「歴史学者であっても、世俗的で均質な歴史時空とは異なる、神や精霊が行為する時空にもその身を同時において生きているのである。たとえそれが、近代の公共世界から周到に排除され、生活世界の中で<断片化>されているとしても」


★ここで重要なのは、長い長い人類史のなかで、人間の生きる世界、人間の思考、人間の活動において、「聖性」はずっと決定的に重要なものであったということ。人間が「聖性」を省みなくなるのは、西洋近代が世界をおおいはじめた、たかだか100年〜200年くらいのことだということ。

とはいえ、「人間の思考や活動にとって、聖性は過去のものではない」 byエリアーデ

cf) 石牟礼道子文学世界。

文学において既にその核心において起こされている「聖性」の蘇生、「聖性」の語りは、保苅のいう「ポスト・セキュラリズム(ポスト世俗主義)」への流れを既に体現しつつあるのではないか。

もののけ姫千と千尋、ナウシカ、これらジブリが差し出した世界も、この世界の聖性に焦点を当て直したものとしてとらえ返してみる。)


「ポスト世俗主義がめざすのは、超自然的存在あるいは霊性と呼ばれているものを、世俗主義者のように公共世界から排除せず、しかし原理主愚者のように普遍化もせず、深く多元的な世界の相互交渉を促進する地平を切り拓く作業である。」




<クロス・カルチュラライジング・ヒストリー>


ヨーロッパを地方化し、そして、「歴史の詩学」を試みること。

●歴史の詩学とは?

「過去に関する知識は、すべての人々がそれぞれの文化や社会のシステムのもとで表現してきた。……多数の文化があるように、多数の歴史があるのだから、その形式や構造や機能に応じてエスノグラフィックな記述をおこなう必要がある。歴史の詩学とは、こうしたエスノグラフィックな記述のことである。」


保苅実は、多元的歴史時空を多元的に記述するためのアプローチとして「歴史の詩学」を捉えている。

(ここで思考をクラストルの『国家に抗する社会』に接続してみる)


●歴史のハイブリッド化。

グリンジの歴史実践は西洋近代の到来以来、ハイブリッド化されてきている。

しかし、一方、歴史学のほうは十分にハイブリッド化されてきたか?

非対称。

アカデミックな知の権力作用。

それを支えるグローバルかつナショナル政治経済構造のゆえに。



<歴史経験への真摯さ>


歴史的真実とはただ一つではなく、無尽蔵にあるものである。

一方、歴史への真摯さは、歴史を探索する主体と探索される客体との関係性のうちにある。

「歴史的真実」から「歴史への真摯さへ」(テッサモーリススズキ


「グリンジで営まれている「地方かされ」「超自然的な」歴史分析において、大蛇もクックも<経験的な歴史への真摯さ>のうちにある」



「<経験に真摯>であるという特徴こそが、グリンジの「危険な歴史」が、例えばホロコースト否定論者が営む「間違った歴史」と根本的に異なる点である。



<歴史的真実>は、しばしば閉鎖的で排他的になる。しかし、<歴史への真摯さ>は、他者に対して開かれている。

「そう、アボリジニのやり方と白人のやり方を両方学ぶべきだ。世界のどこからきた者であっても、共に暮らし、共に働くべきだ。これはとても困難である。でも少しずつ、お互いを理解しあってゆけばいい」(グリンジの長老 ミック・ランギアリ)



保苅実はきっぱりとこう言う。

「アカデミックな歴史学は、「危険な歴史」が突きつける<経験的な歴史への真摯さ>と交渉関係にはいるべきである。」


十九世紀西洋の産物である<普遍的>歴史学の限界を隠蔽せず、それをあからさまに記述することが重要なのではないか。


それは、「永続的緊張関係にある、互いに矛盾する二つの視座の対話」なのであり、こうした対話を思索的に営むのが「ヨーロッパの地方化」論(チャクラパルティ)であり、これをエスノグラフィックに行うのが「歴史の詩学」(デニング)であるならば、クロス・カルチャラライジング・ヒストリーの企ては、この両者の交錯点にたち、「危険な歴史」をめぐる位相をエスノグラフィックに叙述しつつ<経験的な歴史への真摯さ>をつうじた多元的歴史時空の接続可能性――ギャップごしのコミュニケ―ション――をどこまでも粘り強く模索しつづける営みである。

2018-06-26 『国家に抗する社会』(ピエール・クラストル)  メモ

権力について、真剣に問うことなどできるのだろうか。 という問いから第一章「コペルニクスと野蛮人」ははじまる。

この章にかかれていることは、冒頭に置かれたエピグラムの言葉に尽きるのだな。

「旅に出て、少しも心を改めることのない人があった」という話にソクラテスはこう答えた。「ありそうなことだ。その人は、自分を携えたまま旅をしたのだ」(モンテーニュ


権力をめぐる西欧的思考を再検討することもなく民族学が受け入れていることへの疑問をクラストルは呈する。

「権力の真理と存在は暴力の中にある」というのは普遍なのか?

強制力もしくは暴力が不在の時、権力について語ってはならないのか?

たとえば、アメリカインディアン首長は「権力」を持たない。

あらゆる命令―服従関係の存在しない極めて多数の社会が一群をなしている。

政治権力が「萌芽的」「生まれつつある」「ほとんど発達していない」

「こうした語法は正確に言えば何を語り、それが語ることを、どのような場所から語っているのか」


つまり

「政治権力を対照すべきモデル、それを計測すべき単位が、西欧文明によって発展、形成された権力の観念によってあらかじめ構成されている」


そこでは、進化論的に未開(権力なき社会) ⇒ 文明(権力のある社会) という発想で「権力」は語られる。

(無条件に西欧は普遍であると考えるこの特殊な思考から脱せよ!)


◆クラストルいわく、

(1)権力のある社会と権力のない社会という二分ではなく、強制的権力と非強制的権力という二分で考える。


(2)強制としての政治権力(命令ー服従の関係)は、真の権力の唯一のモデルではなく、ひとつの特殊ケース、例えば西欧文化といったある一定の文化における政治権力の具体的現実化なのだ。これだけを他の異なる様式を説明する原理として特権化すべき科学的根理由はない。

(3)政治制度のない社会においてさえ政治的なものは現存し、権力の問題は提起される。権力なき社会は存在しない。



★ 強制的権力をもった社会は歴史社会であり、非強制的権力をもった社会は歴史社会である。


「政治権力とは何か。ということは、社会とは何か、という問いである」

「非強制的権力から強制的権力への移行はなぜ生じるのか。ということは、歴史とはなにか、問うことである


コペルニクス的転回が問われているのだ。というのも、現在に至るまで、ある意味で民族学は西欧文明を中心に、いわば求心的運動によって未開文化を回転させてきた。われわれにはパースペクティブの完全な逆転こそが必要である。

第二章  いったん頭から西欧的な権力の思考を外したところから問いを立てる



「権力行使の手段をもたぬ権力とは一体何なのか?」

首長に権威がないのなら、首長は何によって定義されるのか?」



1.首長は「平和をもたらす者」である。

  (戦時にのみ強制力をもつ権力が出現する。戦時首長)

2.首長は自分の財物において物惜しみをしてはならない。

  (財を贈るために最も激しく労働に励むリーダー。報われない贈与)

3.弁舌に巧みな者のみが首長の地位を得ることができる。

  (語る者こそが首長である。誰に聞かれなくても語る。)

4.首長は多くの妻を持つ特権がある。

 (集団から首長への代価なき純粋な贈与。)


★2〜4は、「社会構造と政治制度の平衡を保つ贈与と対抗贈与の全体の規定」である。

★社会はまず、「財」と「女性」と「語」という交換の3つの基本的レベルによって規定される。

★ところが、それは互酬的な交換ではない。

 「財」「女性」「語」は交換の記号ではなく、純粋な価値物として把握されることになる。

 「首長」は、「彼において女性と語と財の交換が中断される者」と呼ばれる。

      

 「権力」とは「交換の断絶」として定立されている。

(これは俗な表現で言うなら、権力の座にあることの旨味などまったくない状態だろう)。

  

 

しかし、「法外な特権な付与されたひとつの役職が、その執行力において無力であるということは、どのように理解すればよいのだろうか」。


 「この社会では権力は何ものでもない」「集団がそれによって権威を根底から拒否し、権力の絶対的否定を表明している」


なぜ?

クラストルは言う。

「この権力の拒否に自らの全体を賭けているのは、文化そのもの、自然からの際の上限としての文化そのものに他ならない」

「文化は自然に対し常に変わらぬ深さをもった否認をつきつけはしないだろうか」

「拒否における同一性からわれわれは、これらの社会が権力と自然を同一視していることを発見する」

「文化は権力を自然の再出現として否定する」

          自然⇔文化  文化⇔権力 

             文化⇔自然・権力


「これらの社会は、権力の超越性が集団にとって死命を制する危険を内包していること、また、外部にあって自らの正当性を創出する権威という原理が、文化そのものに異を唱えることを、いち早く感じとったのだ」


「富とメッセージの供給者としての首長は、彼が集団に依存していること、彼の任務に下心がないことを不断に表明する義務を負わされていることを明らかにする以外の何事を行なっているのでもない」



ここで重要なことは、

こうして権力が否定されている状況、集団における「権力の外在性」と「言葉の孤立性」が対応すること。

権力の言葉が「返答を期待しない厳しい言葉」であることは、そこに「権力の優しさ」が表れているともいう。


なにより重要なのは、

「孤立の裡に発せられる首長の語りは、記号というよりは価値物として語に接する詩人の言葉を思わせる」ということ。


集団の枠の中の交換の記号から脱した言葉とは、それは実のところ、根底から世界を語る言葉/「神話」と接続するものであり、生きつづける世界にその力を日々注いでゆく」語り」/「詩」につらなってゆくものなのではないだろうか。  と、クラストルの解釈を、神話/詩/文学に寄せる思いも込めて、そのように受け取りたい私もいる。


つまり、集団の外に置かれた、集団の文化によって否認された「権力」の場に詩人がいるという、詩人こそが真の権力者(=無冠の権力者)である世界を、クラストルが差し出す「「権力なき首長」のイメージの中に見る(というより、見たがっている)私がいる。

クラストルは第二章をこう締めくくる。

インディアンの文化、魅惑にみちた権力を斥けてやまぬ文化、そこでは首長の豊かさは集団にとって眼ざめたまま見られる夢なのだ。そして、逆説的性質をもった権力が、その無力さにおいて称えられるという事態は、文化が自らに示す配慮と、自らを超えようという夢想の表明そのものなのだ。神話のイマゴとしての部族のメタフォール、それがインディアンの首長なのである。」

いきなり 第七章 「言葉の義務」に飛んで読んでみる。「語ることはまずなによりも、語る権力を持つことだ」。これが冒頭の一文。

「君主であれ専制王であれ国家元首であれ、権力者は常に語る者であるばかりでなく、正統なる言葉の唯一の源泉なのだ」


「それは命令(戒律)と呼ばれ、命令を実行する者の服従以外のなにも望まない」

「あらゆる権力奪取はまた言葉の獲得でもある」


「国家を形成する社会」では言葉は権力の持つ権利である。

一方、部族の野生の生活/未開社会の宇宙/国家なき社会では、言葉は権力の義務である。

語る者としての首長の義務。


「首長の言葉は、耳を傾けられるべく発せられるのではない。首長の語りに注意を払う者はひとりもいない」

「未開社会、国家なき社会においては、権力は首長のもとにない。だからこそ、その言葉は、権力の言葉、命令の言葉たりえない」

「未開社会は、首長ではなく社会そのものが、権力の現実の場なのであり、したがって、分離された権力を拒絶する場なのだ」


「未開社会は、暴力こそ権力の本質であることを必然的に熟知している。権力と制度、命令権と首長を互いに切り離しておくという配慮もそこから生まれてくる。言葉の場こそ、こうした分離を確かなものとし、境界線を引くものの他ならない。


「首長の活動を、言葉の領分すなわち暴力の対極の位置に封じ込めること。それによって、部族社会は、あらゆるものを本来の場に留め、権力の軸が社会そのものに依存し、力の移動によって社会秩序がひっくり返らぬよう保証しているのだ」


言葉の人が権力者になることを妨げる保証。


※しかし、今の日本のように言葉そのものが殺されていったとき、言葉の人と権力者の親和性自体が全く無化されていったとき、権力はむきだしの暴力になるのだろう。言葉ではどうにもならない制御不能の暴力。

第11章  「国家に抗する社会」   未開社会は国家なき社会である。 この一文ではじまる。


これを、未開から文明へという進化論的な発想でとらえれば、西欧近代の思考の枠のなかで、西欧近代の外の世界を説明することにしかならないだろう。

国家をもつ社会が文明の到達点か?  まさか。

「未だに野蛮なままにある人々をそうした場に留めているものは何か?」


必要がなかったからだ。


「人間が自分の必要を越えて労働するのは、強制力による以外にはない。ところがまさにこの強制力が、未開の世界には不在なのだ。この外在的力の不在こそ、未開社会の性質を規定するものなのだ。」

「未開社会は(中略)労働を拒否する社会」である。

「未開社会の人間にとっては、生産活動は必要の充足ということによって計られ、限定されている」


「本質的に平等社会である未開社会では、人間は自らの活動の主人、その活動による生産物の流通の主人なのだ」


「未開社会は、そこでは国家が不可能であるからこそ、国家なき社会なのだ」


そして、「権力なき首長」、「言葉の義務」を負う者としての首長、その本質としての権威と疎遠なひとつの制度、「権威なき首長制」をとおして、未開社会における権力のありよう(それがいかに拒否され、封じ込められているか)を考えることが、「国家なき社会」を考えることにつながる。


同時に、クラストルは、予言者の言葉に熱狂し、予言者の命令に従ったトゥピーグアラ社会のエピソードを語り、こう言う。

「予言者の語りの内には、多分権力の語りが胚胎しており、人々の欲求を代弁する先導者の高揚した巣があの中に、専制主の形象が沈黙のうちに書くっされているのかもしれない」


予言者の言葉は、権力なき首長の、「言葉の義務」として語り出される言葉とは明らかに異なる。



『国家に抗する社会』の締めくくりは、この言葉。

「予言者の言葉、この言葉の権力。そこには、まさに権力そのものの源泉、「言葉」のうちなる「国家」の始原があるのだろうか。それは人々の主人になる以前にまず魂の征服者となる予言者なのだろうか。 そうかもしれない。しかし、予言者の運動のこの限界的経験(中略)においてさえ、野蛮人はわれわれに、首長が首長たることを妨げるための持続的な試み、統一化のの拒否、「一」そして「国家」の祓い捨ての作業を示してみせているのだ。歴史をもつ人々の歴史は、階級闘争の歴史である、といわれる。少くともそれと同じ程度の真理として、歴史なき人々の歴史は、彼らの国家に抗する闘いの歴史だ、といえよう」


※ そして、未開社会における「歴史」。西欧近代の「歴史」の概念では捉えきれない、彼らの「歴史」実践というものがあるのだということを、『ラディカル・オーラル・ヒストリー」を参照しつつ、考えてみること。

2018-06-23 6月23日 沖縄慰霊の日に思う 声と近代。

きのう、津軽イタコの「お岩木さま一代記」を聴いた。


いや、イタコが語るのを聞いたわけではないんです。

1931年に採録されたテクストをもとに、「声」の表現者である井上秀美さんに、「お岩木様一代記」を演じてもらった。

これが実に面白かった。


今回「お岩木様一代記」を口演した井上秀美こと井上イダコは、遠州の生まれです。遠州弁は、聞けば、語尾に「〜だら」とつけたりするのが特徴らしい。当然、こういう分かりやすい特徴とは別に、標準語慣れした耳には聴きとれない微妙な音や、標準語とは異なる抑揚がある。

井上イダコはかつてアナウンサーでありました。アナウンサーといえば、標準語スピーカーの象徴みたいな存在ですね。在籍していたのは静岡の放送局です。なのに、遠州訛りの気配が放送用の標準語に滲むのを厳禁されていた。そのときの違和感を、井上イダコは、今回南部訛りのイダコを演じて、「ああ、あれは声を封じられた怒りだったのだ」とはじめて気づいたのだと言いました。

それは、「声を封じられるとは、その声を発する生きている肉体/命もまた封じられている」ということに気づいた、ということであります。

遠州弁を身に染み込ませ、標準語でそれを封じた者が、イダコを演じるために南部弁を身に染み込ませようとしたとき、どんなことが井上イダコに起きていたのか?

もちろん最初は南部弁ネイティブが読む「お岩木様一代記」をお手本に耳コピしていきます。しかし、いくら耳コピして真似しようとしても真似できない音があります。限界がある。微妙な、曖昧な、アでもオでもウでもエでもイでもないような複母音。周波数が違ってしかとは聴きとれないような語頭や語尾やひとつの単語のなかに紛れ込むくぐもった「ン」。とか、いろいろ。

それはひたすら真すれば、いつかはできる。といようなものではない。というのも、それを発音する筋肉を持っていないからです。南部弁で語るには、南部弁を語れる筋肉を持つ体に肉体改造しなければいけない。

私たちはうっかり忘れて果てているけれど、声は筋肉です。肉と血と骨のたまものです。肉と血と骨は生まれ育った風土のたまものです。

井上イダコは、そのことに気づいた。そして、浴びるように南部弁を聴いては必要な筋肉の動きを探り、筋トレをした。(というと、なんだかすごく近代的な物言いで、やや気になるが、それはそれとして)、ともかくも、そうして、南部弁を我が身に降ろしていった。

そのとき、標準語に縛られていた井上イダコの肉体/命は、南部弁に向かって解き放たれていったかのようでした。

それは同時に、かつてみずから封じようとした遠州弁に向かっても、いまいちど開いていくことだったのでした。

そのとき、井上イダコは、遠州弁の気配すら禁じられていたアナウンサー時代に自分が抱いていた感情が「怒り」であったことに、はじめて気づいた。ということだったのです。


ああ、標準語というのは、まさしく、声の世界における、近代の暴力性のあらわれのひとつなのだなぁ。

知らず知らず恐ろしいことだなぁ。

つくづくと思いました。


この声の暴力が、たとえば植民地や植民地の民に向けられたときの無惨を、私たちは知っているはずです。

朝鮮・台湾・南洋・満州はもちろん、東北でも、沖縄でも、それはそれは無惨であったことを。

そして、近代日本とは、その暴力性を忘れよう忘れようという潜在意識の中にある「忘却の共同体」であることも、ここ日本に生きる私たちは、実はよく知っているはずなのです。

2018-06-19 金石範の作品から (メモ)

 百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない、とアイヒマンは言った。


金石範は、短編小説の中でこう書く。

「『……狭い島の中で三人に一人が、それも八万人も死んだでしょう。(中略)いまでこそ八万だとか数字の上でのことでいうけれど、あたしには限りない一人一人としてそれがはっきり見えてくるのよ』」

(「夜」より。 済州4・3から日本に逃れてきた蘭女という若い母親の言葉)


「……暗い川面に裸の死体が一つ浮んでいた。人間は一人ずつ死んで、死体は一つでないといけないと思う。ふるさとでは道ばたの石ころみたいに見馴れた死体だった。天地が人間の死骸で埋まった。無造作に殺されて、山と積まれた死体を探しにくるものもいなかった……」

(「夜の声」より。 済州4・3から逃れてきた男の、橋上での胸中の声)

2018-06-18 近代と時代についてのメモ

近代という仕組みは、きわめて高機能の忘却装置なのだということ。

人間が日常の中で具体的に体験して、物事を考え、記憶にとどめ、記憶を伝え、個々の生が断片化せずに生きていくことのできる範囲というのは、たとえば、昔、風土の神、土地の神、田の神、山の神、水の神等々、小さき神々を祀り、その神々の神威が及ぶ範囲のみだったのではないかと思うのです。

そういうことを思う私は、小さき神々と人々が分かち合う記憶ということを考えているわけです。


神というのは、一種の記憶装置ですね。

土地土地の小さな祠の謂れというものは、神話化、もしくは伝説化されたその土地に生きた人びとの記憶ですね。


人間というのは、観念では生きられないけれども、だからこそ、みずからの記憶を「小さき神々」のような、それぞれの土地の具体的な「物語」に委ねる、ということを長い歴史の時間、やってきたように思うのですね。


この小さき神々を一網打尽に殺した[虐殺装置]、そして[忘却装置]が、近代という装置なのだろうと、近頃ますますつくづく思います。

本来、「国家」とかその「歴史」とかその「神」とかいう観念はあまりに大きすぎて、それを日々の暮らしの中で血肉としていくことはひとりの人間にとって困難であるけれど、一方で、記憶のよりしろ/物語のよりしろ(小さき神々)を失った人間にとって、つまり記憶喪失のよるべない人間にとって、よるべない心と肉体を丸呑みしてくれる大きな観念ほどありがたいものもないのかもしれません。

人間の思考というのは怠惰で、日々の生活というものは本来的に習慣づけによる条件反射で成り立っているものでもありますから、手取り足取り条件付けをしてくれる装置には、人間に大変馴染みやすいものでもあるのでしょう。

しかし、いったい、いまこの近代社会に生きている誰が、国家の日々の動きを把握し、歴史の流れを認識し、みずからの行く末を確かに知ることができるのでしょうか?

ほぼ誰もわかっちゃいないですね、それでも日常は進んでゆく、過去と現在と未来に対して盲目の状態のまま、自分が盲目であることにも気付かずに、日常は進んでゆく。

ほとんどの人間は大きな観念を捕まえて使いこなすよりも先に、観念に捕まって使いこなされるばかりなのでしゃないでしょうか。

とてつもなく恐ろしい。

だから、生きてゆく命にとってなにより大切なのは、

自分の身の丈で、暮らしの範囲で、日常の流れの中で、記憶をつなぎ、今を語り、未来を眺めやる、そのための「場」をよみがえらせること、大きな神(=物語)に放逐された小さな神々(=物語)をわれわれのもとにいま再び呼び寄せること。

その昔、虐げられたモノたち、踏みつけられたモノたち(それは人間とは限らない。ケモノだだって虫だってそのなかにいる)が、苦難を乗り越えて、小さき神になって、まつろわぬ記憶を神の物語として残したことを思い起こします。

(その昔、旅する芸能者/宗教者が運んだ、たとえば「山椒太夫」のような物語は、土地土地の小さき神々の依代でもありました。小さき神々は旅する「声/語り」が物語を語り出す「場」に降りて来て、いまここで語られている物語を自分自身の物語に書き換えてゆく、「山椒太夫」は、それぞれの土地でそれぞれの小さき神々の物語に再構成されてゆく、というようなことが、とてもありふれたこととして繰り広げられていた。それは、民草が主となって繰り広げられてきた、血も肉も声も通う「歴史する」風景である、といってもよいのではないか)

小さな神々とは、われわれの命のことなのだということを、私はいま強く強く思い起こしています。

と、そんなことを思っているときに、金石範のエッセイのの中で、ナチスの忠良なる官僚アイヒマンの言葉に再会する。

そうだ、この言葉のことをすっかり忘れていた。

「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない」

確かにそうでしたね、近代とは統計の時代、数字の時代でしたね。

百万人の魂も靖国に投げこめば、分離不能かつ抽象的な一つの護国の神になるという、溶鉱炉のような数学もあるのでした。

統計のなかから、命をすくいだす。抽象化された命に息を吹き込み、血と肉を蘇らせる。

それは、旅する声/語りを失って久しい近代世界に生きるわれらにとって、「文学」が必要である何よりの理由であるようにも思うのです。


(殴り書いたこの項、ひきつづき思考)

2018-06-13 「お岩木様一代記」メモ

昭和6年(1931) 国学院大学高等師範部三年の竹内長雄は、青森県南津軽郡女鹿沢村下十川字川倉コに住むイダコ桜庭スエを訪ね、『お岩木様一代記』『十六ぜん様』『猿賀の一代記』を採録した。


<『お岩木様一代記』についての柳田國男の感想>


・語り手の文作の多いこと

・是非とも守るべき伝承の少なかったこと

・之に加ふるに忘却と誤解あり

・聴手の曲従もしくは容認

・新しい文化の意識せざる影響

・ハンカチとカバンは殊に驚く

現代文学の印象がはたらいて居る

・標準語を雅語と信ずる一般の傾向について居る

・古い章句の幽かな記憶がまじって居る

・注意すべきことは三荘太夫は後から付けたして居ること


※ これはそのまま口承の、いまを生きている語りの特徴をそのまま述べたものとも言える。

  語りは生き物だから、常に今の空気を吸っている、語るごとに生まれ変わる。



五来重先生によれば>

●黒百合姫物語が羽黒祭文であるのに対して、『お岩木様一代記』は岩木祭文ともいえる岩木修験の説経祭文が、津軽イタコにかたりつがれたものである。


●説経祭文の片鱗は、その語り出しに現れる。

「国のお岩木様は加賀の国に生れだる私の身の上。私の母親は加賀の国のおさだ」。

 これは、「国を申さば丹後の国、かなやき地蔵の御本地を」(山椒太夫)と響き合う。


●一人称で語るところが古い形である。

●現在津軽では丹後船、丹後の人をきらうというのは、むしろ歌説経や浄瑠璃の「山椒太夫」に影響されたためといわざるをえない。

●霊山の神仏の本地をあらわす形式は中世のものであるから、「お岩木様一代記」は「山椒太夫」よりも古い。

●三つもの山の神の本地を出すのは、それぞれに共通した説経祭文があったのを、一つの物語にまとめたことを暗示するものだろう。

坂口昌明は、「翻弄され、たえず涙にくれる、登場人物の力のなさ、これが急所です」と『お岩木様一代記』の背景をなす『神道集』について語る。

『お岩木様一代記』(坂口昌明編 津軽書房)より


地域の鎮守神の崇高さを称える『神道集』の感覚は、現代の私たちが『お岩木様一代記』を理解するのに大切な、鍵のひとつと思われます。


(『神道集』は)はじめその考え方が比叡山系の寺院周辺から流れ出した段階から、山々の霊験にまつわる縁起にまで成長するには、物語僧・琵琶法師比丘尼・盲僧・聖といった、耳の文芸にたずさわる旅の人々が参加したであろうといわれています。


世界が仏法に包まれている証しとして、里をめぐる山々に、いつかは人が神として迎えられる。苦しみ、悲しみが、放浪のなかでだんだん浄められていく。そのような神聖化をとおして、はじめて解決は訪れるという考え方です。責めさいなむ悪人は悪人で蛇や岩に変身したり、つまりは妨げる神にまつられるでしょう。この考え方は、どんな山間の僻地をも中心に変える精神的な親和力を生みました。

★「この考え方は、どんな山間の僻地をも中心に変える」。これはすごく大切なところ。近代以前、「声」と「語り」と「世界」の関わりは、これなしには語りえない。だからこそ、近代化の過程で、権力を持つ者は、声や語りに縛りをかけてきたのであり、だからこそ、いま、「声」と「語り」を近代の彼方の世界に向けて呼び出すことの意味がある。


『神道集』は相当長いあいだ、とりわけ上州を唱導の拠点として山間にらくわえられ、ゆるやかにただよいながら、いつしか聖なる地下水を東日本の各地にしみ通らせていったようです。

生埋めにされたあんじゅが姫

●母はおさだ、加賀の生まれ。

(加賀からの移民という、当時の人の流れを想起させる)

●兄はつそう丸

…(説経「山椒太夫」から来た名前だろう。在地の神が物語を乗っ取る

●姉はおふじ、

●最後があんじゅが姫。

(安寿姫でもあり、庵主が姫でもある。母さだと庵主の不貞を疑われた子である


※この乗っ取られた「山椒太夫」は、イタコの語りによって、生れるやいなや3年間父によって生き埋めにされた「あんじゅが姫」が岩木山の神になるまでの険しい旅の物語と転生する。

※ 庵主が姫。もっとも貶められた名前が、もっとも聖なる名前「お岩木様の神あんじゅ」へと転生する。


※三年間絹の下着に包まれて。これは、三年間胞衣に包まれて、と言い換えようか。


不貞を疑われ、あんじゅが姫を生き埋めにされた母おさだは、目を泣きつぶす、離縁される。

(おさだの境涯は、盲目のイタコの境涯と響き合う)

母おさだの放浪

●おさだを憐れんだ村の長者が、からの国の加藤左衛門を紹介してくれる。

(からとは唐なのか? 加賀なのか?)

(加藤左衛門とは、五大説経の一つ「刈萱」の主人公の父の名前ではないか。近代以前、誰もが知っていた説経系の物語は、相互に溶け合っているようではないか?)


●おさだは「竹のこじりに身をすがして」歩き出す。

(竹の杖は盲目のおさだの闇の杖。同時に、能でも説経でも竹の枝は狂女のしるし。)


●加藤左衛門に雇われたおさだは、粟畑で鳥追いに。

(「つそう丸ぁ恋しいじゃほいほい、埋げられたるあんじゅが姫ぁ恋しいじゃほいほい)


※「御免なさいど腰かげで/奥から加藤左衛門が出で来て/若い姐さんどぢがらおいで」

このやりとり、イタコの生身の声が聞こえるような語りの妙味

姫復活と丹後流し

「死んだものだべが/生きだものだべか/掘りあげで見れば/私の身の上は/死んだわけでもなし/成長(おが)つて笑ってる身体である」


なによりすさまじいのは、ここの部分。

土の中で育って、笑っている体。

この体が、たった三歳の体が、おそれおののいた父に板船に乗せられて、丹後へと運ばれる。

山椒太夫のもとにたどりつく。

その旅の物語を、イタコはいきなりあんじゅが姫の声で語りだす。神の声で語りだす。


「童児神はたいてい一人ぼっちの棄て子である」(神話学者カール・ケレーニイ)


「あぶらおんけと三遍うだがげだ」

(あんじゅが姫は苦境に陥るたびに真言を唱える。正しくは「あびらうんけん」。大日如来の真言。地・水・火・風・空を表す。最強のおまじない。修験的世界の響き)

さんそう太夫登場 ~ あんじゅが姫の試練〜

「太鼓三味線の音がする/あれの音ではないかと/急いで行て見れば/丹後の国の奥の山で/さんそう太夫が先ぎだちして/天の明神様弟のふりやいが悪い為に/石のから戸に身体をおかくれ致した時分に/さんそう太夫が太鼓三味線で/つゆのお神楽あげでら音でありました」

※さんそう太夫とのこの出会い方は実に面白い。神楽をあげるさんそう太夫。しかも三味線。ここには座頭の三味線の響きが入り込んでいるのだろうか。あるいは坂口昌明が言うように、大津絵の「三味線弾く鬼」のイメージがまぎれこんでいるのだろうか。


あんじゅが姫は、このさんそう太夫に雇われて、無理難題を吹きかけられて、

「出来ないとすれば/蒲をたいで逆さねつるして/火あぶりに責められる」

※語り手のあんじゅが姫はまだ3歳ですからね。実質、土から出てきたばかりで、新生児に等しいからですね。

●試練の数々は以下の通り

1.粟も米も搗けないと、火あぶりで責められる。

2.両手の指ぜんぶから血を流すほどに急いで空豆の皮を剥いてしまえと責められる。

3.向こうの山から石と土を背負いだして、七日のうちに七つの竈を仕上げろと責められる。

4.目の粗い籠で水を汲めと責められる。

5.爪で葭を十本切ってこいと責められる。

6.七つの釜火を焚いて、裸で裸足で渡れと責められる。


※ これは、釜茹での準備をあんじゅが姫本人にさせるという、「注文の多い料理店」状態? はたまた「ヘンゼルとグレーテル」状態?

「人間だぢや」

※試練に耐えるあんじゅが姫/イタコは既に神の声で人間たちに呼びかけはじめている。


●三才のあんじゅがひめの嘆き

「どうしてわが姿で/石負り土負り致したら/死んでしまるべゃね」

「これに水がはるものだべがと思れば/涙が湧いで来る」

世間の人は/百になても死にたぐないこの身体/母とあへて死んだらのごろぐないが」

あんじゅがひめを救うモノたち

1.三途の川の橋のところで南無大姉様(神)に歌掛け(「あぶらおんけと三遍もうだをかげたるなれば」)、油売りがやってくる!

「この油紙を張って水を汲め」

あぶらおんけのおまじまいが、あぶらうりを呼び出す、という声の力!


2.「咽せ咽せ行て見れば」 墨染のめの和尚様が刃物で葭を切ってくれる。

3.「そごさ燕が飛んで来て/さんそう大夫が居ないから/早く逃ろーと囀る音」

(神の世界に人もケモノも境はない、命は命の声を聴く)

4.丹後の国のあなお寺の墨染の和尚。

  「手前とめるもよいけれども/今にさんそう大夫が来れば/われまで責められる」

  「早く御飯たべで/がばんの中に入れで/屋根のぐしにさげで呉れるから」

(この和尚さまは実に人間的。いるよね、こういう人。しかし「がばん/かばん」とは時空を超えて今の言葉が祭文に入り込む、しょうがない、語り手自身が今を生きているから)


5.「寺の釈迦如来様に/うだをかげだるなれば/奥から如来様出て来て」

  言うこときかないさんそう大夫に、たらいの水の水鏡を覗き込ませて、鬼の本性に気づかせる。

(鬼であることがばれたなら、さんげさんげ/懺悔懺悔、逃げ出していくのは、本名知られた「大工と鬼六」の鬼六のようでもある。)

あんじゅが姫は母を訪ねて旅に出る。

「こんなに困難盡し終へでも/母ど致するものもなし/年は7つの年に/頃は四月の春の頃」

(3つの年から、7つまで、「津軽三十三観音、六十余州/日本全国、西国三十三観音みなかげで」旅したわけです。この放浪は、まるでスサノオの放浪のようでもあります。放浪する神は、疫病を祓い、魔を祓う、荒ぶる神でもあります。たとえば、わかりやすい例をひとつ、お岩木様/あんじゅが姫は、のちのち嵐を起こして丹後という魔を祓う神になりますね。)


またもや「あぶらおんけん」の御利益で、橋をわたって、

「御免なさいと行てみれば/若い姐さん一人の身の上」

これが母のおさだで、おさだは涙で身の上を語り、

「そごで私が/ごめんなさい/母上様ですかと/われぁ この世のあんじゅが姫であります」

母上おどろく、あんじゅ姫のしるしを確かめようとする、でも目が見えない、

「そごで母の右の眼を撫でれば/眼はばつきと開いで/母のおさだも/此処に神がたつたものだべが/世はさがさまねなたものだべが」


ここにあんじゅが姫の神の業がはじめて示されるわけです。目が開くこと、これは盲目の語り手たちの切なる願いでもありますね

「そごで母のおさださん/あんじゅが姫や あんじゅが姫や/わが身体から/神は生れたものだべか」

(このおさだの叫びは、「お岩木様一代記」のクライマックスの一つでもありますね。ひとりの人間の女が、それも盲て、棄てられ、鳥追いをしている、もっとも賤しい者のひとりである女が神の母である。これはまるで聖母マリアではないか)

あんじゅが姫は父を探す旅に出る。

あんじゅが姫が父を探しにゆくと言うと、母は反対する。

寂しがる、悲しむ。

小枝が裂けるつぁ この事か/血の涙ぢぁ この事か」

「そごでもないよ母上様/私は右の小指一本/切って置いて行くから/われぁ来るまで何年でも/これを舐めれば/腹もしきれないし/雀ば追なくても/待ってください」


これは恐るべき指切りげんまんの、母とあんじゅが姫の約束。


墨染の衣に身を包み、竹の杖をつき、何年旅をしても父には会えない。

野に山に野宿を重ねて難儀を尽くして、十四の歳に、三不動様のお宮にたどりつく。

露を舐めて、21日の願掛けの末に、烏帽子・直垂の神が夢のお告げ。


お不動様と言えば修験の神です。あんじゅが姫もお不動様の託宣を受けるわけです。

五来重修験道史研究と修験道史料」によれば、「不動明王山伏の身にのりうつって、予言・託宣、治療などの超人的はたらきをする。これが修験道後即身成仏である」。


※「ふばり山」は「ひばり山」。中将姫ゆかりの地。

 cf折口信夫死者の書

※なにげに「山椒太夫」「刈萱」「中将姫」と、説経的世界観の物語が織り込まれている。


夢のお告げを得て、ついに父と会い、母と会い、姉と会い、兄と会い、

あんじゅが姫は岩木山の神に、

姉のおふじは小栗山、

兄のつそう丸は駿河の富士山の神に。


「神ねなるたて/これ位も苦しみを受けないば/神ねなるごと出来ないし/人間様だぢも/神信仰よぐ用ひで呉れるべし」

2018-06-08 パウル・ツェラン

「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(1958年)から


もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。

(中略)

しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも起こったことに対しては一言も発することができないのでした。――しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができましたーーすべての出来事に「豊かにされて」。


(中略)

詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に――おおらくは心の岸辺に――流れ着くと言う(かならずしもいつも期待にみちていない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなのかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです――何かをめざすものです。

「ハンス・ベンダーへの手紙」(1961年)より


わたしたちは暗い空のもとに生きています。そして――人間と呼べる人間は僅かしかいません。おそらくそのために詩もこんなに僅かなのでしょう。

「詩は……」より(1970年)

詩はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずから曝そうとするものである。

「子午線」(1961年)より

 もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みられている、という点にあるのではないでしょうか?

 わたしたちはみな、このような日付から書き起こしているのではないでしょうか?

そして、どのような日付をわたしたちはわたしたちのものだと言うのでしょうか?

 といっても詩はなんとしても語るものです! 詩はみずからの日付を記憶しつづける、しかも――語るものです。たしかに詩は、いつも自分自身の、ひたすら自分自身の事柄において語るものです。

 

(中略)

まさしくこのありかたをとりつつも別のものの事柄をにおいて語ること、それが古来、詩の願望に属していたと思います、―−まったく別のものの事柄に置いて語ること、であったかもしれません。


(中略)


 詩は「別のもの」へおもむこうとします、詩はこの別のものを必要とします、詩は一人の相手を必要とします。詩はこの別のものをたずねあて、この相手に語りかけます。

 どんな書物、どんな人間も、「別のもの」をめざす詩にとっては、この「別のもの」の姿です。


 詩がおのれに出会うすべてのものに対してはらおうとする心づかいは、つまり細部とか輪郭とか色彩とか、さらには「こきざみなふるえ」とか「ほのめかし」とかに対する詩のひときわ鋭敏な感覚は、思うに、(中略) むしろわたしたちすべての日付を記憶しつづける集中力なのです。


                                                                                                                      •  

★ たとえば4・3だとか、たとえば5・18だとか、たとえば8・15だとか、たとえば9・11だとか、たとえば6・23だとか、とたえば3・11だとか、たとえば5・11だとか、水晶の夜だとか、わたしたちには数多くの特別な日付がある、それはこう書き出してみると、死にまつわる日付ばかりだ、死のほうから詩はやってくるようだ、死のほうから、どこへ?

 生きようとする者たちのもとへ?

生きているだれもが特別な日を持っている、

 生きているものそれぞれの誕生の日が、それぞれに世界のはじまりを告げるものであることを、私達は知っている、アレントが語ったように。

 詩は死者の声をもって、生者が世界のはじまりを呼び出すものとして、語られる言葉なのかもしれない。

 生と死にまつわるすべての日付を記憶しつづける事、語り続ける事、語り明け続ける事、それはくりかえし世界を再生させようとする者たちの対話を願う言葉として立ち現れるのではないか。

 

2018-05-26 金時鐘シンポジウム

基調講演  私の「切れてつながる」


●「君は「空っぽ」だな。」

2010年.大阪・すかんぽにて。

東京で初めてお目にかかって、それからまたすぐに大阪で2回目の出会いのときのことでした。

これは大変ショックな言葉だったのですが、なるほど、確かにそうだ、私は空っぽである、とそのとき私は珍しく素直にそう思ったのでした。

そして、この「空っぽ」認定は、そのときの私にとって大変意味のあることでもあったのです。

思い起こせば、最初に金時鐘という名前を知ったのは、1986年、「ごく普通の在日韓国人」という小編で「朝日ジャーナルノンフィクション大賞」のノンフィクション賞をいただいたときのこと。朝日ジャーナルの編集委員の千本健一郎さんという方から、『「在日」のはざま』で」をいただいた。その本は今も大事に持っています。いただいた当時、しっかり読んだはずです。本の冒頭に置かれている「クレメンタインの歌」のことはこの32年間、ずっと記憶していました。

また、このときのことでもう一つ忘れがたいのは、猪飼野の女性詩人宗秋月さんが「ごく普通の在日韓国人」を評した言葉です。その書評のタイトルは「若者よ、偏狭と呼ぶなかれ、わが贈る言葉を」であります。このタイトルだけでも、若者と名指された私には大変恐ろしかった。

そこには、こんなことが書かれていました。

「在日は列島に存続する限り永劫に、その理を問い続ける存在である。」「(日本人の)視界から消えているのは、(在日者の抱える問題ではなく)「何故、在日があるか」の理であるのだ」

おそらく当時の私は、この言葉を身に染みてわかってはいない。

というのも、32年ぶりに読み返した『「在日」のはざまで』のなかに、私は赤ペンでアンダーラインを引いた上でクエスチョンマークを付けているこんな文章を発見してしまったのです。

「在日世代にとって、在日は決して負い目ではない。在日がすでに<一つの朝鮮>だと言いたいのです。思想信条の違い、政見、信仰の違いがあっても、一つ所を移し得ないで生きている<在日>は、何とすばらしい展望だとはお思いになりませんか?」

何がどうわからなくてクエスチョンマークなのか、今の私にはそれこそクエスチョンマークなのですが、とにかく、「おまえは見事に空っぽだなぁ」と今の私は32年前の私に言わざるを得ない。

目に見えるもの、耳に聞こえるもの、しか知らず、つまりは沈黙の中にこそ記憶はあり、記憶の芯の部分には必ずや語り得ぬ沈黙があるということ、人間の真の歴史とは、沈黙の歴史なのだということを、若い私はまだ知りませんでした。

横浜に生まれ育ち、関西に縁の薄かった私は猪飼野を肌で知ることはなかったし、もちろん済州島もしかとは知りませんでしたし、大学に入学した年の出来事だった光州の名は知っていても、4・3は知らず、それはつまり「在日」であることの核心を知らないということであるのですね。

見えない町は、私には文字どおり見えない町だったということなんですね。


●猪飼野詩集の冒頭の「見えない町」。

なくても ある町 

そのままのままで

なくなっている町


出会えない人には見えもしない

はるかな日本の

朝鮮の町


どうだ、来てみないか?

もちろん 標識ってなものはありゃしない。

たぐってくるのが条件だ。

(抜き書きしたうえに、順番入れかえてます、ごめんなさい)


ええ、手繰っていきますとも。

さて、もう少し『「在日」のはざまで』のページを繰ってみます。32年ぶりに読む『「在日」のはざまで』は、まるで初めて読む本のようです。



●「なぜ祖国だけが絶大なのか。そこにあるからただ従属させられて当たり前か。」

この言葉は、若くて空っぽの私でもよくわかった、ような気がします。むしろそこしかよりどころがなかったように思います。

あの頃、祖国だとか、国家だとか、民族だとか、わけもわからず私を縛るものを振りほどきたい私がいました。そもそも猪飼野あたりには得体の知れぬ民族が蠢いてるような気がして、怖くて近づけませんでした。で、日本の外へ、朝鮮半島の彼方へ。遠くへ、遠くへと旅を重ねた。

2000年に中央アジアで高麗人に会いました。彼らはスターリンによって極東地域から追放された人々です。1937年に20万人近い人々が、ある日突然、モノのように貨物列車に詰め込まれて、中央アジアの乾いて塩を吹く荒野に放り出された。

日本に戻ってきて、この追放の悲劇を一番わかってくれそうな叔父にしたんです。民族問題の研究をしていた人ですから。私はこの叔父が済州島出身ということをかすかに聞き知っていました。が、それ以上のことは何も知らなかった。

 叔父はそのとき、私はこう言ったんですね。

「君は彼らの不幸を語るけど、彼らの不幸と僕の不幸とどっちがより不幸か、比べることができようか」

私はそのとき初めて肉声の4・3の記憶を聞きました。

叔父は文字通り、済州島で、4・3のさなかにたくさんの死体を乗り越えて、自身もあやうく死体になるところを、瀕死の状態で舟に乗せられて日本に密航してきた人だったのです。それから何度も通って話を聞いて、その記憶を受け取りました。けっしてすべてを話すことなど出来ないと言われながら。

つまり、真ん中のところが沈黙の、ドーナツのような記憶なのです。

そして、沈黙に潜む叔父の言い尽くせぬ思いが、金時鐘の長編詩「新潟」には宿っているかのようで、とりわけこの部分を読むと心がヒリヒリします。



●長編詩「新潟」 第二部パート2冒頭

常に

故郷が

海の向こうに

あるものにとって

もはや

海は

願いでしか

なくなる。


2010年、私が済州にゆくと叔父に言った時に、叔父に言われた言葉はいまも忘れられません。私の空っぽの心にその声が谺のようにずっと響いている。

 叔父は私にこう言いました。

「あの島では誰にも心を渡してはならない」

2010年、初めて済州島に渡った時、その手引きをしてくださったのが、その直前に初めてようやく出会った金時鐘さんでした。猪飼野あたりの詩人だから、会えば怒られそうで、なんだかとても怖かったのですが、もう会うべき時がきているように思っていました。ようやく私のほうに準備ができた。

ふたたび『「在日」のはざまで』をひもときます。



●「詩する者」

時鐘さんはみずからを「詩する者」と書いています。不穏です。それは「死する者」の言葉であるようです。詩とは、死者たちの声なのだなと、おのずと語るような言葉です。

私は済州島を訪ねて、人知れず埋められた者たちがいまだ埋まっているかもしれない土の上を歩きました。みしみしと骨の軋みを聴くようでした、カタカタと舌のない震える歯の音を聴くようでした。収める死者の骨もない空っぽの墓、虚墓に耳を当てました。神房の祀りの場にも行き合いました。神房が脈々と語る死者たちの来歴も聞きました。死者たちひとりひとりの物語が神話のように立ち上ってくること、それこそが鎮魂なのだと神房たちのふるまいが教えてくれました。

ああ、そうなのか、少しずつ分かってきました。

死を全うすることすら許されていない死者たちの声で、日本語で歌う。

それが金時鐘の詩なのですね。

(それは「光州詩片」では、痛いほどに明確です)

 

いかに日本語を破壊して、いかに日本語で歌ってみせるのか、その道筋を時鐘さんに指し示したのは詩人小野十三郎だったというのは、もうよく知られたことです。

その文脈の中で、私は先月の東京のシンポジウムで、金時鐘の日本語とは、たとえば石牟礼道子の日本語とは異なり、風土を持たない日本語なのだとも言いました。 

 

それをもっと確かな言葉で言ってみようと思います。

金時鐘の日本語とは、ついに死をまっとうした死者たちが生きるべき、未来の未踏の風土に根差した言葉なのだと。

さらに『「在日」のはざまで』をめくります。



●「意外と私達は、まだまだ村落共同体が存在していた当時の感覚と思考をもって、差別を言っているのかも分からない」

いまや、すさまじいヘイトの時代です。声をあげれば標的になり、生存すら脅かされます。

なんだかもう生きながら殺されてしまっているような気すらします。それは、40年前に金時鐘が既に語っているように、歴史などお構いなし、身体性もなく、ただ観念の遊戯としてのヘイトが人間を殺してゆく。そういうものとしてのきわめて現代的なヘイトに私たちは取り囲まれているように感じます。切実に。

そして、

「こともなく誰もがつながり つながる誰も そこにはいない」

とは、詩集『失くした季節』のなかの時鐘さんの言葉ですが、戦後すぐの頃からずっと、3・11以降はあられもなく、あからさまに、たとえば、「絆」という言葉一つをとっても、ますます内実を失くしていくばかりの言葉と社会に私たちはらされている。

生き抜きたい私達は、死に物狂い声を放つほかない。

それは、おのれの死すらまっとうできなかった、つまりは生もまっとうできなかった者たちの祈り、願い、問いとともにある声であるほかないでしょう。

その声こそが「詩」なのだということを、「詩する者」である金時鐘の声は語り続けてきたように思うのです。

なにより「詩する者」とは、「生き抜く者」である。

私たちの「生」は、死者たちの願いによって、問いによって、沈黙によって、脈々とつながってゆく。

私もまた、私という「空っぽ」に、願いを収め、問いを収め、沈黙を収め、死者たちの声を響きわたらせる。

そして、つながる。詩する者となる。

しかし、「空っぽ」が「空っぽ」であることを自覚したとき、「空っぽ」であるとは、なんと幸いなことであるか! 

ありがとう、時鐘さん!


ここまで語ってきて、最後に、私は、強烈な声の持ち主であったあの人のことに触れないわけにはいきません。詩人宗秋月です。「若者よ、偏狭と呼ぶなかれ、わが贈る言葉を」という言葉を贈られてから30年。それっきりつながることのなかった彼女と、先月の東京での金時鐘シンポジウムがきっかけとなって出会い直したのです。


今は亡き宗秋月さんの声もまた、私という「空っぽ」の中で響きわたっています。こんなふうに。

  


同じ五月に生きながら 同じ位置に居ない事を

共に死ねない生を恥じた。


年を過ぎ 年を重ねて なお鮮明な 五月の記憶から

解き放たれる 母がいるか。 解き放たれる 女があろうか。



この世もあの世もうっかりすると男の声ばかりが幅をきかすものだから、宗秋月の声もますます強烈。こんなふうに。


「人間やねん。生きてんやねん。朝鮮人やねん。女やねん。」


さて、勢いのついたところで、最後は、『「在日」のはざまで』から、時鐘さんのこの言葉で終わりにしようと思います。

「あるだけの荒廃を経て至る、確かな健全さがこの世にはある。信じていい」

2018-05-23 「政治と文学」 金時鐘『「在日」のはざまで』より

これはもう40年ほども前の文章なのだ。しかし、在日する者たちを取り巻く日本の状況は何ら変わってないように見える。いっそう苦しいとも言える。そこにあるのは、「極めて政治的な、非政治の思想」という壁。



<以下、「政治と文学」からの抜き書き>


 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とともに在るものである。よしんば純粋を決め込めるだけの間柄にあっても、その関係の平穏さがかもす非政治的んるものが、私の生存を規制する力に無防備かつ、無関心である限り、その対関係は私を損ねるものとの対峙のうちにあるものと言わねばならない。非政治のはずのものが、もっともきびしい政治力として作動してくるゆえんである。



  日本の練達な詩人たちの言葉を金時鐘は「純粋な『言葉』」と言う。

  身を挺して立ちはだかってくれる“日本の友人”像など、その純粋な「言葉」の光からはどうしても浮かび上がってこないのだ、と言う。


<さらに、抜き書き>


 在日朝鮮人の私と、多くの日本の詩人たちの間には、かくもすぐれて政治的な断層が“文学”の創造課題の中に横たわっている。

 

 それはもはや思想の断層とでも言っていいものである。日本の近代文学の成り立ちとともに日本の自然主義美学観を根づかせてきた、重々たる日常の重なりそのものである。“政治”はいつも、この系譜の培いの中で文学の埒外に置いておかれた「別物」だったのだ。お茶を飲む、手紙を出す、生活綴方から子どもの作文に至るまで、ものの見方、感じ方を取り仕切っているのが実は極めて政治的な、非政治の思想であることをどうすれば皆に分からすことができるだろう。

2018-05-05 「貝祭文の芸態」(小山一成)より  メモ

貝祭文(デロレン祭文)は、平安時代に起こった山伏祭文の血脈を引くという。

近世寛永頃に上方において山伏祭文から派生した「歌祭文」、

江戸の山伏祭文とかかわりの深い「説経祭文」、

その成立を貝祭文から推測するというアプローチ。


<古代の祭文から貝祭文への流れ>

1・そもそも祭文のはじまりは古代、「仏教・神道陰陽道儒教等において、祭祀の際に、祭神や亡霊に奏上する祈願の文」。

2・平安時代になると、「山伏の手に渡り、山伏祭文となり」、

3.さらに中世になると、「娯楽的要素を加えてもじり祭文となって人口に膾炙した」

4.江戸時代寛永の頃、「上方において歌祭文が派生」「巷間の話題をとり上げ、心中物・恋愛物・犯罪物、あるいは追善物等を語り人気」

5.近世後期、「江戸の地において山伏祭文から説経節の後裔なる説経祭文―薩摩派・若松派として盛行―が誕生」

6.そして、貝祭文もまた江戸の地に出現。


<貝祭文とは>

1.デロレン祭文、デロレン節、あるいは左衛門、祭文、金杖祭文などと呼ばれる。

2.発生母体が山伏祭文

3.「小型の法螺貝と錫杖(手錫杖)、それも頭に金環のついていない「金杖」を伴奏楽器とする。

4.独特の白声(しゃがれ声)で物語りを語り、語りの口調は講談ないし浪曲ときわめて近似。


<貝祭文は説経祭文に押されて地方へと中心地を移してゆく>

1.江戸市中に興った説経祭文は幕末より近代にかけて江戸周辺農村部に絶大な支持者を得て盛行。

2.押された貝祭文は、武州北部の岡部・小島等に本拠地を置く。

3.さらに、福島・宮城・岩手・山形秋田・青森等奥羽地方に中心地を移してゆく。


<山形の貝祭文>

1.昭和15年当時、山形県演芸共和会所属祭文語りは、70余名。年中渡世30名。

  農閑期に山形・宮城・岩手・新潟等を海岸地方にまで巡回

2.現在はほぼ消滅。


<上州の貝祭文から江州音頭へ>

1.近世末期文政頃(1818〜)、上州小島大住院(山伏寺。大重院、大寿院とも)に貝祭文の一大根拠地。

2.小島に隣接する榛沢郡岡部村の山伏万宝院(桜川雛山)が江州に旅し、近江国神崎郡神田村において、西川寅吉(後の桜川大龍)に祭文を伝授。

3.寅吉は後輩の奥村久左衛門(初代真鍮屋弘文)の助力を得て、祭文を音頭に仕立てる。


<なぜデロレン?>

1.「演者は本題にはいるまえに、最初は「貝」あるいは「声調べ」を行なう。法螺貝を口に当てて、吹くのではなく、拡声器代わりにし、約五分間にわたって、「デロレン・デレレン」と発声を続けるのである。この特徴的な発声は「デロレン節」呼称の由来ともなった」「口演者が声を調え、座席を落ち着かせるための演奏」

2.しかし、山形の計見一風は、これを「悪魔払い」という呪術的意味を持つと、断言した。

祭文の風景 記憶を語る声から。 

山形の祭文語りにまつわる記憶。



明治末年 越後頚城郡春日野村正善寺  北条時宗氏による。


「私は幼い頃、丈余の雪に閉ざされた旧正月に度々この村の長格の家に連れられて二、三日を過ごした。その村で雪の正月を楽しむ祭文語りを聞いた。大きな家で十畳二間の座敷に炉のある茶の間も通して、村中の人達といっても六十軒位のものだが、皆一家総出で集まってきた。奥の一段と高い床の間と仏壇の在る所に赤い毛布を敷いて、それに二人の爺さんが並んで坐っていた。山袴をはいて、すずかけみたいなものを肩から垂らし、一人は小さな錫杖を持ち、一人は大きな法螺貝をもってゐた。その前には高坏に湯呑みがのってゐた。(中略)時が来ると主だちの合図があってボーボービュービューボウワウワウと法螺貝が吹き分けられ、ヂュンヂュンと錫杖が合の手を入れる。それにつれてデンデンデロデンデロデン豪快な口調で二人の翁から流れ出る。祭文は郷土に因んだ英雄伝みたなものだったが、合の手や一と区切の折に入れる法螺貝、錫杖、デンデンデロデンが面白かった。」




★「山形の祭文語りは、農閑期には一人ないしは数名で県内はもちろん宮城・岩手・新潟までも旅をしていた。巡業の際には警察署で遊戯鑑札を受け、祭文道具や芸名を染め抜いた幕を持ち、毎年巡る順序に従って回村したのである。各村には宿を提供し、世話をやく家があり、そこに宿泊して幾晩か語りつづけるのであった。」(「貝祭文の芸態」小山一成 より)


★山形に根拠を置く旅の祭文語りと越後の瞽女の、旅の宿での交差は、長岡瞽女小林ハルの証言にある。

小林ハルは、旅の宿で、祭文語りの語る「信徳丸」を聞き覚えて、自分の語りに取り入れた旨を語っている。

2018-05-03 芸能者としての陰陽師

陰陽師と言えば、説経では安倍晴明、蘆屋道満をはじめとして、いろんな話に「易学博士」として登場しますね。

幕末に薩摩若太夫系統の説経祭文が多摩や埼玉に広がるにあたって、神楽師(=陰陽師)ネットワークが大きな役割を果した。

それはまずは、

1.薩摩若太夫門下になるということ

・5代目若太夫(板橋・諏訪仙之助)、6代目若太夫(多摩郡二宮・古谷平五郎)が神楽師/陰陽師。

・初代薩摩津賀太夫(入間川・石山美濃守)、その孫娘の婿の小泉因幡守(八王子)も陰陽師


2.神楽師(陰陽師)ネットワークは芸能ネットワークである。

・6代目薩摩若太夫の娘ていが、埼玉の竹間沢の陰陽師前田筑前守に車人形を持って嫁入り。(説経と車人形の竹間沢への伝播)

・神楽師/陰陽師ネットワーク(祓講)を活用した公演活動。(他の神楽師のいる村での、前田筑前や古谷の芝居興行) 


背景には近世になって初めて成立した土御門家による諸国陰陽師一元的支配。そこには、宗教者・芸能者を寺社奉行を介して支配統治の対象にしようとした幕府の意志がある。(『近世陰陽道の研究』による) 

つまり、上記の神楽師/陰陽師たちは土御門家より免状をもらい、官名を戴いている。

保証される陰陽師の主要な職分のひとつに、「占考」もある。(村の占い者、祈祷者、芸能者としての陰陽師)

(近世の土御門家は陰陽道を神道化したので、神楽師とは結びつきやすいのかもしれない。)


<地方の陰陽師の活動の一例:武蔵多摩郡中藤村 指田藤詮の場合>

1.占い

2.病気直しの祈祷やお祓い。薬の処方。

3.地元の神明社金比羅社での神楽の主催。

4.神明社の風祭の主催。

5.旦那場における配札。

6.竈注連。竈に飾る御幣、神札を用意して、竈祓い。

7.村から依頼されて、村の修験とともに、疫神送りの共同祈祷。疫神、邪気を祓うために。

2018-05-02 三田村鳶魚「車人形と説経節」を読む。メモ

説経は大道を本拠地に、説経芝居になっては廃れ、廃れては説経祭文となり、また舞台へ、そして……。


そもそも、説経のはじまりは、

「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)

★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。


元禄(1688〜1704)の江戸には、説経芝居が三座あった。天満八太夫と江戸孫三郎は堺町に、あずま新四郎は霊厳島に、いずれも繁盛であったが、享保になっては、急に棄たれ果て」た。


★一方、元禄版『人倫訓蒙図彙』には、門付説経が三味線胡弓・ささらに和しているところが描いてある。説経芝居が流行る一方で、大道芸としての説経も生きつづけていた。


説経節初り年号知れず、延享(1744〜1748)年中の頃江戸又は田舎祭礼等に折節興行有。(中略)人形は裾より手を指込で一人遣ひにて見合は今ののろま人形也、古風なるもの也、隅田川刈萱抔段物の操致せしを覚へいると老人の物語り言伝ふ」(文化(1804〜)の頃の『江戸節根源集」より)


★説経芝居の記憶はあっという間に消えてゆき、説経節はもとの大道へ。


こうして廃れた説経節を、寛政の頃(1789〜1801)に二人の山伏(小松大けう・三輪の大けう)が大道にて語っていた。


「説経と祭文とは別なものであるのに、説経祭文といって、一つのもののようになったのは、山伏が説経を語り伝えたからであろう。祭文は山伏の得意とする者で、錫杖と法螺の貝とで読むのである」

★そして、また、説経節が大道から舞台へとあがる時代がめぐってくる。

寛政(1789〜1801)年間 山伏祭文を本所四つ目の米屋の亭主 米千が三味線と合わせて語りだして評判になる。

初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。

★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。

◆堺町 薩摩座で操興行へ。

◆嵯峨御所大覚寺門跡)に願い出て免状を頂戴し、説経節家元となる。


この件につき、三田村鳶魚曰く、

説経は昔から家元などというものはない。また家元のあるべき筋合のものでもない。だが三味線にさえ離れた説経を回復し、特に大坂与七郎以来の人形にも有り付かせた若太夫の功績は、彼を一派の権威として、昔はなかった家元に押し立てる理由もあろう」

ふたたび説経祭文は舞台から離れてゆく。多摩の農村へ。車人形へ。

<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫

「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」

浜太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。

三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。


「説経が忘れられたようで絶えないのは、芝居のお客にも寄席のお客にも離れて、いまだ生命が尽きないためである。それは大道芸として存在し得られたからだ。それはまた尻切半天の浜太夫を生命とするわけでもあろう」


「村落に入った説経節は、農間の娯楽として傾倒され、田夫野人の嗜むところとなって、祭礼やら日待やらに郷土を賑わした」

※日待:前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。待つ間の退屈しのぎに皆で集まり飲食し、歌舞音曲を楽しむことが多く、次第に遊興化した。



「西川古柳の車人形は、説経零落の余りに考案されたものである。」

「説経が発達して浄瑠璃型にまで進んだ。それを人形から離すことは、進展した生命を絶つのである。古柳の惨憺たる苦心は、説経の零落した際に、車人形を成功して興行を簡易にし、費用を軽減し得て、ついに今日までも説経を人形から離さずに済んだ。」

歌祭文・歌説経

三田村鳶魚曰く、

念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。

語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。


「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文のごとく有文にもなって、系統を浄瑠璃へ引くようになった」


「説経は鉦打ちに落ち、祭文は山伏に堕ちて対立したが、説経は早く操に托して威勢を見せた。」

「似寄りな経路を辿った祭文は、立遅れ気味であった。それでも元禄・享保間には、操座に占拠することはなかったけれども、豪儀に流行したものだ。これも歌祭文になって、世間に騒がれたのである。」


「歌念仏が説経を占領して、聞かせたのは文句じゃない。声である。節である。」

(それは歌祭文もまた同様)


★歌祭文・歌説経が登場して以降、祭文と言い説経と言えば、それは歌祭文・歌説経をさすこととなる。


(語りは、歌へと変じていった。)


「元禄前後には、歌説経・歌祭文・歌浄瑠璃といって、語るものも読むものも、すべて歌うものの方へと傾いてゆく」



歌舞伎へ進出した説経は、歌説経であった)