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読む書く歌う旅をする      by 姜信子 Twitter

2017-02-23 百合若大臣野守鑑  近松門左衛門作 メモ

近松の「百合若大臣」は……

幸若舞・説経の「百合若大臣」に説経「信太妻」の趣向が入り混じり、やけに面白い。

主役は筑紫の和田丸。今日の都の田村丸と並び立つ英雄。

「今度蒙古裡国の蝦夷起つて。新羅百済を攻め動かし直に日本と刧さんと賊船七百艘。対馬の沖に来る由日夜の注進頻りなり」

和田丸は夷狄退治の勅宣を受け、あわせて

「百人の力を合する由、百合はする書いてゆりと訓ず。今日より氏を百合若と改め。仮に大臣の官に擬え」と、ここに百合若大臣の誕生。



伏線1. 出陣にあたり、香取丸(♂)緑丸(♀)のつがいの鷹の羽で作った矢の、香取丸の矢を賜る。これはつがいの鷹の契りによって、かならず凱陣との祈りを込めて。

伏線2. めでたく凱陣のあかつきには、禁中一の美人立花を妻にとの仰せもあり。

伏線3.百合若討ち死の報を聞いた立花は、別府兄弟が百合若の所領を奪った上に、つがいの矢の緑丸を所望するや、これを奪って姿を消す。


その他主なる登場人物の面々は、

まずは、別府兄弟雲足・雲澄。こやつらが主君百合若大臣を戦の帰途、玄界島に置き去りにして、主君の領国を乗っ取る。

忠臣 執権府内の太夫秀主と、その息子市郎丸秀虎、そして悪文次秀景。そして秀景の妻松ヶ枝。秀景と松ヶ枝の両名のありようは「ひらかな盛衰記」の趣向を思わせる。この府内秀主親子、とりわけ松ヶ枝の大活躍で、別府兄弟はともに遂に首を刎ねられる。


さてさて、百合若大臣は、出陣の際に、既に、大山崎、関戸の院にて本国の宇佐八幡に遥拝、拝殿でまどろめば、別府兄弟裏切りの正夢を観るも、「夢に任せて大国の賞罰は行はれず」と、そのまま出陣、そして夢のとおりに別府兄弟に裏切られる。


そして、信太妻にも似た趣向とは、

命絶え、雌鷹の緑丸に乗り移った立花が、百合若大臣が置き去りにされた島へと飛んでくる。人間の立花の姿に変じて、百合若と契り、還城丸なる一子をもうける。この立花が、ようやく主君を助けに島に辿り着いた秀虎と還城丸に、その本性をうっかり見られてしまう。鷹の立花を残して、百合若親子、秀虎は島を出ることになる。


そもそも秀虎は、島より百合若が正月の願いを込めて放った矢が、百合若を探す遥か海上の秀虎の舟の舳先に刺さったところから、百合若の行方知って玄界島にたどりついたのである。すさまじい弓の力。


そのとき、島を出る還城丸に母の立花(=緑丸)言い聞かせることには、

「鷹になったる此の母が罪科が子に報い。和御前が出世の妨げかと。思ひの上の思ひとなる。成人の後迄も小鳥一ツ虫一ツ。無益の殺生せぬ事ぞや。鳥類翼と思へども命の惜い斗りかは。夫を思ひ子を思ふは人間にも増るとは。今身になりて知たるぞや。母にも最早逢れぬぞ。母恋しとはし思ふなよ夜も父御と寝ねしやや。父の意見を能く聞て優しう成人し。世間を知ぬ島育ちと人に笑はれ讒られな。名残惜やいとほしや……」


こうして無事に島を脱出、忠臣たちの大活躍で別府兄弟も討ち果たし、京の都に参内すれば、

鷹の羽の矢の應後の奇瑞。死したる立花生を変えし妹背の中、此子を設け候と一々言上ありければ、…………、母立花は宇佐の宮の末社に祝ひ、緑の宮と崇むべしとの綸言世に例なき。


というわけで、百合若も近松の手にかかれば、このようなお話になるのでした。

2017-02-21 八王子城跡  石仏群

八王子城跡近くの石仏群は観音様ばかり

どおおおおおっと風吹く日に、八王子城跡あたりをうろうろ。寒かった。


八王子城の城山のふもとに観音堂がある。その脇の木立の中のあちらこちらに石の観音像、千手観音、十一面観音、千手十一面観音と。

これは西国33か所、坂東33か所、秩父34か所の100か所の観音像を建立しようとしたらしいのだが、16体で終わっている。

昭和10年にこれを発願したという福善寺(現在の観音堂のところにあった。いまは廃寺になってもうない)の住職が志半ばで亡くなったのだという。詳しいことはいま調べているところで、これ以上のことはよくわからない。


ちなみに秩父34か所というのは、観音巡礼33か所に照らすと、一つ多いことになるのだが、一説によれば、これは熊野系の修験者が西国・坂東を合わせた「百観音詣り」を考案したのだという。

札所がひとつ増えれば代参する修験者の報酬が増すし、数としても99より100のほうがキリがいい。地元の人も賛成でしたし」ということだったらしい。(『秩父34か所ウォーキング』より)。34か所になったのは、1530年代。

また、八王子神社のほうへと城山(=深沢山)をのぼっていけば、講中が建立した碑や、行者の慰霊碑が道の脇に点々と。磐座tなっている巨岩には、四角く拝み所らしきものがくりぬかれている。八王子神社境内の隅には烏天狗の像も。昭和12年に先達の何某が立てている。不思議なのは、烏天狗の石像の台座が溶岩。八王子の山にはないもの。わざわざ溶岩のかたまりを運んできたんだな。これは役行者つながりの発想でこうなったんだろうか。ともかくも、歩けば分かる、此の山はかつては行者でにぎわっていた山なんだな。


さて、石仏群について、ネット上で調べたところでは、2006年の段階で石仏群はみなきちんと立っているのだが、2017年2月21日現在、3体の石像が完全に倒れていた。2011年の東日本大震災のときに倒れたのだろうか。


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西国25番 御嶽山清水寺 十一面千手観世音菩薩

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秩父三番 岩本山 常泉寺(曹洞宗

本尊:室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像

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秩父二番 大棚山真福寺(曹洞宗)本尊:聖観世音菩薩 

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秩父一番 誦経山四萬部寺、妙音寺とも(曹洞宗)

本尊:聖観世音菩薩立像一木造りで江戸時代の作。

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板東三番 祇園山安養院 田代寺(浄土宗

本尊・千手観世音菩薩   開基・田代信綱   開山・尊乗上人

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西国一番 那智山 青岸渡寺天台宗

本尊:如意輪観世音菩薩    開基:裸形(らぎょう)上人

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未確認

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西国四番 槇尾山 施福寺、槇尾寺とも(天台宗)

本尊:千手千眼観世音菩薩    開基:行満上人

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西国五番 紫雲山 葛井寺(真言宗御室派

本尊:十一面千手千眼観世音菩薩   開基:行基

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西国六番 壷阪山 南法華寺(真言宗豊山派

本尊:千手千眼観世音菩薩    開基:弁基上人

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未確認

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西国二十九番 青葉山 松尾寺(真言宗醍醐派) 本尊:座像馬頭観世音菩薩    開基:威光上人

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西国十三番 石光山 石山寺(東寺真言宗大本山

本尊:二臂如意輪観世音菩薩    開基:良辨僧正

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秩父十八番 白道山神門寺(曹洞宗)

聖観世音菩薩

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2017-02-11 メモ 『西行の風景』(桑子敏雄 NHK出版)

 「わたしたちはいったいこの国の国土と風景に何をしてきたのか」

と、著者は、『西行の風景』を締めるにあたって、書いている。

「この国の国土と風景」という時、著者は、西行が壮大な意図を持って、和歌をとおして作り上げた神仏習合の思想の上に生れいずる風景を言っている。


しかし、西行って、こんな人だったとは全く知らなかった。

こんな人って、つまり、「和歌即真言」と言い、和歌をとおして神仏習合の思想を表現しようとした人だということ。


それは西行が晩年に伊勢神宮奉納した「御裳濯河歌合」と「宮河歌合」に如実に表れているという。

そして、この二つの「歌合」を、前者は藤原俊成に、後者はその子の定家に判詞を依頼する、つまり、当代一の和歌の作り手読み手に批評させることで、西行は神仏習合の思想の上にある和歌(=日本の文化)という、一つの方向性を確かなものとすることを企んだのだともいう。

と、まあ、ざっくり言えば、こんなことがこの本には書かれているのだけど、これはかなり新鮮な驚き。

漂泊の歌詠みくらいのメージしかなかった私の中の西行が、いきなり力強いおじさんに見えてきた。


しかも、西行、慈円、定家等々、同時代に生きていたこれらの歌人たちが、まるでメールでもやりとりするように歌をやり取りしていて、それが神仏習合の思想を背景に置いた歌の世界の空間(=風景)の構築へとつながっていく、というその情景が実にリアルで、この人たちがいまここにいるような、ひとりの人間としてありありとその姿が浮かび上がってくるような、なんだかわくわくするような感覚が読むほどに湧きおこってくる。

いやいやまことに面白かった。

著者のあとがきから。

「なかでもわたしにとってもっとも興味深かったのは、日本に多大な影響を与えた朱子学とその基礎にある易の思想であった。朱子学を中心とする中国哲学から私が手に入れたひとつのアイデアは、人間をその内面から捉えるのではなく、身体の置かれた空間とのかかわりにおいて捉えるという発想であった。」


ここから、この著者の特徴的な用語である「身体の配置」という言葉が出てくる。

身体は空間のみならず、時間の中にも配置される。

「時間の中の身体」は、「空間の中の履歴」として蓄積されてゆく。

そして、「わたしを含む空間」もまた履歴を蓄積してゆく。


そういう概念と視点を得て、西行の旅に向き合ったとき、著者はこう言う。

「西行の旅は、その旅の空間の履歴となり、そして、時を越えてその場所を訪れたわたしの履歴のなかに書き込まれてゆく。わたしは空間の履歴のなかで西行と出会うのである」


「身体の配置」という発想から、人間を取り巻く空間(=風景)が鮮やかに浮かび上がり、

その空間(=風景)に身を置く人間の上に流れる時間を想ったとき、その空間に地層のように書き込まれてきた記憶もまた「空間(=風景)の履歴」として具体的に浮かび上がってくる。


これを西行の和歌と思想を読み解く鍵とする。その試みがずいぶんと読んでいて面白かった。


なにより、西行の和歌に「神仏習合」の思想と、それに深く結びついた日本の文化の背景を見てゆく、その筋立てがひどく面白かった。


著者曰く、

「西行が和歌によって詠ったこの国の空間は、明治維新の神仏分離廃仏毀釈の嵐によって劇的に再編された。境内を共有し、僧侶が神官を兼務していた多くの寺院と神社は、神と仏が融合していた風景が残らないように徹底的に分離され、破壊されたのである。いまわたしたちが見ているのは、明治政府の近代化政策によってつくり出されたきわめて人為的な風景である」


そして最後にこの言葉を置く。

「わたしたちはいったいこの国の国土と風景に何をしてきたのか」

この問いに私は深く共感する。

2017-02-09  メモ 『実録浪曲史』より 

 昭和のごくはじめまで、北関東の農村地帯では、

所により村の神社で縁日に風呂を湧かし、近在の農家の人々に湯を振舞う風習があった。境内には戸板を並べて駄菓子などを売る店が出て<御神湯>の幟が立ち、湯殿と並んで社務所には浪曲の一座がかかった。

 一座といっても親娘三人位で、母親の三味線父親がケレンネタを読み、終わると司会者に早替りして、おかっぱの少女が「山椒太夫」などを語る。枕に〜雨の降る日は上州祭文、遊びに行くにもデロレンデラレン、とか、〜三日月様はなぜやせた、やせたはずだよやみあがり、などの謎かけをふっては村の人々を喜ばせた。人々は互いに食物を持ち寄り、遅くまで談笑にふけった。(玉川次郎談)


さらに山間部に入ると、時には湯治客相手の旅の浪曲師を見かけた。

2017-02-06 メモ  時宗について。

 軍記物語と時宗


「惣じて時衆の僧、昔より和歌を専とし、金瘡の療治を事とす。之に依りて御陣の先へも召連れ、金瘡も療治し、又死骸を治め、或は最期の十念をも受け給ひけるほどに、何れの大将も同道ありて、賞玩あるとぞ聞えし」『異本小田原記』より。

従軍僧は語る。

平家物語』『太平記』『義経記』『明徳記』『結城戦場物語』『大塔物語』等の軍記物には時衆関係の記事が多い。

それは時衆が従軍僧として戦場に赴き、実戦の模様をつぶさに観察した結果。

いくさ語りする時衆。

白山修験と平家物語と時宗

平家物語、倶利伽羅峠合戦。

この模様を伝えたのは、白山修験の徒。

砺波、倶利伽羅峠周辺を徘徊した修験山伏は、白山神の霊験功徳を唱導し、倶利伽羅峠の谷底に馬もろとも生き埋めになった平家の大軍の悲惨な死にざまを口寄せで繰り返すことにより、惨死した亡魂怨霊の供養とした。


一遍の死後にあとを継いだ真教は北陸地方に時衆教団の強力な基盤を作った。その次の智得は加賀の生まれ、白山信仰の中で育ち、遊行上人となると、白山神を教団の守護神と仰いだ。

白山信仰と結びついた時衆が、白山神の霊験功徳いちじるしい木曾義仲の倶利伽羅峠合戦勝利談を大きくふくらませて都まで運んだ。


『時衆の美術と文芸 遊行聖の世界』(東京美術)より。

2017-02-05 「旅するカタリ」という物語の場

記憶の森を前にして。

2017年2月4日。「さまよい安寿原画展」のクロージングイベント「旅するカタリ その2」では、単に語り手が朗読したり、祭文語りが説経祭文を演じるだけでなく、そこに集う人々とともに「物語の場」を開くというささやかな試みをした。

まず私たちは、画家屋敷妙子が会場の馬喰町ART+EATの壁一面に作り上げたコラージュ作品「記憶の森」を覗き込んだ。

それは、2011年8月から2012年3月までの新潟日報(姜信子連載「カシワザキ」 挿画::屋敷妙子)の掲載紙を保存していた屋敷が、その紙面の目を引いた写真の上に紙をおいて写真をトレースし、さらにそれに手を加えたものをどんどん壁に貼り付けていく、それは膨大な枚数になったのだが、そうやってできあがったものが、「記憶の森」。

そもそもの連載が3.11後の日本を旅するようなものでもあったため、この「記憶の森」には目には見えないさまざまな光と影と闇が潜んでいるようでもある。絶望も諦めも悲しみもひそかな喜びも希望もそのなかに隠れているようでもある。

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「旅するカタリ」開演前、そして休憩時間に、この「記憶の森」に参加者に分けいってもらい、記憶の森によって呼び覚まされた自身の記憶を所定のカードに書いてもらった。

「あの日私は」「あのときあの人は」「そのとき彼女(彼)は」という3パターンの書き出しで、50字以内。参加者に渡されるのは、そのうちの1パターンだけ。どのパターンが渡されるかは、受付でのめぐり合わせ。


さて、30名ほどの参加者、各パターンそれぞれ10枚ずつくらい。集まった記憶のカードを、ババ抜きのように、3名の参加者の方々に各パターン1枚ずつ引いてもらった。誰が何を書いたのかは、誰も知らない

「あの日、私は、東名高速走行中、突然ハンドルを取られ、びっくり」<起>

「あの時、あの人は、不安な私の選択に同意し、一緒についてきてくれた、これからも一緒に行きてゆく」<承>

「その時、彼女は、救助隊に、『重いでしょう、すいません』と何度も言った。着の身着のままの様子で」<転>

そして、この3つの、なんだか偶然の見えない糸でうっすらつながっているような記憶の風景を、私がやはり記憶の森を見て書き置いておいた結句でまとめる。この結句も誰にも知らされずにいた。

「おぎおぎてぃおら えいさらえい 

 思い出のせて舟が出る

 西に向かえば極楽往生

 東に向かえば浄瑠璃浄土

 馬喰町から舟が出る

 おぎおぎてぃおら えいさらえい」


この起承転結を、記憶の森が開いた物語の場で、ひとりの旅の祭文語りが即興で歌い語る。

みんなも「おぎおぎてぃおら えいさらえい」と唄い出す。その場に集った者だけが共有する物語が生まれる。

そして、記憶の森は、舟に変じて、新たな物語、新たなはじまりへと船出するのである。


さて、そういう試みをやってみて、あらためていろいろと考えさせられた。

まずは、「集合的無意識」というやつ、もしくは、無意識下でつながる私たちの記憶、あるいは予感というものを考えたのである。

私たちはふだんの生活で知らず知らず何かに条件づけられて、ある方向で記憶を整理したり、言葉を選んだり、見えない手による編集作業を日々しているわけであるが、これは放っておけば、容易に、大きな声・断定する声に毒されていくものでもある。

無意識のくびきは、私たちを黙らせたり、口にしてもよいお墨付きの言葉や物語へと心を向けさせたりもする。

今回の「旅するカタリ」の記憶の森の前で開かれた物語の場は、この危なっかしい私たちの無意識の編集作業というものを、あらためて見つめ直す実によい機会になった。

つまり、

私たちの無意識に対する最初の条件付けを変えてみたなら、人はまた無意識のうちに別の声、別の語りを発するはず、沈黙の領域も変わってくるはず、ということにあらためて思いが及んだ。

屋敷妙子の「記憶の森」という作品にともに触れることによって、その作品によって触発されたという一点で結ばれた、その場限りの無意識の共同体によって、ある瞬間に共有される物語があるということ。それは、私たちを縛っている何かからの脱出口となり、出発点になりうるということ。そんなことを直感的に私は感じ取ったようだった。

文学や芸術は魂を解き放つ、声を呼び出す、目覚めるなにかがある。文学や芸術に触れるということの意味深さ、かけがえのなさ。

文学の場、芸術の場は、求心力から解放された無数の声、無数の魂たちの自由な「語り」の場にもなりうる。

封じる力から解き放たれた新たな物語の胎動の場になりうる。

大仰な物言いだけど、そのような場を創りだしていくこと、そのような場でありつづけることにこそ、「旅するカタリ」の楽しみも喜びもあるのだと不意に悟ったような心持。

そもそも、古来「語り」とは、中心からスピンアウトしたさまよえる語り手たちの領分だったのだから。

2017-01-28 東京新聞 2017年1月16日夕刊

2017-01-26 こういうことを「云々」してもねぇ、と思いつつ。

 「云々」なんか読めなくても、基本的にでんでん構わないです。

漢字なんか読めなくても、そもそも文字を学ぶ機会も環境も持ち得ずに大人になっても、地べたを這うようにして必死に生き抜くことでみずからを磨き上げてきた畏敬すべき知恵深い人々がこの世の中には沢山いらっしゃいますし。


たとえば、沖縄最後のお座敷芸者のナミイおばあなんて、自分のことを文字も知らないアキメクラとかなんとか言いながら、生きることにかけては凄まじくも強烈な知恵者です。見知らぬ人々の境遇に瞬時に想いを馳せて涙するような想像力も、アキメクラの知恵者の特徴です。


というわけで、「云々」をでんでんした人のことで、一番に思ったことはと言えば――、

学ぶ機会も学ぶための環境もすべて与えられていたはずなのに、世のため人のため自分のために学ぶことにも考え抜くことにも背を向けてきた、「云々」知らず、世間知らずの権力者がいて、

そいつが、自分と同じように「云々」につまずくような、そうならざるを得ない過酷な人生を自力で生き抜いてきた人々、いままさに過酷の真っ只中にいる人々を真っ先に切り捨てるような輩であることが、何にも増して私はイヤですわ、ということでした。

2017-01-25 冷たい幸せ。

 胸に刺さっている言葉ひとつ。

「だって、あなた、社会派じゃない、社会問題を追いかけてるじゃない。あたしはそうじゃないから」

昨年末のことでしたが、長い付き合いのある人にさらりとこう言われたときに、どうしようもない違和感と悲しみが瞬時に心に湧きおこったのでした。


これにかぎらず、社会派だの、社会問題だの、昔からよく言われることです。そう言われるたびに感じてきた違和感。その生まれくるところは、思うに、その言葉が、断ち切る言葉として差し出されているから。


「あなたが語っているそれは社会問題であって、私の問題ではない」と。

あるいは、その言葉は形を変えて、こういうふうにも差し出される。

「悪いけど、そういう政治的なことに関わりたくないんだよね」


私は、「社会問題」としてひとくくりに一般化されるような問題などないと思っています。

一方で、この社会に生きる私たちひとりひとりが抱える問題から、政治を脱色することなど到底できないとも思っています。


もういちど声を大にして言います。

いわゆる「社会問題」なんてあるものか!!!!


あるとするなら、この社会の仕組みゆえに私が抱えている問題があるのであり、あなたが抱えている問題がある。そんな「私」たちと、「あなた」たちが、ともに生きているこの社会がある。


社会の問題とは、私の、あなたの、つまりは個々の問題としてまずは立ち現れるのであり、その問題ゆえの生きづらさに声をあげる者たちに対して、「社会問題には関わりたくない」「政治には関わりたくない」と、さらりと言える人々が享受している「幸せ」というものを私は思います。


これほど冷酷な「幸せ」もなかろうとも思うのです。

これほど分かち合うもののない「幸せ」もないと。

2017-01-22 禅と中世芸能  メモ

 禅の中のバサラ、というのは意外なタイトルだな、と『中世芸能講義』を読む。

★禅と芸能と言えば、一休さん 

後小松天皇の子。禅僧。ここに芸能者が集まる。金春禅竹、宗祇の弟子の有名な連歌師柴屋軒宗長、山崎宗鑑(連歌師)、村田珠光(侘び茶の祖)……。これを「一休文化圏」という。by 松岡心平。


★中国の禅文化の流入

13世紀中頃からの約100年。「渡来僧の世紀」by村井章介 

中国のエリート禅僧が日本にやってくる、日本のエリートが中国に留学する。

それは現代のフランス哲学の流入のような様相バルトデリダドゥルーズフーコーのような。

★国際コミュニティとしての禅

中国〜朝鮮〜日本 日本の禅寺で中国語、日本語が飛び交う。

「禅客唐様に禅を問えば、山僧唐様に答話す。禅客日本様に禅を問えば、山僧日本様に答話す」

<和漢連句> 

たとえば、

尋来て夏までも見る遅桜  (西芳寺 無窓国師

薫風別駐春  (笠仁梵僊) 中国僧

五弦琴転調  (無極志弦)日本僧

★京と禅

京都は旧仏教が強くて、禅はなかなか入れなかった。

道元は仕方なく越前に永平寺。

栄西建仁寺は、密教や天台顕教と一緒に禅。

一方、鎌倉には禅はストレートに入る。中国の禅がそっくり入る。

それは禅の遺偈という形で、その「電光」のイメージで、大いに影響を与える。

<遺偈>

無学祖元:元の兵が寺になだれ込んできて、殺されそうになった。そのときに遺偈を残した。のち生き延びて、日本へ。

乾坤孤杖をたつるに地なし

喜得す人空法もまた空なるを

珍重す大元三尺の剣

電光影裏春風を斬る

(元兵が自分に三尺の剣を突きつけている。いいだろう、それは電光影裏に春風を斬るにすぎない)

この元歌がある。中国禅宗開祖的存在の肇法師。この人は本当に迫害で首を斬られた。

四大元主無く

五陰本来空

頭をもつて白刃に当つ

なほ春風を斬るに似たり


電光のイメージの誕生、それを無学が日本に持ってくる。(と松岡心平の推測)

そして、ここからが大事!!

太平記」には、禅宗風の遺偈を詠んで死ぬ人がたくさん出てくる。

平家物語」にはひとりも出てこない。

遺偈を詠んで死ぬというのは、『太平記』の段階で初登場した新たな死のスタイル。


★『太平記』巻十 鎌倉武士 塩飽聖遠の切腹の遺偈

吹毛(剣)を提持して

虚空を截断す

大火聚裡

一道の清風

心頭滅却すれば火も自ずから涼し」の境地。


そこには、禅の精神を肉体化した者たちがいる。禅の遺偈の「電光」のスピード感! 

「他界を信じない、今現在の一瞬一瞬がすべて、それが人間の生そのもの、それ以外何もないのだ」

臨済禅の機鋒の鋭さ、スピード、瞬間指向性。それはそれまでの日本人が体験したことのない新鮮な感覚ではなかったか。太平記の文体のスピード感はここからきたのではないか(!by 松岡心平)


 

2017-01-19 ジョルジョ・アガンベン『哲学とはなにか』 メモ

 哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる。

ムーサが歌い、人間に歌を与えるのは、言葉を語る存在がみずからの死活にかかわる住まいにしてきた言語を完全に自分のものにすることができないでいることをムーサが象徴しているからである。


音楽が存在していて、人間がたんに言葉を語るだけにとどまっていなくて、歌う必要を感じているのは、言語が彼の声ではないからであり、彼が言語を彼の声にすることができないまま、言語のなかに住まっているからにほかならない。

世界への原初的な開かれは論理的なものではなくて、音楽的なものなのだ。


言葉の起源はムーサ的に――すなわち音楽的に――規定されている。そして語る主体――詩人――は事あるごとにみずからの始まりが問題的なものであることに決着をつけなければならない。たとえムーサが古代世界においてもっていた文化的意義を失ってしまっているとしても、詩の地位は今日でもなお、どのようにすれば詩人が言葉を獲得するさいに逢着する困難に音楽的形式を与えることに成功するのか、ということにかかっている。

すなわち、どのようのして、もともとは自分のものではなく、声を貸し与えるにすぎない言葉を自分のものにするにいたるのか、ということにかかっているのである。

2017-01-16 『中世芸能講義』(松岡心平 講談社学術文庫)メモ

 連歌的想像力、つまり批評精神が大事ということ

連歌は瞬間的な世界変換、あるいは脱構築連鎖によって成立する多声的で未完結の開かれた体系である。

和歌が一つの世界に没入するものとするならば、連歌は常に相手の言っていることを理解したうえで、別の世界をどのように自分にぶつけていくかが問われる。

つまり、他者理解をしたうで、それに対して批評性をもって、新たな世界を批評として構築していく。

連歌とは、つまり、そのような批評の連続なのである。

連歌が流行するとは、非常に醒めた批評の精神が横溢しているということでもある。

花の下連歌とは、花鎮めなのであるということ

13世紀中頃、1240年代に一般大衆が参加する言語ゲームの場が、法勝寺や毘沙門堂といったお寺の枝垂れ桜の下に開かれた。

熱狂すればするほど神さまが喜ぶ、熱狂すればするほど意に満たずして死んでいった怨霊たちの心が慰められる。

花見は静かにやるものではない!

「花見の下連歌の場合は言語の熱狂によって、花の下連歌会という、言葉が言葉を紡ぎ出していく一種の演劇的な世界で言語の熱気によって悪い魂を鎮めたりする」

春に花が咲いて散るとき、疫神もまたまき散らされるという古代よりの感覚、だから鎮花祭が執り行われる。

「花が散るのは御霊の吹き荒れ」(折口信夫

枝垂れ桜の下には、冥界がある。

花の下連歌の無縁性と脱構築性

そこは社会から断ち切られた特別な場。無縁の自由空間。そこは冥界に通じる超越的な場でもある。

つまりは、境界的な場。無縁平等な人間集団の場。

それは「一揆」というきわめて中世的な人間結合の現象につながってゆく。

一揆とは、一味神水という神前の儀式によって一切の社会的な関係を断ち、なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を構築すること。

連歌の精神と一揆の精神はひとつらなり。

(思うに、それは、旧秩序の終わりの混乱・混沌の中から新しいはじまりをめざして結ばれた開かれた共同性、ということもできるだろう、今のこの時代にもっとも必要なものでもあるだあろう、連歌の精神、一揆の精神を今ここにどのような形で呼び出すか、それをじりじりと考える)

2017-01-03 羽黒山 松例祭 記録

12月30日 『大松明まるき』(斎館、庭上)

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以下、宿坊多聞館のHPより。

各町の若者の代表が羽黒山山頂に上り、悪鬼・邪悪の象徴とされるツツガムシを模った大松明を作り上げる。

斎館で松聖によるお祓いを受けた若者達は大松明の材料となる綱・網・簾などを斎館から山頂まで担ぎ上げる。

担ぎ上げた材料と、あらかじめ用意されている「カクマ」と呼ばれる枯萱をもちいて、巨大なツツガムシを作る作業は上四町と下四町が二手に分かれて、早さと出来ばえを競いながら行われる。


15:00頃 『松の礼』と『榊供養』(庭上)

夕方、法螺貝の合図とともに、大松明が出来上がると松聖が各々松打という役者と共に 登場し、大松明に向かい祈願する。

祈願終了と同時にふたりの松打は大梵天まで駆けていき、御幣を吊るし上げる早さを競う(『松の礼』)。

その後、参加者一同はお神酒と昆布、丸飯を頂く(『榊供養』)。



三山神社、庭上。地元手向地区の若者衆(20代〜40代)により作られた巨大つつがむし。これは「先途方」のもの

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巨大つつがむし。「位上方」。

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響きわたるホラ貝の音とともに、やってくる松聖たち。

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大松明に向かい祈祷。背中を見せているのが「松打」

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祈祷が終わるや、松打が大梵天まで走って、御幣を吊るした。

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しめくくりに、大松明の上の箕の中に備えられていた小さな丸飯を皆が食べていた。

2017-01-02 2016年12月30日〜2017年1月1日 羽黒山・湯殿山 旅の記録 メモ

三山一枚絵図より、<湯殿山>

●湯殿山の霊力の源泉、湯殿岩は秘所として描かれていない。

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●湯殿山 注連寺 即身成仏鉄門海上人を祀る寺

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廃仏毀釈を生き延びた羽黒山 荒澤寺 

<羽黒山 荒澤寺 絵図>

● 荒澤寺は、羽黒山荒澤口にあり、かつてはここより女人禁制

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● 現在の荒澤寺 本寺

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<羽黒山 正善院 絵図>

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● 現在は、羽黒山ふもとの正善院が、羽黒山 荒澤寺正善院として、仏教系修験の本拠地となっている。


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● 湯立に使ったと思われる大釜が、正善院黄金堂の山門の仁王像の足元に無造作に。

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● この閻魔様は、廃仏毀釈のときに、背中にのみを入れられた瞬間に目が光り、「痛い!」と叫んだため、人びとはおそれおのおき、こうして生き延びることになったという。

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不動明王 背後には「お竹さん大日堂」。羽黒修験が布教のツールとして江戸に語り広めた「お竹大日如来」の物語の主が祀られている。

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