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読む書く歌う旅をする      by 姜信子 Twitter

2018-05-05 「貝祭文の芸態」(小山一成)より  メモ

貝祭文(デロレン祭文)は、平安時代に起こった山伏祭文の血脈を引くという。

近世寛永頃に上方において山伏祭文から派生した「歌祭文」、

江戸の山伏祭文とかかわりの深い「説経祭文」、

その成立を貝祭文から推測するというアプローチ。


<古代の祭文から貝祭文への流れ>

1・そもそも祭文のはじまりは古代、「仏教・神道陰陽道儒教等において、祭祀の際に、祭神や亡霊に奏上する祈願の文」。

2・平安時代になると、「山伏の手に渡り、山伏祭文となり」、

3.さらに中世になると、「娯楽的要素を加えてもじり祭文となって人口に膾炙した」

4.江戸時代寛永の頃、「上方において歌祭文が派生」「巷間の話題をとり上げ、心中物・恋愛物・犯罪物、あるいは追善物等を語り人気」

5.近世後期、「江戸の地において山伏祭文から説経節の後裔なる説経祭文―薩摩派・若松派として盛行―が誕生」

6.そして、貝祭文もまた江戸の地に出現。


<貝祭文とは>

1.デロレン祭文、デロレン節、あるいは左衛門、祭文、金杖祭文などと呼ばれる。

2.発生母体が山伏祭文

3.「小型の法螺貝と錫杖(手錫杖)、それも頭に金環のついていない「金杖」を伴奏楽器とする。

4.独特の白声(しゃがれ声)で物語りを語り、語りの口調は講談ないし浪曲ときわめて近似。


<貝祭文は説経祭文に押されて地方へと中心地を移してゆく>

1.江戸市中に興った説経祭文は幕末より近代にかけて江戸周辺農村部に絶大な支持者を得て盛行。

2.押された貝祭文は、武州北部の岡部・小島等に本拠地を置く。

3.さらに、福島・宮城・岩手・山形秋田・青森等奥羽地方に中心地を移してゆく。


<山形の貝祭文>

1.昭和15年当時、山形県演芸共和会所属祭文語りは、70余名。年中渡世30名。

  農閑期に山形・宮城・岩手・新潟等を海岸地方にまで巡回

2.現在はほぼ消滅。


<上州の貝祭文から江州音頭へ>

1.近世末期文政頃(1818〜)、上州小島大住院(山伏寺。大重院、大寿院とも)に貝祭文の一大根拠地。

2.小島に隣接する榛沢郡岡部村の山伏万宝院(桜川雛山)が江州に旅し、近江国神崎郡神田村において、西川寅吉(後の桜川大龍)に祭文を伝授。

3.寅吉は後輩の奥村久左衛門(初代真鍮屋弘文)の助力を得て、祭文を音頭に仕立てる。


<なぜデロレン?>

1.「演者は本題にはいるまえに、最初は「貝」あるいは「声調べ」を行なう。法螺貝を口に当てて、吹くのではなく、拡声器代わりにし、約五分間にわたって、「デロレン・デレレン」と発声を続けるのである。この特徴的な発声は「デロレン節」呼称の由来ともなった」「口演者が声を調え、座席を落ち着かせるための演奏」

2.しかし、山形の計見一風は、これを「悪魔払い」という呪術的意味を持つと、断言した。

祭文の風景 記憶を語る声から。 

山形の祭文語りにまつわる記憶。



明治末年 越後頚城郡春日野村正善寺  北条時宗氏による。


「私は幼い頃、丈余の雪に閉ざされた旧正月に度々この村の長格の家に連れられて二、三日を過ごした。その村で雪の正月を楽しむ祭文語りを聞いた。大きな家で十畳二間の座敷に炉のある茶の間も通して、村中の人達といっても六十軒位のものだが、皆一家総出で集まってきた。奥の一段と高い床の間と仏壇の在る所に赤い毛布を敷いて、それに二人の爺さんが並んで坐っていた。山袴をはいて、すずかけみたいなものを肩から垂らし、一人は小さな錫杖を持ち、一人は大きな法螺貝をもってゐた。その前には高坏に湯呑みがのってゐた。(中略)時が来ると主だちの合図があってボーボービュービューボウワウワウと法螺貝が吹き分けられ、ヂュンヂュンと錫杖が合の手を入れる。それにつれてデンデンデロデンデロデン豪快な口調で二人の翁から流れ出る。祭文は郷土に因んだ英雄伝みたなものだったが、合の手や一と区切の折に入れる法螺貝、錫杖、デンデンデロデンが面白かった。」




★「山形の祭文語りは、農閑期には一人ないしは数名で県内はもちろん宮城・岩手・新潟までも旅をしていた。巡業の際には警察署で遊戯鑑札を受け、祭文道具や芸名を染め抜いた幕を持ち、毎年巡る順序に従って回村したのである。各村には宿を提供し、世話をやく家があり、そこに宿泊して幾晩か語りつづけるのであった。」(「貝祭文の芸態」小山一成 より)


★山形に根拠を置く旅の祭文語りと越後の瞽女の、旅の宿での交差は、長岡瞽女小林ハルの証言にある。

小林ハルは、旅の宿で、祭文語りの語る「信徳丸」を聞き覚えて、自分の語りに取り入れた旨を語っている。

2018-05-03 芸能者としての陰陽師

陰陽師と言えば、説経では安倍晴明、蘆屋道満をはじめとして、いろんな話に「易学博士」として登場しますね。

幕末に薩摩若太夫系統の説経祭文が多摩や埼玉に広がるにあたって、神楽師(=陰陽師)ネットワークが大きな役割を果した。

それはまずは、

1.薩摩若太夫門下になるということ

・5代目若太夫(板橋・諏訪仙之助)、6代目若太夫(多摩郡二宮・古谷平五郎)が神楽師/陰陽師。

・初代薩摩津賀太夫(入間川・石山美濃守)、その孫娘の婿の小泉因幡守(八王子)も陰陽師


2.神楽師(陰陽師)ネットワークは芸能ネットワークである。

・6代目薩摩若太夫の娘ていが、埼玉の竹間沢の陰陽師前田筑前守に車人形を持って嫁入り。(説経と車人形の竹間沢への伝播)

・神楽師/陰陽師ネットワーク(祓講)を活用した公演活動。(他の神楽師のいる村での、前田筑前や古谷の芝居興行) 


背景には近世になって初めて成立した土御門家による諸国陰陽師一元的支配。そこには、宗教者・芸能者を寺社奉行を介して支配統治の対象にしようとした幕府の意志がある。(『近世陰陽道の研究』による) 

つまり、上記の神楽師/陰陽師たちは土御門家より免状をもらい、官名を戴いている。

保証される陰陽師の主要な職分のひとつに、「占考」もある。(村の占い者、祈祷者、芸能者としての陰陽師)

(近世の土御門家は陰陽道を神道化したので、神楽師とは結びつきやすいのかもしれない。)


<地方の陰陽師の活動の一例:武蔵多摩郡中藤村 指田藤詮の場合>

1.占い

2.病気直しの祈祷やお祓い。薬の処方。

3.地元の神明社金比羅社での神楽の主催。

4.神明社の風祭の主催。

5.旦那場における配札。

6.竈注連。竈に飾る御幣、神札を用意して、竈祓い。

7.村から依頼されて、村の修験とともに、疫神送りの共同祈祷。疫神、邪気を祓うために。

2018-05-02 三田村鳶魚「車人形と説経節」を読む。メモ

説経は大道を本拠地に、説経芝居になっては廃れ、廃れては説経祭文となり、また舞台へ、そして……。


そもそも、説経のはじまりは、

「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)

★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。


元禄(1688〜1704)の江戸には、説経芝居が三座あった。天満八太夫と江戸孫三郎は堺町に、あずま新四郎は霊厳島に、いずれも繁盛であったが、享保になっては、急に棄たれ果て」た。


★一方、元禄版『人倫訓蒙図彙』には、門付説経が三味線胡弓・ささらに和しているところが描いてある。説経芝居が流行る一方で、大道芸としての説経も生きつづけていた。


説経節初り年号知れず、延享(1744〜1748)年中の頃江戸又は田舎祭礼等に折節興行有。(中略)人形は裾より手を指込で一人遣ひにて見合は今ののろま人形也、古風なるもの也、隅田川刈萱抔段物の操致せしを覚へいると老人の物語り言伝ふ」(文化(1804〜)の頃の『江戸節根源集」より)


★説経芝居の記憶はあっという間に消えてゆき、説経節はもとの大道へ。


こうして廃れた説経節を、寛政の頃(1789〜1801)に二人の山伏(小松大けう・三輪の大けう)が大道にて語っていた。


「説経と祭文とは別なものであるのに、説経祭文といって、一つのもののようになったのは、山伏が説経を語り伝えたからであろう。祭文は山伏の得意とする者で、錫杖と法螺の貝とで読むのである」

★そして、また、説経節が大道から舞台へとあがる時代がめぐってくる。

寛政(1789〜1801)年間 山伏祭文を本所四つ目の米屋の亭主 米千が三味線と合わせて語りだして評判になる。

初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。

★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。

◆堺町 薩摩座で操興行へ。

◆嵯峨御所大覚寺門跡)に願い出て免状を頂戴し、説経節家元となる。


この件につき、三田村鳶魚曰く、

説経は昔から家元などというものはない。また家元のあるべき筋合のものでもない。だが三味線にさえ離れた説経を回復し、特に大坂与七郎以来の人形にも有り付かせた若太夫の功績は、彼を一派の権威として、昔はなかった家元に押し立てる理由もあろう」

ふたたび説経祭文は舞台から離れてゆく。多摩の農村へ。車人形へ。

<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫

「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」

浜太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。

三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。


「説経が忘れられたようで絶えないのは、芝居のお客にも寄席のお客にも離れて、いまだ生命が尽きないためである。それは大道芸として存在し得られたからだ。それはまた尻切半天の浜太夫を生命とするわけでもあろう」


「村落に入った説経節は、農間の娯楽として傾倒され、田夫野人の嗜むところとなって、祭礼やら日待やらに郷土を賑わした」

※日待:前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。待つ間の退屈しのぎに皆で集まり飲食し、歌舞音曲を楽しむことが多く、次第に遊興化した。



「西川古柳の車人形は、説経零落の余りに考案されたものである。」

「説経が発達して浄瑠璃型にまで進んだ。それを人形から離すことは、進展した生命を絶つのである。古柳の惨憺たる苦心は、説経の零落した際に、車人形を成功して興行を簡易にし、費用を軽減し得て、ついに今日までも説経を人形から離さずに済んだ。」

歌祭文・歌説経

三田村鳶魚曰く、

念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。

語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。


「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文のごとく有文にもなって、系統を浄瑠璃へ引くようになった」


「説経は鉦打ちに落ち、祭文は山伏に堕ちて対立したが、説経は早く操に托して威勢を見せた。」

「似寄りな経路を辿った祭文は、立遅れ気味であった。それでも元禄・享保間には、操座に占拠することはなかったけれども、豪儀に流行したものだ。これも歌祭文になって、世間に騒がれたのである。」


「歌念仏が説経を占領して、聞かせたのは文句じゃない。声である。節である。」

(それは歌祭文もまた同様)


★歌祭文・歌説経が登場して以降、祭文と言い説経と言えば、それは歌祭文・歌説経をさすこととなる。


(語りは、歌へと変じていった。)


「元禄前後には、歌説経・歌祭文・歌浄瑠璃といって、語るものも読むものも、すべて歌うものの方へと傾いてゆく」



歌舞伎進出した説経は、歌説経であった)

2018-05-01 芸能の流転 〜説経節の場合〜 秋谷治)より

 説経の大きな流れ

説経:仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比喩や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。


江戸以前:漂泊の芸能。寺社の境内や門前で語られるものだった。

江戸以降:人形芝居として今日の文楽のように人形(但し一人で操る一人遣い)と三味線と語りの三つの芸能が合流して京・大坂・江戸で主に上演されるようになる。

※興行の都市化は、漂泊性と宗教色を消していく。同時に、観衆が増えたことでテキスト出版が可能になる。

寛文・延宝期(1660年〜70年代):ここまでが最盛期。

貞享元年(1684)義太夫節人形芝居のはじまりによって、説経節が淘汰されてゆく。

宝暦10年(1760):「いたはしや浮世の隅に天満節」



<説経節生き残りの三つの道筋

1.佐渡ヶ島に伝えられ、近年まで語り伝えられていた。

2.寛政年間に「説経祭文」として再興された説経節が多摩地方・都内・埼玉県秩父地方に伝えられた。

3.他の芸能に影響を与えた。



<3について、「山椒太夫」の場合>

文楽「山椒太夫横恋慕」「山椒太夫五人嬢」「由良湊千軒長者」

歌舞伎「由良湊千軒長者」


<説経祭文、江戸近郊への伝播の契機>

1.地震  安政2年10月の大地震

安政2年、3年 三代目薩摩若太夫の秩父入り。三峯神社参詣、柴原(荒川村日野)の鉱泉宿に逗留、地元百姓坂本藤吉を弟子にする。藤吉は薩摩若登太夫となり、秩父に説経を広める。


2. 神楽師陰陽師ネットワーク



<説経祭文の幕末から明治にかけての広がり>

1. 車人形 八王子・埼玉県竹間沢

2. 人形芝居  埼玉県横瀬・奥多摩川野

3. 埼玉県荒川村白久の串人形

4. 多摩の写し絵

5. 瞽女唄への取り込み

6. 神奈川の念仏唄への影響


  

2018-04-11 人間を数えるということ。

 川田順造『聲』(ちくま学芸文庫)より


P238

黒人アフリカ社会では一般に、人間は決して集合的に認知されてはいない。人間を、課税の対象、投票の員数、労働力軍事力として、脱個性的に、互換性をもった等質の単位によって数量化し、集合的に扱うのは、むしろ近代西洋に発達した思考だ。アフリカの村落の住民を、人口何人という形で、数量化して把握するようになったのは、ヨーロッパの植民地統治に伴って人頭税がとりたてられたり、強制労働や軍隊に住民がかり出されるようになってからのことだ。アフリカの小さな村や家族で、その首長に彼の村や家族の成員が何人かと訊ねても、答えは返ってこないのが普通だ。だが、個別に、誰と誰がいるという形でなら、誤りなく列挙できるのである。老婆も、壮年の男も、幼児も、ひとしなみに頭数で表わすのは、不条理でさえある。


普遍的思考から零れ落ちるもの、もしくは収まらないもの。人間にとってきわめて大切なもの。

2018-04-07 短歌的抒情  メモ

石牟礼道子/金時鐘/小野十三郎


石牟礼道子 「短歌と私」より  1965年

 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云いきかす。熱い衝激がまだ私の空きっぱなしの傷口にやって来ないのだ。

 ひとりの愛、ひとくみの愛はみんなの愛に密着していたであろう太古はもうとり戻されぬのか? 伝統の中に自己惑溺していて原始性を喪失した現代短歌。私は自分の中の詠嘆性をこれでもかこれでもかと切り捨てる。そうすることでしかふたたび短歌をあの高い詩性をみいだすことが出来ぬから。



金時鐘『「在日」を生きる』より

短歌的抒情の底流にあるのは、日本的自然賛美です。日本の近代抒情詩を書いた人たちにとって、自然というのは、自分の心情が投影されたものなんです。だから落葉は悲しいし、秋になったら寂しくなるし、雲を見ると涙が出る。本当は、自然はこんなに優しいものと違いますよね。

僕が自分の日本語についていつも不安でならないのは、このような、すでに成り立っている心的秩序に自分も陥ってはいないかということです。


小野十三郎『詩論』

230

言葉に新しい感覚と生命を与えること、これが詩人の仕事である。詩人はそのために民衆の言葉の中に絶えず宿っている短歌的リリシズムへの郷愁を断ち切らねばならない。かかる郷愁を断ち切ることが、現代の口語で詩を書くということのほんとうの意味であり、ここでリズムは批評だとということを詩人ははじめて言えるのだ。


98

歌と逆に歌に。

76

現代の短歌が持っているリズムに抵抗していると、古い日本の歌の調子というものが私にはよくわかる。他意はない。古い日本の歌の調子を私は持ちたいのだ。




 

2018-03-30 小野十三郎 詩論  メモ

 詩人金時鐘を語るならば、詩人小野十三郎「詩論」を読まずには済まされぬ。 


詩論39 新しい郷土観が創られるためには、人間一人一人がその精神に、ダムの湖底に沈み去った故郷を持つ必要がある。

これは強烈な言葉。


詩論37 田舎はいいなどと云っている奴があれば、その田舎に愛想をつかさせることも必要である。それによって人間の精神の故郷が失われるということはないだろう。むしろかかる一種の荒廃を経験しなければ、現代の素朴な郷土観は戻ってこないのだ。


そうだ、わたしたちは、大切なことでもなんでも、すぐに忘れるから、くりかえし、くりかえし、「荒廃を極めなければならない」(金時鐘)のだ。


詩論28  日本の風景や自然も又、そこから逸脱さるべき或るものだ。


詩論235  大衆にもっとも関係があるものに(例えば、浪花節流行歌用のごとき)、もっとも関係を絶たなければならないものがあり、大衆ともっとも関係のないもの(現代詩もその一つ)が大衆ともっとも深い関係にあるという証明。これがやれなくては、詩などに食い下がっているかいがない。


金時鐘いわく「私に植民地がやって来たのは、物理的なものとしてではなかった。非常に優しく美しい日本の歌として、私の植民地はやってきました」


★ 歌/植民地からの脱出としての詩。/span>

 みずからの歌をうたうということ。

★ 抒情には批評がない。 「リズムは批評だ」

2018-03-16 ジェラルド・グローマ―『瞽女うた』(岩波新書) メモ

 瞽女唄は、我々に「はたしてそれでいいのか」という大きな問いを投げかけている。


P225より

我々が今検討すべきは、瞽女唄に残された面白さと楽しみをどのように「搾り取るか」でも、それをどのように今の社会状況の中で「生かし、利用すべきか」でもない。そうではなく、我々は逆に、瞽女唄が我々に何を求め、我々にどのように挑戦しているのかを考えなければならないのである。


瞽女は意識しなかったかもしれないが、彼女たちの唄は、我々に問いかけている。なぜ、音楽市場から、あのように長い物語を展開する唄は消えてしまったのかと。肉体的には江戸時代の人々と変わらぬ集中力を持っていても不思議でない現代人にとってなぜヒット曲の大半は、三分程度で終わるのであろうか。なぜ、ポップスは機械的なビートに終始しているのであろうか。柔軟なリズム感は、いったいどこに行ってしまったのであろうか。細かい装飾音の多い旋律をなぜ聴衆(消費者)は要求しなくなったのであろうか。それを要求しなくなったのだとすれば、瞽女唄を好まない聴衆の嗜好は一体どのように発生し、どのように操作され、どれほど制限されてきたのであろうか。聴衆が無言のまま甘受している、こうした音楽の諸限界は、誰のいかなる利益となっているのであろうか。かくして瞽女唄は、枚挙に暇がないほどに多様でかつ痛烈な批判の矛先を、現代社会の我々に向けているのである。

リルケがアポロの石像から受け取ったメッセージ



「君は人生を変えなければならない」

人それぞれの「アポロの石像」があるはずなのだ。

 

2018-03-12 石牟礼道子『春の城』より。  メモ

 天草四郎と切支丹の若き武士蜷川右近の会話

四郎「この世は今もって、大いなる混沌でござります」

右近「さっき虚空と言われたが」

四郎「はい。底なしの空ろというべきか」

右近「して、そこから世界は生まれ直すと思わるるや」

四郎「万物を生み、滅ぼす仕かけが、そこにあるやもしれませぬ」

右近「ならば、デウス様はいらぬと」

四郎「いえ、世界の秩序を観照するお方がいますゆえんは、そこにあるかと考えておりまする。人はみな、世界の諸相を身に受けて、くるりくるりと反転しておるばかりかもしれませぬ」

2018-02-28 『聞書水俣民衆史5 植民地は天国だった』より。

 第2章 「植民地の化学工場」扉の言葉 より

今の日本の、

最悪かつ広がりつつある状況のすべては

既にここにあるように思える。

····························································

(朝鮮窒素の)興南工場では、日本人Aと朝鮮人Bの個人関係は生じなかった。あるのは民族と民族の関係だけであり、そして日本人であれば、馬鹿でも支配民族の一員であった。それこそが植民地の制度であり工場であった。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はどこまでも劣る必要があり、「朝鮮人と見たら·······と思え」といわれた。

第2章「植民地の化学工場」中の「統治と支配」より

················································································

昭和十二年頃というのは、朝鮮窒素の転換期でした。日本窒素は朝鮮で巨大な電力を安く手に入れ、アジアにかけての市場が朝鮮から延びていたから、大量生産、大規模化できる条件があり、肥料系統はそっくり成功した。それが軍需産業に転換していき、もう経済としての自立計算をしなくてもいい時代にだんだん入っていった。 (中略) 日本全体が戦争経済にのめり込んでいったわけですね。その朝鮮窒素の新しい展開のベースとなった技術は、肥料と火薬とカーバイドです。

····························································


この聞書を読むほどに、現在の状況を形作っている価値観なり発想は戦前の延長線上にしかないということが、ひしひしと感じられる恐ろしさ。



韓国の友人に、父親が朝鮮窒素の火薬工場で働いていたという話を聞いたことがある。

彼の父親は、朝鮮の解放後すぐに、日本の軍需工場で働いていたということで親日行為を疑われ、連行され、帰ってこなかったという。

朝鮮戦争が始まると、興南埠頭から避難船が出た。米軍の船だった。彼の母親と子どもたちはその船に乗って南へと逃げ、釜山の沖合の巨済島の難民収容所へと収容され、母親は生きるためにそこで出会った男性と再婚する。相手の男性もまた混乱の中で妻と生き別れになったひとだった。

そんな話をふっと思い出した。

第3章「植民地の民衆」扉の言葉より。

···········································

「みんな、内地で哀れな生活をしとればしとるほど、朝鮮で飛び跳ねて、ぜいたくな暮らしをしたいわけな。逃げてきたばかりの貧乏生活を、あざ笑いたいわけな」

被抑圧者から抑圧者への変貌は、瞬時に起きる。被抑圧者は、その抑圧が強ければ強いほど、自分も抑圧者になることを夢見ている。抑圧者への変身プログラムは、いわば被抑圧者の中で完成されている。植民地は、そのプログラムの実現を制度的に保障し、人種主義で正当化した。植民地に行ってなお、朝鮮人にシンパシイを持ち得た二人の民衆が、二人とも自分は最低の人間であると信じていた、いや信じ続けていたことは、興味深い。その制御ロックだけが被抑圧者か抑圧者かの二者択一モデルを防ぎ得たのだ。

···································································

この本の編者は上記の状況を、民衆の共食いという。

私は、島の記憶を拾い集める石垣島のわが師匠水牛老師の、大衆こそ恐ろしいという言葉を思い出す。状況に応じて人は容易に人非人になれるのだという。村であろうと、島であろうと。近代都市に生きる人々がどんなにそこに夢を託していても、そこにはやはりおまえと同じ人間しかいないんだと。

民衆は純朴なばかりでも善良なばかりでも哀れなばかりでもない。だが、哀しい存在であるのは確かだろう。

第3章「植民地の民衆」のうち 「カフェと遊郭」。そして植民地をめぐる想像力のこと。

「朝鮮じゃみんな飲みよった。飲まん人間は居なかった。行くのはほとんどカフェだった。九竜里に行けば、ドラゴン、春雨、楽園会館。天機里に行けば、赤玉、オリオン、金春、武蔵食堂……」


興南は遊郭が賑わったもん。松ヶ野町というて、柳亭里社宅の手前が遊郭だった。」

「松ヶ野町は、泊まって六円から七円五〇銭、一発で二円だった。熊本の二本木でも、泊まりで七円五〇銭。遊郭の値段は、内地も朝鮮も全国統一価格やったっじゃろ。」

「朝鮮ピーに行けば、一発一円五〇銭だった。一発やるうち、ちょっと時間が長くかかれば、

「早くみじゅ(水)出しなさい」

ていいよったったい。

「いやぁ、待て待て」

て。ハタハタて魚を干して、スルメみたいになっとるのがあった。女はひっくり返っとって、ボボさせる方で、カリンカリンやって食うとたい。そして水出せて。咸興に行けば、ロシヤ人の女ばかりいる遊郭もあったっぞ」

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朝鮮人のことは、ヨボ、ヨボと呼んでバカにしていたから、朝鮮の女と付き合うことはなかったけれども、商売女は別、それは人種の問題じゃなくて、金の問題、という声もあった。


こういう話を聞けば、貧困の問題が人種・民族の問題に巧みにすり替えられる、そのようなものとして認識する(あるいは、認識させられる)回路が、いとも簡単に人々の心と頭に刷り込まれていったことも垣間見える。



第四章「植民地の崩壊」の扉の言葉には、このような記述がある。

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フランスの植民地であったチュニジア出身の作家アルベール・メンミは、植民地解放のプロセスを明らかにした。植民されていた民族は突然姿を変えて、植民していた民族と対等の者となり、そのあとで恐ろしい敵になる。以降すべてがいままでつけていた符号を変え、すべての価値が逆転する。被植民民族は植民民族の価値そのものの名において要求し、たたかい、後者の思考法や闘争法を使用する。だが、被植民民族が最終的に自由になるためには、振子の揺れ戻りではなく、別のやり方、植民民族から独立した形で自己の姿を考え、自己を再建しなければならないのだと。

 興南における敗戦後の進行は、ほとんどメンミの言葉通りであったように思われる。遠野富蔵さん(大正一四年生)は、「平たく言えば、日本人さまが朝鮮やろうに、朝鮮やろうが日本人さまになった。また、朝鮮人は日本人になるのにまるで一生懸命だった」

(中略)

日本人はいままでの社宅を出て、朝鮮人社宅に移ることを命令される。荷物は持てるだけ一回限りという条件で。以降日本人は、速やかに難民化していき、冬を迎える中で本当の災厄が始まる。

(中略)

その過程は一面で、日本人民衆が朝鮮人民衆の生活と感情、日本人への対応の仕方を追体験していくことでもあった。朝鮮人社宅の劣悪さも、住んでみてはじめて分かった。泥棒することもやむを得なかった。「朝鮮人の工場」に、日本人は人夫で就労を始めるが、今度はどうやって仕事をサボるかだけを考えるようになる。


そして、

どん底のまたどん底に落ちたとき、「朝鮮人は日本人のようではなかった。朝鮮人オモニのおかげで水俣に帰って来れたのだ」

一方で、

やっと帰り着いた水俣で引揚者を待っていたのは、敗残者を見る冷たい視線だった。朝鮮の話は、その栄光も悲惨も共に水俣の民衆には通じなかった。

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つくづくと思う。

人間の想像力などというものは、ちっぽけでうすっぺらで、すぐにほかの誰かに色に染められてしまうものなのだろう。

想像力も及ばぬところに自分自身が追いやられて初めて気づくこと知ることの、悲惨。

「どこか心の煉獄」のような場所に閉じ込められたという民衆の植民地体験がある一方で、植民地体験を存分に活用した窒素と国家の戦後がある。

口を封じられた生者と死者たちの沈黙、あるいは傷、あるいは深い闇を抱え込むことによってこそ、戦後日本の繁栄は謳歌されたのだということを知る。

第3章「植民地の民衆」より。 日本人社宅の奥さんと朝鮮のオモニの朝鮮語レッスン

「オクサン、オデミ」

「オデミ、オッチェ(オデミてなあに)」

「オクサン、ドコスンデル」

「五区ヨ、タンシン、オリマッソ(あんたはどこ)?」

「タンシン、チョッコン、チョッコン(すぐそこ)」

「チョコマン サラメ オルマ(子どもは居るの)?」

「ハナ、ツリ、ソイナ」

「タンシン、カンゼ マアニ イッソ(じゃがいも沢山ね)」

「ウリ ハタラクカラネ。ナンデモ マアニ イッソヨ」

「トン(お金)トカエル?」

「アンヨ、アンヨ、カンゼイリイッソヨ(いいや、じゃがいも要るよ)」



「オクサン、チャバッソ スル?」 

(これは、たぶん、「奥さん、手伝い、いる?」 チャバッソは、持ってあげる ではないかと思われる。この場面では、マキナを取りに行った場面でのオモニの言葉)

「エエ」

「シタエダ、イリ オプソ(下枝要らない)?」

「オモニニアゲル」


「オモニキョウハ生理ネ。カラダナップン(悪い)?」

「オクサン ヨークワカルネ。オクサン ムネ チョンゴシ(心がきれい)」

「オンナノカラダハ、イボンサラメモ、チョウセンサラメモ、ミナハンガチ(同じ)?」

「ハンガチヨ」

コンマスミダ(ありがとうございます)」

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これは朝鮮語を覚えた数少ない日本人社宅の奥さんであった緒方キクノさんの記憶の声。

日本の女も朝鮮の女も、体はみな同じ、

ということは、遊郭通いをして朝鮮ピーを買っていた男たちがよーく知っていただろう。

が、

男たちの欲望の対象としての体ではなく、生理もあれば子も産む命のありかとしての体を女たちが暮らしの中でさりげなく語り合っていたこと、

それだけをもっても、このキクノさんとオモニの会話はかけがえがない。

オモニが最後に「コンマスミダ(ありがとう)」と言っていることがせつない。


キクノさんのほかの、ほとんどの奥さんたちは、朝鮮のオモニ(行商にやってくる女性をさしている)と話さない。

それどころか、いたずら心なのか、からかい半分なのか、人間扱いしていないのか、オモニが籠にいれて持ってきたリンゴや卵を盗んだ。


朝鮮人のオモニときちんと言葉を交わして、オモニから好かれ信用されたた緒方キクノさんの言葉で、印象深いものは、これ。

「でも話をすることと、信用することはまた別ですよ。朝鮮人の心は怪しいですもん。怪しかった。心は許せんかった。あらゆるものを打ち解けてみせたり、聞いたり話したりしたらだめです。心が打ち解けるということは、その話を全部取られてしまって、智恵も全部くれてしまうわけですからね。

第3章「植民地の民衆」より。 朝鮮人部落のこと

興南は、朝鮮でも特殊な環境でした。日本人は全部、社宅に入ってしまうか商店街に住み、周囲の朝鮮人部落とは隔絶していた。


●ヨボ部落の汚いことは、見なければ話にならんです。たいがいの家が豚と犬とを飼っとるですよ。豚と犬がそこら辺に大便する、小便する、人間も便所はないですよ。人間のウンコ、豚のウンコ、犬のウンコが、歩く所にある。そうすると下水の流れる所がないんです。雨が降るとドブドブして、足なんか踏まれんです。天気のいいときは、ブクブク泡が立っています。

(中略)

「あんな生活してでも、人間というのは暮していくんだな」

て言いよりました。


●ヨボ部落で便所のあった家は、まあ10軒に一軒だろうかなぁ。


●あの部落は、あとでボチボチ集まってきた部落ですね。工場に抱きついてしもうとったんじゃな。


●あっ共、貧富の差がものすごいんですね。そのリャンバン(両班)の家は、大きなお寺のような家だった。

(中略) 

そのリャンバンは、長い白ひげを下げとったもん、そして尖った帽子をかぶって、キセルは長いのを持って、いい着物を着て、人間的に重みがあった。

(中略)

そんなリャンバンでも、日本人から押さえつけられて、頭上げできんかったですね。



●日本人が来るまでは、一家族一日一銭、一ヶ月三〇銭もあれば、生活ができよったていうもんな。こまごました物まで、オッ盗って行きよったったい。

2018-02-23 宇井純『公害原論』  メモ

公害原論「開講のことば」より

「個々の公害において、大学および大学卒業生はほとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足尾鉱毒事件をのぞいて皆無であった」

「立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する」

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1970年から15年間、自主講座として行われていた「公害原論」の最後の頃に私は駒場にいて、自主講座の立看を横目で見つつ、通り過ぎたりしていた。

学生だった当時の私には、まだ水俣病も、公害も、自分自身の置かれている状況に直結するリアルな問題という意識を持てず、(そこまでの心の余裕がなく)、ただただ韓国籍の在日の大学生に対して、就職の機会をほとんど与えないという形で扉を閉ざしている日本社会といかに闘うしか頭の中になく、とても孤独だった。

若かった私は、自分なりに生きるために必死で、若さゆえに愚かでもあったのだと、いまつくづくと思う。

自然保護の争点が、実は日米安保に絡んでいるということ

1988年の宇井純の言葉

「現在全国的によく知られている四つの自然保護争点、知床、逗子、三宅島、石垣島白保のうち三つまでが、日米安保体制の強化による軍事基地にからんだ問題であることは公害防止、自然保護という一見やわらかい問題が、日本の政治経済状況の深部に根ざしていることを示している。」


この状況は、30年経った今も、まさに現在の差し迫った問題として、沖縄、宮古、石垣、与那国に危機的状況として存在している。

そういえば、こないだは青森の小川原湖に米軍が燃料タンク2個を投棄して、しじみ漁に大きな打撃を与え、謝罪もなければ、回収もしない。回収作業にあたったのは自衛隊なのだった。

2018-02-19 『聞書 水俣民衆史五 植民地は天国だった』より

戦前に、朝鮮窒素の興南工場に電気を送るために、昭和2年より、現在の北朝鮮の山岳地帯に赴戦江水力発電所の建設工事が始まった。

ダム建設は、赴戦江、長津江、水豊と続く。

それは朝鮮窒素という一民間企業を中心とした電力開発事業でありながら、

アメリカの国家事業TVAに匹敵した。


どれだけ新興財閥窒素が植民地朝鮮で権力と結びついて横暴であったか、

どれだけ人間がモノのように扱われたか、

聞書水俣民衆史』をひもとけば、いやになるほど、次から次へと、植民地支配の実情が語られる。

たとえば、


●水豊発電所長 萱島秀信伸の証言(明治32年生)

興南工場は、日本の肥料の半分を作ってた。発電量によって興南工場の肥料の生産計画が決まるでしょう。それによって肥料の値段が上がったり下がったりする。肥料の値段で米の値段が左右される。僕は米の相場をやったら誰にも負けなかったと思う。


(水豊発電所建設のために水没したのは幅1〜2キロメートル、長さ170キロメートル、移住させたのが7万人。)

戦後日本ではね、日本発送電の技師長が、二〇軒以上水没にかかると補償問題がやかましいので、水力発電所はできんと決めとったんだ。片や二〇軒、片や七万人だよ。


(水豊ダムは)使った人夫が毎日三万人。朝鮮人半分、満人半分。(中略)鴨緑江の雪解けの水は、利根川の洪水の量より多いんですよ。雪解けになると、発電所の水路の溜まりに流れて来る水死体が毎年七、八〇体じゃきかん。死体は引き上げんのだ。巡査が来てみな本流に流してしまう。朝鮮側も満州側も水死体上げたら調書取らにゃいかんし、厄介だからね。



●赴戦江 工事監督の日本人人夫 平上嘉市(明治40年生)の証言

〈集団凍死していく支那人クーリー

私が一番びっくりしたのは、支那人クーリーの扱いです。工事ができる期間だけの完全な季節人夫でしょう。(中略)三月から四月にかけて、いっぺんに500人、1000人て連れて来て、ここに居れ、て火の気もない野っ原に放っぽらかすんです。支那人の飯場なんて絶対あるもんですか。(中略) まだ零下二〇度、二五度の気温で、寒波がパッと来りゃ零下三〇度を越す。 (中略) 日本人の合宿はペーチカが真ん中に坐っていました。野っ原の支那人は、抱き合うて坐って、少しでも人間の輪の中に入ろうとするけど、外側になった者は凍死していく。朝になると木頭(=支那人の人夫頭)が来て、ずっと見て回ってこれもだめじゃ、これもだめじゃ、て死体を一キロか二キロ川下に運ばせて、どんどん捨ててしまう。そして生きている者だけ働かせる。人間を扱うんじゃなくて豚かなんか扱うようにですね。 (中略) 寒波が来る度に、そうして死んだのが、ひとかたまり百人ぐらい居たでしょうね。私はこの目で見たんですから。


<警察官以上>

朝鮮水電の日本人社員ていえば、警察官以上の権力を持っとったです。警察官はわれわれの介添え役だった。


<幽霊写真>

水路の隧道でうまくいかんもんだから、人身御供を流したという話はありました。最初女の子を流したけど効き目がなかった。それでまた男の子を流したて。

(妻・フミ 明治41年生)

隧道のでき上がり記念写真を、七、八人で撮ったところが、その後ろにまたボヤーッと七、八人写っとったという話もあったですよ。

2018-02-10   沖浦和光『旅芸人のいた風景』より  メモ

 山から里に下りてきた山伏たちのゆくえ 

もともと祭文は、神や仏に祈るときに唱せられる祝詞・願文であった。


中世に入ると、修験者巫女が、仏教の声明の曲節で、願い事を唱えたり、自分たちに縁のある寺社の縁起を語るようになり、それも祭文と呼ばれるようになった。


山から里に下りてきた山伏たちは、俗人勧化のために、錫杖を鳴らし法螺貝を吹いて神仏の霊験を説いた。しかし堅苦しい説法では誰もきいてくれないので、節を付けて唄うように語った。それが今に伝わる「祭文」語りの原型である。


江戸時代になると、山林修行の修験道とは全く関係なく、祭文を唱えて歩く遊芸民が現われたが、その語りの内容も俗受けするものに変わっていった。


すなわち「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「信太妻」「刈萱」など、室町後期から説経節の「五説経」として広く親しまれていた説話・物語を語り歩いたのである。


彼らが「説経祭文語り」と呼ばれた。



※参考 和歌森太郎『山伏』より

「市場祭文」(延文六年 1361 武州文書にある)

それ市といっぱ私のはかりごとにあらず

伊勢天照大神 住吉大明神

御はかりごとなり


市場の祭は、市場の守り神である市姫を祭ってなされる。

市姫の祭主になるのは市子と言われた巫女。

神を齋く(いつく)、よって市子(いちこ)

市場とは、斎場であり、祭場だったのである。

中世においては、市子などの巫女が各地を遊行したこと、あたかも山伏の地方往来と同じであり、しばしば山伏、巫女が接することもあり、おそらくはその縁で市子に求められて、山伏が祭文などを作ったのだろう。


江戸時代には、そうした祭文もまったく娯楽的な歌祭文に変っていくが、それとともに法螺貝や錫杖は持つけれども、本来の山伏とはちがった似非山伏が、祭文語りにもなっていったのである。さらには錫杖が三味線に変り、祭文が浄瑠璃調のものに変ってしまった。


『声曲類聚』歌祭文の項

「祭文は山伏の態なりしを小唄を取り交へて作り、のち三味線に合はせて歌ひけるなり、昔は祭文を読むといふ。今は語るといふ也」

近世の「説経語り」の風景 (俗山伏)

和歌森太郎『山伏』より


山伏がいちだんと落ちぶれて、その信仰を押売りに門付けを行なうなどのことがあった。説経を門付遊芸としておこない、お布施をもらうために山伏祭文を語って歩く、まったくの俗山伏がいたのである。


浪花節が山伏祭文から起っていることは周知のとおりであるが、これがなんとなしに平俗きわまるものとして低劣に見られるのは、祭文語りが零落した山伏の姿であったこと、語る内容があまりに特殊な社会のことでありすぎたからである。



江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。



全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈祷に出かける、あるいは遠方の山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。

「祭文」から「歌祭文」、「歌祭文」から「でろれん祭文」

近世中期に入って浄瑠璃歌舞伎が大人気になると、「お染久松」「八百屋お七」「お俊伝兵衛」「お夏清十郎」など、巷間に流布した悲恋哀話を平易な祭文調で語る「歌祭文」が現われた。


三味線を用いた弾き語りが流行したが、冒頭の一句だけは、やはり祭文の古風を守って、「敬って申し奉る」から始まった。


昔ながらの錫杖を用いた歌祭文は「でろれん祭文」と呼ばれた。

「歌祭文」⇒「でろれん祭文」⇒「浪花節」

「でろれん祭文」明治中期まで続いて「浪花節」(浪曲)の源流となった。



「ちょんがれ」「しょぼくれ」「うかれ節」も、みな歌祭文を源流とした同じ系統である。

明治期に流行した「阿呆陀羅経」は、小さな木魚を叩いてテンポを速めた「ちょぼくれ」の一種である。


江州音頭」「河内音頭」などの口説音頭も、近世の歌祭文の流れに連なる。

2018-02-04 和歌森太郎『山伏』(中公文庫) メモ

  そもそも山伏とは……

神霊や死霊の籠もる山を背景にしたシャーマン。それがはじまりの姿だろうと。(古代よりの山岳信仰のもとに)

後世、山伏の始祖と伝えられる役行者について。

「『続日本紀』に語られている限りの役小角の性格は、まず山を背景にして、山の神を操ることができた霊媒者としてのシャアマンであるといえるのではなかろうか」

 ※シャアマンとしての、優婆塞、優婆夷。

●シャアマンは、山で修行して験力を修める「験者」もしくは「修験者」へ。

 密教的な加持祈祷真言

 

●その修行のありようとして、「山臥する」。転じて「山臥修行者」

●平安時代、「験者/山伏修行者」は、熊野詣の「先達」を務める。

 この頃は、「山伏」よりも、先達、聖、聖人、行者と呼ばれるほうが多かった。

 ※聖とは「日を知る」者。先々の事を予言しうる者。

 「優婆塞から、はっきり験者として山々を修行してくるようなすぐれたものが、

  とりわけ聖の名をもって称せられるようになるのである」。


「聖の住処はどこどこぞ、大峰、葛城、石の槌、箕面や勝尾や、書写の山、南は熊野、那智新宮」(梁塵秘抄


「平安時代を通じて、当時の仏教思潮に助けられながら、固有の山岳信仰は修験の人たちの指導するところとなり、各地の山々は修行場として開かれていった。そうして、まだ一般民衆とまではいかないが、生活の力を余分に持った貴族たちは、実際に山の浄土に身を入れようとして、たびたび列をなして参詣することが行われた。それがまた刺激となって、聖たちの山間修行を盛んにさせた。 こうして山間修行のほうにもっぱら精力を注ぐ、山伏なるものが成立してくることになる」

江戸時代の山伏

「要するに、江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈祷に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである」


近世の山伏は、大きく分けて、本山派(天台系。三井寺末 聖護院管理)と、当山派(真言系 醍醐寺三宝院)に所属。その他、羽黒等の地方修験。


●修行者としてより、「祈祷師としての行者」の趣。陰陽師的性格も併せ持つ

 陰陽道による招魂祭、鬼気(もののけ)祭、竈祭、夏越祭、厄神祭、火伏祭などを行う。


明治5年9月15日付 太政官布達 修験宗廃止。全国18万人の山伏の還俗。

2018-02-03   日本語をもって、日本語を乗り越えるためのメモ 

アナキズムであって、アニミズムであること。

なぜいま語りなのか、という問いをめぐって。

石牟礼文学は、短歌となると、なぜ、日本的抒情から離れらないのか? と詩人金時鐘

となると、私は、

近代日本の共同性も日本的抒情というものも土地に根づいた言葉も、身体感覚として全くわからずに、筑豊の地の底に潜り、北九州の海辺の海女を想い、八百比丘尼を追い、海沿いに旅をして、あるいは時をさかのぼり記紀を読んでいると言っていた森崎和江さんを思い起こす。


なぜ、神話? なぜ海女? なぜ八百比丘尼? と10数年前の私は思ったけれども、

それは日本の中に、消されたいくつもの日本の可能性を追いかける旅であったことが、今になってひしひしと分かる、

森崎和江の中には日本的抒情はなかった、とあらためてつくづくと思う。

そして、

日本的抒情とアニミズムが結びついたとき、文学が宗教にも変じうる。そこに孕まれる危うさを思う。


鶴見俊輔を読み、山尾三省を読もうとふと思う。