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読む書く歌う旅をする      by 姜信子 Twitter

2017-08-15 日本歴史と芸能第一巻  古代の祭りと芸能 

「立ち現れる神」

今日から、「大系 日本歴史と芸能」を一巻から見てゆく。

とどろとどろと鳴神も、ここは桑原よも落ちじ落ちじ

宮田登の序論に曰く

神歌には、それぞれおおらかな風俗(くにぶり)が表現されている。

「この里はいかなる里か あられふる森か社か神か仏か」。

森であろうと社であろうと、神であっても仏であっても。カミの道を通ってくるものは、それが祭りの時間であるならば、喜び勇んで迎え入れるというのが基本なのである

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神は音と共にやってくる。

鈴が鳴る。太鼓が鳴る。空気が轟く。立ち現れた神が舞う。



本日は「石清水八幡宮のお神楽」から。

「鳴り高し、鳴り高し」の声ではじまる、

これは神を降ろし、神遊びをし、そしてまた神あげをする一連の儀式。

「韓神(からかみ)」の舞。榊を手にした舞人。

そうか、「韓神」なのか。

2番目は、京都 大田神社 巫女

鈴を鳴らして、巫女がゆっくりと回転する。

これは最も基本的な巫女舞の動きという。

●3番目は、春日大社 巫女舞

こちらの巫女は扇子を手に舞う。


●4番目は隠岐島前神楽の巫女舞

神勧請からはじまる。 

この項の解説にこうある。

中世期の修験者は、先祖祭りの祭祀形態として、採り物舞と仮面を用いる猿楽の能で構成された芸能を全国各地に伝えた。今日われわれはこれを「神楽」の名で呼んでいる。

法者などと呼ばれた修験者は、中世の山間村落に分け入り、得意の験などを使って村人の信用を得て、その祭祀を行うようになっていった。

ふだんは、巫女を神がからせ、法者がその託宣を伝えるという方式で、神祭祀の宗教活動を行っていた。

これらの宗教者の多くは、大夫とも呼ばれ、近世に入ると村神主となって村落に定着、江戸時代を通じて徐々に修験色をなくしてゆく。

●5番目は、秋田県平鹿郡大森町八沢木 保呂羽山 浪宇志別神社 神子舞

これは修験系。蔵王権現

●6番目は、春日大社 東遊

●7番目は、熱田神宮 踏歌神事

2017-06-15 消えた朝鮮アメ売り。旅する地蔵。

『秋川の昔の話』(平成4年 秋川市教育委員会発行)P66〜67から。


むかし、もの売りや旅芸人が、秋川にまわってきた。時が移り産業や文化や生活が変わるにしたがい、途絶えてしまい、今はほとんどみることができない。

●こんな前置きのあと、回想されるのは、「朝鮮アメ売り」「よかよかアメ」「ピートロアメ」「毒消し売り」「清心丹売り」「富山の薬売り」「孫太郎虫の売薬」「つけ木屋」「小間物屋」「豆太鼓売り」「玄米パン」「羅宇屋」「唐辛子おばあ」「三河万歳」「角兵衛獅子」「瞽女子育て地蔵


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○朝鮮アメ

日韓併合のあと、

“朝鮮アメ買わんかね”

チンチントントン、かんなの刃と、アメの切り板を、

小さな金づちでたたいて鳴らしながら、

朝鮮の人がアメを売りにきた。

三尺に六尺の台に、三角形の屋根がつき、

白いアメをかんなの刃で、割っては売って歩いた。

関東大震災のあと、ばったりこなくなった。

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※こんな短い、ただ思い出したままに語っているような言葉の中の朝鮮アメ売りの行方が、どうにも気になる。

この朝鮮人のアメ売りは、関東大震災のあのときに生き延びたのだろうか? どこに消えてしまったのだろうか?

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これは「子育て地蔵」。旅するお地蔵さん。


お地蔵さんを、うしろ向きに背負い、鉦を鳴らして道を通ると、村人は赤い帽子やよだれかけを用意して待っている。

お地蔵さんは何枚もよだれかけがかかり、帽子がいくつもかぶせられていく。お賽銭箱にお賽銭を入れて、子どもが授かりますように、無事に安産できますように、子どもが丈夫に育つようにと、それぞれの願いをこめて拝んだ。

2017-06-13

金石範「在日朝鮮人文学」より

ことばが開かれたそのときはすでに想像力作業によって虚構の世界が打ち上げられたときであり、虚構はことばに拠りながら同時にことばを越えたものとしてある。



それはまたイメージ自身がことばに拠り、それに拘束されながら同時にそのことばを蹴って飛び立つもの、ことばを否定するものとしてあることではないのか。



文学は言語以外のものではないが、同時に言語以上のものだというのはこの謂である。

2017-06-10 金石範作品集? メモ

「途上」は1974年に『海』に発表。

組織と個の関係。

「離脱すると廃人のようになるといっても大げさではない」


問われているのは、

在日朝鮮人が日本語で書くということ、

日本語で組織を批判をするということ、

その組織は国家になぞらえられているという現実があるということ、

朝鮮人の共同体は組織を離れてはなかったということ、



組織の枠には収まらぬ、むしろ超え出てゆかねばならぬ「表現」の問題。


具体から出発して、普遍へと向かう、表現という行為をめぐる問い。


この表現を支える思想、世界観、人間観は何なのか?



なぜ書くか、何を書くか、誰に向けて書くか、


「どうもおれたちは軌道から取り外された人間らしい。孔春三もおれと同じようなものなのだ。で、軌道がなければ一人で歩いてでも行くよりは仕方あるまいて。どれもこれも途上なのだ。われわれは途上に群れる顔、顔、顔のなかの一つの顔なのだ。馬達夫は自分がものを書いて行く以上どこへかは定かに分らぬが、そこへ自分を追い込んで行かざるをえないと思った。自分を追い込むことによってしか、自分を開いて行くことができない感じがする。これからもその途上は長いだろう」


途上をゆく者のよって立つところは、、

「ぐらっぐらっと揺れる」「まことにたよりないわが家」「生活にはいろいろと支障の多いおんぼろ家」「どことなくユーモラスで抜けたところばかりの」「愛すべきわが家、おれの根拠地、おれの仕事場」。

2017-06-06 金石範を読む。(メモ)

1971年『文学界』に発表された「夜」は1960年大阪が舞台だ。

火葬場のある町、母の死、そして北朝鮮への帰国運動……。

隠坊、癩者、朝鮮人、川向うの人々。

火葬場にて。

「すすけて真っ黒になった凹凸のはげしい高い壁が天井に接して目に入ってきた。そこには無数の嬰児の大きさをもったざらざらで粗雑な仏像ようのものがつぎつぎに浮び出てきた。(中略)この種の仏像は火葬場の構内の石塀の上にも何段となく立ち並んで石塀をいっそう高くして雨曝しになっているが、それは死者を焼いたあとの灰にセメントを混ぜてつくるというものであった。」

「朝鮮人の隠坊のところへ一人の癩病患者が訪れた。業病を持たされたその朝鮮人の男は、まだ焼かれずに残っている死体の肝臓を切り取ってくれとたのみこんだというのだった。人間の生まの肝臓を食べれば癩は癒るというのだ。」


火葬の煙が流れくる町にて。

「はじめは、どこからともなく魚を焼くような、いや焼きはじめの生臭さまで混じえたにおいが、そこはかとなく流れてきたのだ。窓を開け放したままの二階で夕食をしていると、きまって同じようなにおいが食卓の上にまでほんのりと蔽いかぶさるようにして漂ってくる。(中略)しかしそれがそうだと分かったとき、そのときはすでにそのにおいに馴染んでしまっていたせいか、いやその日々の引きずる生活の重さのせいだろう、二児の母親の彼女はおどろく様子もなかった。そして、ただ、ああ、これからはそのにおいといっしょに、ふるさとを思い出すようになるといったという。」

(彼女は凄惨な死にまみれた4・3の済州を生き延びた者なのである。)

「トーロク泥棒」は『文学界』1972年5月号に発表。

制服制帽をトーロク(外国人登録)代わりにし、友人のトーロクを盗んだ男。

密航船の飲料水用の予備の貯水タンクに潜んで、予定がのタンクへの注水のために溺死した男。


死にかけている魚と、溺れる魚としての、ひとりの男がいる。


「そのとき、水槽の中の魚群の運動のリズムに支えられた小宇宙の秩序が乱れかけた。一匹が、それはハマチのようだったが、よたよたと水中で倒れながらも一直線に水面へ向って浮上して行ったのだ。それは揺れるはずのものではない首を打ち振るように全身を揺さぶり尾を大きく動かして体をかわすと、水槽を見つめているこちらに向って突進してきて、無惨にその口先を透明なぶ厚い壁にぶっつけた。白く剥がれてぼろぼろになりかけた口先にたちまちうっすら血がにじんで水に洗われて行く。(中略)それはまるで魚が溺れている恰好だった。いや、溺れるものの最後のあがきにも似ているのである」


「溺れるもの……人間、水槽で揺れる死体……大阪に住んでいた男」

予備タンクの水は船内のの水道の蛇口からどんどん流れ出す、人々の体内を通過する、やがて水は異臭を放ち、蛇口からは髪も流れ出る。


匂い立つ描写

「詐欺師」は『群像』1973年12月号に発表。

主人公の白東基は、まるで阿Qのようだ。

魯迅の影をよぎる。

ケチな詐欺をしたがゆえに、共匪(北のスパイ)の主謀者にでっち上げられた男が、すべての希望を断たれたことが分かった瞬間に、おれは共匪だ、主謀者だと、そう名乗りをあげることで、小さかった自分が、立派に男らしく生きている実感を味わう、そして夢想の中で死んでゆく。


そういえば、「夜」には、カミュの「異邦人」の影がよぎってたいたような気もする。

2017-06-04 水の方へと降りてゆく

 東京都羽村市五ノ神 まいまいず井戸

◆羽村駅

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◆五ノ神社は駅のそば。西友の脇。

神仏分離令以前は熊野社。熊野五社大権現が祀られていたという。

今は、天照皇大神、素盞鳴尊、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、伊佐那美命、事解能男命(ことさかのおのみこと)が祀られている。

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◆五ノ神社前には、カタツムリの殻のような螺旋を水をめざして降りてゆく。

井戸は金網で覆われている。深い。懐中電灯で照らしてみれば、井戸の底に光が映る。水はある。その水から舞い上がってくるのだろうか。すさまじい数の蚊が飛んでいる。刺された。かゆい。実にかゆい。

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◆五ノ神社前 観世音菩薩

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◆五ノ神社前  隼人墓

これはいったい誰の墓でいつのものか、謎。

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東京都あきる野市渕上 石積み(まいまいず)井戸

今はもう使われていないけれども、水は滔々と湧いているようだ。

あめんぼが水面を走っていた。

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2017-05-31 金石範『1945年夏』

この「長靴/故郷/彷徨/出発」の4部作は、今再読すると、ひどくリアルだ。

発表は1971年から1973年。

舞台は終戦間際から戦後。

主人公は大阪に生まれ育った朝鮮人二世。

この植民地の民の息子は、「皇国臣民」であることと「朝鮮人」であることの間で宙づりになっている。

植民地支配下の朝鮮に穢れなき民族の姿を夢見ている。

そして、徴兵検査を利用して日本脱出を企てて渡った現実の朝鮮では、かぎりなく「倭人」に近いおのれの実像を突きつけられ、同時に植民地朝鮮の宗主国に服従する表皮の部分にしか触れ得ず、脱出したはずの日本へと逃げ帰る……。

居場所のない在日朝鮮人の青年たちの姿。

民族に対するコンプレックスと、日本に対する抵抗の精神と、現実を生き抜くにはナイーブすぎる潔癖な心ゆえの彷徨。

しかし、女は、母親か性の対象としての女しか出てこないのだな。

しかも、母親世代の女は、その多くが皇民化教育に取り込まれなかった分、無学が幸いして、肉体化されている「民族」そのものとして描かれるのだな。

女が同じ時代同じ状況を描いたならば、どんな目線のどんな描写になるのだろうか。


いろいろ思うところはあるのだけれども、金石範が描く日本の敗戦前後を彷徨う在日朝鮮人の青年たちの姿は、3・11後を生きるわれらのさまよえる姿にも通ずるところがあって、読むほどにひどく心が重くなったのも確か。

いま、私たちが闘おうとするならば、その出発の場所はいったいどこにあるのか? という問いをみずからに突きつける自分がいる。

かつて、金石範がおのれにその問いを突き付けたように。

2017-05-10 トラジ

金石範作品集?より「糞と自由と」。そのなかに流れる朝鮮民謡「トラジ」

戦争末期、徴用されてきた北海道のクローム鉱山から逃亡を企てた李命植は、山すその茂みに身を潜ませていたそのとき、声を聴く。

 そのとき、なにか人の声がしたと思った。それは彼にどきんとさせなかったほど、ふしぎな声だった。風にのってそれは歌のようにかすかに流れてくる。そしてその歌は彼の記憶の中をさまよいそのどこかでやさしく結びつきかけようとしていた。李命植はがばっと立上った。夢ではなかった。それはたしかに歌だった。徐々に大きくなってくるそれは朝鮮の歌だったのである。やがて人かげらしきものが向うに現われて、それは煙草の火なのか、赤くとぼったものがうごいた。彼らは鼻唄まじりに「トラジ」を大きな声で歌いながら歩いてきた。李命植はなつかしさの余り思わず駆けだしそうになった。ああ、こんなところにも同胞が住んでいたのである。祭祀かなにかの寄合いがあっての帰りだろう。いわば砂漠で人にであった思いだったのである。

 李命植は彼らがまぎれもなく朝鮮人であること、しかもその話しの調子から同じ慶尚道の人間であることがわかると、彼らに近づいた。二人はさも驚いたように立止った。

(作品集機嵎気伴由と」 P111より)


こうして逃亡朝鮮人李命植は、追いかけてきた同じ朝鮮人の「朝鮮人追廻し係」(いわゆる鉱山の朝鮮人幹部)に捕まる。そして鉱山に連れ戻され、追廻し棒で滅多打ちにされ、さらに同僚の朝鮮人坑夫たちも李を追廻し棒で殴ることを強要され、こうして殴打されつづける李は無惨に殺され、李を殴打した朝鮮人たちも精神的に殺されていく。


北海道の山すその地に流れた「トラジ」のなんと酷いことか、御国訛りの慶尚道の言葉のなんと悲惨なことか。

歌で、声で、人をなぶる、人間たちの営みの、なんと無惨なことか。

도라지 도라지 백도라지 심심산천(深深山川)의 백도라지

한두 뿌리만 캐어도 대바구니로 반실만 되누나

(후렴) 에헤요 에헤요 에헤애야 어여라난다 지화자가 좋다

    저기 저 산 밑에 도라지가 한들한들


도라지 도라지 도라지 강원도(江原道) 금강산(金剛山) 백도라지

도라지 캐는 아가씨들 손맵시도 멋들어졌네…


도라지 도라지 도라지 은율(殷栗) 금산포(金山浦) 백(白)도라지

한 뿌리 두 뿌리 받으니 산골(山-)에 도라지 풍년(豊年)일세 


★以下の日本語歌詞は、韓国語歌詞を翻訳したものではなく、別物。

1.トラジ トラジ トラジ  可愛いトラジの花咲いている 

  峠を越えてゆく道 幼なじみの道だよ

  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!

2.トラジ トラジ トラジ 白いトラジの花みつめて

  母を偲ぶたそがれ 星はやさしく揺れるよ

  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!

3.トラジ トラジ トラジ 髪にトラジの花飾れば

  過ぎた昔なつかし 夢もほのかに浮かぶよ

  ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ ヘイヘイヤ!


浪曲師南篠文若(後の三波春夫)は、浪曲のあとの余興に「トラジ」を唄ったという。それが日本人の観客たちに大いに受けたという。脈絡なく、そのことを不意に思い出した。

2017-04-26 月刊みすず2017年4月号より

シカラムータの大熊ワタルさんの連載がはじまった!

「「生き生きと幸せに」――チンドン・クレズマーの世界冒険」。

これが連載タイトル。

第一回は、「NYにエコーしたイディッシュの記憶」

これが実に面白かった、なにより刺激的。音楽っていいなぁ、ほんとうに。


クレズマーとは、東欧系ユダヤ人の民衆音楽だ。

それを30年前に初めて聴いたとき、大熊さんは、

「その音楽の響き――哀愁と祝祭性――に打たれた。そして、ほとんど瞬時に、まさに自分たちが取り組もうとしていたチンドンとジャズの同時代的な融合に、この音楽も共通の響きがあることを直感していた」

この直感は間違っていなかった。

日本最強の路上のチンドン・クレズマー楽団シカラムータ、そして大熊ワタルは、縁あって、NYのイディッシュ劇場の100周年祝賀フェスティバルに招かれ、演奏するのだが、そのチンドン・クレズマーをユダヤ系日刊紙FORWARDはこう評したのだから。

「ユニークだったのは、この演奏が感傷や懐古なしにこの音楽を活気づけ歓喜させたこと。そのことでイディッシュ音楽が、それに属する人々を絶滅させる試みで中断されなければ、どのように自然に進化しただろうかと想像できたことだ」

この評は胸を衝く。クレズマーの響きの向うに無惨な絶滅収容所の光景も広がる。そこで演奏された音楽の数々さえ想い起こしてしまう。

同時に、人々とともに消されたかのように思われたクレズマーが、NYのユダヤ移民たちの間でリバイバルされ、それが人種と国境を越えて旅したときに生み出されたものに胸打たれる。

路上にあること、旅をすること、混じり合うこと、なにより、それを歌い踊ってきた民のことを忘れないことによって、ますます豊穣になってゆく音楽の力をあらためて思った。

2017-04-18 玉川奈々福プロデュース 語り芸パースペクティブ第一回 

四月十七日夜 篠田正浩監督、亀戸にて、「語り」を語りつくす

今宵もまた遅くまで夜の街を野良犬のようにうろうろ、昼間の生暖かさは、夜には冷たい雨に変わっていました。

今夜は亀戸で映画監督篠田正浩の、「語り」をめぐる話を聞いてきたのです。

篠田正浩といえば、私にとっては「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」「桜の森の満開の下」。「沈黙」は観たいけれどまだ観ることができずにいる。

映画を撮るということが、そこには芸能者が集まるという一事をもって、時には映画それ自体が芸能そのものに触れてゆくという一事をもって、篠田正浩は日本の芸能をさかのぼりその根源へと踏み込んでゆく、徹底的に。

それはもう『河原者ノススメ』(幻戯書房 篠田正浩)を読んでひしひしと感じた。

だから、出かけた亀戸、にて。

ちょうど篠田さんが菅原道真の話に差し掛かったところで、外では激しくうなりをあげる風雨の声、

「なぜ道真は怨霊となり、義経は怨霊とならなかったのか」

そのとき篠田さんはこんな問いを口にしたのでした。

そしてつづけてこう言った。

義経は無数に語られつづけた、語られることで義経は鎮められた。

浄瑠璃などでは関係のない演目でも必ず義経は登場する、

陸奥判官びいき、日本人の判官びいき、

そこには敗者に寄り添う地べたの声がある、想像力がある、

地べたに生き、地べたを旅する者たちが、小さな声で語り継いできた

この世の敗者たちの物語があると。


篠田さんはこんなことも言いました。

安寿と厨子王をいたぶる山椒太夫、安寿を責め殺す三郎、

逃亡して出世した厨子王は、山椒太夫の首を竹鋸で三郎に引かせます。

「一引き引きては千僧供養、二引き引きては万僧供養」

この場面に至っては、息子に親の首を引かせる厨子王の「悪」こそが際立つのだと、

厨子王の「悪」は、強大な権力を握った者の「悪」なのだと、

それを名もなき語りの者たちがしっかりと声にしていくのだと。


しかし、私はここで、水上勉が「山椒太夫」の同じ場面で語ったことも合わせて考えたいと思ったのでした。

「厨子王丸がいま世に出ることができ、丹後の守護になったぐらいでは、村の辻に集まった門説経の客たちは満足しないのである」

「客はこれで、正道(=厨子王)が怨みを晴らしてくれるよう次の段を待つのである。説経節はここぞとばかりに説き語り、(中略)人形たちは喝采をあびるのである」

「語り部もれっきとした集団や家族をもたずに孤独に旅する人であったろう。(中略)説経節を語る人は殆ど流浪していたし、芝居を見にもゆけず、村の辻へきた者も、貧しい人々であった。(中略)貴種流離の人買い話が、かくも残酷であったことを、身につまされてきいていたのである。正道が、山椒太夫一族をこれからどのように処罰するかに期待をかけたのである」

権力者厨子王の「悪」を呼び出すのは、「語り」の場に集う流浪の民、貧しき民なのだということ。

「悪」は権力者ひとりでは成就しないのだということ。

そして、私は、国家権力に翻弄されてきた歴史を持つ遥かな小さな南島で、「しかし本当に怖いのは名もなき庶民なのだ」と語った人の言葉を切実に想い起こしたのでした。


さて、篠田正浩の話に戻ります。

かつて日本には、この世の敗者、放っておけば怨霊になるような者たちをめぐる、「説経節」のごとき「語り」がありました。

ところが、近代戦というものがはじまって、戦の場で人間が生身の一対一で殺し合わなくなってから、

「語り」の質がどんどん変わっていったのだとも篠田さんは言いました。

殺戮が彼方で繰り広げられるオートメ―ションの戦争では、殺し殺されることも人間の想像力の外の出来事となって、人間の世界から敗者も勝者も怨霊も姿を消してゆく、(でも、けっしてその存在自体が消えたということではないのです、見えなくなっただけ、想像できなくなっただけ)、痛みも涙も悲しみも敗者を悼み鎮める「語り」の声も消えてゆく、

だとすれば、この世は、もはや、誰にも気づかれることのない怨霊で満ち満ちた恐ろしくも哀しい世界、なのかもしれません。

ノーベル賞が取りざたされる村上某がいくら現代の物語を紡いだところで、語りの本質的な意味において、「説経節」を凌駕することなどできないのだとも篠田さんは言いますが、それはつまり、痛んで悲しんで涙して悼んで鎮めて昇華して、くりかえしこの世を再生させる語りの声が、現代の物語の中にはないのだということでもありましょう。



ふたたび義経の話です。篠田さんは「橋弁慶」にも触れた。

能の橋弁慶では、牛若丸は千人斬りをめざす狂気の者として五条大橋に現れます。

その千人目の標的に武蔵坊弁慶が登場します。

なるほど、篠田さんの言うとおり、牛若丸は狂うほかはなかったのでしょう。

父は清盛に殺され、母は清盛の女にされ、自身は鞍馬山の稚児となり……。

だから、かつての地べたの者たちの想像力は、きちんと牛若丸を狂わせます。

そして救う。

思うに、千人斬りの「千」は「永遠」の別名です。

牛若丸の怨念は呪いとなって永遠の狂気、永遠の殺しへと牛若丸を駆り立てる、

その呪いを解く者として千人目の弁慶は現れる。


そしてその弁慶は、「義経記」では、

衣川の戦いの場面で無数の矢を身に受けて見事に立ち往生を遂げる。

その姿はこう語られます。

「黒羽・白羽・染羽、色々の矢ども、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花 秋風に、吹き靡かるるに異ならず。」

弁慶は武蔵野の尾花になる。色とりどりの尾花になる。


私はその姿をじっと思い浮かべてました。

武蔵野の尾花となった弁慶を語る者たちの小さな声に耳を澄ましました。

そして野良犬のように、幻の武蔵野を、雨に打たれて歩いていました。


歩くほどに、篠田正浩の語ったことは、既に篠田正浩の語りではなく、一匹の雨夜の野良犬の語りにすりかわっていくようなのでした。

2017-04-16 備忘。2012年3月1日の走り書き。

物語化を拒否する「傷」がある。

与えられる物語ではなく、新たな物語を創造しようとする傷がある。

傷は永遠の底なしの穴としてそこにある。

物語はいつも「穴」から生まれる。

古い物語を飲みこんで、噛み砕いて、捨て去る穴。

それ自体は物語になりようもない、取り返しのつかない穴、あるいは傷。

人間とは、そもそも、その存在自体が取り返しのつかないものなのである。

済州島、伝説の五百将軍は母を食った。

歴史とは、取り返しのつかない記憶を消し去った記録なのである。

「罪悪深重・煩悩熾盛」

まるごとの「いのち」になって語り合うこと(この語り口は森崎和江的だ)

物語から脱走せよ。(これはなにやらポストモダン的だ)

根こそぎ問い直すこと。(言うのは簡単)

文字とは何か? 言葉とは何か? 文字は光か? 言葉は光か?

予感を持たない言葉は、闇を知らない。

予感とは、罪を知るということでもあるのかもしれない。

予感とは、野生をとりもどすことなのかもしれない。

大地を知るカラダ?

この世の水のめぐるカラダ?

私とは何者なのか?

「知る」ということの、取り返しのつかなさ。 

原罪について。

「言葉なんか覚えるんじゃなかった」(いや、この引用では浅いな)

赦されない罪 取り返しのつかないことをもっと考えること。

言葉とは何か、人間の行為とは何か、根こそぎ問うこと。

肉体化した「罪と罰」  概念ではなく。

「身をもって生きている人間の存在そのものが罪の現場にほかならない」高橋

罪との向き合い方を問う。

罪の自覚を損なう社会とは…

誰が誰を赦すのか  

神や仏がコンビニエンスなツールに堕していていいのか。

現人神と言う便利な仕組み  人間サイズ 小賢しい神の創造

罪と責任を背負うのは、個としての人間、私しかありえないではないか。

2017-04-14 シャモワゾーの言葉

それは金石範の営為でもある

私たちは、死者に正義を還さなければならない。 by パトリック・シャモワゾー


『思想としての朝鮮籍』(中村一成著 岩波書店)より

2017-04-13 猿八座東京公演

2017年7月2日は東中野・ポレポレ坐へ!

1年半ぶりに、佐渡・猿八を本拠地とする人形浄瑠璃一座 猿八座の東京公演です。

しかも、400年ぶりに猿八座によって復活上演された「山椒太夫」全6段のうち、見せ場を選り抜き、4段を上演。

(全6段公演は、新潟県上越市高田の世界館にて毎年4月に催されています)

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◆2017年7月2日(日) 於・東中野・ポレポレ坐

 開場/14時   開演/14時30分 (〜16時30分) 

◆演目 

「三番叟」 / 前口上 「山椒太夫」の風景  姜信子(作家)

「山椒太夫」 信夫の里・姉弟山別れ・鳴子引き・親子対面

◆ 入場料 前売3500円  当日4000円 (1ドリンク付)

◆ ご予約 TEL 03-3227-1405(ポレポレタイムス社) Email event@polepoletimes.jp

◆ お問合せ 「東京で猿八座を観たい」実行委員会事務局  

  070−3397−4025  wildfrances@yahoo.ne.jp


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2017-04-12 『<戦後>の誕生  戦後日本と「朝鮮」の境界』 メモ 

第一章 「戦後日本」に抗する戦後思想(中野敏男)

【問題提起】 

1.そもそも、本当に、敗戦によって日本は大きく生まれ変わったのか?

2.「天皇制」を戴く民主国家、日米安保体制とセットの「平和主義」、戦争が生みだした特需で繁栄を経済復興を成し遂げた「基地国家」、という現実と、「平和と民主主義」の「戦後日本」という物語の間には、都合の良い忘却と自己正当化があるのではないか。

3.きわめて内向きな「平和と民主主義」の戦後の物語、それを支える意識はいかに生成されたのか。

  (加害認識の封印と被害者意識の解禁はいかにして生成されていったのか)


<資料1>

1946年6月25日 衆議院本会議「帝国憲法改正案(日本国憲法)」をめぐる質疑における吉田茂の答弁

日本の憲法は御承知の如く五箇条の御誓文から出発したものと云っても宜いのでありますが、所謂五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情を唯文字に現はしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本の国体であります、日本国そのものであったのであります、此の御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、「デモクラシー」そのものであり、敢て君権政治とか、或は圧制政治の国体ではなかったことは明瞭であります、……故に民主主義は新憲法に拠って初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあった事柄を単に再び違った文字で表はしたに過ぎないものであります。


<資料2>

吉田裕昭和天皇終戦史』P240

わたしたち日本人は、あまりに安易に次のような歴史認識に寄りかかりながら、戦後史を生きてきたといえるだろう。すなわち、一方の極に常に軍刀をガチャつかせながら威圧をくわえる粗野で粗暴な軍人を置き、他方の極には国家の前途を憂慮して苦悩するリベラルで合理主義的なシビリアンを置くような歴史認識、そして、良心的ではあるが政治的には非力である後者の人びとが、軍人グループに力でもってねじ伏せられていくなかで、戦争への道が準備されていったとする歴史認識である。そして、その際、多くの人びとは、後者のグループに自己の心情を仮託することによって、戦争責任や加害責任という苦い現実を飲みくだす、いわば「糖衣」としてきた。


<資料3>

本文P34〜35

たとえば一九四五年一二月の衆議院議員選挙法改正は、いわゆる「婦人参政権」を盛り込んだことで戦後改革の民主主義的性格を象徴する事件となっているが、この「改正」によって旧植民地出身で日本在住の朝鮮人中国人は参政権を否定されることになった。また彼らは、「日本国憲法」が施行される前日の一九四七年五月二日に出された最後の勅令=「外国人登録令」によって、憲法による人権保護の対象からも外されている。そればかりでなく、そもそも戦後民主主義を基底をなす日本国憲法が、人権の主体を「国民」とのみ規定して国民以外を排除する点で、諸外国の近代憲法に比してもずっと国民主義的な性格の色濃いものとして作られたのである

※ 「旧植民地出身の日本人」から日本国籍剥奪してゆくプロセスについても要注意。

※  戦前の国家主義の否定は、そのまま民族主義の否定にはならない。民族主義が国民主義に合流してゆく流れに要注意。


<資料4>

1955年 日本共産党の在日朝鮮人運動に関する方針転換、朝鮮人党員がすべて党籍離脱。

(その出発点にある五一年綱領 「米帝国主義による民族の被害という図式と植民地主義の忘却」)

本文P61

(日本共産党の路線の変化は)天皇制という形をとった日本の帝国主義と植民地主義の「加害」に抗する闘いが日本民族の被占領という「被害」に抗する闘いになることであり、解放軍であったアメリカが一転して帝国主義の元凶であり主たる打倒対象になるという、大逆転に帰結する。

※ そもそも戦後すぐには、日本共産党と朝鮮人党員との間には「天皇制打倒」と「朝鮮の完全な独立」は連動しているという意識の共有があった。米国の極東戦略における「GHQによる天皇免責と天皇制の利用」と「南朝鮮を占領する米軍政による朝鮮人民共和国の否認」の連動がその前提。

本文P63

日本敗戦直後の再出発の当初は可能性としてあった日本共産党の国際主義は、五〇年代に入ると明らかに一つの民族主義に変質し、これもまた「戦後日本」という枠組みの中にすっぽり組み込まれることになった。

※日本の国家体制への抵抗勢力であるはずの共産党ですら、内向的な「戦後日本」の意識にのまれてゆく、「戦後日本」の構成要素となる。


<資料5>

竹内好「アジアのナショナリズム」より

アジアの上に重くのしかかっている帝国主義の力を除くためには、みずから帝国主義を採用するか、それとも世界から帝国主義を根絶するか、この二つの道しかない。アジアの諸国の中で、日本が前者をえらび、中国をふくめて他の多くの国は、後者の方向をえらんだ。……(しかし)ドレイが自由人になるためには、みずからドレイ所有者に変わるだけでは不完全であって、支配被支配関係そのものを排除しなくてはならない。


※ つまり、われらは「解放ドレイ」にすぎない、ご主人様の猿真似をする小賢しい解放ドレイ。


本文P66

すなわち、日本帝国主義の加害性は、日本人の主体に刻印されたドレイ性(魯迅的な意味で)と深く相関していて、前者が清算されない限り後者のくびきは維持し続けられると考えねばならない。だからこそ、加害責任を避けずに引き受けるとは、日本人のそのような主体性のあり方を根本から変えていくことであって、この意味で日本人自身の自己変革と自己解放の核心に関わっている、と竹内は見るのである。


日本人の自己変革と自己解放、その主体を「民族意識」に置くとき、民族感情を基盤にナショナルな責任主体を立ち上げようとするとき、問題は隘路に入ってゆく。


【応答 1】

本文P77

国民的主体に志向して内側だけで「平和と民主主義」を語る「戦後日本」は、その思想の構成を九〇年代のその時期(歴史主体論争の時期)までずっと変えずに来てしまっている。この上で、日本帝国主義の加害性は温存され、竹内の言うような日本人の主体に刻印されたドレイ性は清算されず、そして価値概念としての「戦後日本」も生き続けてきたのであった。


<資料6>

梶村秀樹「植民地と日本人」より

実際、歴史に登場する朝鮮植民者の生きざまは、ギョッとするほどすさまじく、弁護の余地なく邪悪である。庶民にいたるまで、ときには庶民が官憲以上に、強烈な国家主義者であった。かれらは朝鮮人に対して、国家の論理で完全武装した冷酷なエゴイストであり、あけすけな偏見の持ち主、差別・加害の実行者であった。朝鮮人のことならすみずみまで知っていると自負しているくせに、実は本当のことなどなに一つ知らないのだった。


※ 日本敗戦時点、植民地朝鮮に居住していた日本人は70万人以上。

  軍人・軍属を含めると敗戦時に国外にいた日本人は660万人以上。

  1983年厚生省集計によれば、敗戦時から1983年までの引揚者は朝鮮からだけで91万9903人

  総計で629万1820人。

  アジア太平洋戦争で外地で死亡した日本人は250万人以上。

「身近に植民地体験をまったく持たない日本人は、おそらく一人もいない」(梶村)

「確かに、戦後を生き延びた大部分の日本人にとって、「ギョッとするほどすさまじく、弁護の余地なく邪悪」な植民地体験というのは文字通り他人事ではない」(中野)



【応答2】

P82

重要なことは、この普遍的な植民地体験が、戦後の日本人の内向的で利己的な国民意識を形成する基盤になったと見なければならないことである。

<資料7>

梶村秀樹「植民地と日本人」より

それほど普遍的な植民地体験が、「邪悪なる国家権力と善良なる庶民」という体裁のよい図式だけで割り切ることを許さない屈折・錯雑とした深層意識を形作らせたことが、いっそう重要である。なにかに傷ついた心がそれだけ強烈に希求する権威への帰属意識、そこから出てくる利己的・独善的な国家意識とアジア認識。このパターンが、確かに今でも生き続け、受け継がれていることを感じる。


P83

植民地帝国としての日本の植民地主義が、日本人たちをむしろその底辺からからめとって侵略戦争と植民地経営に動員していった仕方は、そのまま植民地主義への批判を封じる仕組みと連動している。そしてしれは、日本人たちだけをアクターと想定する言説空間を前提とする限りでとても有効に機能するはずのものであった

国民的主体への自覚を呼びかける「戦後日本」の主体言説に抗して、民衆の植民地主義そのものを内在的に解体していくこと、これは世紀の変わった現在になお課題として残されている。


さて、これを、「声」の問題、、「語り」の問題と、いかに切り結ばせていくか、である。

2017-04-07 「日本国の国益だが言う物、もう真平なんだっちゃ」(『吉里吉里人』

文藝2017夏号 特別対談  赤坂憲雄×小森陽一「東北独立宣言(とーほぐどぐりつすんべ)― 井上ひさしをめぐる地方・言葉・文学」


この対話を読んで、あらためて日本の近代って、何だったのか、民主主義って何だっだのか、をつくづくと考えた。

たとえば、宮本常一が『忘れられた日本人』で描いた村共同体、村の寄り合い民主主義というものがある、それが根を断ち切られ、近代という仕組みにただただ従属するばかりの単なる行政区画、単なる町内会、隣組にすぎない集団に置き換えられてきた歴史がある。

村共同体の核のところにあった「神」や「仏」(これは近代以前の、神仏分離令以前の、一村一社的な神々の近代化以前の、村の神、山の神的なもの)が、国家神道のなかに秩序づけられ解体されてしまった歴史もある。

そんな歴史に想いを馳せつつ聞く赤坂さんの言葉は、いまこそ思いだすべきこと、大切にすべきこと、私達の中にまだ残されている可能性に、あらためて気づかせてくれる。


「共同――あるいは協同とか協働とか――これは震災の前に全く僕のテーマになかったのですが、震災を経験して、これを復活せざるをえないのではないかとさまざまな実践の場で思いました。もう一度そこに立ち戻って自分たちを立て直さないと、明治以降に共同体や村を国家に従属させてきた大きなシステムに対する異議申し立てができない」


「小さな共同体が世界に繋がりながら、国家に従属するのではなく、より大きな世界に開かれていく、それにはどうしたらいいのか。おもしろいことに、会津の場合、その鍵は再生可能エネルギーにありました。再生可能エネルギーって、世界に繋がる共通言語なんですよ」

(赤坂さんは、再生可能エネルギーの会社「会津電力」の設立に関わっている。原発事故を経験した福島だからこそ再生可能エネルギーをテーマとして引き受けるべきだと)


「東北は戦わないことを意識的に選んできた。勝てないけれども負けない戦いをどのように持続していくのかがやっぱり東北のテーマなんですよ。僕はそれが東北人の精神史に隠されていると思います。東日本大震災を潜り抜けて、いましたたかに、しなやかに小さな動きがはじまっています」


東北に続け。