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読む書く歌う旅をする      by 姜信子 Twitter

2018-02-10   沖浦和光『旅芸人のいた風景』より  メモ

 山から里に下りてきた山伏たちのゆくえ 

もともと祭文は、神や仏に祈るときに唱せられる祝詞・願文であった。


中世に入ると、修験者巫女が、仏教の声明の曲節で、願い事を唱えたり、自分たちに縁のある寺社の縁起を語るようになり、それも祭文と呼ばれるようになった。


山から里に下りてきた山伏たちは、俗人勧化のために、錫杖を鳴らし法螺貝を吹いて神仏の霊験を説いた。しかし堅苦しい説法では誰もきいてくれないので、節を付けて唄うように語った。それが今に伝わる「祭文」語りの原型である。


江戸時代になると、山林修行の修験道とは全く関係なく、祭文を唱えて歩く遊芸民が現われたが、その語りの内容も俗受けするものに変わっていった。


すなわち「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「信太妻」「刈萱」など、室町後期から説経節の「五説経」として広く親しまれていた説話・物語を語り歩いたのである。


彼らが「説経祭文語り」と呼ばれた。



※参考 和歌森太郎『山伏』より

「市場祭文」(延文六年 1361 武州文書にある)

それ市といっぱ私のはかりごとにあらず

伊勢天照大神 住吉大明神

御はかりごとなり


市場の祭は、市場の守り神である市姫を祭ってなされる。

市姫の祭主になるのは市子と言われた巫女。

神を齋く(いつく)、よって市子(いちこ)

市場とは、斎場であり、祭場だったのである。

中世においては、市子などの巫女が各地を遊行したこと、あたかも山伏の地方往来と同じであり、しばしば山伏、巫女が接することもあり、おそらくはその縁で市子に求められて、山伏が祭文などを作ったのだろう。


江戸時代には、そうした祭文もまったく娯楽的な歌祭文に変っていくが、それとともに法螺貝や錫杖は持つけれども、本来の山伏とはちがった似非山伏が、祭文語りにもなっていったのである。さらには錫杖が三味線に変り、祭文が浄瑠璃調のものに変ってしまった。


『声曲類聚』歌祭文の項

「祭文は山伏の態なりしを小唄を取り交へて作り、のち三味線に合はせて歌ひけるなり、昔は祭文を読むといふ。今は語るといふ也」

近世の「説経語り」の風景 (俗山伏)

和歌森太郎『山伏』より


山伏がいちだんと落ちぶれて、その信仰を押売りに門付けを行なうなどのことがあった。説経を門付遊芸としておこない、お布施をもらうために山伏祭文を語って歩く、まったくの俗山伏がいたのである。


浪花節が山伏祭文から起っていることは周知のとおりであるが、これがなんとなしに平俗きわまるものとして低劣に見られるのは、祭文語りが零落した山伏の姿であったこと、語る内容があまりに特殊な社会のことでありすぎたからである。



江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。



全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈祷に出かける、あるいは遠方の山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。

「祭文」から「歌祭文」、「歌祭文」から「でろれん祭文」

近世中期に入って浄瑠璃歌舞伎が大人気になると、「お染久松」「八百屋お七」「お俊伝兵衛」「お夏清十郎」など、巷間に流布した悲恋哀話を平易な祭文調で語る「歌祭文」が現われた。


三味線を用いた弾き語りが流行したが、冒頭の一句だけは、やはり祭文の古風を守って、「敬って申し奉る」から始まった。


昔ながらの錫杖を用いた歌祭文は「でろれん祭文」と呼ばれた。

「歌祭文」⇒「でろれん祭文」⇒「浪花節」

「でろれん祭文」明治中期まで続いて「浪花節」(浪曲)の源流となった。



「ちょんがれ」「しょぼくれ」「うかれ節」も、みな歌祭文を源流とした同じ系統である。

明治期に流行した「阿呆陀羅経」は、小さな木魚を叩いてテンポを速めた「ちょぼくれ」の一種である。


江州音頭」「河内音頭」などの口説音頭も、近世の歌祭文の流れに連なる。

2018-02-04 和歌森太郎『山伏』(中公文庫) メモ

  そもそも山伏とは……

神霊や死霊の籠もる山を背景にしたシャーマン。それがはじまりの姿だろうと。(古代よりの山岳信仰のもとに)

後世、山伏の始祖と伝えられる役行者について。

「『続日本紀』に語られている限りの役小角の性格は、まず山を背景にして、山の神を操ることができた霊媒者としてのシャアマンであるといえるのではなかろうか」

 ※シャアマンとしての、優婆塞、優婆夷。

●シャアマンは、山で修行して験力を修める「験者」もしくは「修験者」へ。

 密教的な加持祈祷真言

 

●その修行のありようとして、「山臥する」。転じて「山臥修行者」

●平安時代、「験者/山伏修行者」は、熊野詣の「先達」を務める。

 この頃は、「山伏」よりも、先達、聖、聖人、行者と呼ばれるほうが多かった。

 ※聖とは「日を知る」者。先々の事を予言しうる者。

 「優婆塞から、はっきり験者として山々を修行してくるようなすぐれたものが、

  とりわけ聖の名をもって称せられるようになるのである」。


「聖の住処はどこどこぞ、大峰、葛城、石の槌、箕面や勝尾や、書写の山、南は熊野、那智新宮」(梁塵秘抄


「平安時代を通じて、当時の仏教思潮に助けられながら、固有の山岳信仰は修験の人たちの指導するところとなり、各地の山々は修行場として開かれていった。そうして、まだ一般民衆とまではいかないが、生活の力を余分に持った貴族たちは、実際に山の浄土に身を入れようとして、たびたび列をなして参詣することが行われた。それがまた刺激となって、聖たちの山間修行を盛んにさせた。 こうして山間修行のほうにもっぱら精力を注ぐ、山伏なるものが成立してくることになる」

江戸時代の山伏

「要するに、江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈祷に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである」


近世の山伏は、大きく分けて、本山派(天台系。三井寺末 聖護院管理)と、当山派(真言系 醍醐寺三宝院)に所属。その他、羽黒等の地方修験。


●修行者としてより、「祈祷師としての行者」の趣。陰陽師的性格も併せ持つ

 陰陽道による招魂祭、鬼気(もののけ)祭、竈祭、夏越祭、厄神祭、火伏祭などを行う。


明治5年9月15日付 太政官布達 修験宗廃止。全国18万人の山伏の還俗。

2018-02-03   日本語をもって、日本語を乗り越えるためのメモ 

アナキズムであって、アニミズムであること。

なぜいま語りなのか、という問いをめぐって。

石牟礼文学は、短歌となると、なぜ、日本的抒情から離れらないのか? と詩人金時鐘

となると、私は、

近代日本の共同性も日本的抒情というものも土地に根づいた言葉も、身体感覚として全くわからずに、筑豊の地の底に潜り、北九州の海辺の海女を想い、八百比丘尼を追い、海沿いに旅をして、あるいは時をさかのぼり記紀を読んでいると言っていた森崎和江さんを思い起こす。


なぜ、神話? なぜ海女? なぜ八百比丘尼? と10数年前の私は思ったけれども、

それは日本の中に、消されたいくつもの日本の可能性を追いかける旅であったことが、今になってひしひしと分かる、

森崎和江の中には日本的抒情はなかった、とあらためてつくづくと思う。

そして、

日本的抒情とアニミズムが結びついたとき、文学が宗教にも変じうる。そこに孕まれる危うさを思う。


鶴見俊輔を読み、山尾三省を読もうとふと思う。

2018-01-28

『身ぶりとしての抵抗』鶴見俊輔 より

アナキズムのことを考えている。

で、鶴見俊輔の「方法としてのアナキズム」を読んでいる。


以下、抜き書き

「結局は能率的な軍隊の形式にゆきつくような近代化に対抗するためには、その近代化から派生した人道主義的な抽象観念をもって対抗するのでは足りない。国家のになう近代に全体としてむきあうような別の場所にたつことが、持久力ある抵抗のために必要である。」


ソローの人間の根底にあるのは、この地上に人間が生きていてひまをたのしむことはいいことだという感覚だ。そして、なぜそれができないかを追求しようとする。雨が土をうるおす。それを見てたのしむことからはじめて、彼は彼の政治思想をつくる。この政治思想のつくりかたは、アナキズムにとって重要な方法だと思う。」

2018-01-19 笙野頼子『猫ダンジョン荒神』を読んだ。

全的に受け入れるね、笙野が荒神をめぐって語っていること、荒神たちが言っていること。猫に自分をすべて明け渡した笙野頼子を私は信じるね。


少しだけ、笙野頼子と荒神が語り合うあとがき小説「言語にとって核とは何か」から抜き書き。

文学に何が出来るか?」だって別に出来ることをするだけだろう? だって出来ない事は出来ないから。ただ、もし出来なかったら、「みんな自分」も万が一悪くなくても、またほぼ悪くなくてもどうせただ滅ぶんだつまりそういう「判りやすい美しい売れる穏当な日本語」が文学を滅ぼすんだよ。


「たかが猫」って言うやつに政権渡したら「たかが国民」って言うだけだから。「たかが国民千人の生命」とか言うだけだから。そして。

 言語の中に書くが忍んでいるのならば、それはまさに俺にとっての不幸だから。

2018-01-17 北越の百合若伝説  メモ

要は、説経、伝説、浄瑠璃を取り込んで、幕末に、寺を盛りたてるために巧みに創られたお話なのです。


※以下の記述は『北越の百合若伝説 上・下  ―地方における伝説の生成と変容― 』(板垣俊一)による。

「北越の百合若伝説」とは、

新潟県北蒲原郡聖籠町諏訪山にある真言宗新義派(智山派)の寺院 聖籠山宝積院 観音寺にまつわる伝説。

越後29番 蒲原27番 聖籠山観世音略縁起

「抑々当山に安置し奉る十一面観世音菩薩併に二王尊は泰澄大徳の御作にして霊験新たの三尊なり。その由来を尋ね奉るに人王三十九代 天智皇帝の二年蛮国より百済国に敵するに仍つて百済より本朝へ救を乞しかば皇帝築(筑)紫の木の丸殿へ御幸あり其頃豊後の国の太宰の和田丸とて武勇比い無き壮士あり 百済を救ふに百合余の戦に理を失ふことなし異国人百合弱(べかじゃく)と云ひしを自然と百合若大臣と称ふるとかや。其の後嶋々の夷を平ぐべしと勅命を蒙むり蝦夷松前より当国へ渡り此の山の洞より名鷹を得られたり緑丸と名付けて深く愛せり、鷹も忠を尽すこと限りなし。其の後人王四十五代 聖武天皇の御宇天平九年泰澄大徳当国の国上山に雷を縛し夫より此の地に来り百合若を思へ彼の緑丸が菩提の為に此三尊を彫刻し末の世に仰ぐべしと云々。而して後人王五十一代 平城天皇の大同元年何処国ともなく異人来りて堂舎を建て、此聖者を籠め奉るが故に聖籠山と名付けたり。星替わり霜移りて慶長十三年太守秀勝公信仰有りて本堂併に二王門を建て永く国家鎮護の道場となりて一度結縁の輩は二世の求願むなしからざらん。委くは本縁起にゆづりて文略如件   宝積院和南」

この「略縁起」は、観音寺が宝積院として再出発した大正5年以降に作成された可能性が強いとされている。

そして、これが現在の観音寺の由緒のもとになっているが、これに落ち着くまでに、さまざまな変遷の跡がある。


まず、慶長13年(1608)の由緒書では、

「百合若大臣の時代に緑丸という鷹の菩提の為に堂舎が建立された」と大雑把な言い伝え。


次に寛文7年(1667)の棟札では、

「百合若大臣が緑丸菩提の為に観音堂を建て、本尊十一面観音と金剛神とを安置した」という伝説を伝える。

天明2年(1782)『越後順礼』では、

聖籠観音は行基作とある。


明治23年(1890)雑誌『温故の栞』においては、

観音寺は百合若大臣の建立。十一面観音は行基作とする。 


ところが、

明治5年10月に観音寺22世快珠法師が内務省に提出した由緒書には、百合若伝説はない。

「新潟県蒲原郡諏訪山新田の聖籠山観音寺は、新義真言宗の新発田宝積院末で、大同元年丙戌年、越智泰澄上人の創立開基である。中世慶長十三年申年に到り、新発田旧藩主溝口伯耆守秀勝公、これを厚く信向(ママ)して堂塔を建立す。安政午年恵超法師の時今の法流を開基す、云々。」

しかも、略縁起では大同元年に「異人」が堂舎を建立としているところを、泰澄上人開基としている。

だが、大同元年には白山信仰開祖泰澄は既に没している。

これはとりあえず、お上に対して、物語的な部分を取り除いて体裁を整えて由緒を出したにすぎないものと思われる。

この由緒書で重要なのは、「安政五午年恵超法師の時今の法流を開基す」の部分。


安政5年、観音寺が新発田藩との密接な関係を離れ、広く一般信者を獲得しようと動き出す。

周辺地域で同寺の十一面観音に詣でる観音講が盛んになってゆく。

安政6年 観音堂再建に伴い、寺の縁起が改変される。という道筋が推測されている。


安政6年 新発田の博覧強記知識人である大野紳が寺の依頼により、観音堂の「上梁文」を書く。

<上梁文>

突然起於田間如盆石。然而忽籠森鬱不知其幾星霜、名之聖籠山。昔在山中生異鷹。天智年間、太宰和田麿奉命征伐四夷至無敵、百合皆勝。夷人畏服称百合若大臣。若猶少也。邦人諱弱易以若字。百合若者猶百合貴郎也。北征之次獲是異鷹而愛之。名曰緑丸。後復征北狄久而不帰。家人察緑丸意容綴翰嘱以使命。於是低首皷翼奮然穿雲将達而労死。大臣得其翰与骸哀惜之甚。乃匣層以帰葬之故山。顛末殆郭氏鳴後大同元年、釈氏泰澄十一面観音安之以寓大臣及緑丸忠功。史雖不載千歳口碑猶存。藩主溝口侯慶長戊申移封於越後州蒲原郡、信以伝信、疑以伝疑。乃追慕其忠功欲使士農工商不忘其美跡。遂令宝積院観音寺併而守之。……(略)…… 安政六年己未六月二十六日  大野紳(耻堂)謹識  観音寺住持恵超謹書


●畠山泰全の軍記物『大友真鳥実記』(元文2年 1737)をふまえた「太宰の和田丸」「百合弱=百合若」の記述の登場。

●「上梁文」より初めて登場の「太宰和田麿(太宰の和田丸)は、近松門左衛門作の浄瑠璃『百合若大臣野守鏡』にも登場。

●十一面観音作者は行基から泰澄に変わる。(ただし大同元年の作とされる)

(行基から泰澄への変化は、安政年間に観音寺が真言宗新義派になったからと推測されている)

つまり、

観音堂再建に伴う、観音寺の財政問題解決のための布教範囲拡大をめざして、地元知識人の力を借りて寺の由緒を耳目引くよう整えた。

それが現在の観音寺に伝わる「百合若伝説」の基礎となった。


「略縁起」は、この「上梁文」をもとに、泰澄登場の年代に矛盾が生じないよう、内容をさらに整えたと推測される。

●泰澄が観音を刻んだのは天平九年である。とする

●大同元年に名のわからぬ聖者が到来して堂舎を建立。とする。


これで矛盾も消えて、OK!!


こうして、公定の史実に矛盾しない範囲で偽史を創るという近代精神のもとに、あるいはフィクション色を消して神秘感を残すという操作によって、新たな伝説が創られ、流布することとなった。

「北越の百合若」について。参考までに。 江戸の儒学者、すげーーという話。何がすごいって、朝鮮語の知識まで駆使して軍記物の注釈を書くわけよ。そんな注釈に目を通して、寺の由緒書に流用する地方の儒学者もいるって話で。

いや、今の知識人たちが欧米の言語をすらすらペラペラ操るのと同じように、中華の世界観の中に生きる知識人たちが、中国・朝鮮の言語を操ったところで驚くこともないはずなのだけれども、すっかり近代以降の頭で生きている私は、やはり、うっかり、すげーーーと驚いてしまうわけです。


それはともかく、

『大友真鳥実記』(元文2年 1737)の作者畠山泰全は、他にも『小栗実記』『三楠実記』といった軍記物を書いている。

『大友真鳥実記』は遺稿として出版されたもので、畠山泰全と親しい関係にあり、出版以前におそらくこの『実記」の内容を知っていた穂積以貫が竹田出雲にアイデアを授け、『大内裏大友真鳥』(享保10年 1727)がなったと推測されている。


それ以前、畠山泰全『小栗実記』において穂積以貫が物語に注釈を加える形で、「按ずるに」といった言葉ではじまる添え書きを書いている。


また、自著『浄瑠璃文句評注難波土産』(元文3年序)の巻の三「大内裏大友真鳥評注」において、「其実記は近年板行なりし大友真鳥実記といへる軍書にくはしく記せり」とある。


下記の「大友真鳥実記」巻一の「按」もまた穂積以貫が書いたのではないかと思われる。

右の本文に出たる太宰の和田丸も、豊後の住人にして、基本何人(いずれのひと)たる事知らず。今度異国の戦場に廔合戦ありしゆへ、唐兵の異名に百合弱(べがじゃく)と呼ける由。此意は彼楚の項羽は、漢の高祖と七十合の戦なりしが、今の和田丸は其上にて、百合弱(ひゃくがふたらず)も戦ふべしと云義なり。百合とは百たび合戦すと云ふ心。弱はたらずの義。百合弱の三字にて、百度たらずの合戦をする人なりとの意とかや。吾日本にては、百合の二字を百合(ゆり)と訓じ、弱の一字を弱(わかし)とよむゆへ、遂に本朝の俗百合弱麻呂と稱じあへり。是も大臣を呼名として、或は百合弱大臣とも云ひなせり。今の俗玄界が嶋にて、郎等別府野心を起せし説あり。其拠ある事にや。



穂積 以貫(ほづみ いかん/これつら、元禄5年(1692年) - 明和6年9月22日(1769年10月21日))は、江戸時代の儒学者。播州姫路に、和算家穂積与信の子として生まれる。通称伊助、号は能戒斎。京の伊藤東涯に師事し、古学派堀川学派に属する。はじめ柳原家に仕え、のち大坂で学塾を開いた。竹本座との関係が深く、その著「浄瑠璃文句評注難波土産」に、近松門左衛門の「虚実皮膜論」が記してあることで知られる。そのためか、次男近松に私淑して近松半二を名乗る浄瑠璃作者となった。著に『論語国字解』などがある。 (wikiより)

ところで、白山修験は「百合若伝説」を唱導に用いたのではないかという推測がある。

そもそも、現在観音寺がある場所は、かつて諏訪神社があったと伝えられている。

それが、加賀能登方面からやってきた白山修験の影響で、まずは観音堂に取ってかわられたと推測されている。

(泰澄伝説と観音信仰の密接な結びつき)


★能生―米山―国上山―弥彦―沼垂―聖籠 と、越後の白山信仰を辿ることができる。

 たとえば、越後の観音堂としては、名立町岩屋観音堂も観音像を泰澄作とする伝説を伝える。



『北蒲原郡の自然と文化』(1929 池上綱他郎)によれば、

「大化三年蝦夷の襲来を禦ぐため郡内に柵を置き之を守者、諏訪村の丘阜に諏訪の神を勧請す是を本社建立の初めとす、後釈泰澄、社傍に梵宇を営み観音を安ず為めに本社は圧倒され頽廃せしが、建仁年中佐々木盛綱鎌倉の命により社殿を造営せり」


この「諏訪神」と「蝦夷征伐」の記憶が、観音寺略縁起の「蝦夷征伐する百合若」へと流れ込んでいったのではないかとも推測されている。


そして、なにより、

百合若、というよりも、「緑丸の伝説が山伏など勧進聖たちの唱導に用いられたのではないか」という推測があり、その根拠の一つとして、百合若説経のそもそもの性格が挙げられている。

「壱岐の百合若説経も病魔退散のために巫女によって語られる弓祈祷の詞章であり、百合若の物語がかって悪霊退散のために語られた宗教的意味をもっていた、という折口信夫博士の説を裏付けるものである」(前田淑『日本各地の百合若伝説 (上)』)


「百合若大臣について、今日確認できる聖籠の杜の最も古い伝説は、この杜の観音堂が緑丸という鷹の菩提のために百合若大臣によって建立されたというものである」



以下、

2015年11月1日の聖籠山宝積院訪問時の記事

http://d.hatena.ne.jp/omma/searchdiary?word=%C0%BB%CF%B6

2018-01-14 海の産屋 雄勝法印神楽 メモ

津波まで含めて、全的に、海とともに生きるということ。

これは、3・11後を生きる雄勝立浜のひとりの漁民の言葉。

(言ったそのままではない。私の脳内翻訳を経ている。)

神楽の担い手たちには「好きの神」がついているということ。

神楽に魅入られた者たちは神を宿らせて踊るのだということ。

菅江真澄の記した大地震のあとの東北の風景を想い起こしつつ、

はじまりの神楽を伝承しつづける三陸の町の漁民たちを想う。

2018-01-12 神楽師ネットワークが凄いという話

東京都あきる野市二宮には、かつて二宮芝居と呼ばれる歌舞伎集団が存在した。

※以下の記述はすべて、『多摩のあゆみ』第107号 特集「神楽、神楽師」に拠る。

この集団は神楽師によるもので、多摩地域を中心に盛んな活動を繰り広げていた。

二宮の神楽師を取り仕切っていたのが、古谷家。陰陽師でもある。

(古谷家と関わりの深い南秋津村の神楽師熊川家、埼玉県入間郡竹間沢村の神楽師前田家も陰陽師。土御門家の支配下にある)

古谷家は、江戸期には、湯立神楽、太太神楽を演じ、明治になると他の芸能を積極的に取り入れていく。

神楽師は周辺の村むらを檀那場として持って、神楽を奏上してまわった。


明治6年(1873) 古谷平五郎が説経祭文 薩摩君太夫襲名

明治10年(1875)古谷平五郎が6代目薩摩若太夫襲名。(これ以降、説経祭文は多摩地域に拠点が移る

明治12年(1879)平五郎嫡男 古谷安平 「車人形使創業願」。車人形興行。

さらに、大正初期までに、面芝居、新派、歌舞伎を次々と導入。

大正2年(1911) 二宮歌舞伎 本格的興行の開始。

(二宮歌舞伎の太夫元には、栗沢家もある。栗沢家は古谷家からの分派。)


★神楽師たちが芸能集団化していく背景の一つには、神楽師間のネットワークがあった。


<家と家との結びつき>

二宮の古谷家は、埼玉県入間郡竹間沢の神楽師・前田家、同じく入間郡南畑村の神楽師・鈴木家と姻戚関係にある。

古谷平五郎の長女ていは、嫁入り道具として前田家に三味線と人形を持参、説経祭文と車人形を伝えた。

前田家の「吉田三芳座」は、地元だけでなく、埼玉県内各地、千葉県成田、神奈川県江の島鎌倉方面まで興行。

里神楽、車人形だけでなく、古谷家と同様、面芝居、歌舞伎、新派も演じた。

古谷、前田両家は相互に助け合った。


<より広範囲の神楽師同士の結束・交流>

天保十二年辛丑歳二月祓講一統連印帳」文書に、相模武蔵の二六名の神楽元締めの連名・連印。

埼玉・多摩・神奈川の神楽師たちの連帯。


天保10年(1839)年12月1日の記録として「指田日記」という史料には以下の記事がある。

「先日より二ノ宮古谷氏弟来り、若者十人斗りニさいもんヲオシへ、今日稽古仕舞ニテ惣連サライアリ」

「指田日記」は、中藤村(現・武蔵村山市)の陰陽師指田藤詮(ふじあきら)の日記。


●「南秋津村神楽師熊川家の家職と活動」(小峰孝男)より

「(説経祭文の)家元は代々薩摩若太夫を名乗った。五代目家元は板橋仲宿の人で本名を諏訪仙之助という。中村屋を屋号とする神楽師でもあったといわれている。生まれは文化八年(1811)で明治10年(1877)に没している。埼玉県や多摩地域に広まった系統はいずれも五代若太夫からでたものといわれる。神楽師は幕末になるにつれ芸能者としての色彩がさらに濃くなり、神楽の興行ばかりでなくほかの芸能に職掌をひろげていく。その背景には民衆の強い要望があったのである。江戸周辺の地方の神楽師が説経の伝承に積極的であり、写し絵や車人形などとあわせた興行も各地で盛んになっていった」


●「二宮の神楽師『古谷家』」(小黒まや)より

「二宮の神楽師は神社に専属の神楽師ではなく、村や寺社の祭礼に呼ばれ、そこで芸能を奉納し報酬をもらう買芝居形式で口演をしていた。祭礼の際、どの芸能や狂言を上演するかについては頼む側(村人)が決定し、神楽師はその要望に答えなければならない切実な状況であった」

「二宮の神楽師達は、各地の祭礼に呼ばれ、全盛期には年間二〇〇日ほどの興行をし隆盛をきわめた」


二宮歌舞伎の終焉は昭和三七年。

かつて、神楽師(陰陽師)と瞽女の争いがあった。それは天保二年(1831)のこと。新座郡大和田の瞽女が、南秋津村の陰陽師

当事者の瞽女は久米村(所沢市)の座頭歌一の配下にある。

瞽女仲間は従来陰陽家と付き合わない、という瞽女側の姿勢に対して、怒った陰陽家のほうから瞽女が暴力をふるわれたり、(天保2年 1831)

あるいは陰陽家に門付けをするには「門明すすぎ金」という名目の金を差し出せという瞽女・座頭の要求に対して陰陽家側(入間郡入間川村の石山美濃)が奉行所に訴え出るということがあった。(文化4年 1807)

石山美濃は、初代薩摩津賀太夫。

これに対する「南秋津村神楽師熊川家の家職と活動」の中での筆者小峰孝男氏の見解。

「近年まで村々で活躍していた瞽女の語り物の中には説経を題材にしたものが多い。なかには説経台本をそのまま瞽女が使用していると思われるケースもある。すなわち説経という芸能ジャンルの重なりが両者の溝を深めたのではあるまいか」


なるほど、要検討。

2018-01-02 内藤正敏『遠野物語の原風景』 メモ

遠野に伝わる「阿字十万……」の偈文から、旅する物語における、真言修験、念仏聖の存在の大きさを知る。

遠野の小友町の座敷念仏の中に、「阿字十万三世仏 微塵(彌字) 一切諸菩薩 乃至(陀字)八万諸聖教 皆量(之)阿無(弥)陀仏」という偈文がある。

これと「神呪経」との深い関わり。

「神呪経」は、高野聖の念仏に理論づけをしたという興教大師・覚鎫の思想と共通するものとされている。


<佛説阿彌陀根本秘密神呪経>

阿字十方三世佛 彌字一切諸菩薩

陀字八萬諸聖教 三字之中是具足


しかし、まあ、耳で聞きおぼえたらしい偈文を小友町の人びとに書いてもらうと、その当て字の面白いこと!

彌字が微塵、陀字が乃至、

さらには、こんなのも。

なむ八十方三世仏 水(=弥字)一切堂 保坪大姉(=発菩提心) 

王城安乱国(往生安楽国)也 公明平壌(=光明遍照)


「すさまじい当て字には、村の人々がこの念仏にいだくロマンさえ感じられ、不思議なムードが漂っている」(確かに!!)


さて、ここで重要なのは、この「阿字十万……」の偈文が、遠野だけでなく、東北の中世の板碑や民衆の念仏に見られること!! 

「これらの板碑が密教系の念仏聖によって造立されたこと」

「中世の東北に、これら「阿字十万……」の偈文を説いて持ち歩いていた一群の聖たちがいたことを暗示している」

さらに、

「注目すべきことは、この「阿字十万……」の偈文が中世の御伽草子説経節のなかに多く登場すること」

cf) 「かるかや」

遠野に、東北に、念仏だけでなく、物語を持ち歩いた聖たちの姿が浮かび上がってくる。

金属民俗学、という視点がある。 それは、戦慄せよ! と、平地人たるすべての近代人に語りかける。

金属民俗学から読み解く『遠野物語』とは、遠野の「物語」ではなく、遠野という地に物語を呼び込んだ「金山」と、「金山」に向かって物語をたずさえつつ旅をした者たち/山師/山伏/聖/遊行の徒たちによって種をまかれ、風土によって育まれてきた「物語」である。



「國内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ……」

という『遠野物語』に書きつけられた柳田國男の言葉も、金属民俗学の視点からは、単なる山人と平地人のスタティックな対比ではなく、平地という一つの場、移動する者たちの交差点であり結び目となるような場と、その場を行き交う者たちのダイナミックな風景を想起させる言葉として読み替えられる。

そこには、移動し、ある場所へともたらされ、変容し、育まれてゆく物語の風景がある。

それはいまやすっかり忘れられた「物語の原風景」でもある。

それを忘れてしまっていることをこそ、いまわれらは戦慄しなければならないのではないか。

精神的に山を完全に見失った近代人として、その意味での平地人として。



以下、『遠野物語の原風景』からの抜き書き。


「遠野の不思議な座敷念仏を調べているうちに、その背後から中世の聖や山伏たちの姿があぶりだされてきた。」


「彼ら山伏や聖たちは、土地の領主にしばられることなく、全国にはりめぐらされたネットワークによって、諸国を自由に往来することのできる人たちだった。そして彼ら中世の宗教者たちは、山師や金掘り、鍛冶師や鋳物師、たたら師などの金属・鉱山民をはじめ、巫女、唱門師、芸人、大工、山の民、川の民……など、諸国を渡り歩く“非農業民”とも密接に重なっていた。」


「修験や聖たち自身も現在私たちが考えるような単なる宗教者ではなく、金属・鉱山民的な性格をもっていた者もいた」


「ここに遠野の座敷念仏は十月仏の太子信仰を持ち伝えた人たちとも重なり、壮大な宗教空間として浮かび上がってきたのである」

(「十月仏やマイリノホトケは、その土地にまだ寺が立つ以前からの信仰と言われ、死者の枕元に掛軸をかけて僧侶の引導に代えたものといわれている」

「十月仏のような聖徳太子信仰が鉱山と深い関係にあるという研究がある……(中略)……法印は水源地を掌握し、太陽の運行を熟知し、金山の光明を背景に護摩の灰の霊力をもって、民衆に臨んだ山の代官であった。そして鉱山経営者であった修験者や法印が、大日とか阿弥陀などの高級な仏を拝んだとすれば、彼らに使われた生産労働者としての金掘り、鋳物師、木地師、杣人などは、修験者より一段低い信仰対象としての太子信仰が与えられたのではないか」 ※これは井上鋭夫『一向一揆の研究』から引いている)


「これら東北の歴史の影で活躍した名もなき修験や聖たち……。彼らはまた「物語」を造り出し、語り伝えるすぐれたプロの技術者芸能民でもあった。


近世には単なる呪術的な宗教集団となってしまった山伏も、古くは山中の金属資源をにぎる技術者集団でもあった。金属は国家の存亡をにぎる物質である。山伏の呪術に凄みがあったのも、金属をはじめとする技術を背後にもっていたからではなかろうか。」


(※ 水銀と高野山と鉱山技術の関係が重要!!!)


「山の中には、”影の国家”とでもいうような、もう一つの世界が隠されていた」

2017-12-31 宮本常一『庶民の発見』  メモ

伝承をめぐって

★かつて、小豆島四海村小江の若者組では、なんと原稿用紙にすると85枚になる「イイキカセ」を加入にあたって覚えさせられたのだという。

正月二日に若者入り、そして十五日までには覚えた。(昭和25年当時)


「言葉によって伝承せられる社会では、言葉は信じられるものであり、また実践せられるものでなければならなかった」

「言葉をおぼえることが村の道徳を身につけることでもあった」

文字をめぐって

明治39年(1906)に児童就学率は96.4パーセント。 文字の浸透。


学校教育は国家の要望する教養を国民にうえつけることであったが、それは庶民自身がその子に要求する教育とはちがっていたということに大きなくいちがいがあり、しかも両者の意図が長く調整せられることがなかったために、学校における道徳教育が形式主義にながれ、村里のそれが旧弊として排撃せられつつ今日にいたったために、村人たちは苦しみつづけてきたのである。」


「明治以来の日本人の道徳教育が、日本人の日々の民衆生活の中から必然の結果として生まれでたものではなかったということにおいて、公と私のはなはだしく不調和な、道徳に表裏のある社会現象を生みだすにいたった。」

※ 網野善彦の問い。日本人はどうして宗教心を失ったのか? と響き合う、宮本常一の考察。


「文字による教育は人々を記憶にもとづく伝承から解放し、思考と探求を自由にし、国全体の文化を飛躍的に高めていった」(果たして、文化を高めていったのか? )



以下が大事。

「それは一つには、村里の慣習や教育を学校教育が目の敵のようにして排撃したことによるともいえる」

「そして民衆は自らのもつ文化を否定することによって、国家的権威に服していったのである」

文字を持たぬ世界

「文字をもたない世界にあっては言葉は神聖なものであり、威力あるおのと考えられた。呪言が相手の人間に不幸を与えると考えたのもそのためである。また、人々が不幸について語るとき「これは自分のことではないが……」と前置きして話しだすのも、その不幸が身にかからぬためであった。」


「今日、昔話として採録せられているものの中には、神楽・祭文、その他神事舞踊の詞章であったと思われるものがすくなくない」

★これは山伏比丘尼、遊行の徒の持ち運んだ物語との関わりを思わせる。



「内地の各地でも、庚申の夜だとか、大晦日の夜などに昔話の語られたのは、昔話が神祭りから完全に分離していないことを物語る」

★くりかえし、語ることに意味がある。語ることで更新される世界がある。


「ここに大事なことは農民の頭の中にあった神の姿は、われわれが歴史の書物でみるミズラ(上代の男子の髪形)を結い勾玉を首にかけた人ではなく、自分の周囲の人たちとたいして変わった支度をしていないが霊力をもっていることである」


★「お岩木様一代記」の、神さまになる<あんじゅが姫>

★<あんじゅが姫>といえば、イタコ、そして山伏。

「東北地方はとくに出羽三山を中心にした山伏の多いところである。この山伏たちは檀那場によって村人につながることは他の巫女・神人たちと同様であるが、宿を多く民家におとめ、その炉辺では昔話のよき話者であったという。山伏の昔話と祭文で語られる語り物に、どういうつながりがあるかを十分にたしかめていない。」


ただし、

津軽地方では盲僧・巫女は修験道の寺の管理するところであり、それも加賀白山系のものであったようである」


「ただ門付だけでは、それら遊行者の語り物の詞章は一般民衆の中へ伝承としてとけこむことはすくなかったと思われる。一種の師檀関係の成立が、遊行者と民衆をかたく結ぶなにより重要な鍵となるのである」

2017-12-26 風の声を聴け

足尾銅山の煙害と、山の乱伐で滅びた松木村跡(松木沢)に行ってきた。

風が吹いていた。山と山に挟まれた道をゆく、その後ろから、どっどど どどうど どどうど どどう、唸りをあげて風が追いかけてくる。

又三郎だな。

山を風が駆け下りてくるのが見える。風が蹴立てた土埃が風と一緒に山肌を走ってゆく。

風の音は、ここにある。

松木沢の風景は、ここにある。

足尾鉱毒事件、明治40年の谷中村滅亡のことを考える時、

その前に渡良瀬川上流の山の死があったこと、

明治35年の松木村の廃村と村の人びとの離散があったこと、

さらには、過酷労働環境の中でのヤマ(銅山)という、地中の無数の死があったこと、

これを忘れてはならないだろう。

足尾には生野銀山からの渡り坑夫も多かったという。

足尾にはヤマで死んだ中国人の殉難者慰霊塔も、朝鮮人慰霊碑もある。


足尾鉱毒事件もまた、水俣と同じように、山と平地を結ぶ川、

命と命を結んでゆく水脈を抜きにして考えることはできない。

そして、山深く潜って命を削っていた者たちのことも。

山と平地を結ぶ命の水脈を断つところから、

そして、命の水脈を、死の水にかえるところから、

日本の近代は始まったのだということを、

足尾鉱毒事件をとおして、痛切に知る。

2017-12-25 文字を持つ伝承者 『忘れられた日本人』より

 文字を持つ伝承者(1)田中梅治翁 ――伝承における「明治二十年問題」!!

宮本常一曰く、

「文字を知らない人と、文字を知る者との間にはあきらかに大きな差が見られた。文字を知らない人たちの伝承は多くの場合耳からきいた事をそのまま覚え、これを伝承しようとした。よほどの作為のない限り、内容を変更しようとする意志はすくなく、かりにそういうもののある人は伝承者にはならなかったものである。つまり伝承者として適さなかったから、人もそれをきいて信じまた伝えようとする意志はとぼしかった。その話していることが真実であっても古くから伝えられていることと、その人の話が大きくくいちがっているときには、村人はそれを信じようとしなかったものである。そして信じられもののみが伝承せられていく。」


「文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事を誠実にはたし、また隣人を愛し、どこかに底抜けの明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。とにかく話をしても、一緒になにかをしていても区切のつくという事がすくなかった」

「ところが、文字を知っている者はよく時計を見る。「今何時か」ときく。昼になれば台所へも声をかけて見る。すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし、どこかに時間にしばられた生活がはじまっている」

「文字を持つ人々は、文字を通じて外部からの刺激にきわめて敏感であった。村人として生きつつ、外の世界がたえず気になり、またその歯車に自己の生活をあわせていこうとする気持がつよかった。そうした中の一人として、田中梅治翁の印象はいまもあざやかである」


田中梅治翁(明治初年の生まれ)の文章に曰く

「国家トシテハ教育者モ居ラネバナラヌ、官吏モ必要デアル、工業者商業者皆夫々居ラネバナラヌ、ソレハ健全ナル田舎ノ農家カラ其人ヲ得ベキデアル、是ニハ次男三男ガ居ルデハナイカ、之ヲモッテ之ニ充ツレバタル、長男タル吾家ノ相続者ヨ、絶対ニ此貴重ナル百姓ヲ廃メテハナラヌ、此百姓ノ粒粒辛苦ハ我大日本帝国ノ国礎タル天職ト云フコトヲ忘レテハナラヌ特ニ宣言スル」


宮本常一、これについて、

「文章は時代がかっているけれども、土に生き、土を溺愛した者の声をきく事ができる。このような切実な気持が、村のすぐれた進歩的な指導者でありつつ、一方では伝承者としてばかりでなく、村を光栄あるものとして子孫にたちにうけつがせようと努力させたのである。しかも文字を持つ事によって、光栄ある村たらしめるために父祖から伝えられ、また自分たちの体験を通して得た知識の外に、文字を通して、自分たちの外側にある世界を理解しそれをできるだけ素直な形で村の中へうけ入れようとする、あたらしいタイプの伝承者が誕生していった。



伝承における明治20年問題。

「が、明治二十年前に生れた人々には、まだ新しい解釈を加えようとする意欲はそれほどつよくなく、伝承は伝承、実践は実践と区別されるものがあった。それが明治二十年以降に生れた人々になると、古い伝承に自分の解釈が加わって来はじめる。そして現実に考えて不合理だと思われるものの否定がおこって来る



★明治を境に、人を何を失い、忘れ、そして得てきたのか、ということを、あらためてつくづくと考えるべし。

★日本の近代における近代精神の問題、あるいは断絶させられた精神、もしくは心性、倫理宗教心の問題

文字を持つ伝承者(2)高木誠一翁(1886〜1955:明治19年生)福島県平市神谷

高木誠一翁の家について

「よくはわからぬが、もともと加賀白山の山伏であったらしい。それがこの土地におちついて、白山神社をまつり、村を神の加護によっていろいろのわざわいからまもる役目をしてきた。……家の神であった白山社は村の氏神になってしまった」

 

高木誠一翁の九十近い老父の話を聞いて宮本常一曰く

「この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、また家の中の人と人との結びつきを大切にすることであり、目に見えぬ神を裏切らぬことであった。


福島・平のシンメイさまについて(この話の時点は、昭和15年

「もとはワカと呼ばれる巫女たちがもってあるいて門付などしたという。しかも巫女はそれぞれ所属があり、伊勢、熊野、白山なふぉが多く、シンメイさまも伊勢シンメイ、熊野シンメイ、白山シンメイなどと呼んだらしい。……、こうしたシンメイをもちあるいた巫女は多くは眼があいていたし巫女というとものものしいが、農家の妻女が多かったのである。(中略)したがってシンメイさまは多く民家にあったが、いまは民家にそういう女がいなくなったので、もったいないからとて神社へ納めたものが少くない。するとシンメイさまにとものうていた多くの信仰習俗や伝承がそのままきえていってしまうことになる。この地方のシンメイさまの信仰もちょうどそうした段階のところにあった。」



民間の口承伝統は文書資料とちがって自分たちの生活に必要のなくなったものはぐんぐんわすれ去られていく。しかしただ忘れ去られたのではなく、神体だけはのこり、管理者がかわっているものである。民間にうけつがれている文化にはこうしたものがきわめて多い。そしてそれらがかりに記録せられるとすれば、信仰のもっとも盛んなときではなく多くは衰退期であって、かなりこわれていてこのままでは忘れられてしまうから書きとめておこうという場合が多い。過去において文字はそうした場合に役立つ者であった。高木さんはそういう意味で、古い伝承者たちの伝承を、現代へつなぐための重要な役割をはたしてきた一人であるが、ご自身もまた完全な民間伝承者であった。

2017-12-24 イブの夜に谷中村を想っている。

庭田源八翁の書いた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」から立ち上がる声に誘われて、渡良瀬川のほうへと小さな旅。

旅の記録は、↓ にある。

http://omma.hatenablog.com/


足尾銅山が原因の洪水と鉱毒で鳥獣虫魚も死に絶え、人も移り住んでゆく、足利郡吾妻下羽田。

「ニ十歳以下の者この例を知るものなし」と、

鳥獣虫魚も人も豊かに暮らしていた頃の下羽田の土地の記憶を語るように綴った庭田源八翁の声を想う旅。

田中正造は庭田家で息を引き取った。

2017-12-04 『列島語り』 メモ1

いまを生きるカタリを考えるために。 その1

敗者の鎮魂の物語として「古事記」を読み解く三浦佑之氏

「いくつもの日本」という問題意識で語りを読み解く赤坂憲雄

対話抜き書き

<市と物語をめぐって>

三浦「市という交易の場所は、話の交易の場所と理解していい」


赤坂「お話というのは閉じられた空間のなかに醸成されていくのではなく、さまざまな異質の人たちが出会う市のような場所、あるいは人々が行き交う街道のような場所に発酵して、さまざまに語り継がれていく」



オシラ祭文をめぐって>

赤坂「どうやらイタコという盲目の巫女たちがハレの日に語る祭文として、近世の初めあたりから明治の『遠野物語』の時代まで語り継がれていたらしい。おそらく羽黒系の修験とイタコが管理する口伝えの秘伝として継承されてきた歴史をもっているはずです


赤坂「盲目のイタコたちがはたして、みずからが語っていたオシラ神の祭文を創作することができたかというと、それはむずかしいでしょう。遠野地方では、イタコは山伏と夫婦関係にある場合が多かったようです。山伏たちは野にあって最高の知識人だったわけですから、いろいろな文献の知識を寄せ集めてオシラ神祭文をつくることができたはずです。漢文のオシラ神祭文はあきらかに、中国古代の小説集『捜神記』などを知っていた山伏たちが創作したものであり、さらに山伏がそれを妻であるイタコたちに与えて語りもの化したものと考えられます。そして、そのイタコの祭文語りがくりかえされるうちに、オシラ神祭りを主宰する家巫女たちによって昔話へと置き換えられ定着していった。そう、わたし自身は想像しています。こうした流れが三種類のオシラサマの話から見えてきます。これは『遠野物語』に収められた昔話としての「オシラサマ」を起点とした場合には、けっして見えてはこないものです。」

※(三種類のオシラサマの話:漢文で書かれたオシラ神祭文、イタコ系の巫女が語ったオシラ神祭文、遠野物語に収められた民話化したオシラ様の物語)



<『遠野物語』第99話 明治の三陸大津波を背景とした福二さんの話をめぐって>


遠野物語第99話

土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽くしたる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿へ行きたるが、先年の大津波に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたる。

男はと見れば海波の難に死せり者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてあると云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。




三浦「わたしはやはり、語るということは死者と向き合うということなのだと思います。ふつうにそこにいる人間に対して語っているのではなくて、語りの先にあるのは死者なのではないか。『平家物語』などを見るとわかりますが、これは琵琶法師が語るものです。こういう語りの行為というのは、目の前に現れてきている死者たちを鎮めるため、いわば鎮魂のためです。(中略) 死者を鎮めていくもの。そう考えていくと、こういう話がずっと受け継がれて語られていくことの意味、あるいは昔話を語るということがどういう役割をもっていたのかということも説明できるのではないか」


赤坂「もしかしたら、中世などは随行僧のような宗教者がついていて、戦場では弔うと同時に彼らが小さな鎮魂の物語を紡いでいたのかもしれない。それがいろんなところに生まれて、やがて『平家物語』のような大きな物語のなかに流れ込んでいくのかもしれない。宗教と芸能を架け渡すことを役割とする人々がいて、彼らが死者の鎮魂にしたがいながら、同時に物語をうみだしていたのかもしれない


三浦「折口信夫は、巡り歩く宗教者としてのホカヒビトという存在を芸能者の問題として大きく取り上げていますが、そこには、物語の伝承と死者の鎮魂といった面がきわめて強く結びついているということを考えているのだと思います。それらの芸能や語りは、生きた人間に向けてというよりは、目には見えないモノたちに向けられているはずです。


<物語/昔話をめぐって>

三浦「昔話というのは(中略)子どもたちにとって一番最初に体験する物語世界ですよね。伝達としてのことばではない、もう一つとしての機能としての言葉というのを身につけるのはおそらく昔話だったのだろうと思うんです。耳だけで体験することによって想像力をふくらませることができる。これが、昔話の一番大きな役割だった。物語をたくさん聞くということは、たくさん語れるということでもありますよね。だから、豊かに物語を生みだせるというのは、明らかに自分自身というものを作っていくうえで欠かせない行為だったのだろうと思います」



<テクスト以前の世界を想像できるか――くりかえされる「文字と語り」の問題>


赤坂「歴史の文献史料のなかには、そうした古事記と日本書紀共通のルーツであるXは出てくるのでしょうか」


三浦「旧辞(ふること)とか「帝紀」とか呼ばれる名称としてしか存在しません」


赤坂「旧辞と書いて「フルコト」といっている世界には、文字のテクストを編もうという動きや欲望があった。そして、その前段にあるのは語りですね。つねにこの「文字と語り」の問題は反復されている気がします。もしかしたら、文字化するという欲望こそが、語りを語りとして顕在化させているのかもしれない」


赤坂「共同性と共同体とはまったく異質な次元に属しています。共同体を形成し維持するためには、外なる世界に向けての恐怖の共同性を掟や禁忌として組織することによって、人々を内向きのベクトルにおいて縛るだけでは足りません。たとえば、共同体の内側に避けがたく堆積するケガレを祓い棄てるためには、物語や祭祀といった仕掛けが不可欠であり、その担い手はいつだって外なる世界につながるマレビトだったのではないか。


赤坂「語りというのは曖昧模糊として感じられる。けれども、それはつねに多様性や多数性に向けて開かれているともいえますね。文字テクストは「ひとつ」を志向するが、きっと語りは「いくつも」を避けがたく抱え込んでいるのですね。


三浦「もちろん文字テクストも多様性はあります。「語り」はそうしたテクストの多様性とは比較にならないほどの多様性を持っている。語り手ごとに違うし、同じ語り手でも聞くたびに違います。こうした「語り」の多様性という問題を背景におかないと、おそらく「語り」の問題には肉薄できない。そうした「語り」のもつ性格を意識していないと古事記は読めないと思います。これが正しいとか、正しくないとかいうのも違っていて、全部正しいと思わないといけないのではないでしょうか。

いまを生きるカタリを考えるために。その2 石垣島から

石垣島のユンタの名手山里節子さんは、昭和12年生まれ。生後間もなく、母親が病気で郷里の新潟に療養に戻ってしまったために、明治生まれの祖母に育てられた。

だから、節子さんは、明治の、日本語を話さなかった石垣島のおじいおばあたちが話していた島言葉を今も話すことができる。節子さんの知る限り、自然に、身に着いた形で、島言葉を今でも話せるのは、石垣市登野城のユンタの会では、節子さん以外には、上地のおばあだけだという。

ユンタは、島言葉を知らなくては当然に歌えない。戦後、石垣島の農業が急激に近代化されていく中で、ユンタやジラバといった石垣島の風土と暮らしが育んできた唄の自然な継承の場が失われていき、テクストを見ながら練習して身に着けるものへと変容していった。

1970年代のユンタの会の歌声と、今のユンタの会の歌声では、テクストを見て覚えて歌う者が圧倒的に多い今のユンタの会の歌声のほうが、圧倒的に迫力に欠ける。

ちなみに、↓ これは1970年代のゆんた。

https://youtu.be/owfZDIxWBdk



本来、島言葉は、母音は7つ、

しかも、同じ物を指すのでも、隣同士の集落の登野城、新川でも発音は変わってくる

とぅばらーま(唄)になると、ひとりひとり節回し、発音が変わってくると。

それが唄の本来の姿。

歌う者が歌の主、という言葉の所以。


人間の声というのは、本来、自由なのだと山里さんは言う。

ところが、厄介なのは、たとえば三線を奏でながら歌う唄三線をやるようになる、それはそれで音曲としてはひとつの発展なのだろうが、譜面にしうる音曲となったとき、生きている声の肌触りや角張ったところ、ざらつきが、楽器の作る旋律でなめらかにされてしまうのだという。

たとえば、島言葉にしても、50音の日本語を学んだ体は、五十音の文字で声を縛られて、豊かな母音も、日本語の5つの母音に押し込めらて、島言葉で語る声は失われてゆくのだという。

島言葉で語りだされる声、唄、語りが失われるということは、島で生きてきた人々の記憶自体が失われてゆくことにも等しい。

日本語という「文字」が、日本に生きる日本語以外の言葉を話して生きていた人々から何を奪ったのか、ということを考える必要がある、ということを山里さんの話は教える。

それはなにも石垣島だけの話でもないだろう、日本という近代国家成立以前には、そして標準語なるもので様々な言葉、様々な声がローラーをかけられる前には、日本列島自体にも、それはもうさまざまな土地の言葉があったはずなのだから。

2017-10-26 寿々木米若

 佐渡情話を人々は愛したけれども……

米若という浪曲師は、とにかくセリフ回しが下手だった、と語ってくれたのは曲師澤村豊子師匠

豊子師匠曰く、

「米若師匠が佐渡情話を演じているとき、台詞部分になるとお客さんが聞いちゃられないやって、タバコを吸いに外に出ちゃうんだよ。で、節が始まると、おお、はじまったはじまったって、慌てて客席に戻ってくる。それくらい米若さんの節は魅力的だったねぇ。あれはちょっと素人さんには真似ができない。でも、それを真似したくて、浪曲学校でもたくさんの人がやりたがったね」

節の力。歌の力