哲学は今日、音楽の改革としてのみ生じうる。

ムーサが歌い、人間に歌を与えるのは、言葉を語る存在がみずからの死活にかかわる住まいにしてきた言語を完全に自分のものにすることができないでいることをムーサが象徴しているからである。


音楽が存在していて、人間がたんに言葉を語るだけにとどまっていなくて、歌う必要を感じているのは、言語が彼の声ではないからであり、彼が言語を彼の声にすることができないまま、言語のなかに住まっているからにほかならない。

世界への原初的な開かれは論理的なものではなくて、音楽的なものなのだ。


言葉の起源はムーサ的に――すなわち音楽的に――規定されている。そして語る主体――詩人――は事あるごとにみずからの始まりが問題的なものであることに決着をつけなければならない。たとえムーサが古代世界においてもっていた文化的意義を失ってしまっているとしても、詩の地位は今日でもなお、どのようにすれば詩人が言葉を獲得するさいに逢着する困難に音楽的形式を与えることに成功するのか、ということにかかっている。

すなわち、どのようにして、もともとは自分のものではなく、声を貸し与えるにすぎない言葉を自分のものにするにいたるのか、ということにかかっているのである。