Hatena::ブログ(Diary)

omoituitakamoの日記

2009-01-21

トクヴィルのデモクラシー論の特徴

| 17:37

 トクヴィルの「デモクラシー」論の最大の特徴は、元来の政治体制の一分類とされてきた民主政の意味を拡張し、社会状態やそこに暮らす人々の思考や感性のあり方を含めた一つの社会類型にしたことにある。すなわち、トクヴィルの「デモクラシー」論の特徴は、原理的に民主政を正当化したり、その制度論を詳細に検討したりすることそれ自体ではなく、目の前に、まさに解明すべき一つの謎として、「デモクラシー」が存在していることを示し、その複雑な諸側面を一つひとつ解剖して見せた点にある。

 トクヴィルが示した「デモクラシー」の謎とは、そこに暮らす個人が自立して志向しようとすればするほどむしろ他者の意見に従属することになり、自分の頭で考えようとすればするほどむしろ自分の思考の無根拠性にぶち当たってしまうということであった。また、平等になった諸個人からなる社会が、平等に自由になるよりは、平等に隷属するほうに傾きがちであるということでもあった。トクヴィルは、「アリストクラシー」社会における不平等と結びつけられた自由ではなく、「デモクラシー」社会の平等と結びつけられた自由こそを「正しい」と考えたが、まさにこの「正しい」はずの、平等な自由概念が向き合わざるをえない内的な脆弱性こそが、トクヴィルの考えた「デモクラシー」の最大の問題点であった。トクヴィルは、無根拠性やそれに由来する不確実性・不確定性に引きつけて「デモクラシー」を理解したのであり、この点こそ、今日「デモクラシー」を考える人間にたいするトクヴィルの最大の示唆となっている。

 それでは、トクヴィルは「デモクラシー」社会の不確実性・不確定性の前に立ちすくんでしまったのだろうか。いや、そうではないだろう。懐疑から出発し、「デモクラシー」社会の不確実性・不確定性にたえず不安を感じ続けたトクヴィルは、にもかかわらず、「デモクラシー」のもっている潜在的な力への期待を失うことはなかった。

 トクヴィルは、「デモクラシー」の持つさまざまな脆弱性を補完しうるものについて、模索を続けた。その際の彼の模索には、大きく分けて、二つの方向性があったと言える。一つは、「デモクラシー」とは異質な原理を、「デモクラシー」社会のなかに組み込んでいくという方法である。「デモクラシー」は、自らと異質な原理を結びつくことで、むしろ安定するのではないか。このような示唆が理論的に極めて重要であったことは言うまでもない。例えばトクヴィルは、「デモクラシー」が異質性を否定する方向に傾斜しがちなのに対して、むしろ異質性を培養する装置としての結社の役割を重視したり、過去や未来への展望を見失い、現在のみにしか関心が向かわない「デモクラシー」社会に生きる人間に対し、過去からの時間の持続性を担保するための習俗や、あるいは未来への感覚を生み出すための宗教について期待したりした。さらには、「デモクラシー」の社会が嫌う形式、型、枠といったものを、あえて「デモクラシー」社会のなかに挿入してみることも検討した。

 もうひとつの方向性は、「デモクラシー」自身のもつ潜在力を全面的に開花させるものである。具体的に言えば、トクヴィルアメリカの地に最初に降り立って以来、その民主政を支えているのが一般市民の日々の政治活動であることに深い印象を受けた。彼の見るところ、アメリカの一般市民の判断が個別的に見てつねに正しいとはかぎらないし、その行動の動機はあくまで自己利益にあった。にもかかわらず、そのような人々によって動かされるアメリカ政治は独特な自己矯正力をもっているし、各個人の自己利益と結びつくようなかたちで、公共の利益に対する感覚も確固として存在する。トクヴィルは、この自己強制力や公共の利益に対する感覚にこそ、「デモクラシー」社会にふさわしい社会運営の原理を見いだしたのである。トクヴィルは、一般市民の政治参加を無条件に賛美するような思想家ではなかったが、そのようなトクヴィルが、一定の条件のもと、人々のたような知や力が結集することに、最終的な期待を寄せたことは注目に値する。

 以上のようなトクヴィルの考察は、時代を超えて意味を持つものであろう。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.177-180.

法律家:「デモクラシー」の秩序像

デモクラシー」社会においては、実質が重視されるあまり、形式は軽視されがちである。平等化のダイナミズムは場合によっては、秩序を根底から覆すこともありうる。これに対しトクヴィルは、法律家の持つ秩序や法という形式への好みが、裁判という場を通じて、一般の市民によい影響をもたらすという。陪審制によって裁判に参加した一般市民は、法律家と接触することで、しだいにそのような資質を吸収するようになるというのである。くりかえすが、トクヴィルは、法律家がその優れた資質によって一般の市民を指導すると言っているのではない。市民が、法律家との接触を通じて、自ら何ごとかを学習することが重要なのである。

 このような議論には、トクヴィルの考える「デモクラシー」の秩序像が浮き彫りになっているのではなかろうか。トクヴィルは、「デモクラシー」は非「デモクラシー」的なものによって抑制したり、「デモクラシー」をどこかに封じ込めたりすることを考えない。「デモクラシー」を制御できるのは「デモクラシー」だけである。より具体的にいえば、「デモクラシー」を構成する一人ひとりの市民が「デモクラシー」の根源的エネルギーの源泉であると同時に、自己反省能力、自己矯正力を備えたものになる必要がある。トクヴィルが構想するさまざまな仕組みは、市民の精神的な自己変革の場を提供するものである。一人ひとりの市民が、多様な他者と出会い、互いを尊重しながら、合意を生み出していく。その過程で、各個人は、自分の個別の問題と社会との結びつきを再確認し、「いま・ここ」を超えた視座を獲得していく。このような各個人の自己変容の集積によって、「デモクラシー」のダイナミズムと自己変革能力が再創造されることこそ、トクヴィルの夢見た「デモクラシー」の未来像であったと言えるだろう。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.163-164.

ここでの、法律家の位置づけとそれを配置する秩序は、先の二つの方向のどちらか一方にきれいにはまり込むものではなく、デモクラシーとは異質なものをデモクラシーの社会に埋め込む志向を有しながら、デモクラシー自身の潜在力を展開していくような戦略的位置を与えられていると言ってよいのではないだろうか。

ヘーゲルの精神現象学

| 18:26

 ヘーゲル政治思想研究においては、もっぱら『法の哲学』そして『歴史哲学』が中心的にあつかわれ、『精神現象学』が政治思想研究の中心テクストとして取り上げられることはすくない。そうしたなかで政治学者の仕事としては藤原保信『ヘーゲル政治哲学講義――人倫の再興』(御茶ノ水書房1982)と谷喬夫『ヘーゲルフランクフルト学派』(御茶ノ水書房1982年)がある。両者は、『精神現象学』と正面から向き合ったすぐれた研究成果であり、ヘーゲル政治思想、とりわけ『精神現象学』を政治思想のテキストと読もうとするものにとっては、避けて通ることのできない先行研究である。

 藤原は、『精神現象学』を第一に、自己意識から絶対知にいたるまでの精神の遍歴過程を描くことによって、学の知=学の成立根拠を示したものであり、政治哲学の書ではないと留保を置きつつも、第二にその課程を特殊と普遍の相互新党による具体的普遍の世界の成立過程と見ることができる点において、近代以前の思想的遺産に依拠して機械論的近代に対する批判と共同性の再定義を見いだし、人倫的共同体の再興の過程と読む。第三に、「主観と客観、個別と普遍、個人と社会が融和し、相互に浸透する絶対知にいたるまでの精神の自己克服の過程として理解し、そこに人倫的結合を可能ならしめる条件を見いだし、この観点に立って、『精神現象学』を政治哲学の光に照らして読み込もうとする。

 谷は、ヘーゲル自己意識論こそが、社会哲学の原理であり、その自己意識の根源にあるものを欲望であるととらえる。自然状態から社会状態へという近代社会契約論の枠組みを考察の前提において、まず人間の自然的存在の論理が次のように理解される。ヘーゲル自己意識も「自我自我」の同一性の意識であるが、その自我の同一性を示す力はフィヒテ的な自我の当為ではなく、自我のうちに含まれている己の対象的(感覚的)他在、つまり生物的な〈生命〉の原動力、すなわち〈欲望〉である。こうした自然状態における人間がいかにして社会状態に進むのか、あるいは〈自然状態〉の揚棄はどのように進行するのか。それについて、第?章「承認のための闘争」において、「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、これは、自己意識がある他者に対して即自的かつ対自的に存在することであり、またそうであることによっている。言いかえると、自己意識はただ承認せられたものとしてのみ存在するのである。」という主奴論の冒頭の引用に続けて、他者存在の問題が承認論として論じられ、主ー奴論を介して政治社会の成立過程が展開されるのであるが、谷は、政治社会の原理としてヘーゲル自己意識論を、ギリシャ的ポリス理念を介したホッブズ的〈戦争〉と国民経済学的〈労働〉の総合としての〈共同体〉論であるかもしれないと、結んでいる。谷論文精神現象学自己意識の展開と相互承認の過程として、つまり意識の共同性の生成過程を論じたものであるという点に、政治思想としての『精神現象学』の意味を見出している。

杉田「政治思想としての精神現象学」p.71

2009-01-19

平等と自由→民主的専制

| 12:46

 民主革命の熱があるかぎり、人々はこの革命に抵抗する旧来の貴族的諸権力の破壊に専心して高度の独立精神に駆られる様を示すが、平等の勝利が確実になるにつれて、この同じ平等が生ぜしめる自然の本能に少しずつ身をまかせ、社会の力を強化し集権化したのである。彼らは最初こそ平等になれるように自由であらんと欲したが、自由の援けを得て平等が確立するにつれて、平等は彼らが自由を保持することをいっそう困難にした。

 この二つの状態はいつも連続して起こったわけではない。われわれの父たちは一国の人民が貴族の権威から脱し、あらゆる王たちの権力に刃向かったその同じときに、どのようにして自らの内部に途方もない暴政を組織することができたか、これを示して、どうすれば独立を獲得し、かつこれを失うことになるかを同時に世界に教えた。

 現代人は旧来の諸権力がいたるところで崩壊していることを認識している。彼らはあらゆる旧来の影響力が帰依、全ての古い障壁がとりはらわれるのを見ている。このことはこの上なく有能な人々の判断を曇らせる。彼らは恐るべき革命が目の前に展開しつつあることだけに気をとられ、人類は無政府状態に落ちてしまうと思い込む。この革命の最終的帰結に思いを馳せるならば、彼らはおそらく別の心配を心に抱くであろう。

 私としては、正直に言って、わが同時代人を動かしているかに見える自由の精神を信用しない。私も確かに現代の諸国民は不穏であると思う。だが彼らが自由であるようにははっきりと見えない。そして私が恐れるのは、あらゆる王座を揺るがしているこの動乱が終わるとき、主権者はかつてなく強力になっているのではないかということである。

アメリカデモクラシー』2・下pp.251-252.

この民主専制は、多数の圧政とは区別される。まず、平等化のダイナミズムは人びとをばらばらにしていきながら、むしろかつてないほど強固な秩序を形成するという傾向を有している。平等化された社会では、個人は誰にも自分を優越する権利を認めないが、このことは同時に、自分が他の人間に優越すると主張するなんらの権利ももっていないことをも意味している。平等化社会においては、無意識のうちに、同等者の総体、巨大な全体としての多数者の意見が最大の知的権威となる。自分の身の回りの他者との結びつきを欠いた個人は、むしろ非人格化した権力の媒介に頼ってしか、他者へ働きかけることができなくなる。こうして、権力は拡大し、集権化の進んだ政府の単一の権力となる。個人が依存するこのような権力を、トクヴィルは、「後見的権力」と呼んでいる。

そのような権力による支配は、むしろ「絶対的で、微細にわたり、規則的で、用意周到でかつ柔和」なものになるだろうというのが、トクヴィルの見立てである。「専制は元来臆病なものであるから、人間の孤立のなかにそれ自身の永続の最も確かな保証を見出し、通常人間を孤立させることにあらゆる努力を傾けている」。であるにもかかわらず、新たな権力はあたかも諸個人の後見者であるかのごとく振る舞い、人民にとって何が最善であるかを知っていると自称し、人民の名において、自らの権力を拡大していく。

宇野『トクヴィル』pp.83-87.

2009-01-18

大学と大衆社会

| 11:59

大学入学者数による区分:エリート/マス/ユニバーサル(by M Trow)。アメリカは、1830年代、1940年代、そしておそらく1980年代と大衆社会の変容に直面していた。これをどう考えていくことができるだろうか。

トクヴィルの習俗 メモ=コミュニタリアンとの対比へ

| 17:09

 習俗は常に具体的かつ多様なものとして用いられており、決して単一な実体としての習俗が想定されなかった。トクヴィルが目指したのは、すべてを統合する「文化」を形成・維持することではなく、個々の雑多な習俗のうちの自由に益するものをゆるやかにまとめあげることにほかならなかった。

〔原文註〕

もちろん、トクヴィルに対して「文化的全体主義」の批判を投げかけるのが、全く根拠のない話というわけではない。トクヴィルを援用するベラーが、暗黙のうちにWASP(白人にしてプロテスタント)の文化を想定し、これをアメリカの文化として語ってしまうのを見れば、その「出典」であるトクヴィルにその責任がまったくないとは言えないであろう。しかしながらトクヴィルはあくまで外からの観察者としてアメリカを論じており、アメリカの習俗を唯一のものとしているわけでもない。「真正なアメリカ」の像を作ろうとする意図も利益もない。またアメリカの習俗を単一のものとも考えていない。ただしニュー・イングランドの習俗を特権的に扱うトクヴィルの論法が、その後のアメリカ人の自己神話作りの原型の一つになったことは否定できないであろう。

宇野『デモクラシーを生きる』pp.157-158

トクヴィルの政治の観念の三つの契機:第一「差異と共同性の契機」

 一方で主体の複数性を積極的に価値として提示し、差異性や多様性を肯定するとともに、他方でそれらの間に「われわれ」意識を生み出すという、一見したところ相対立することを同時に実現するということである。

〔原文註〕

この点の評価しだいによって、トクヴィルのイメージはかなり変わってくる。彼において、差異の景気よりむしろ共同性の契機をより大きく読み込めば、俄然コミュニタリアン的な思想家に見えてくる。自分を「トクヴィル主義者」というチャールズ・テイラーは、トクヴィルにおいて専らコモン・アイデンティティの主唱者としての側面を見出そうとする。しかしながらこのようなトクヴィルの像は、彼の差異への深いこだわりを軽視しすぎていると思われる

 (以下本文)主体の複数性や差異は、「真理」・大文字の「理性」・「一般意志」などいかなるものであれ、そのような「同一なるもの」へ向けて否定的に乗り越えられるべきものではない。またあらかじめ「同一なるもの」の内部であらかじめ通約可能なものとして封じ込められたものでもない。それは還元不可能な「個」なのである。この複数性の擁護は、それがなんらかのより「高次な」価値を実現するための手段としてではなく、あくまで複数性それ自体が価値なのである。ランベルティは「トクヴィルにとって、多様性は人間のまさに本性にうめこまれたものであり、彼はおごそかな総合への好みを持つにはあまりにも諸価値の葛藤に対する鋭敏な感覚をもっていた」とする。このことは逆に、レオ・シュトラウス学派のキャサリン・ズッカートのような論者からたえず相対主義の疑念を持たれることにもつながっている。

 しかしながらトクヴィルはすべての同一性を破壊して、ただ差異を肯定しようとしたのでもない。ただ差異を肯定するのならば、それはすべての同一性に還元してやまない態度と同じくらい容易かつ安易なものである。そもそも複数な主体は、それが相対峙する場をもたないならば、その差異を認識することすらできない。複数な主体が交流する場を政治的空間と呼ぶならば、政治的空間をいかにして実現するかということこそ、トクヴィルが最大の課題としたことであった。*1

宇野『デモクラシーを生きる』p.15

ロバート・N・ベラーはトクヴィル自身の用語を借りて表題とした著書(『心の習慣』)において、現代アメリカの何人かの中産市民へのインタビューを通じてアメリカ人の個人主義精神と社会参加との緊張ないし相互関連を追求している。クレアモントでの学会報告もこの作業を前提にして、同じ問題を歴史的展望のもとに考察したものであった。一面ですぐれて反社会的ないし非社会的でありながら、ある種の条件のもとでは他の社会に見られぬ積極的な社会関与の発条ともなりうる個人主義精神の二面性にアメリカ社会の特質と問題性を見いだし、個人主義アメリカ人を社会参加へ動機づけてきた伝統的エトスとして聖書信仰と共和主義の根づよさを指摘するベラ―の論理はアメリカ人の自己理解として傾聴に値するものに違いない。けれども、アメリカ個人主義哲学的表現はエマーソンの超絶主義にあり、大衆的イメージにおいては西部劇のガンマンやハードボイルド小説のヒーローがこれを象徴するというとき、このような個人主義の理解が、トクヴィル自身の概念にどこまで重なるかは相当に疑問である。ベラーの理解するアメリカ人の個人主義は規制の社会秩序を自覚的二拒否してこれから脱出し、あるいはこれとたたかう能動的な個人主義であり、だからこそそれは一転して社会改革のエネルギーともなりうるのであろう。これに対して、トクヴィルの言う個人主義は既成の社会秩序を前提にしてその中で私生活に埋没する受動的な傾向を指している。

松本「二つのトクヴィル学会から」p.6

 キャスリン・ズッカート「政治社会学的思弁哲学=アレクシス・ド・トクヴィルの場合」

終始ヘーゲルを比較の対象に用いてズッカートがここで試みたのは、『アメリカデモクラシー』第二巻からトクヴィルのある種の認識論、真理観を抽出し、これを彼の政治観とつき合わせることによってトクヴィルの自負する「新しい政治学」が内包するディレンマを指摘することであった。歴史の動かし難い進行についてヘーゲルに共通する認識を示しながら、人間の歴史それ自体を精神による自然の克服の過程として、そのなかに自由の顕現をみる立場からは程遠く、平等化の必然の中で人間が自由でありうるか否かは人間自身の努力、政治の技術にかかるというのがトクヴィルのメッセージの核心である。しかも、ズッカートによれば、哲学的に究極のところ懐疑主義者であるトクヴィルにとって、政治を具体的に動かすものは真理ではなくして、意見、すなわち人(多数)が真理とみなすものである。この点に着目することでトクヴィルは自由民主主義の現実を記述する政治社会学として、また自由民主主義が自らを存続させるための政策論として、卓越した考察を残したが、にもかかわらず、その分析があまりにも現状としての民主的社会状態に密着しすぎているために、自由民主主義哲学的基礎をあたえることに成功していない。

松本「二つのトクヴィル学会から」pp.7-8.

*1:間宮陽介は、うちと外を画す境界線によって仕切られた領域と言うニュアンスを排し、人々の不断の政治活動によって形成されるものとして、「政治(的)空間」という語を用いている。→「複層的な政治空間」

2009-01-17

歴史:将来、過去、現在

| 00:01

ありうる将来を、ありえなかった過去、そして現在へとつうじるものとして読むこと。

ある将来は、他のどんな将来にも自らを越える権利を認めはしないが、それは同時にその将来自身が他に対する優越を主張する権利を持っていないことにもなる。この将来が、持続する時間の流れの中で過去となったとき、過去を現在に通じるものとみなすことは、過去と現在を同質的なものとみなすことにつながる。だが、そこでの将来が現在と明らかに異なるものであるとき、それをどう考えればよいのだろうか。ひとつは、それは間違った予測であったと棄却することである。また、その予測は当たらなかったが、そこにいたるまでの議論はたいへん示唆的であるとすることである。だが、後者は、実質的には、その予測という結実した――どんなに開放を志向する議論であろうとも、書物としてかたちをなす限りにおいて保証される結び目としてという程度に結実した――結び目を無視しているのである。およそこの二つのどちらともとることはできない。したがって、その予測されたありうる将来が、持続する時間の流れの中で過去とならなかったときも、その将来を現在と突き合わせてみること、これが試みられなければならないのではないだろうか。ところで、その将来が過去とならなかったという過去がある、ということもできるかもしれない。だが、それは、過去と現在――それは次の瞬間の過去である――とをともに逐一確定して進む連鎖、相互規定しながら、順次確定していくものとして歴史を考えることである。だが、過去は、したがって現在は、そうした結び目となることもあれば、ならないこともあるという、そのどちらともいえない位相をもっている。このことを無視した歴史は、観念だけの歴史か、完璧な歴史であろう。

アメリカ、トクヴィルの、複層的な政治的空間

| 14:54

 〔抜粋ではない:編集している〕この大国にして共和制、政治的自由がありつつなおかつ国家としての一体性を失わないアメリカという実例こそが、トクヴィルの思考を活性化し、「政治」の理念の近代への適用という問題に新しい視野を開かせたのである。では、なぜアメリカにおいてそれが可能になったのであろうか。トクヴィルはその鍵を連邦制に見いだす。トクヴィルは、アメリカが従来の連邦制とはまったく異なる新しい連邦制を生み出したと考えた。

 彼にとってなぜそれほどアメリカ連邦制が重要であったのか。アメリカ連邦制において、トクヴィルは、政治的空間の複層性を見いだした。*1すなわち単一にして不可分な国民からなるとされるフランスに対して、アメリカはそもそも基本的な政治的空間の単位となる各州によって構成され、連邦はあらかじめ限定された任務にのみ関与するとされた。フランスにおいては、中央集権化により地方の政治的生活は空洞化し、さまざまな中間団体は破壊され、諸身分は互いに孤立して王権のみが強大化した。そして行政的集権が高度に発展した結果全てはパリに収斂し、逆にパリに起こったこと、例えば革命は、たちまちのうちに全フランスに波及した。まさにパリは政治的中心であり、パリを中心とする一元的な空間が出来上がったかに見えた。その結果、フランスをモデルに思考するものには、政治的空間を構想するにしても、単一の政治的空間をイメージするようなバイアスがかかる。これに違和感を覚えたトクヴィルは、まさにアメリカという異質な存在との遭遇を通じて、複層的な政治的空間という新たなる構想を見いだしていった。

…(中略:トクヴィルアメリカと遭遇したのには理由がある云々、ただし弱い議論)…

 トクヴィルは決して単一の政治的空間を構想しなかった。彼にとっては政治的空間はつねに複数存在すべきものであった。*2政治的空間はそもそも複数性をその構成要件の一つとするが、複数性を包み込むこの空間それ自体をさらに複数化することによって、その絶対化を回避する必要があると考えたのである。「政治」の一つのメルクマールがあらゆる絶対化を回避する批判にあるとすれば、「政治」自体の批判もまた必要なはずである。トクヴィルはそのための仕掛を二重三重に工夫していく。しかし政治的空間がただ複数あるだけでは、それらはただ遠心化していくだけで、最終的には別個の政治的空間になってしまう。もしそうなれば、その一つひとつは、やはり単一の政治的空間になってしまわざるをえない。またたんにいくつかの政治的空間が結合しているだけであるのならば、そのおのおのの力は結集されず、近代の国際政治において、果たして一体として存続していけるか疑問であった。トクヴィルの国家論は決して国家を内部からのみ語るものではない。国家とは外部との関係においてのみ一個の国家となるのであり、もしその外部がないならば、一個のかたまりである必要もない。したがって内部的には、その内側に複数の政治的空間を包み込みつつ、同時に外部的にはその持てる力を一体として結集できなければならない。

宇野『デモクラシーを生きる』pp.163-165.

note〔複層性〕

重層性が、複数の層が並行して順序だって並んでいる。そこでは、複数の層同士が相互に干渉しあうというよりは整然とあてはめられているというニュアンスがある。これに対して、複層性は、複数の層が、時に並列に、時に順序だって、しかし時に並列でなく、時に重なりながら様々な位相において存在する。こうした、複層性において、「内と外を画す境界線によって仕切られた領域というニュアンスを排し、人々の不断の政治活動によって形成されるものとして」の政治的空間という語とも通じる。そして、認識されたもの、出来上がったものとしての客観的な法則ではなく、個々の人間の見る働き、認識しつつある場を強調することを意図した、視座という語法にもかなうだろう。→Title「方法論とでも言おうか、トクヴィルの」

 トクヴィルアメリカ共和制についての評価を高めていく。アメリカ社会では政府の存在は強く感じられず、あたかも「統治の不在」のごとくであるが、にもかかわらず、社会は正常に機能している。その背景にあるのは、社会の底辺における自然発生的な「デモクラシー」なのではないかというのが、トクヴィルの観察であった。すなわちニュー・イングランドでは、初期の入植時代よりタウンシップと呼ばれる最小の自治単位が形成され、このタウンシップが集まって郡が、郡が集まって州が構成された。いわば、基礎的なのは、タウンシップの方であり、歴史的にも州の存在に先行している。タウンシップにおける市民の自治への参加が、アメリカ社会の秩序を下から形成しているという観察こそ、『デモクラシー』執筆の大きなモチーフとなったのである。

 このような現実のアメリカ観察から、『デモクラシー』へとつながる、トクヴィルの基本的視座が確立していく。すなわち、アメリカモンテスキューが説いたような意味での共和政とは異なる、まったく新しい共和政である。モンテスキューはかつて、共和政を可能にするのは市民の徳と節倹であるとした。この場合の徳とは、自らの利益を公共の利益のために犠牲にする精神である。しかしながら、アメリカにおいて見られるのは、自己利益を追求する利己的な精神である。にもかかわらず、アメリカ人は同時に「正しく理解された(自己)利益」をよく理解しており、自己の繁栄と社会の繁栄とが矛盾するどことか、長い目で見れば、密接に結びついていることをよくわきまえている。この理解を支えているのが、社会の底辺における自治活動であり、陪審制や結社を通じての政治参加である。したがって、アメリカ共和政は人を必ずしも自己犠牲的にはしないかもしれないが、そのことは民主共和政の存立可能性を否定するものではない。むしろ、アメリカの実験の大きな成果は、自己利益を追求する中産階級が、にもかかわらず、十分に共和政を統治する能力を持つということであり、いいかえれば、徳が必ずしも共和政を動かす唯一の原動力というわけでないということを実証してみせたことであった。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』p.p.45-47

note〔タウンシップ、コミュニティシップ〕

ここでの範囲が、ニュー・イングランドを中心にしたものは、トクヴィルの議論を成約したのではなく、限定したのであり*3、そのような核となるニュー・イングランド孤立してとらえるのではなく、関連する諸論点について議論を展開していった*4。それが、ニュー・イングランドであったことによる利益はあったのである。そのことについては別に考察を要する。そこでこそ、「民主的時代の個人と個人の関係」、「市民=公民の自由な結合」(宇野『デモクラシーを生きる』pp.170-171.)というトクヴィルの究極的な関心の焦点が形を成したのである。(→複層的政治空間:この記事の前半部参照)

方法論とでも言おうか、トクヴィルの

| 16:19

トクヴィル:外部の視座

彼が立った外部の視座とは、けっして実態的なものではなく、むしろひとつの立場、あり方であった。すなわちデモクラシーが生み出す現象や、デモクラシーに固有な精神を、なぜそうなるのかを問い、それがいかなる条件によって生じるのかを吟味することであった。もちろん彼にそのような態度を取らせた背景に、彼の出自を見出すことは可能である。ただしあくまで強調すべきは、彼がアリストクラシーに対しても徹底的な距離を保持したことである。「一言で言うと、私は過去と未来の間にあって、完全にその均衡状態にあり、そのどちらに対しても自然かつ本能的に引き寄せられる感じがしない。私は両側面に対して冷静な視線を送るのに苦労しない」。また確かに彼がアメリカイギリスなどを対微視、常に比較においてものを考えたということも重要である。しかしその場合にも注意しなければならないのは、問題は実際の移動ではなく、そのような精神のあり方である。

 したがって外部の視座とは、決して実態としての外部があることを意味するのではない。まさに説くヴィる派デモクラシーのさなかで、つねに比較考察を行ない、判断し、現実との批判的距離を守ったのである。このような彼の外部の視座が、彼の「政治」のヴィジョンと不可分のものであったことは、言うまでもあるまい。したがって彼が「政治」を選択したということは、決して時代遅れのものに固執したということを意味しない。彼の時代へのコミットメントが、彼に「政治的」な在り方を選ばせたのである。

 トクヴィルの「政治」は狭くもあり、広くもある。狭いというのは、一般的に政治というときに現代人が想像するものよりも、はるかに限定的であると同時に固い中核をもつという意味においてである。逆に広いというのは、彼の「政治」は単に制度の問題だけではなく、人々の精神のあり方までも含むものであったからである。まさしく制度、社会状態、習俗までを含む、いわば「視座」としての「政治」こそ、トクヴィルの残した最大の遺産なのである。

宇野『デモクラシーを生きる』pp.192-193.

 トクヴィルは「基本的事実」、「根源的事実」、「支配的事実」といった言葉をよく使う。それは「公共精神に一定の方向を与え、法律にある傾向を付与する」ばかりでなく、「世論*5を創り、感情を生み、慣習を導きそれと無関係に生まれたものにもすべて修正を加える」ものである。このようなトクヴィルの言葉づかいには、『法の精神』において、政体の「本性」や「原理」を把握しようとしたモンテスキューの影響を見てとれるだろう。トクヴィルは、それぞれの社会には、その社会を突き動かしている最も根源的な原理が存在すると考えた。そうだとすれば、ある社会を理解しようとするときに重要なのは、何よりもまず、その社会を動かす原理を把握することであった。宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』p.55

 トクヴィルの議論の最大のポイントが、このようなアメリカ社会の“古さ”が、けっしてただ単に古くさいのではなく、むしろアメリカにおける優れた「デモクラシー」の実践と不可分に結びついていると強調している点である。トクヴィルは、平等化のメカニズムが作動することであらゆる秩序の自明性が問い直され、場合によっては「多数の圧政」や「民主専制」におちいる危険性をもつデモクラシーの社会において、このようなアメリカ社会の“古さ”が、むしろその弊害を是正し、安定したデモクラシーの運営に貢献する可能性を持つと考えたのである。もちろん、この場合、アメリカ社会の“古さ”とは未発達を意味するものではないことは言うまでもない。しかしながら、ヨーロッパ人における発展の図式からいえば、過去の段階に属するとされる性質、十九世紀以降の歴史の中で失われていったとされる性質が、むしろ、ありうべき「デモクラシー」の不可欠の一要素となるという逆接。ある意味で『デモクラシー』という本の複雑さを大きくしているのは、トクヴィルによる、このような逆説の発見であったと言えるだろう。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.124-125.

「過去が未来を照らし出さないので、人々の精神は暗がりの中を歩んでいる」トクヴィル

教育=研究者の成長

| 10:40

 まったくもって思いつきなのだが。大学で教えるということについて。研究者=教育者は、教えるべき内容を研究者として磨き、教育者として教える。そして、もちろん、その二つの側面は分けることができない。教壇に立っている間は、教育者で、研究室では研究者というわけではない。(このこと自体が問題となるような知の状況にあるともいえ、そのことを議論する必要もある。とはいえ、それは今回の思いつきではない。)

 FDと言われて何のことかわかる人は、そうはいない。おおざっぱにいって、「研究者=教育者の成長」というものである。これは、教壇に立って、視線はまっすぐから時計回りに90°、声はぼそぼそと黄色くなったノートを読み上げる、なんていう本当にいたのかどうか怪しいような(!)大学教員像に対する非難と、OECDなどにより、学力低下が叫ばれ、大学教育への危機感が大幅に増したことと、高度経済成長を実現できなくなり、企業内教育により人材育成をまかなうことが難しくなったこととが合流する中で生まれてきた流れである。

 で、FD。研究者=教育者の成長は、望ましいことだろう。あるいは、期待されていいことだろう。あるいは、それは、責務だろう。ところで、それはどのように実現されようとしているのか。端的に言って、それには、三つの問い方がある。研究者の成長?教育者の成長?その両方の成長?それぞれ何を、どうやって??だが、この問いは、少なくとも、大学教育という領域で議論される際には、教育者としての成長が前景化し、あたかも、教育者としての成長が実現されれば、研究者としては合格とされるかのような可能性もはらみつつ、展開されている。

 ひとまず、このことは、研究者としての力量形成があって、その先に教育者になるという順序を反転させているということができる。が、これは、倒錯であり、間違っており、そのような議論は全く不当だ、と言い切ることは思いのほか難しい。というのも、一つには、現在、研究者としての力量形成の過程に、教育者としての力量形成を要求することが、その妥当性を問題にするよりも早く、侵入し、位置を占めているからだ。果たしてこれは妥当なのだろうか。妥当だとすればなぜ?そしてもう一つには、教育者としての力量を発揮することが、研究者としての力量を発揮することの一部であるという位置を占めるようになってきているからだ。これまた、本来そういうものである、とあたかも考えるのが当然であるかのように。果たしてこれは妥当なのだろうか。妥当だとすればなぜ?前者は、教育=研究者になることの過程への侵入であり、後者は、教育=研究者であることへの侵入である。(そして、この問いは放棄して先へ進もう。というのも、思いついたのはこのことの先だから。そして、この問いは後で考えよう。そのためにこのようなメモを残しておこう。)

 こうして、いきおい「教育=研究者の成長」は至上命題化し、自明視化される。くわえて、「FDを義務化する」という政策の発動は、それがどのような経緯でやってきたにせよ(実際、教育=研究者であることを問題化するのを困難にするようなかたちでこの政策はやってきた)、この至上命題化を加速する。予算を配分し、それぞれを平等に競争にさらし、そこへのコミットを必然とする。

 こうした流れにあって問題となったのは、「教育=研究者の成長」をどのように実現するかというものである。これにあっては、教育=研究者としての卓越性をトレーニングによって開発できるという垂直的なものと、教育=研究者はそれぞれ毎日の実践の中で自らを研鑽しているのであり、その相互の連携によってこそ「教育=研究者の成長」は実現されるという水平的なものとが現れた。後者は、前者に抵抗するものとして自らを位置づけ、前者を批判する。前者は、それをひとつの実践の姿として推進していく。

 では、前者を批判しつくして、後者を実現すればよいのだろうか。そのように見える時期もあったかもしれない。後者が、前者の垂直的成分をはらまずに、それを徹底的に除去していこうとしたならば、どうなるか。それは、教育=研究者は、日常において不断にその実践を実行している、それを相互に連携させようとなるだろうか。だが、「連携させよう」というのは、垂直成分である。これを廃棄せねばならない。では、教育=研究者は、日常において不断にその実践を、相互に連携させている。ここからどこへ行けるというのだろうか。むしろ、現状を維持するだけにしかならない。奇妙なことに、批判的な力を有しているかにみえた後者のスタンスは、たんなる空虚なアンチテーゼであることをこうして自ら示すであろう(あるいは、現在そのことを示しつつある)。

 では、こうした悪循環をどう考えたらいいのか。何がこうした悪循環に向かわせ、なぜこうした悪循環が発生するのか。即座に目が向かうのは、先の政策であろう。それは、「教育=研究者の成長」を自明視させ、そこに向かうことを促進した。こうした政策を問題視すればいいのだろか。どのような立場・場所から?先の空虚なアンチテーゼの場所から?それでどこに行けると?どこにも行けはしないだろう。少なくとも、ここまでどこにも行けなかった。

 ここで、事態を理解するためには、複数のコンテクストを重ねることが必要である。まずは、「教育=研究者の成長」を自明視した中で、不毛な悪循環が見られるということ。つぎに、その悪循環を加速するような側面を持ちつつ政策が展開されていること。ところで、こうした政策は何を動因としているのか。企業内人材育成の困難と大学教育への危機感と期待感である。これはまだ十分ではない。どうして、企業内人材育成が困難になったのか。高度経済成長が実現困難となったため、人材育成に費用を回せないというのが一つだろう(←要・調査)。また、継続的な発展の展望が描けず、不確実性が増すなかで、育成する側にとって、何をどのようにすることが力量形成なのかわからず、育成される側にとって、何がどうなって将来の不確実性を乗り切れるかはますますわからないというのがもう一つ。これが大学教育への危機感と期待感になるわけだが、ひとまず大学教育が即座にこの危機感に対処し、期待感に応えるということはできまい。こうして何が何だかわからないうちに、何が何だかわからないものが、何が何だかわからないところへ流れ込む。これが第三のコンテクスト。これによって、教育ということに焦点が当てられ、教育者としての成長が定位置を得ることになる。

 

*1:〔原文註〕複層性というのは言葉として熟していないかもしれない。もちろんそれは単層性と対比されるものである。しかしそれならば重層性という言葉がある。ここであえて重層性を避けて複層性を使うことにしたのは、重層性には複数の層が並行的に並んでいるというニュアンスが感じられるからである。ここで以下述べられるのは、複数の政治的空間が必ずしも並行的にではなく、さまざまな位相において存在するということである。

*2:〔原文註〕トクヴィルアレントと、政治的な構想において多くを共有する。しかしこの政治的空間の単一か複数かという点において、二人は大きく道をことにする。実際のところ、近代的世界において、単一の政治的空間の構想の実現は困難である。それはしばしば理念の世界、あるいは芸術とびの世界における一体性への傾斜をもちがちである。

*3:〔原文註〕「(トクヴィルとボーモンの)二人は日々調査を行い、ノートをまとめていった。彼らの関心は刑務所制度に限定されなかった。彼らはむしろギゾーの方法論に習い、アメリカの諸制度と社会の総体をとらえようとした。もちろん、彼らの調査は網羅的なものではない。二人が主に滞在したのはニュー・イングランドをはじめとする北東部であり、南部や西武は駆け足で通り過ぎただけである。アメリカ社会の地域的多様性を考えると、彼らが見たアメリカは、きわめて限られた一部にすぎなかったといえよう。このことは、主にニュー・イングランドをもってアメリカの本質と見る『デモクラシー』の、ある種の“偏り”をもたらす遠因となった。」宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.39-40.

*4:なお、これは同じ著者のコメントであるが、以下。「トクヴィルは「政治」の領域をかなり厳格に狭く理解した。しかし彼は、そのような核となる「政治」を孤立してとらえるのではなく、むしろその周辺にある諸領域との関係を一つ一つ丹念に検討していった。習俗はその代表である。その成果は、狭義の政治学を越えて、後の諸学問へと受け継がれていったといえる。また彼は政治的な作為によって乗り越えられず、かといって理念的に吸収することもできない領域が厳然として存在することを示した。この後、この領域を否定する政治論は、立法万能主義か何らかの観念論に行きつかざるを得なくなるであろう。」宇野『デモクラシーを生きる』p.161

*5:Public Opinionだろうか、だとしたら輿論

2009-01-16

総動員+メモ

| 20:34

私は政治権力の極端な集中は最後には社会を衰弱させ、したがって長期的には政府そのものを弱体化することになると信ずるものである。だが集権化された社会の力が、ある一定の時代、特定の時点において、容易に大事業を実行しうることを否定はしない。この点はとりわけ戦争においてそうであり、戦争での成功は社会の資源の大きさそのものより、すべての資源をある一点に迅速に動員できるか、その力次第なのである。諸国民が中央権力の特権を増やす欲求と、時にはその必要を感じるのは、だから、特に戦争においてである。戦争の天才はすべて、彼らの力を増大させる集権制を愛し、集権の天才はことごとく戦争を愛する。戦争は国家の手にあらゆる権力を預けることを国民に強いるからである。したがって、国家の特権の数を絶えず増やし、詩人の権利を制限することに人々を向かわせる民主的傾向は、その位置のために大きな戦争の危険に頻繁にさらされ、その存在がしばしば危険に陥る民主的諸国民におけるほうが、そうでないどんな国に比べても激しく、持続的である。

アメリカデモクラシー』2・下p.231

 民主的国民の軍隊のチャンスは戦争の継続によって拡大する。

 戦争が長引き、ついには全市民を平和な仕事から切り離し、彼らの小さな事業を失敗させてしまうと、彼らに平和をあれほど大事に思わせたその同じ情熱が一転して武器に向かうことがある.戦争はあらゆる産業を破壊しつくすと、それ自体が最大で唯一の産業となり、そうなると、平等から生まれる熱烈で野心的な欲望はあらゆるところから戦争の方向にしか向かわなくなる。民主的国民を戦場に引き込むのはあれほど難しいのに、武器をもたせるのに成功すると、時として彼らが驚くべき戦果をあげるのはこの理由のためである。

(戦争とデモクラシーの関係について以下叙述)『アメリカデモクラシー』2・下p.197-

【メモ】トクヴィルフランス革命論:

 トクヴィルフランス革命論は、ある意味で、非常に入り組んでいる。彼はまず、腐乱す革命についての有力な見方、すなわち、革命の前後で歴史を一篇させるような大きな変化があったとして、革命による断絶をことさらに強調するような見方を相対化する。というのも、トクヴィルの視点からすれば、フランス革命は確かに王権を覆し、社会の構造を土台から変えたようにも見えるが、別の側面から見れば、それ以前からの歴史の趨勢を根本敵に変化させるものではなかったともいえるからである。すなわち、トクヴィルの視点からすれば、フランス社会は旧体制のもとですでに中央集権へと向かっていたが、革命はこの流れを加速させたにすぎない。「行政中央集権は旧体制の産物であり、つけ加えるなら、革命後に残った旧体制の政治制度の唯一の部分である」。たしかに主権者の変化は大きな事件であるが、権力のあり方そのものを変えたわけではない。権力は革命を通じてむしろ、さらにそのおよぶ範囲を拡大し、集中の度合いを増している。それでは、革命はなぜ起きたのか。トクヴィルフランス革命論のもう一つのポイントは、事件としてのフランス革命がおきたメカニズムの解明であった。宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』p.68

こうしたトクヴィルの議論には、背景としてギゾーの議論があるといえる。

 ギゾーの文明史講義がトクヴィルにあたえた衝撃は非常に大きかった。それでは、そもそも文明史とはいったい何であったのか。これは西欧の歴史学の伝統において現われた一つの革新的な歴史叙述のスタイルのことであり、伝統的な政治史中心の歴史叙述に変わり、法律・政治・経済・社会・文化などの諸要素を「文明」の概念のもとに統合し、この文明の発展として歴史をグローバルに説明するものである。ギゾーの一連の講義はまさしくこの文明史のスタイルをとっていた。彼はヨーロッパのここの国家やその出来事を論じるのではなく、ヨーロッパ文明総体の歴史的発展を問題にする。歴史の主人公は個々の政治家や軍人ではなく、文明それ自体なのである。

 それでは、ヨーロッパ文明史を突き動かすダイナミズムは何に由来しているのか。ギゾーによれば、その原因はヨーロッパが過度に統一されることなく、つねに多元的であったことにある。とくに重要なのは世俗権力と宗教権力の分立であり、さらに世俗権力もまたつねに多元的であったことである。過度に統一された社会はむしろダイナミズムをもたず停滞する。文明の発展の契機は、多元的な要素が競い合うなかからこそ生まれるからである。福沢をして瞠目させたこのギゾーの洞察は、トクヴィルにとっても、歴史を統一的に見る視点を与えてくれるものであった。ギゾーは巨視的な視点から、ヨーロッパ氏における階級闘争封建制の崩壊、中央集権化、自由の発展を躍動的に説明していく。そのようなギゾーにとって、フランス革命もまた突発的な事件ではなかった。それはむしろ、一方における自由の発展と、他方における中央集権化という、歴史を貫く二つの趨勢の間の弁証法的関係によって突き動かされるヨーロッパ史の一つの到達点にほかならなかった。

 このようなギゾーの抗議は、現在を歴史的な展開から理解し、その歴史的な展開を諸国家間のダイナミズムから捉えることに関心を持っていたトクヴィルにとって、まさに求めていたものであった。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.34-36.

とはいえ、ギゾーとトクヴィルは次の点で区別される。

 トクヴィルを十九世紀前半における思想史的地図に位置づけるならば、バンジャマン・コンスタン、フランソワ・ギゾーらとともに、「自由主義思想家」の一員とされるのが一般的である。(ポスト・ルソー政治思想は)彼らがその最大の理論的装置として活用したものとしては、「社会」の観念を指摘することができる。すなわちルソーが「文明社会」における人と人の関係を虚偽のものとして告発し、この関係のあり方をいったん括弧に入れて真の共同体の構築を模索したのに対して、自由主義思想家はこの「文明社会」における人間関係の発展にこそ期待をかけたのである。(…中略)

 この「社会」はいったい何にその基礎を置くのであろうか。それはもはや、自己の生命と財産を保全すべく社会契約を行なった個人の自発的な同意ではありえない。「社会」の基礎はむしろ「歴史」あるいはその運動に求められる。一例として前に述べたトラシは、国家の正統性の起源として歴史を検討するのではなく、人間精神の潜在力の段階的発展として歴史を捉える。そして彼は、無知の支配する直接民主制的な未開社会、権力がうまれ宗教形而上学の支配する貴族性の社会、そして科学と理性に基づく実証哲学の支配する代議制の社会へという発展段階論を展開した。すでに述べたようにコンスタンは「古代人の自由」と「近代人の自由」を対比し、またギゾーはその『ヨーロッパ文明史』において、歴史を自由精神と中央集権弁証法的発展として壮大なスケールで描き出し、フランス革命をその大団円として理解した。彼らはいずれも歴史の展開を、科学技術、商業、あるいは個人の精神の自由な発展などと結びつけて理解し、現在の社会をその必然的な歴史的発展の産物であると見なした。したがってこのようにして形成された社会に対して、外から作為的に権力を及ぼすことは、無用であることを越えて、有害であるとされる。(…中略)

 以上の自由主義の書しそうかとトクヴィルはいずれも、ルソーフランス革命が生み出した事態への対応として自己の思想を形成したという意味における「ポスト・ルソー政治思想」の一翼を担ったと言える。しかしそのことは直ちに彼らの思想的共闘を意味するわけではない。あるいはむしろ、この対応の仕方においてこそ、トクヴィルはほかの自由主義思想家と大きな違いを見せるのであり、そこに彼の理論的出発点があるのである。彼にとってもまた、ルソー人民主権論は批判的に取り上げられるべきものであった。しかし彼はけっして「政治」を回避して「社会」へと向かうという選択をとらなかった。(…中略)

 以上の検討により次のことが明らかになる。トクヴィルルソーアポリアを回避することからその知的探究を開始したという点において、ほかの自由主義思想家と一致している。しかしながら自由主義思想家が「政治哲学」から「歴史哲学」へと軸足を移し、「自然・本性」より「歴史」と「社会」に依拠してその中に「政治」を封じ込めたのに対し、トクヴィルは「政治史」の伝統を復活させることでこれに対抗したと言える。彼は歴史を決定された、閉鎖的なものとしてとらえず、むしろ人間の選択に対し開かれたものであるとした。またそれゆえにこそ習俗や社会状態を踏まえた立法や制度の構想を、単に消極的自由の防波堤としてだけでなく、より積極的に政治的空間を構築するための政治的叡慮とみなしたのである。しかしそのことをもって、トクヴィルがある種の伝統に復帰したと考えてはならないであろう。なぜなら彼はその固有の時代状況において、すなわちルソーを回避しなければならないものの、他の自由主義思想化ともまた対抗しなければならない、という状況において、その厳しい選択として「政治」の伝統を「再発見」したからである。また新しいデモクラシーの社会の可能性と問題性とに直面したがゆえにこそ、その方策としてこそ「政治」を選んだからである。

宇野『デモクラシーを生きる』pp.23-32.

 (トクヴィルの理論的中核として、「諸条件の平等」という概念が浮上してきた。)トクヴィルが『デモクラシー』の書き出しとして選んだのは、「合衆国に滞在中、注意を引かれた新奇な事物の中でも、諸条件の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」という一文であった。トクヴィルは、次第にこの「諸条件の平等」が単にアメリカ社会のみならず、ヨーロッパ社会を突き動かす力であると考えるようになった。この着想はもちろんアメリカの具体的な観察に由来するものだが、ひとたび目をヨーロッパに転じれば、その歴史はこの概念の展開としてすべて説明可能であると思えるようになったのである。このことは、ギゾーが文明化として描いたものを、トクヴィルが平等化として捉え直したことを意味する。この発見は、トクヴィルをして「私はアメリカの中にアメリカを超えるものを見た」と言わせるほどの、大きな視点の展開であった。

宇野『トクヴィル 平等と不平等の理論家』pp.49-50.

そして、ギゾーにあって、多元的であることを保障する世俗権力と宗教権力の分立は、トクヴィルにあっては、アメリカを媒介として、必然的に対立するようなものではなく、むしろ結びつくかたちで現われることがありうるものとしてとらえられる。

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