文学は面白いのか(仮題)

2008-10-08 『文學界』 2008.10 読切作品

人生幾度目かというくらいの少ない頻度ですが、さいきん何事にも積極的になれずこのブログも滞りがちですが、新しい文芸誌が発売されるとまだ少しはワクワクします。やはり柄谷氏の名前が目を引きますねえ。こんなんが目を引いてるようじゃオシマイと言われても仕方ないですが、新潮新人賞や、文藝賞よりは正直楽しみだったりします。


というわけで、新しい号が出たので店頭から消えた号について好きに書きます。

『神様のいない日本シリーズ田中慎弥 『神様のいない日本シリーズ』田中慎弥を含むブックマーク

半分くらいで挫折。よって評価不能。この独白する父親が野球をやらない理由が、単純に敬愛していた母親が祖父の昔話をした最後の言いつけを守ったからだと思っていたら、なんか錯綜していて、「父さんはやろうと思えばできた」とか言い出して混乱し、葉書を書いていたのが実は祖母だった、で読むのが嫌になり、それはきっと祖母が祖父との約束を破ろうとしてそうしたのでは、といったあたりでついていけなくなった。父親の回想が大リーガーの名前がきっかけにしてはなんか無茶にはっきりしすぎているのと、その父の回想に祖父の一人称感情が不自然に混ざり過ぎてるところは我慢できたのだが。

面白かったのは、この父親が現・母親の素晴らしさを描写するところの、ヘンな生々しさ、くらいか。こういうのは他では余りみない。

しかしこの小説、やはり評価が高いのである。次号の新人小説月評でも滅多にないベタ誉め。たしかにフォークナー的な部分に近づきつつある気配はあるんだけど・・・。

つまり、たんに私には田中慎弥が分からないのではなく、どうもこちらに原因があって私には文学というのは分からないのかもしれない。

群像鼎談でいえば、やはり安藤礼二氏の評価の方が私の腑に落ちるし、あれほど技巧的な作品を書く福永信が田中を誉め、安藤氏を評論家の見方と切って捨てるのが残念だった。むしろ田中作品が技巧から遠いからだろうか・・・・・・。安藤氏は統御されていない、と言い切るのだが、例えそれが意識的に高度な技術でなされていようと、統御されていないことの言い訳にはそれはならないだろうと私も思う。

思えば田中氏の『聖書煙草』はなかなか面白く、こういう他にない情念が支配する小説ではその良さが最も良く出る。福永氏が誉める所以外の場所にこそ、私の好きな、評価できる田中慎弥がいる。

[]『裏キオクストック発、最終便』平山夢明 『裏キオクストック発、最終便』平山夢明を含むブックマーク

世界が狂いはじめてる、ネジがはずれてきてる、と思ったら、じつは逆転していて狂ってるのはもしかして自分?というディック的SF小説。昨今のSFはきっと構築的志向が強いだろうから、SF誌にこのまま載る事はないのだろうか。ディックもコアなSFファンからはあんなのSFじゃないと言われがちらしい。

でも狂っていようとこの愛はホンモノだという感じで、恋愛が絡んでいくところもディックに似ている。技術的な不満はほとんどないが、すでにディックを読んでいる人にとっては、もう少し今日的な意味が欲しいところ。

[]『鍵のない教室』福澤徹三 『鍵のない教室』福澤徹三を含むブックマーク

完全リアリズム。一人の中年専門学校教師がリストラされるまでを描いた作品で、技巧的な工夫は殆どない。が、読ませる。専門学校の内幕を暴いたその内容だけでも一読の価値はあるだろう。こういう話を、たんに、社会学的な問題としてノンフィクションで書いてしまうと面白さが半減してしまうであろうと想像するが、つまりは、やはり文学というものには相当の力があるという事なのだろう。

専門学校の業務の実情として読みどころは沢山ある。願書の数が減少しているところやその対策としての体験入学の随時実施の逆効果、担任として退校対策に明け暮れる日々など、実際に体験していないのに十分ありえる事として、身につまされる。そして生徒の数が減れば、先生も当然減らされ、その理由が技能的なものではなく人的な繋がりが重視されるのも、多くの中小企業と変わらない。

また、妻や娘の夫に対する関心も、リアルだ。次の仕事を尋ねるばかりの妻も、口調は遠慮がちで悪い人間ではない。明白な敵がいないというのは、また救いようがない、という事でもある。

しかし、最後になって、学校側の自分を首にした人にさえ、敵を見出せなくなる主人公であるが、ある象徴的な行動により少し晴れ間が広がったりする。この気持ちは個人的にはよく分かったりする。ほんとにちょっとした事なのに、なぜあれだけ執着していたのか。

[]『グレー・グレー』高原英理 『グレー・グレー』高原英理を含むブックマーク

前述の福澤作品と打って変わって、言葉の一つ一つにやたら神経を配った詩的なSF的非リアリズム

リアリズムということで出だしは不安だったが、しかし決して読み辛くはない。主人公が冷房を最強にしている理由が徐々に明らかになる構成もよく出来ている。一言でいえば、肉体が死んで(機能不全に陥って)しまっても完全には死なない世界。その中で半死人は生きているものを恨んで襲ってくるし、恨まない者は肉体が腐り果てないように低温の部屋のなかでなるべく動かず、辛うじて意識を持ち続ける。

意識を持ち続けたい死人は外出など危険だからしないはずなのだが、主人公の恋人の死人は散歩を試みる。ほんらい説得力のない行動なのだが、この恋人が弱弱しく発する「いこ」の繰り返しが説得力を生じる。表現力の勝利か。

けっきょく、案の定路上で襲われ更にこの恋人は満足にしゃべれなくなってしまうのだが、そこでの、ただ言葉を発してくれればそれでいいというコミュニケーションは心を打たざるを得ない。ここでの執拗な描写は。ま冷静にみればここに見られる構造は、不治の病の女性とそれを見守り続ける男性という、通俗的小説にありがちなものであって、しかしありがちということは、強固に人を捉えるものがあるのだろう。

平山作品に今日的意味がないと言っておいて、じゃこの作品はどうなんだといわれればやや苦しいのは確かだが、この作品の救いのなさと、救いのない状況においてそれでもどこかに帰ろうとする姿は、やはり"われらの時代"の意識を反映している。平山作品には、デストピアを整然とした統御された世界とするだけの希望が見られる。エントロピーは片方では増大し、片方ではきれいに切り取られているのだ。

ysatoysato 2009/03/05 04:27 だしぬけに失礼いたします。こちらのURLを、私どものページから閲覧できるようにさせていただきました。ネット環境の扱いに不慣れなためこのような手続きでよいのかわからないのですが、不都合がありましたらご一報ください。いっそうのご健筆をお祈り申しあげます。

onmymindonmymind 2009/03/06 20:48 ysato様。これはもう全く問題ありません。私こそ拙い感想ですみませんというくらいです。