『新潮』『文藝』 新人賞二作

さいきんこの話題ばかり書いてますが、GMとクライスラーの合併話が結構進んでいるような記事がありました。ダイムラーが救ったときは何とか残った「ビッグ3」という呼称もいよいよ無くなりますか・・・。
英国とアイスランドに至っては、アイスランド預金封鎖?をめぐってケンカ状態ですよ。
かつての大恐慌時とは比べ物にならないくらい資本が入り乱れている分本格的なケンカはどこかで回避されると思いますし、願ってますが、かつてないくらい入り乱れている分、まったく未経験の事態という事もいえるわけで、しかも、どこか一国だけ賢明な政策を実施してもどうにもならないという・・・。


翻って新人賞を読むと、その世界との遠さにややため息。
まずは新潮新人賞から。

『クロスフェーダーの曖昧な光』飯塚朝美

選考委員の各氏も苦言ばかりなので、遠慮なく[オモロない]にする。新人の作品を読むと最近思うのだけど、いったいこの人はお話を書きたいのか、人を書きたいのか、と。それともただ小説家になりたいのかな、と。
私は保守的な読み手なので、やはり純文学は人を書いて欲しいと思う。お話がまずあって、そこからその話のためのような都合の良い人を適当に作り出す、そんな作品は読みたくない。
でこの作品の人物なんだけれども、こんなふうに「作る」必要があるのかな、と思う。しかもせっかく極端な人物を作っておきながら、魅力も余り無いという。具体的にいうと、シメオンという人物の天才らしさがまるで伝わってこない。となると彼に魅せられた、に類する記述がことごとく空振りになる。同僚の言葉を切って発声する人がいちばんマシな気はしたが、なかでもこの舞台監督はひどい。「シメオンよりよほど深く病んでいる」って形容詞だけで終わらせている。いったいどこがどう病んでいるのか、物語にとって主人公と同程度な傍観者にしか感じられないのだが。「Aは狂っている」と書けば、それで小説は済むわけではあるまい。どこがどう狂気を感じさせるか、だろう。
もっといえば、そんな極端な変わり者でなくとも我々の隣人というのは皆、どこかしら得体の知れなさを持っているし、あるいみ病んでいるのだ。月並みにいえば、「普通」のなかに「恐怖」や「狂気」が宿っているのだ。その相を浮き彫りにしてくれるのが純文学なのだ、と思う。この作品で言えば、私は主人公の両親の「狂気」をこそもっと書くべきだと思う。
あと、もっと困ったことだが、具体的な文章の比喩に躓いてしまうこと多々。いかにも文学的常套でしかも大げさで辟易させる。例をあげると「崇拝する者の教えを理解させることを放棄した、伝道師にも似ていた」「啓示を紡ぐ聖者に見えた」。牧師でも神父でも宣教師でもラビでもムスリムの指導者でもないのだ。「伝道師」「聖者」・・・。この日本で暮らしている主人公はどこでそんな人をみたというのか。もうひとつ見つけた。「覚えのない赤子を押し付けられたような煩わしさ」この若い主人公の体験からして、こういう比喩は無理があるだろう。まだしも、この僕が文学ファンという設定なら分かるのだが、『金閣寺』を読むのに苦労するのだから、それだと矛盾してしまう。
唯一買えるところは、色覚異常というニュートラルな人間でない人物を主人公に据えたところで、色が違って見えるという事はどういう事なのかを考えながら読まざるをえないので、少し幅がでたように思う。例えば、火事を回顧するシーンなど、おとくいの?文学的形容詞がなくただ「赤い色が炎が」だけでも、そういう要素が頭にある分迫力を増してきたりする。
ところで、この主人公は強姦未遂という重大な罪を犯しているのだが、淡々と事後を振り返ってそれへの恐れも悔いも何もないのはやはり気になる。ホモソーシャルに厳しい事書いた松浦理英子とか気にならなかったのだろうか。結局「真理子」さんも、話のための人だという証拠みたいなもので、ならばこそ何のケアも無いのだろう。とてもじゃないが簡単に忘れられる出来事ではないと思うし、弟だってある意味篭っているのだから、人と関わるというのはもっともっと重大事だろう。

『けちゃっぷ』喜多ふあり

もしかして同水準だったらどうしよう、と思い、同時受賞作を読めなくさせてしまった、私にとってそんな作品である。
とにかく不自然さが際立つ。そして、こちらの作品では、人が、物語ではなく、意匠というか工夫の犠牲になっている。
小さいところでは、ブログに書いたことくらいブログ作成者は簡単に消せるのに「消去できないかな」というところにまずひっかかり。
でもそんな事どうでも良いくらいに不自然なのは、「空気を読まなきゃ」という気持ちを人一倍持っているような人間がAV男優なぞやっていることだろう。この不自然さはもはや小説全体の破綻ですらある。「空気」というのは何より同調圧力の事であって、皆が白い目で見るようなAV男優なんていう職業などやる訳がない。むしろ空気を読む者が絶対に避けることである、それは。
それにいくら小説的アイデアのためであるとはいえ、ブログでしか饒舌になれない人が、実際に人と会って声も発せずにブログに書き込むというのは、やはりどうかと思う。あれだけの狂気を宿した秋葉原事件の加害者でさえ、彼も掲示板で饒舌な人間だったわけだが、ナイフを買った時に店員と会話をし、やはり人と会話をするのはいい、と余計な一言二言店員と会話しているのだ。人と実際に会うというのはそれだけの力を持っている、と思うし、ネットでしか生き生きとできない人たちというのは、ここで描かれる事象とは決定的に違うと思う。
それともこの主人公はあの秋葉原事件の加害者以上にイっちゃってるとでも言うのだろうか。それにしては、このブログでの言葉のひとつひとつが凡庸で詰まらない。田中康夫的には面白かったらしいが、「あんたのブログ面白いね」と登場人物のヒロシに何度も言わせる度に私は、いったいこれのどこが、と白けた気分が増していった。
ついでにいうとAV監督の狂気も元カノの怖さも、これもやはり「狂気だ」「怖い」という形容詞だけで片付けられていて、伝わってくるものが無いのだが、どちらかというと私にとってはそれ以前だった。
それでも少し良いと思えるのは、AV監督や主人公の、やや哲学めいた思索を織り交ぜているところ。ここで幅がでた。AV監督の絶対平和がどうのこうのは退屈かもしれないが、ラストでの、一回こっきりの生を繰り返しと表現する所などはなかなかだったと思う。テープの繰り返しから繋げるのはやや感情移入しづらく無理があったが。そう感情移入といえば、一回きりの生の素晴らしさを感じるような人間に、アフリカ難民とニートを比べるなとか向こうはどうせみんな同じ悩みとか言わせるのはちょっと不適切。あそこは萎えさえた。