『文學界』 2008.12 新人賞2作品

共学の中レベルの公立の普通高校を卒業した私ですが、この間気付いたのは、同学年の女子生徒の苗字ひとつも覚えてません。殆ど口を利いた覚えがないので仕方ありません。一人だけ、茶髪で滅多に学校に来ない女子生徒と何かのきっかけで口を利いた覚えがあるのですが、トリイという苗字だったか、確証はもてません。もちろん、今何しているかという興味は全くありません。
また思い出すこともないでしょう。卒業名簿は親に内緒で捨ててしまいましたので。
遅刻早退内職早弁居眠の常習だったので、先生の間では多少有名だったかもしれませんが、先生も一人しか覚えてません。まあ、3年間同じ担任だったので苗字くらいは流石に覚えているのです。が、名前は忘れてしまいました。

『射手座』上村渉

今年後半発表された新人賞(と名のつかないすばる文藝ふくめて)の中で最優秀作はこれだろう。ただ全体に低調気味だったので(とくにS潮とG群)、大絶賛とまでは行かない。行かないがしかし、この作品だけが、終わりまで一気に読むことが出来た。夜中に読み始めたのだが他の新人作品と違って睡魔に負けることが無かった。こうして読むことの面白さを経験させてくれる作品は、当ブログの評価は高い。
リーダビリティがあるとはこういう作品の事であって、勝手に定義するなら、それは読み易さだけでなく、先を読ませようとする力のあるものの事をいう。といっても皆がサスペンス仕立てになってしまってはそれも詰まらなくなってしまうから、そう単純でもないのだけど。
そしてなおかつこの作品は、文章が手堅い。誰もが試みなかったような比喩とか構成を無理に用いていない。確かに新鮮さは感じないのだが、たとえ新鮮であってもそれしかないような作品よりは遥かにマシである。構成もしっかりしていて、冷静に振り返れば、家に電話をかけてきた謎の男と喫茶店で話す、ただそれだけしかリアルタイムでは起こっていないのに、膨らみがある。地の文で語られる過去の出来事と会話とのバランスも良い。このバランスの良さは、喫茶店で会う一方の人間が日系ブラジル人で日本語の語彙が少ないという事からきていて、日本語のツッコミが拙いぶん、うまく聞き役に徹させる事ができている。よく考えられていると思う。
だから選考委員のなかでは主人公が違うのではないかという疑問もあったが、全くこれでいいのであり、ここがこの小説の面白い所なのだ。主人公はどうみたって赤ん坊をあちこち運んだ警備員なのに、主人公に内面を語らせず他の人物にしているところが。もしこの警備員の内面を中心に語ってしまったら、凡庸な小説になってしまう危険すらあったのではないか。
たとえばこの警備員は御殿場周辺でいわゆる寂れたシャッター通りをみたり、コンビニで不良に絡まれたり、閉園してしまう遊園地にいったり、東名のインターを外れればすぐにどイナカが顔見せたりする所に行かせたり、また何より自身も警備員だったりするのだが、これらにたいする感想を内面に語らせてしまえば、よくあるフリーター小説に堕してしまうかもしれない。私はこの作家の目は何よりこういう社会のロウワーサイドに注がれていて、この作品の背景に流れるその調べこそがこの小説のポイントだと信じるのだが、今や、下手にへんな感慨を交えないこういう語らせ方の方が読むほうにとって入ってきやすいともいえる。そのほうが、動かしがたい事実、逃れがたい現実としての側面をよく浮かび上がらせる事ができるようだ。
とはいえ注文もある。この警備員の両親がまもなく離婚したり、フラレた妹の元彼の父が自衛隊員だったり、赤ん坊を捨てたのが頭のおかしい中年女性だったりと、ちょっとここまではやりすぎなのかもしれない。こういう徹底もまたこの小説の面白さとして作者は考えたのかもしれないが、どうせならもう少しリアリズム寄りが良かったと私は思う。これではクドくてヘタすりゃギャグだ。
そしてこの警備員が、万引犯の様子をしっかりテープに録音するような自己保身に努める小心者でありながら、一方では素人考えでも明らかに死体遺棄という万引きなど問題にならない重大犯罪を犯していながら、妹への恋心が勝るかのような行動をするという少し統一感に欠ける所も気になった。
あとついでに言うと題名がいい。極限状態における自然の発見とか癒しなど、あまりこの小説の中心とは思えないところから引っ張ってきたのはセンスがいい。

『廃車』松波太郎

残酷だが、上記作品を読んだあとでは、あるいはそうでなくとも、典型的なフリーター小説としか思えない部分がある。木造アパート、コンビニ、そして緩やかな同棲、の世界である。しかし他には見られない個性が全く感じられないわけでもなく、作者は失敗作かも、と自作を評していたが、そうひどくはないと私は思う。
個性というのは、間違っても、いきなり主人公が鮮やかに成功したシーンなども脈絡も無く挿入したりされる所ではない。この小説は要約すれば、中国人留学生とのクルマ売買でトラブった話である。ここまでたいした事が起きないのであれば、かなり他で工夫しないと読ませるものにはならないだろう。そういう理由ででこのようなシーンが挿入されたとは断言しないが、この成功シーンにはまったく脈絡が感じられず、ただ謎めいた部分を配して少しでも小説を複雑なものに見せようとしている程度の意図しか残念ながら感じられないものになってしまっている。
話戻すとこの小説の個性とは、私の考えではこの主人公のキャラクターにこそある。いいかえれば、この個性が無ければこの小説の存在意義はなかったし、また作者の意図もここを描くことにあるのだろう。
主人公はまったくのダメ人間ではない。中途半端に真面目で、また中途半端に従順なのだ。それは中古車屋と交渉するシーンでも修理屋と交渉するシーンでもよく表れているし、なにより主人公は、本来自分がすべきではなかった廃車手続きのためにいそいそと雨の中役所まで行き、順番待ちに耐え、そして傘を間違えられて帰ってくるのだ。(自分の問題でしかないときは雨になると言訳して仕事を休むような人間ではあるが。)
そしてまた、トラブル可能性大のなか無防備に出かけてしっかり殴られるし、付き合ってる相手が横浜で働くようになると、自分も仕事無いのに近くに引っ越したりする。トン汁の肉が牛肉だったりとんかつの肉が小さかったりすることに対する文句、わがままぶりとの対比が面白い。
中古車屋や修理屋、中国人留学生との場面などのように自らの選択が大きな意味を持つような場面。多くの小説の主人公はこういう所で自らの中を問い、そして動くのだが、この小説の主人公はシチュエーションに引きづられるだけ。自動車事故のなかで主人公がなすすべなくクルマであちこち引きづられているシーンがあるのだが、それこそ主人公の生き方の象徴にもなっている。ここには「世界対自分」といった意味での積極的な自我がない。ひきづられる自我しかない。
この従順さと、小さな事にたいするわがままさの落差はしかし、主人公のキャラが統一されていないという事ではない。このどっちつかずな感じ、中途半端な真面目さこそ、リアルなのだ。いわゆる下層の人にじかに接するような機会は、純文学ファンは少ないのかもしれないが、私の経験上、彼らの少なからずが、へんに真面目なのである。まさしくそのへんな真面目さ、従順さがその下層で働くという境遇を招いたんじゃないかと思えるような。そしてまた面白いのは、同時にあることにおいては結構ずる賢かったり、また肝心な事において怠惰だったりもする。そういう実相にこの小説は近づこうとしている。
つまりは、ある意味意欲作ではあるのだ。こういう主人公はどうしても純文学の主人公には適さない面がある。モーレツサラリーマンや企業経営者は純文学の主人公にならず、ダメサラリーマンが主人公になりやすいのと同じだ。純文学の読者は自分と同じような濃密な内面が描かれていることをもって、ヨシとしてしまう。面白いと感じる。逆にいえば、この小説の主人公のようなキャラで面白い話を描くというのは非常にハードルが高い。そこで、たとえば小説的面白さのために、成功シーンや中国人差別についての長々とした言い訳シーンがでてきたりするのだが、残念ながら面白さは感じない。しかしまあ、新人ながらハードルを上げてしまったのだから仕方ないのかもしれない。この意欲を買うならこの小説は買いである。
私はギリギリ買う所までは行かなかった。このブログは面白さ優先というのもあるが、ちょっとした瑕疵も気になった。以前読んだ中村文則の、結局は「世界対自分」でしかない犯罪者小説などよりずっとよかったのだがしかし、大村昆の古看板やバスのオバサン達の格差への言及など、清水博子が文句言うロウワークラスへの気配り的な記述にしか思えない所もあるのである。