「かわいい」とは「ベタ」である?

さて、そんな風に辻を見た後で、
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061126#p1 を読む。
『この「かわいい」の力とはなんだろうか。それは「ベタ」ということではないだろうか。たとえばペットは「ベタ」である。嬉しいときははしゃぎ、悲しいときには鳴く。場の空気を読むことがない。だから彼らとのコミュニケーションにおいて、こちらも「空気を読む」必要がない。』

「辻は動物」って言いたい理由はまさにここにある。ベリでも℃-uteでも、無垢な年頃の少女を愛でる心情もそこにある。
でも、あれ、僕は「レインボーピンク」をかわいいと思うのだが、それはあきらかに「ねじれ」であって、「メタ」的な読み込み行為である。もともと僕は、東浩紀らがかつて語ったように、かわいいは不気味だという感覚に近いという考えを支持してきた。
もちろん「かわいい」を一元化する必要なんてない。そしてこれはヲタの二つのスタンスを表すものかもしれない。それは一般人で言えば、「マツケンサンバ」に盛り上がるのと、ペットに癒されるのの違い、と言ってもいいかもしれない。
さしあたっての僕の考えはこうだ。「かわいい」は「ストレス社会からの解放として」、現実とは離れた位置にある、それを現実と差異化付けられるということで「虚構」と言っちゃっていいかな。そうすると、「現実」の立場から「虚構」へと視線を投げかける行為が「メタ」である。自らの立場が「虚構」に入り込んでしまうのが、「ベタ」である。
動物とか美少女とか、そのものを「ベタ」に「かわいい」と判断できるほどそれそのものの表象に価値がある場合、つまり絶対的に価値がある場合、僕らは何かと比較して「かわいい」という判断を下すわけではないから、「ベタ」に没入できる。
しかし、「マツケンサンバ」とか「レインボーピンク」とか、はじめからそのものの価値を認めにくいものの場合、それとは距離をとって眺めることになる。バカバカしいとか、気味が悪いとか、という「上から下」目線。(その地点において、いまや「かわいい」も「きもい」も同じ用法でしかない気がする。)ともかく、バカなものに対して、安心して優越感をもって付き合ってやる、というのがここでのメタ的「かわいい」である。
ただ、「そのおバカに付き合ってやるよ」は、付き合いが長くなるにつれ対象との距離を縮める。いつの間にかその「バカ」に慣れ、依存するようになれば、「ベタ」になり、送る視線も上向きになってくる。(僕で言えば「レインボーピンク」がまさにそれだった。)
だから、「メタ」と「ベタ」はあくまで相対的である。「かわいい」に現実からの解放機能があることは間違いない。ただ、それへのまなざしを送る視線がどこから放たれているかによって、「メタ」と「ベタ」が流動的であることは重要なんではないかなと思います。


ちなみに、動物とはいえこいつ↓はどうしたってはじめ「メタ」的に行くしかない。
http://www.kirarevo.com/nasan/