エクストリームアイロニング

ハロモニで紹介されていたエクストリームアイロニングが面白い。
エクストリームアイロニング――『エクストリームアイロニングとは、山や海、川などの厳しい自然環境下において、アイロン台を出し、涼しい顔で平然と服にアイロンを掛けるという、なんともスタイリッシュ(?)な極限的スポーツ』。
http://www.exironingjapan.com/about/index.html
『皆どこかで「俺って馬鹿だなあ」となどと思いつつ、このスリルと馬鹿馬鹿しさの陰に潜む達成感と、極限状態でも不思議と気持ちの静まるこの馬鹿スポーツの虜になり、やっているうちにエクストリームアイロニスト化してしまったというのが実情です。』
なんてオタク的な競技だろう。オタク的な精神そのものではないか。「俺ってバカだなあと思いつつ虜になる」。ヲタです。なによりすごいのは、いやまあこれは意図的な洒落である可能性もあるのだが、この競技者が「エクストリームアイロニスト」(=極限のアイロニスト)という呼称であるということ。すべてが相対化されかねないこの極限の(?)時代において、対象を相対化しつつ、絶対化する。大澤真幸言うところの「アイロニカルに没入する」。むしろ先に名前ありきで競技が産まれたんじゃないかと思えてくる。

スクリーミングアイロニスト

先週のシークレットフェスタで思ったこと。
僕は叫んだのだ。現状を意味的には否定しながらも形式的には肯定する振る舞いなのだ、「NONO-!」という叫びは。
さて、僕だけではないような気がするが、「叫び」という行動の意味の変遷ひとつとっても、ヲタとしてのスタンスが分かるというものである。
2001年〜2002年、ヲタ当初の自分は、主に「自己証明としての叫び」だった。遠い席でも構わず叫んだ自分は、その叫びが対象に届くかどうかを問題にしていない。叫ぶことによって自分がヲタであることを確かめる行為。逆に言えば、まだまだヲタとしてのアイデンティティが確立しきっていない時期、僕は携帯ストラップやらTシャツやら、アイロニカルというにはあまりに華美に装備してしまっていた。
2003年〜2004年、ヲタとして確立した僕は、自己顕示欲に加えて、レスをもらいに行く手段としての叫びをしていく。スケブを積極的に使っていくのもやはりこの頃。
2004年〜2005年、だんだん叫ぶということをしなくなる。単純に熱が冷めたというのが一点、叫ぶ必要性も感じなかったというのが一点。実際、良席で見ることも少なかったからなあ。
2006年〜2007年、やはりあまり叫ばない。ただヲタ熱はぶり返している。むしろののに萌え死ぬときは言葉を発せなくなるのだ。ただ良席では叫ぶ。昔に比べれば、冷静に叫んでいるという言い方ができるかもしれない。昔は、自分の気持ちやら「萌え」やらの表出として叫びがあったが、今は叫びは「手段」になっているという気がする。それはヲタとしての成熟を表すかもしれないが、それは一長一短である。
何かを伝えるために叫ぶ、コミュニケーションをとるために叫ぶことと、ただ自己満足のために叫ぶこと、しかしこれ、どちらがアイドルの権威を保つものかは実は微妙だ、と今書いていながら思った。どちらがマジヲタ的だ、DD的だって、簡単には言えなそうだ。今までは、前者がマジヲタ、後者がDDみたいに書いてきたけれども。ちょっと考えがまとまらないから、今後考えていかないと。

アイドルへの距離と権威

問い:『アイドルとコミュニケーションをとろうとする行為、アイドルと距離を縮めようとする行為は、アイドルに没入し、アイドルに権威を認め、それを強める行為であるように見える。しかしその行為そのものは、アイドルとコミュニケーションがとれる、アイドルに近づけるという認識のもとで行われるという点で、自分と同等の地平にアイドルを置こうとしている。これはアイドルの権威を失わせる行為であるように思われる。
逆に、アイドルから距離を取り、クソ席でヲタ芸をしたりする行為は、アイドルをどうでもよいとする行為と捉えられる点においてはアイドルの権威を認めないように見える。しかしその行為は、実際にアイドルのライブに来るというアイドルへの執着を見せながらも、アイドルに近づけるわけがないという諦めの境地とも言え、逆にアイドルの権威というものを強く認識しているとも言える。
これはどうとらえたらいい問題なのか。』


今考えられるだけの答え:『距離が無限大あるいは0の時、コミュニケーションというものは成立しない。なぜなら、コミュニケーションというのは距離を有する複数の対象間をなにものかが伝わることを指すから。マジヲタもDDも、その極限は距離を無にしてしまうという点では同等。だから適度に距離をとりなさい、という話になってくるんだろう、たぶん。』
しかしそうなると、なんとなくアイドルの権威の大小をDD―マジヲタ間の数直線のように考えてきた僕のモデルは完全に崩壊する(もちろん「DD」「マジヲタ」の定義が大問題なんだけど。ここでは単純にアイドルにベタに没入してアイドルに近づきたがるほうを「マジヲタ」、アイドルと距離をとって客観的に見ていくほうを「DD」と大まかに捉えています。「マジヲタ」のほうの呼称をもっと適切なものに代えたい気はする)。なんでこのことに今まで気づかなかったんだ。これって相対化をはじめから自明なものとして含んでいるアイドル現象だから顕著に出てくるけど、伝統的な宗教においても発生している問題だよねえ。どうなってるんだっけ。答え求む。