辻褄が合わない

いやまさに「辻、妻が合わない」ですわってシャレを言ってる場合ではないです。シャレにはならんです。
でも今もって想像がつかんのですよ。


朝第一報を聞いてからもうほぼ丸一日が経とうとしている。
その間に他のテキサイやらASA板やら、そして公式の方からの報告もあり、ある程度のことは明らかになったように思える。
多くの人間が語るように、あるいはその語り方から分かるように、皆「複雑」な感情に見舞われている。
僕の語りたいことをただ一点に絞るなら、「僕にとっては、辻がアイドルを続けるかどうかが重要だ」ということ。今までどおり、とは行かずとも、僕が「辻性」と考えるところのものを保持していてくれるのなら、辻を応援し続けることができるだろう。

まとまらないことを承知の上で、いくつか思うところを述べていきたい。

複数の視点・視線が生む複雑な感情

「複雑な感情」とやらに我々が見舞われてしまうのは、我々がどの立ち位置から、どこへ向けて視線を放っているのか(ページ上の図)によって感じ方が様々だからです。多くの人が、「我々の現実的観点からアイドルの現実的な側面を捉える(視線①)」により、「ひとりの少女が幸せになる」ということを祝福する(または祝福するふりをする)一方で、「我々の虚構的観点からアイドルの現実的側面を捉える(視線④)」により、「アイドル辻にあるまじきこと」として非難やらショックやらといった反応をする、というのが一般的である。この2つが混ざることで「複雑」な感情と人は言う。
では僕は一体どんな感情だったかというと、簡単に言えば、「信じられない」ということである。これは比喩でもなんでもなくて、改めて僕は辻を虚構的存在だとする信念があったのだ、と思い知らされたのだ。多分「信じる」という言葉の用法を哲学的に吟味した結果としても正しいと言える自信があるが、僕は「辻には性器がない」と信じていたし、「辻とセックスは相容れない」と信じていた。僕にとっては「辻が妊娠」というのはほとんど論理的矛盾に近い。想像することが可能性のレベルですらできない。もう少し穏やかに言うなら、感覚としては、あるマンガの世界観を崩すような二次創作を見たような気分。「それは嘘だろ」ではなく「それは違うだろ」という感覚。だから、素直な感覚として「おめでとう」は僕にはありえなかった。
これは完全に辻の偉大さによるものだ。それほどまでに虚構的キャラクターとして完成されていた辻希美はやはり奇跡だったのだ。
ついでに、この「辻の妊娠」を「虚構的側面」として捉えられるか、ということを考えてみる。例えば、「我々の虚構的観点からアイドルの虚構的側面をとらえる(視線③)」であれば、「虚構のキャラクターなのに(セックスしないのに)子供ができちゃう、だからののたんは奇跡!」という持っていき方、これはいくつかのテキサイの方々のコメントの中に近いニュアンスのことが書いてありました。「我々の現実的観点からアイドルの虚構的側面をとらえる(視線②)」となるとかなり難しくて、「虚構のキャラクターなのに(セックスしないのに)妊娠しただって?そんなわけねーだろ」という無理な例しか思いつかない。いずれにしても、「アイドル」と「妊娠」はほとんど共存不可能なので、「セックスしないのに」みたいな無理な前提を持ち出さない限り虚構的観点からとらえていくことはできそうにない。

身体性×記号性

僕は先日、「辻が人間でもある」ということを認識の上では妥協して受け入れた(感覚的には無理なんだけど)。
「人間としての「現実」が、アイドルとしての「虚構」に決定的な悪影響を与えなければ、アイドルである人間は「現実」において何をしてもいい」というのがアイドルという存在を守っていくための大まかな倫理であるとするならば、「妊娠」というのは明らかにアイドルとしての容姿に決定的な影響を与えるものであるから、好ましくない。これはつまりアイドルの「身体性」の問題である。
「現実」と「身体性」、「虚構」と「記号性」というキーワードにそれぞれ親和性があるなら「妊娠」のような「身体性」がありありと浮かび上がってしまうものはどうしようもない。それがただ「太った」ならいかようにも「虚構」側でも解釈がきくのだが。
ただ、先ほどの視線の話とも絡むが、辻だったら、「虚構」「現実」の垣根も取っ払ってすげーことやってくれるんじゃないか、とも思うのです。どういうことか。「辻のアイドル性が、「妊娠」も「結婚」も「辻色」に染めて、僕らヲタまでほわほわさせちゃうような事態になるんじゃないか」という淡い希望である。少なくとも辻が「タレント」を続けるのだとしたら、辻の子供を見ることも、辻が子供を抱く姿ももしかしたら見られるかもしれない。そしたら、それはそれで「すげー辻」だし、「辻すげー」ってことにもなるんじゃないだろうか。「「記号的存在」が「身体性」を獲得していく奇跡を目の当たりにする」と言ったら言い過ぎだし、滑稽と思われるかもしれないが、そう言いたい。

事務所コメントについて

つんくのコメントによって、実質上公認・祝福という流れか。
加護との扱いの差という重要な問題もあるし、もっと言えるのは矢口の時との決定的な差なのだが、今回だけ切り離して考えるなら納得の行くコメントではある。

「謝れ」なんてどの面下げて言えるものか

いつものように、アイドルに「謝罪」を要求するようなテキストも転がっていたりする。
僕はhttp://d.hatena.ne.jp/onoya/20061103/1162581864 でも書いたのだけれども、ヲタである自分が安全な立ち位置からアイドルを断罪するなどという馬鹿げたことをしてはならないと思うのです。
今、僕の部屋には辻のポスターが貼ってある。彼女の顔を見て、「謝罪」という言葉を思い浮かべた瞬間に、なんだか知らないけれどぼろぼろ涙がこぼれてしまったよ。「あやまれ」なんて、死んでも言えねーよ。そんなこと言えるはずがないじゃないか。愛した存在、これまでいっぱい幸せをもらった存在に、謝れと言うおまえはどれだけ偉いんだ?「責任がある」というのは構わない。確かに仕事に穴を開けることになるんだから。でも、じゃあ面と向かって「謝れ」って言えるか?
もちろん僕は涙で物言わそうなどという姑息なことをしたいのではない。ただ言いたいのは、自分の人間としてのあり方を棚に上げといて、一方的にアイドルを断罪するというような無責任なスタンスをとっているにも関わらず、アイドルに「責任」という言葉を押し付けて平気な面をしている鈍感さに我慢がならないということだ。よっぽど腹の立つサイトを貼り付けようかと思ったけれども、それもまた「一方的な断罪」であるからやらない。日記やらテキストを不特定多数の人間に開かれた状態にしている者であれば、自分がヲタであるということそのものへの自覚もした上で文を書くべきだと思う。アイドルへの批評も行いつつ、自らの反省もまさにヲタ活動の中で行っていくという姿勢。情報を発信する立場としての最低限の責任だと思うのだが。
僕はアイドルはある意味では自分の「鏡写し」だと思っている。現場でただ楽しもうってだけでなくて、文章まで書こうなんて人々は、きっとアイドルを拠りどころにしたり、ヲタ活動が「自分探し」だったりしているはずなんだ、多かれ少なかれ。そういう人間が「アイドルが裏切った」とか言ってすぐに切り捨てるというのは、要は「ホントウノジブン」とやらをいつまで経っても見つけられないという悲しい構図なんではないのかなあ。そんなヲタが多くいる限り、アイドルは滅ぶし、ヲタはヲタで閉塞したままだろう。
(なんかアイドル現象を金とサービスの交換としか考えてない輩もいるようですが、そういう人間はヲタをやめたほうがよいと思う。)


僕が淡く想像する未来。
出産後に辻が握手会を行って、その握手の時にようやく面と向かって「おめでとう」と言える自分。それができたら、僕は自分のことも成長したと思えるし、辻に対しても微々たる恩返しができるだろう。そのくらいの「のぞみ」は持ってもいいよね、たぶん。


…僕の中で、神は死んでない。