梨華ちゃんの靴下って臭いの?

8/28のガッタス公開練習のことを今さら書く。
印象に残っているのは、梨華ちゃんが休憩しているときにソックスを履き替えているところを見てしまったこと。
面倒を引き起こす問いを問うてしまった――「梨華ちゃんの靴下は臭いのか?」
考えてみれば、アイドルが人前で着ているものを無防備に脱ぐ、ということはめったにお目にかかれない。とても不思議だ。アイドルを現象として捉えるなら、着ている物を含めてアイドルと呼ぶのだから、ガッタスと言えど、衣装の一部と言っていいソックスを脱ぐ行為はアイドルという現象に亀裂をもたらす。アイドルの一部としてのソックスはあくまでアイドルなのだから、他のパーツと不可分のものとして、特に対象化されないままアイドルとしてあるのだが、それが脱がれた瞬間に、突如問いが湧き出してきてしまう。ソックスがただのソックスとして立ち現れて初めて、僕は、そのソックスが臭いかどうかという問いを手にすることができた。
で、じゃあ「石川梨華の履いていたソックスは臭いのか」。しかしながら、その問いは危険である。いつぞやのウンコへの問いを繰り返すことになるだろうことを予測した上で、少しだけ考えてみる。
現場での僕の第一感は、「臭くないだろうなあ」。そして第ニ波が、「まあ臭いだろうなあ」。そしてそれらを包み込むように、その問いはそもそも意味をなすのか、そう問うこと自体がどのような意味を持つのかというめんどくさそうなもやもやがやってくる。
というのも、アイドルがフットサルをやるというその場において、アイドルであるという記号性と、人間であるというところの身体性が交錯しているからで、さらに美しくプレーをしているだけなら彼女達はアイドルなのだが、ソックスを脱ぐことによって、その激しい交錯が可視化されてしまったということなのだ。ソックスが直接的に呼び起こすのは、「ソックスはアイドルなのかどうか」ということなのだが、それが波及効果として「石川梨華がアイドルであるかどうか(人間なのか人間じゃないのか)」という問いを呼び出してしまう。
人間の履いたソックスは汗臭い。アイドルの履いたソックスはなんかいい匂いがする。で、その微妙な交錯に気づいている人たちは、その隙間に針の穴を通す精度でスルーパスを通そうとする。
ウンコを巡る議論の発展形の中で僕が示唆に富むと思うのは、「トイレの扉を開けるまで確定しないよ(シュレーディンガーの猫派)」である。「シュレーディンガーの猫」自体は量子力学を巡る話題であって、僕は全く詳しくないのだけれど、ここで問題にしたいのは、「トイレの扉を開けるまで確定しないよ」と言うが、「そもそも石川梨華が入っているトイレの扉を開けられるのか?」ということだ。ソックスについて言うならば、「ソックスの匂いを嗅ぐことは可能か?」ということだ。僕にはその不可能性を強く感じてしまう。それゆえに、僕は結局、臭いか臭くないかのどちらか、という問い方ができなくなってくる。臭くも臭くなくもあるのではないか。僕にはそのソックスは限りなく遠いものに見えた。嗅ぐことが不可能であるということは、どのような匂いでもありうるという可能性である。だからこそ我々は語る。不可知であるがゆえの可能性がアイドルをアイドルたらしめているのだろう。