涼宮ハルヒの憂鬱 第1話 朝比奈ミクルの冒険 ★×3いや2か?

超奇抜。
ある意味超革新的。少なくとも私はこんなことやったアニメは見たことない。まだ見てない人は以下の私の感想は見ないほうがいいですよ。







  • タイトルコールすらしない。てかテレビ欄見てない人は何が始まったのかすら最後まで分からない
  • 作品内作品でほぼ一話全部ぶっ潰す
  • 一話観なくても次から全然ついていける親切設計。むしろ製作者一話の存在否定してるやん
  • この観てる間のイライラ感は普通のアニメじゃあそう味わえない。観てる間に10回は時計見たぞ
  • ていうか、これ観た視聴者の何人が途中でチャンネルを回し、何人が次回も観るのか気になる。
  • OPの「へ〜〜〜〜〜〜」の部分のわざとらしさがかなりキテルと思った
  • これはもしかして全く中身の無い近代萌えアニメへのなんらかの警鐘なのではなかろうか?そんな危惧すら感じる


まぁ、騙されたと思って最初の五分だけ見てみてください。その後はチャンネル回すなり、テレビひっくり返すなり、BPOに連絡するなり、好きにしてください。

実のところ、作画密度が高かったり、演出が小粋だったり、アニオタ故の評価ポイントもあるので私は観るけどね。

タクティカルロア 第13話「アウトワード・バウンド」 ★×3

どうも釈然としないのは、主題が「恋愛」だったのか「ノイントテーゼ」だったのかが絞りきれなかったからだと思う。最終回だけで観ると、色恋沙汰は脇に置かれた印象。そうすると11話の七波と漂介との関係の捲くし立てた意図はなんだったんでしょう?あの時点で恋愛模様に決着はついてた、と無理に納得できないことも無いが。
それにしても漂介が七波を選んだ明確な理由も分からないままだし、七波が漂介をどう思っていたのかも茶を濁された印象。ノイントテーゼに関しても彼女らの陰謀自体が滅んだという訳でもなさそうだし(あそこでハクビが暗殺されても誰かがまたやることでしょうし)、それを「社会と言うものが存在し続ける限り消せない病理」と結論付けるのはあまりに投げやりではないでしょうか?
つまり、彼女らの航海に明確な「意味合い」を与えてやれなかったことがこの作品の最大の敗因だと思います。「全然変わらない」と作中で笑い飛ばすのでなく、せめて航海を経て変わった物事を正確に示して欲しかったです。

スクールランブル二学期 #1 ★×6

基本、一期となにも変わらないスクラン。ラブコメの同じところをぐるぐる回ってる無限円環構造を茶化すと出来る、播磨たちの愉快な勘違いスパイラルも健在。
やっぱりこれ観ると「小清水かわEEEEEEEEE!!!!!全然変わんねーよチクショウ。」と思ってしまうよ、ふむ。そりゃアネモネもいいけど、やっぱり本家は天満だよなって思うよ。あの高速ピコピコとか反則だよな。
なんか色々安心したよ。

ARIA The NATURAL 第1話「その カーニバルの出逢いは…」 ★×8

やはり思うのが、ARIAを観てるときは本質的に普段アニメを見ている時の気持ちとは違った、別の「気持ち」にシフトされているなってことかな。言葉ではよく言い表せないけど、もっと頭の流れが緩くなってる感じ。多分、他のアニメとは根本的に違う、「アニメ」の定義から溢れ出してるような。
だから、感想も批評と言うより、主観の話、自分の話によってしまう訳で。






夜の空、頭上を照らし出す街灯、路地裏、祭囃子。







今回の話、私にとっては子どもの時、友達と遊んで帰った帰り道を思い出すものでした。ARIAという作品にはあの頃への思慕、郷愁を誘う力があります。それは前期シリーズと変わっていませんね。
灯里が皆を見て微笑む場面が二度ありますが、多分、それは彼女の心の中心が子どものままだからなんですよね。とても悲しいことですが、友達が集まって微笑んだりするのは、大人になればなるほど出来なくなってくるものなんです…。
大人になると友達はそれぞれの生活を過ごし、次第に疎遠になります。
大人になると真の友と呼べる人が少なくなり、作り笑いを浮かべるようになります。
大人になると自分の心に壁を作り、相手と楽しさを共有することが出来なくなっていきます。
大人になっても変わらず笑顔でいるのは並大抵のことじゃありません。それでも、こういうものを手放したくないから、多分私も共にある楽しさを模索しようとするんだと思います。そういう想いは皆同じものだと、そう思いたいですね。




なっ、なんかめちゃ恥ずかしいな、この感想(笑)

遅ればせながらエウレカセブン

ごちゃごちゃしていたけど、なんとなく分かってきたのはこの物語は壮大な『恋物語』だってことかな。多分、それが一番描きたかったんだと思う。
世界だの何だのの描写はエウレカレントンの恋の末端にある結果であって、本質ではない、かなと。二人の恋の成就=世界の救済の構図もそう思えば納得できなくない。つまり、世界だの宗教だの人類だの、いろんな問題も散りばめられていたのは事実なのですが、そういうものを意識するあまり作品を複雑に捉え過ぎていたのかもしれない。世界が滅ぶだの戦争が起きるだのっていうのは全て二人の恋模様のメタファーであり、全てのテーマは二人の問題に収束する。そう考えればなんとかこの作品も解釈できそうです。
だから、人類とコーラリアンとのコンタクトも、あるいは「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語として捉えなおすことも可能かもしれない。私が視聴中に思っていたのはエウレカの身体の変化は男の認知しきれない、女の事情の体現かも知れないってことです。女性ゆえの男性との感性のズレ。その「違う」ことをどうやって埋めていくかの苦悶がエウレカセブンと言う作品ではとか、思ったりもしたわけです。
そして『恋物語』と深く関わりのある、もう一つの重要なテーマは『家族』ってことですかね。父と母から生まれ、また自分が父となるまでの、レントンがそこに至るまでの物語がこの作品とも言えると思うんですよね。それを大きな目線で見れば人類の循環活動になり、世界の話にまで発展する。
現時点で分かったのはこれだけです。なんかメモ書きになってしまいすみません。