吉田三傑2018

2018-11-12

7月豪雨被害の爪痕 (支援活動)

18:39

10月末、姉の葬儀で帰省、吉田支所の河野さんに休日にも拘らず被害の現場を案内してもらった。御殿前から見える吉田球場上の山が頂上辺りから大きく崩れている。異常な光景だった。同級生井上論天氏が住んでいる御殿内は胸の高さまで水が来たそうだ。一階が浸水して宇和島に仮住まいしている。山下亀三郎翁の生地喜佐方の土砂崩れ、白浦、玉津も想像を超えた山崩れだった。法花津湾を囲む山々は至る所で引っ掻いたような山肌、風景が変わった。
白浦は昔、恩人の浜田喜佐雄翁にミカン山を案内してもらった事がある。小高い山には浜田家代々の御墓があり、其処から見る宇和海が美しかった。帰路は山を下ればすぐ下が浜田家だった。小名トンネルの左右の山がテッペンから崩れている。
***
10月14日に母校・吉田高校の関東支部同窓会があった。母校の生徒が制服、教科書を流された。少しでも支援しようと同窓生がカンパをした。
ブロガーも地元白井市のイベントで自著「トランパー」を販売、代金の一部500円を寄付する。これまで50冊が売れた。地元桜台のシルバー倶楽部からもカンパがあった。
白井市ふるさと祭で「月刊千葉ニュータウン」の取材がありが最近新聞が発行された。(自費出版著書から復興支援)の記事に早速注文があった。
吉田秋祭りは被災にめげず開催された。河野さんは祭りのポスター作りなどで休日返上の活躍。吉田支所に「復興」の垂れ幕が掛かっていたが『トランパー』の題字を書いた中澤京苑さんの筆によるもの。今回の被災地吉田町応援する為、京苑さんにいろいろお願いした。
先ず、吉田高校の同窓会に坂村眞民先生の詩(これからだ)を書いてもらった。また眞民先生が校歌を作詞したことを伝えると、意気に感じ校歌も書いてもらった。眞民先生の詩は多くの書道家が題材としており、各書展で出品されている。
お祭りのポスター「がんばるけん」「復興」などの筆字も京苑さんの揮毫、なかなかの評判だそうである。
「吉田おねり」は今年2月に愛媛県の無形民俗文化財に指定された。今後は国の重要無形民俗文化財指定を目指して河野さん等は頑張っている。
f:id:oogatasen:20181028104613j:image:w360玉津から白浦を望む
f:id:oogatasen:20180508082306j:image:w360(豪雨前・5月の白浦)
f:id:oogatasen:20181028103039j:image:w360白浦の山崩れ
f:id:oogatasen:20181028101131j:image:w360御殿内の山崩れ
f:id:oogatasen:20181028113755j:image:w360復興の垂れ幕
f:id:oogatasen:20181028095039j:image:w360街中の祭ポスター

2018-11-06

伊予吉田の歴史と文化 八幡祭禮

18:12

(落葉のはきよせ)

吉田秋祭りは、伊予吉田藩祖の伊達宗純が、藩の総鎮守である南山八幡神社神幸祭として寛文四年(1644年)に始めた。
大正10年に甲斐順宜(かいのぶより)が発行した「落葉のはきよせ」の中編・治政第四項「典禮と秩序」に八幡祭禮の事が記されている。
……祭は各自には忌祭を厚くし、郷党の氏神祭をば共に盛行せり、即ち八幡祭禮には伊達家より物頭を代参せしめ、鹵簿には御用練りなるものを指出さる。
先ず先頭に足軽二十人、緋羅紗包の小銃を肩にし、次に仝人数鞆付の弓矢を肩にし、その次は同じく鳥毛の長柄を肩にし、毎組小頭二人宛、上下着用高股立にて前後に付添い、各々三間許距離を隔て粛々として進む。その儀容威厳侵べからず、萬一にもその間を通過する者あらんか、厳しく之を叱責す。その次は引馬二匹、金覆輪の鞍に燃黄羅紗の覆いをなし、燃ゆる許りの緋房の靳?をかけ二人宛の口取と小頭付添たり。又御船は朱塗にて、紫縮緬に白の染抜の御紋を見はし、上には吹抜き旗、弓矢小銃(緋羅紗袋入)を飾り立て船謡を奏しつつ進む、其妙音美聲謡曲に優れり。今や廃滅に属す惜しむに余りあり、其次に塔堂車あり大工町より出し抽籤外に先進せしが今之を廃せり。爰に余が昔年請われしままにものせし車謡の中を紀念の爲に左に記す。
 神功皇后  千早やふる神もめてけんいさをしはとほき浪路をへだてたるそのこと國の高麗くだら任那の人もおしなへて我が日の本になびきしは實に大君のみいつなりけり
 武内宿禰  三百年の歳を重ね健やかに心もまめに女の神を助けましつつ外つ國のみいつ輝かし八幡の神をかしつきて大み光をそへ奉るよに比ひなき功しは萬よまでもたたえまつれり
 八幡太郎  ふく風をなこその關とうたひけむ昔床しき梓弓八幡の君のいしをしは櫻木に尚とどめつつ幾世の春に香ふなるらん
 楠 正成  御代の名を建武といひしその昔我が大君のみこころをやすめたまひしいさをしは千代も変わらずもおのふの鑑とすめるみなと川水
 關 羽   桃園に誓を立てしもろこしの三たりの人の其の名をば今もかはらず美しき花にも優る思いして三千とせならで幾千代も春かけてとぞ匂ふなるらん

其の車と車との間に練子なるものあり、男兒は頼光山入、金時の鬼征伐、七福神等にて女兒は花賣り、鹽汲み等何れも豪商より出し、男女両人を付添せ、女人は日傘をさしかけ、男子は社裃を着け將机を携ふ、惣して其の行列の整頓せる、順序の厳格なる事又其類を見ず。従って神輿渡御に至っても特に神々しきを感ぜしなり。今や僅かに形色を遺在するのみ、風格の美替豊忍ばざる可けむや。……

(吉田藩昔話)

「落葉のはきよせ」から16年後の昭和12年に「吉田藩昔話」が戸田友士の執筆で発行された。その中で(八幡神社と其大祭)と題し祭の事が描かれている。両書の重複を避け纏めてみた。
……鹽汲、花賣、鰹賣その他種々の催物を出し、町車の中間に行列をなし其服装の美々しきに人目を眩惑せしめた、現今にても四ッ太鼓、鹿の子、町方から出す屋臺車の人形飾幕の立派にして美麗なることは往昔より四國第一との定評であり又一小藩としての自慢でもあつた、どれだけ多額の金をかけて居り力瘤を入れたかが想見せられる事である、殊に珍しいのは牛鬼と稱し若者二十餘名を容るる大なる獸體を造つて全體を棕櫚毛で敝ひ、頭は獅子頭の首を長くして内から之れを操り、尾には一間以上の木劍を振り立て、御殿前の廣場、塰拜亜⊥丁一帶の廣場,濟通り住吉神社から御旅所の三四丁の間に於て群衆の中に暴れ狂ふ動作は實に勇壯を極め、當日第一の呼び者として歡迎せられるのは昔も今も同じである、別に寶多と稱し単獨行動にて若者が牛鬼と同様の獅子頭を被り夜半より終日、町内を駆け廻りて祭の興を添へる事一段である、其數に至つては七八百以上に及ぶのである、此牛鬼と寶多とは他に其の比を見ざる所で吉田大祭の一大名物として知られてゐる、(四月十四日の安藤神社の大祭にも牛鬼の暴れ狂う事は同様である)之れがため人出は夥しく川原は元よりその他の廣場に大仕掛の軽業、手品、見せ物等多く其邊一帯に小屋掛澤山にて露店に至つては枚擧する事は出來ない、斯くて人車馬の通行は殆んど不能の有様である、翌日も亦前日同様で此二日間の人出は数万に及ぶ、往昔は各所に物見場があつて藩主並に御一門の方々が觀覧せられて居つた。……

一句 桜橋暴れ牛鬼幟旗

f:id:oogatasen:20181106180819p:image:w640(吉田三間商工会・吉田秋祭りGUIDE BOOKより)

2018-11-03

伊予吉田の歴史と文化 吉田秋祭り

01:14

今日は郷里吉田町八幡様の秋祭りである。何時かはお祭りに帰ろうと思っているが、なかなか機会がない。
最後に秋祭りを見たのは何時だったろうか。18歳の春に上京したので17歳の秋か、高校時代はとんと祭りの記憶がない。
やはり子供の頃のお祭りが今でも印象に残っている。秋風にたなびく幟の下で、赤もうせんに刃物や大工道具など並べる露天商
その赤毛氈の「赤」がいやに目に残っている。お祭り最大のイベントは、暴れ牛鬼のパフォーマンスだった。
子供心に、大きな牛鬼の胴体が茶色いシュロの毛で覆われているのが不気味だった。怪物の様な牛鬼が何時、横堀広場に現れるかソワソワして待っていたものだ。
やがて牛鬼が桜町方面から桜橋に向かってなだれ込んでくると、皆はワーワー言って逃げ回った。街角の太田書店や山口精肉店は丸太の柵を作って暴れ牛鬼から店を守った。
特に尾は上下に大きく動いて危なかった。昔は多くのけが人が出たのではないだろうか。
鹿の子踊りも懐かしく目に浮かぶ。哀愁のある声で「しーかの子はまーわれ、まーわれ…」と唄う、その歌声が耳に残っている。
あとは、戦国武将などの人形を屋台の上に揚げて街中を練り歩く山車のパレード。この山車が三味の音と共にゆったりと動く様はなんとも優雅だった。
いまは「おねり」というが子供の頃は何と言っていたのか思い出せないが、華やかな秋祭りは心が躍った。
しかし子供に取って一番の楽しみは、お祭りの日のご馳走である。親戚が集まるので母は朝早く起きて準備に忙しい。階下でコトコト音がすると、お祭りの気分になった。
外は、朝から子供牛鬼が裡町の方に出ている、いやが上にも祭りのムードが高まっていく。お袋の手料理は、出汁卵を寒天で固めたもの、手作り羊羹、赤飯、おこわ、バラ寿司蓮根、里芋等の煮しめが出て来る。
法花津、白浦の親戚は大きなミカンをお土産に持ってきた。昔のお祭りが走馬灯のように脳裏をよぎるが、あの頃の良き時代は夢の又夢になった。
今年の春、この吉田おねりが愛媛県の無形民俗文化財に指定された。豪雨災害があった今年の開催は危ぶまれたが、明日につなぐために開催に踏み切ったと関係者は語った。
がんばるけん!吉田町、がんばろう吉田おねり!



一句 横堀の赤いもうせん秋陽さす

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(何時頃の牛鬼だろうか)
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(今年のポスター・筆字/中澤京苑)

2018-10-31

吉田三傑「村井保固傳」を読む 48(最終回)

23:05


村井夫人キヤロライン

村井の學友、犬養毅は村井の親近者に、『今の内に村井の財産を日本に纏めて置くがよかろう、左もなければ萬一の際米國人に取られてしまうぞ』と忠告したことがある。これより先き村井は夫人や太郎にそれぞれ産を分けて、安處に差支えないやう取計うてあつた。その後更に増額しやうとの議が出たととき、夫人は『これ以上に金の必要はない。金は多く持てば持つほど、管理に骨が折れるばかりだ』と云つて受けなかつた。或る時夫人救世軍山室軍平に『私の夫は金を儲けることが上手です、貴下はどうか出來るだけ多くの金を彼から引出して、有益な方面に使つて下さい』と云はれた。
村井が相場などで失敗すると、夫人はいつも『お金は有っても無くても貴下と云ふ人間に何の変わりもあるものではない』と云つて慰める一方、自分も平生からたびたび『Money makes coolness 金は人間を冷めたくする』と云つて居る。斯ういふ建前であるから犬養の杞憂を實にすべく、村井夫人は余りに高潔で、弗萬能の普通米國人には珍しく金銭に恬淡であつた。
由来村井家には不文の家憲があつた。それは如何なる場合にも、店の問題を家庭に人れることは主人の耻である。同時に家庭の些事で主人を煩わすことがあつては、主婦の責任であると云ふのである。されば一日の業を終へて家庭に帰った村井は、一個の好々爺となり何事も『ネネネネ』(夫人を斯く呼ぶ)と女王の切り盛りに一任し快然として晩餐の席に就き、うまいうまいと賞讃しつつ、団欒の樂に浸るのである。
ー方夫人は内事は勿論、交際往来の總てに亘り自ら、折衝して毫も夫を煩わすことなく『村井さん、村井さん』(夫人は他人に對しても常に夫を斯く呼ぶ)と祭り上げて晩酌ー本と別にしたしか摘まみ物か必ず一二品の日本ものを供へることを忘れない。即ち主人本位の前には總てを犧牲とし、ー切を取纏めて然も其犠牲と苦心を外に現さず、心の底より幸福を喜び周囲の空気を和やかにするのである。
或は時にー身上に不快があつても絶対に忍びこらへて假りにも相手に感づかせるようなことをしない。其沈勇と自制は昔の典型的日本婦人を思わせるせるものあり。
然も夫人は尚自ら足れりとせず、自分が如何に勉強しても、真の日本婦人になり切れぬのが情けない。こればかりは村井さんに気の毒であると謙譲するのである。
村井は海鼠を好み又よく人に勸めたものであるが、或る時『この海鼠を始めて試食した人は余程の英雄である。一見醜悪に見える海鼠を食べるとは、始んど命がけでなくては出來ぬことだ』と語ったことあり。その海鼠を夫人に勧めたときには夫人も聊か難色を示しつつ、やつとの思いで咽喉に通したものである。
一説に夫人も『強いて之を喰へとなれば、私は米國に歸へされても構ひません』
と硬論を主張した話もある。
何れにしても夫人が自己の犧牲に於て、總てを忍從した苦心は驚くべきものがある。伊東の別壯はもともと或る富豪が豪奢の限りを盡した結構だけに、善盡し美盡したる日本趣味の殿堂で、村井が譲り通り受けた頃でも二十万円以下で、これほどの設備は出來ないと噂されたものである。現に山下亀三郎が始めて村井を伊東の別壯に訪うた時、車夫が門前に梶棒を措いて『村井さんの別荘です』と云う山下は『イヤ間違いぢやないか。村井と云う人はコンナ豪壮な邸宅に住まふ方ぢやない』と、併しいよいよ内に人つて二度ビックリ、覚へず兜ならぬ帽子を脱いだものである。それほど輪奐の美を極めた結構であるが、併し徹頭徹尾、古風な日本式である爲め、洗面所と云ひ便所と云ひ寝具に至るまで、今日の文化人には不適当である。然るに村井夫人は此處に住みながら一度も一箇所も改造を施したことなく、純然たる古代日本流一点張りの生活で、数ヶ月を過した辛抱力の強さには、後になつて今更らの如く驚嘆された。
この別荘は遺言状を以て森村家に贈られて男爵家にても喜んで村井の好意を容れた。
前年高貴の方の御思召として、一ヶ月ばかりこの別荘に御滞在光栄を拝したことあり。男爵夫妻は恩命に接して、家門の名誉これに過ぐるものなしと、諸般設備の爲め仔細に家内を檢分して見ると、驚くべし以上の通りで現代式文化構造は全然出来てゐない。これではならぬと昼夜兼行、大急ぎに改造を施した結果、面目一新、見違えるばかりに便利と美觀を兼備したものとなり、漸く安堵して有難き御用命を拝したものである。
或る時村井夫人が心置きない婦人達と打解けた物語りの折り、『自分も村井さんを幸福にして上げた代りに、村井さんも自分に何ーつ不足のない一生を送らせてくれたから、私共両人として毛頭後後悔する気分は未だ曾て考へたこともない。併し他の誰れ彼れに對しては異国人との結婚を餘り勧めたくない』と眞實こめて述懐したことあり、夫人が中心の苦労の如何に多かつたかを語るー端として首肯かれる。五十年に近い夫婦生活を通じ、夫婦喧嘩とか家庭の風波といふことは、未だ曾てー度も知らず、家庭はいつも常春の麗らかさを保ち、子女の手前も召使の上にも、主人をー家の最上に置き主人の爲めには總てを供へ、万障を犠牲にして主人尊崇のー點に集注したものである。
斯ういふ相愛と相尊の結晶で、出来上がった家庭のBetter halfを成し合うた村井の追悼会に、村井に關する数々の思い出語り合うた中に独り松方幸次が
『村井君の成功の半ばは確かに村井夫人内助の功に帰すべきである』と一言、口を切つた外には夫人美徳と忍苦を偲ぶ話の更に出来なかつたことは、親しく村井の家庭の實際を知る婦人達に、幾分物足りなさを感ぜしめた。同時に地下の村井自身にしても若し知るあらば、定めし『我がネネ』をネグレクトされた点に奇異の目を瞠つたらうとは、後日筆者に漏らされた或る婦人の不平である。
村井夫人の逸話を語った後に、今ーつ忘れんとし忘れ難い思い出は夫人の動物愛である。須磨に療養中あの海濱の街道を日々幾十と東西に行き交ふ駄馬、牛車のやつれた姿で、重荷を運ぶさまを見る夫人は惻隠の情に堪えない。何んとかしてもの云わぬ動物の勞苦を慰めてやりたいと心に念じせめてもの思い附きで、路傍に飲用水と若干の飼料を備へ、人夫と牛馬の休息の料に資したことあり。
テキサスに旅行した際、宅の鶏舎で目ざとくハムシの多数群がって居るのを発見し、家内を促して衣類の汚れるも厭わず、共々に午後の半日をハムシ退治に費やしたのは無心の鶏に取って救ひの神と如何に嬉しがられたやら、其代り汽車桑港に出るまでの二三日間、夫人衣服に付着して居つたハムシに少なからず惱まされたもので、後日その話を聞き及び一層気の毒に堪えなかった。
上述の追悼会果てて後、列席の婦人達は申合せて一同上野動物園を訪ひ、更に淺草觀音に詣でて、動物や鳩の群れに飼糧を振舞ひあの村井夫人のやさしい靈魂を慰めるため、これに越した供養はありませんと、かたみに喜び合って別れを告げた。女性同志の思いやりには在天の夫人も定めし納受の涙を催したことであらう。

***
村井の野性に磨きをかけ彼の粗放に統制を加へたのは夫人である。夫人の熱愛で肺病の大患から一命を取り止めたのは勿論、精神的に肅正と訓練とリフハインメントで村井其人を改造したのは夫人である。
夫人の村井に於ける見へざる感化はべターハーフの名を辱めぬものがある。然も村井の家庭がありふれた女尊男卑に墜せず、何処までも日本の典型的家風を維持したのは村井の見識にも依るが、寧ろ主として夫人の賢明に歸すべきである。
夫人の村井に於けるは北の政所秀吉に似たものがある。若し秀頼が北の政所の所生であったら豊臣家は滅びなかったらう。村井夫人の内助がなかったら村井の成功は半ばを減じたであらう。流石に松方幸次郎の村井夫婦観は金的に中って居る。
アメリカ婦人を妻にした某博士などは彼自身が半ば西洋人になったやうに批評されたが村井は反対に夫人を半ば日本婦人に作りかへたやうである。斯くしてベターハ一フはお互ひさまであつた。

【後 記】
既に生がある以上は必ず死がある。分り切つた事ながら古來人の世の大事として理念や興味を以てよく取り上げられた問題である。
村井と村井夫人がおのおの死處を得たことは既に述べた通りで、人間が殊更に求めても得られないことが、奇妙に偶然の如く與へられた所に彼等の幸福があつた。
然るに今又両人が揃ひも揃ふて、死に時を得たことを云えるやうになつたとは不思議な廻り合せである。死すべき時に死せざれば死に勝る耻ありと云ふが、是れは人爲に依る時のことで、自然の命數により病死する場合には当てはまらない。然もその字自然の病死が注文したやうに最善の時に起つたと云うい至っては、宿世の善因か約柬か、若し人は死ぬる時のー念が生を引くと云ふことに、真理がありとすれば幸福と滿足を以て世を辭した両人の後世は善いに違いない。
大東亜戦争の勃発により、日米両国九十年の親交が破れて対敵の地位に立ち鎬を削る仲となつた今日、假りに両人が生存して居つたら何うであらうか。國家の公事を以て個人の私を左右すべきでないことは勿論であるが、其處に又自然の人情として割り切れないところがある。從つて両人が互に言うに云はれぬ煩悶と苦難を體驗したであらうことは容易に想像される。然るに僅かの違ひで両人ともそういふ複雜な苦境に立つことを免れたのは何んたる仕合せであらうか。普通に長壽は望ましいことながら、村井と村井夫人が何れも申分のない死處と死に時を得たことは寧ろ喜んで善いかも知れない。或は兩人にして見れば『ソンナ筈はない、其時は又それで善處する途がある。矢張り長壽をして居つた方が善い』と、お叱りになるか。記して在天の英魂芳魄に御伺ひする次第である。


村井保固傳  終

f:id:oogatasen:20181101002508p:image:w640

2018-10-09

吉田三傑「村井保固傳」を読む 47

11:34


最後の病氣と終焉 (2)

村井病気の報に最大の衝動を受けたのは、米國に病を養って居る村井夫人である。如何なる方法を執つても構わぬから、村井を米國に送つて欲しい。必要とあれば専門の医師看護婦を同伴させて、一日も早く米国へ屈けてくれるやうと云ふのである。周囲の人々が村井の病狀では到底不可能であることを話すと、今度は『然らば自分が日本に赴き、看病してキット全快させて見せる』と云ふ。それも叶わぬと云へば『假令ひ自分が太平洋上で幣れても厭わぬから遣ってくれ』と悶へる。側近が泣いて諫めるけれど承知しない。最後に掛りの医師が『村井は不治の病気に惱んで居るのではない。今貴女が病を推して旅行に上り、中途に倒れた後に村井が全快して渡米した時、如何に彼が悲嘆に暮れるか知れない。それよりは貴女は米國で治療し、村井も日本で最善の治療を加へ、双方が全快の上再会するが一番の幸福であらう』と説いたので漸く夫人渡航を制止することが出來た。これには何人も暗涙に咽ばぬものはなかつた。
思ひは同じ太平洋の此方でも、村井の夢は夜な夜な夫人の上に通うたものと見へる。されば時に見舞客が絶えて、唯一人寂然たる一時、壁間に揭げた妙齡時代の夫人の寫眞をしみじみと見入って、過ぎし昔を思ひ浮かべてか、遂には落涙潜々と頬に流れるのを、前後二度ほど御見受けしたとは、傍に看護した婦人の後日談である。
実際村井に取って斯ういふ場面の遣る鵑覆と當砲任△たことは勿論であるが、同時にに一面又多少の滿足であつたかも知れない。一日地主夫人が病床に尋ねた時、村井は夫人に對し、
『世の中には如何に思うても出来ることと出来ないことことがある。弱い人間として誠に止むを得ない。私なども米國に往って家内の看護受けたいとは思ふが、ドゥも事情が許さない。さりとて家内も亦日本に來て親しく私の見取りをしたいのは山々でも、是れ又病気の爲め遠方の旅行に堪えぬと云う以上、思うに任せぬ人事の悲哀として、お互いに諦らめるより外はない。』
と切々の情を訴へるのである。
然も彼は最後まで夫人に対する慰安を忘れなかつた。永眠する二三日前のこと、米國へ左の電報を打つた。
“I am feeling fine, Dont worry”私は大変気分が善い、心配しなさんな。
実際來るには來られず、行くにも行かれず、両心両国に別れて地球の裏と表に離れながらも瞑目するまで飛電を通じて、魂の語らひを続けたものである。
されど玆にーつの慰安と云ふか、天の配劑と云ふか、晚年村井が友人に語つたことが思ひ合はされる。『自分が米國人と結婚して一生幸福を共にしたのは仕合せであるが、只ーつ最後の心殘りがある。それは、自分としては父母の國たる日本で、最後の息を引取りたいと云ふ希望を持ち、家内とし見れば又同じく、生れ故たる米國の土になりたい思いをして居るだらう。然るに、自分が米國で死ぬるか、妻が日本で終るか、何れーつが出來ても互いに気の毒に堪へぬものがある。こればかりは国際結婚に伴う不如意のーつである』と云つた。然るに偶然にもその村井は日本で逝き、夫人は又一年も經たぬ内に米國で永眠した。双方とも愛する故國で最後の息引き取ることとなり、村井が生前に気づかったことが杞憂になつたのは、両人とも悲しいながら一面又恵まれた最後と云へぬでもない。
病院では藥餌と手当に殘る所ない治療を施した。友人と部下と信仰の友は慰問と祈りに最善を盡した。然も定命八十三歳、遂に如何ともしやうがない。
昭和十一年二月十一日午前九時三十分彼れ村井保固は神に召されて久遠の眠りに入つた。
救世軍中将山室軍平が死の前日病の床に侍して詩篇より『なやみの日にわれをよべ、我なんぢを援けん。なんぢ我をあがむべし』の聖句を唱えたる際、村井はニッコリ笑うて感謝された、とあかしをされて居る。
当日永眠の直前、山室は
『天の父よ、今この兄第の霊魂を御手にまかせ奉る。うけいれ給へ、アーメン。』
と祈つて天に帰りゆく彼を見送った。
何んと云ふ崇高な臨終よ。如何にも大村井に相應はしい最後であつた。
村井の息太は村井が某日本人との間に儲けた一子である。少時米國に引き取られ村井夫人の許に生長し、ハーヴァード大學を卒業して世に出るや、彼は父の架けた橋を渡ることを好まず、独立して南米に貿易店を開き、明日の天地を開拓して居る。村井果して後ありや否や、鍵は殘されて將來にある。
尚ほ村井は老餘別にー家を立て、之を太の子清次郎に嗣がせた。
吉田の菩提寺たる海藏寺には門前右側なる形勝の高地に墓地を求め自然石の表面に、
村井保固之墓
と刻してある。戒名
靈光院慈靄呑山居士
とある。森村男、法華津孝治、大倉和親、廣黎藐等多数親近者の奉献に係る石燈籠と玉垣いかめしく繞らされ、吉田の産める偉人三チャンが永久に記念されて居る。
因みに墓地は古老の説に村井生誕の現場であると云はれ、然も数日の違ひで買入れの機を逸するきわどい所で手に入れたものである。
斯くして彼の産湯を使ったその同じ土地が又埋骨の地となつた。
昭和十五年四月七日筆者の訪れたとき、海藏寺門前の老櫻から花びらが、しづ心なく散りゆくさま床しとも美しとも喩へがたない風情である。滿地花吹雪、滿日春駘蕩、唯う長閑な気分が一面に漂うて居る。靜に墓畔に立ち春や昔の故人を思う。悠々たる八十三年の生涯が彷彿として去來する。此時寺僧檜槇月窓師、豊田、清家の諸氏と一同カメラに納まつた。別揭卽ちそれである。

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(最後に帰朝したる村井の自筆
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(村井保固の墓・檜槇師の直後に見ゆる自然石)
右より豊田房吉、大西理平、海蔵寺住職檜槇月窓師、村井幼稚園長・清家晋)