Hatena::ブログ(Diary)

日本軽佻派・大岡淳と申します。 Oda, Kawashima and me.

2012-06-24

[] ウェブサイトを新設しました!

大岡ウェブサイト日本軽佻派・大岡淳と申しますっ!」を新設いたしました。つきましては、ブログもこの新サイトに全面移行します。「はてな」の過去ログは、新サイトの方に移してありますので、今後ともそちらでお楽しみいただけます

つきましては、この「はてなブログは閉鎖いたします。7月末まではこのままにしておきますが、新サイトがある程度定着したと判断した段階で、特に予告せず閉鎖しますので、どうぞ新サイトURLブックマークをよろしくお願いいたします。

日本軽佻派・大岡淳と申しますっ!

http://ookajun.com/

はてな」ではいろいろな出会いがありましたので、思い出深い土地を離れるような、一抹の寂しさを覚えます。しかし、ミクシィツイッターフェイスブックのようなSNSが登場して以降、「はてな」のようなブログは、コミュニケーション・ツールとしての魅力は乏しくなったと言わざるをえません。では情報発信ツールとしてはどうかといえば、私のような自営業者としては、機能的に物足りないところがありました。そこで、新サイト設立した次第です。もちろん新サイトからはてな」にリンクするという手もあるのですが、ブログは新サイトの主力コンテンツでもあるため、あえて独立させてしまうことにしました。ここを拠点に、精力的に情報を発信し、新たな出会いを見つけていきたいと思っています

皆さんどうもありがとうございました。そして、これからは新サイトをよろしくお願いいたします!

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2012-05-13

[][] 福田和也『日本の家郷』を読む。

ジョルジュ・バタイユが書いたポルノ小説『マダム・エドワルダ』を演出することになり、射程を広くとって、そもそも文学における20世紀モダニズムをどう考えたらよいのか、ここのところ頭を捻っているんだけれども、そういえば!と思い出し、福田和也『日本の家郷』(洋泉社新書)を読んでみた。特に重要なのは第3章「虚妄としての日本」で、ここで福田氏は、ひとことで要約すれば、パウンドやモーラスやハイデガー、日本では萩原朔太郎や保田與十郎を例にあげ、現実に縛られない詩的な空中楼閣を構築しようとするサンボリズムあるいはモダニズムの精神が、政治的にはファシズムに帰結すると分析し、そのうえでそれでも尚、モダンな作為の産物である「虚妄としての日本」の側に立つべし!何か文句あっか!と宣言している。

福田氏の気分はわからなくもない。現代芸術や現代文学をどのような視座で捉えるかという際に、彼は脱構築じゃなくて、解釈学の側に立つわけだ。私もジョージ・スタイナーに傾倒していたことがあるから、テクストの矛盾点をあげつらって、ああも読めるけどこうも読めるよ、なんてやる脱構築のゲームよりは、一見すると多義的なテクストを、博覧強記を活かして西洋的な知の全体性の中にビシッと位置付けてみせる解釈学の作法の方が、なんか男らしい(笑)と感じていた(20代の私はハイナー・ミュラーの戯曲を読み解くという作業に没頭しており、スタイナーの著作から得るところが大きかったという事情もある)。本書解説のスガ秀実氏の言葉を借りれば「弱々しいニヒリズム」に陥らなくて済む、というか。実際、学生の頃に「ポスト構造主義」にかぶれてた連中はみんな「弱々しいニヒリスト」だったからイライラさせられたんでね(笑)。もちろん、知の全体性なんて言ってもしょせんは「虚妄」だ。しかしそんなことは承知の上であえて「虚妄としてのヨーロッパ」に賭けたことにガダマーやスタイナーの本領があり、同様に、「虚妄としての日本」に賭けたのが保田與十郎であり小林秀雄であった、という話なのだろう。

ただそうすると、この「虚妄」に賭ける決断主義とは、スガ氏も指摘する通り、ロマン主義的イロニーそのものではある。ネットにはこんな引用が落ちていた。

福田 僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。


「革命というためにはファシストであらねばならない」という言い回しが、まさしくイロニーである。「あらねばならない」ですか……。ここで、読み手としてはさすがにたじろいでしまう。もちろん、ファシズムは悪だ!なんて言いたいわけじゃない。だけど、なんだろ、つまり福田氏が言う「モダニズム」とか「ファシズム」とか「日本」とかってのは、そうすると全部ネタってことで、それって俗流化した形でなら、現在のネット右翼たちがやっていることそのものではないか。彼らは、ガチ天皇崇拝なんじゃなくて、言うなれば“ネタとして”排外主義を楽しんでいるわけだろう。このようなイロニー的姿勢は、福田氏がデビューした90年代なら珍しかったかもしれないが、今はむしろありふれているのではないか。

ただひとつ同意できる点として、バタイユの思想は下手するとファシズムに転化するというのは、確かにその通りだ。「アセファル」なんてのは草の根ファシズム団体みたいな秘密結社だったし(だから面白いんだけれども)。西谷修氏や小林康夫氏のような、中道左派的(?)スタンスの知識人は、こういうバタイユ論は嫌がるかもしれない。実際、バタイユに触発されて書かれたブランショの『明かしえぬ共同体』には、「他者の死」に寄り添うことによる共同体の形成を強調し、「この私の死」を問うことに現存在の現存在たるゆえんを見た、ハイデガー哲学と対決するというモチーフが潜在している。ただそのブランショも、若き日にはやはりファシズムに傾倒していたらしい。

で、私としてはバタイユの思想は、ファシズムそのものというよりファシズムのパロディであるという解釈で、一線を引いてみたい気はするんだけれども、でも、パロディであれ何であれ「ネタとして享受する」ことこそファシズムの原理そのものではないかと、福田氏に反論されそうな気もする。確かに、ブレヒトがヒトラーに敗北したのはこの点だろう。「みんな騙されてるぞ!英雄なんてネタだぞ!王様は裸だ!」とファシズムを異化し批判しても「ネタとわかったうえで楽しんでますが何か?」と大衆から切り返されてしまう――これが、私の考えるブレヒトの限界である。ではやはり、ファシズムに帰結する危険を覚悟のうえで、ネタを享受する心的機制を厭わず、私という創作家・批評家もまた、モダニズムの詩的世界を選択すべきなのか? だけど、日本軽佻派が日本浪漫派になっちゃったら洒落にならないよ(笑)。このあたり、福田和也という人と、一度じっくり議論してみたいと思った。

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2012-05-12

[] ポストパフォーマンス・トークに出演します。

時間堂という劇団が『ローザ』と題したお芝居を、5月16日から29日まで、王子で上演します。黒澤世莉さんの台本・演出です。なんとローザ・ルクセンブルクテーマにしたものだそうで、若手の劇団がこういう題材を扱うのはぜひとも応援したいと考え、初日、5月16日(水)のポストパフォーマンス・トークにちらりと出演することになりました。私のトークはどうでもいいんですが、皆さんぜひ観に行ってあげて下さい。経済格差が広がる状況下で、100年前の革命家について考えるのも悪くはないでしょう。

ローザルクセンブルクは、こういう人です。ポーランド出身なんですね。

時間堂のサイトこちらです。

ポストパフォーマンス・トークについてはこちらをご覧ください。

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2012-04-27

[] 橋下徹を批判する人々の底の浅さについて。

SAPIO誌上で小林よしのり中野剛志が対談形式で橋下徹を批判し、橋下市長ツイッターで強く反発している。「口だけで何もしない連中」ってな具合で、例の調子で、面白い。件の対談を立ち読みしてみたが、保守思想としての徹底性がないとか何とか、イデオロギー面に限定した批判であり、市長にとって現下最大の課題である大阪都構想に対しては、何やら意味不明な嫌味が述べられるだけであり、この水準で「橋下批判」を気取られては、そりゃあ市長もガックリであろう。本当はSAPIOを買うつもりだったのだが、お目当ての対談が面白くないし、櫻井よし子が演説しているDVDがオマケで、このDVDを分別して捨てる手間が面倒なので、結局買わなかった。

それで、中野剛志は元官僚現国立大准教授お気楽なものだ、これでまた官僚に復帰したら何をかいわんや……と、市長が絶好調の反批判を繰り広げている次第である。私は、中野のTPP反対論には賛同するが、彼がフジテレビ「とくダネ!」で、自意識過剰な感じでブチギレてみせたのは評価していない。本気で反TPPの論陣を張るつもりがあるならば、あんなふうに「アブない奴」を気取るべきではなく、宮崎哲弥程度には常識人ぶりをアピールし、マスメディアに継続的に登場すべきだし、その上で少しずつシンパを増やし、政界とも連携しながら、徹底的に戦ってもらいたかった。新書などいくら出しても、何にもならない。彼個人の商売が潤うだけではないか。

同様に、市長内田樹を「口だけで何もしないインテリ」「文句があるなら自分前市長のブレーンだったときに、何でも実行すればよかったではないか」と罵倒しているのは、圧倒的に正しいと思う。大学のセンセイが橋下徹を批判したところで、よほど緻密な政策論を対案として提示しない限りは、この調子でやっつけられておしまいだろうし、そうなれば高学歴エリートをうさんくさく感じる庶民感情は、ますますもって市長を支持するだろう。インテリ諸君、これではマッチポンプだよ。

それでふと気づくのだが、どうやら知識人というのは、往々にして「政治家なんてみんな馬鹿だ、俺に任せればぜんぶうまくいくのに」と考えてしま人種であるらしい。中野剛志には確かにそんな匂いがする。その点、政治家の実務能力に敬意を払う宮崎哲弥の方が、やっぱり言論人としてはプロなのだ。それにしても、この「政治ごとき俺にまかせろ」という知識人傲慢は、いつどのようにして生まれたのだろう?

知識人知識人としての立場から政治家に物申す、というのは、江藤淳西尾幹二保守論壇誌でよくやっていたなあ、と記憶する。もちろん、私がそれらに親しむより、もっとからあったんだろう。福田恒存とか清水幾太郎とか、戦後いろいろ発言していたんだろう。それで、江藤西尾場合、あくまで「知識人として」発言するという、一線を守る流儀がしっかりしていたような気がする。だいたい、政治家がいかに馬鹿に見えようが、それは往々にしてマスコミが作り上げたイメージに過ぎないし、地元の有権者が彼を議会に送り込んでいる以上、一国一城の主であることに間違いはないわけだ。有権者の支持を得つつ、様々な利害関係を調整し、がんじがらめになりながらもよりマシな政策を実行するのが彼らの仕事であって、正論を述べて玉砕するのは彼らの仕事ではない。そんな政治家必要ない。

さて、「知識人として」のわきまえを破った象徴的な人物をひとり挙げるとすれば、私は栗本慎一郎ではないかと思う。彼は、優れた経済人類学者であるにも関わらず、なぜか過剰に自己顕示欲の強い人で、有名なエピソードとしては「やめられないとまらない、かっぱえびせん」というコピーを作ったという話があるのだが、これも本人が披歴したエピソードだし、「もしも普通に就職していれば今頃は一部上場企業の経営者だ」なんて臆面もなく語っていたが、そう人前で公言してしまう時点で、経営者の才覚に欠けることは間違いがない。

そんなわけで「実務家としてもじゅうぶん優れているのに、あえて知識人をやっているオレ」というスタンスを誇示してきた栗本は、自民党大分裂に乗じて世田谷区立候補し、みごと衆議院議員になったわけである。だが現実には、小沢一郎と決裂し、小泉純一郎と決裂し、体を壊し、選挙に負けて、政界を去った。彼なりに筋を通した結果ではあるんだろうが、政治家として何かひとつ事をなしたとは言えないままに終わってしまった。

で、こういう浮かれ方を指弾するのに、栗本ひとりを名指しにするのは気の毒なところがあって、よく考えてみれば、栗本を含めて、あの80年代ニュー・アカデミズムの面々は、「俺たちを象牙の塔世間知らずと思うなよ」と、無責任に言い散らかしていたような気がするのである江藤西尾はそんな言い方はしていなかった。あくまで「政治や経済については素人だが、文学者からこそ言えることもある」という倫理と矜持を貫いていた。松原正先生が「文学者からこそ」フォークランド紛争の開戦を予想できた、なんてこともあったらしい(浅羽通明氏が著作で紹介していた)。対するに、己の能力を過信し、大言壮語していた知識人が、学問以外の実務に手を出してみたら、現実には何もできなかったり、火傷を負ったりするというのは、栗本慎一郎の政界進出とか、柄谷行人社会運動とか、ニューアカ知識人に共通する病だという気がする。今また、やはりニューアカ旗手として知られた中沢新一がエコロジー運動へのコミットを表明しているが、これまでのパターンからして、きっと挫折するだろう。この面々の中では慎重な浅田彰ですら、田中康夫との対談シリーズ軽率にも実務家たちを罵倒し、「俺なら見事に解決してみせるけどね」的オーラをふりまいている。

どうもこの80年代あたりを境として「自分のあずかり知らない分野に対しては一定の敬意を払った上で、岡目八目を自覚しながらあえて言うべきことを言う」という知識人流儀が崩れ、「ジャンルにこだわるなんてダサいフットワーク軽く越境して、何についても好きなことを喋ればいい、だってオレ優秀だし」というモード知識人の間に広がってしまったように思う。こうなると、海外から文脈は異なるはずなのに、スラヴォイ・ジジェク政治家をやったことがあるという話すら、「はいはいわかったわかった」と言いたくなってしまう。このような万能人を気取る自己顕示欲を利用され、昨今の知識人たちもまた、政府のナントカ審議委員の類をほいほい引き受けて「ロビイスト」ごっこに耽り、霞が関にいいように利用されているのだろう。

今後、もし橋下徹を本気で批判したいなら、その人は、まずは己の専門とする職分をわきまえ、為政者の仕事に最大級の敬意を払った上で、それでもなお、日々税金を納める一市民として、批判すべきことは批判する、という流儀を身につけねばならない。そこをすっ飛ばして、ワイドショーコメンテーター程度の認識で、為政者馬鹿にし批判する輩は、一般大衆から底の浅さを見抜かれておしまいだろう。ワイマール期のドイツの知識人も、そんな感じだったのかもしれないね。

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2012-03-20

[] 山田順『出版崩壊 電子書籍の罠』を読む。

山田順『出版崩壊 電子書籍の罠』(文春新書読了。読みごたえがあって面白かった。電子書籍市場においてコンテンツ制作者は儲からない、アップルやアマゾングーグルのような「場の提供」しかしていないはずの業者だけが独り勝ちをする構造になってしまっている、にも拘わらず、デジタル化は押しとどめようのない趨勢であり、出版産業としては衰退の一途をたどるほかない、ということが論じられている。事は出版にとどまらず、テレビや新聞を含めたマスコミ、あるいは音楽産業も、凋落は目に見えている。そして、電子書籍時代においてはセルフ・パブリッシングが活況を呈するであろうから、読者は真贋を見極めることができず、その中に宝石があったとしても膨大なゴミの山に埋もれてしまうだろう、というのが著者の訴えるところである

全体としてのトーンは悲観的だが、これはもちろん、出版産業に身を置く立場からの観察だからである。私のように、自分学歴を使って商売をしたことのない人間からすれば、大手マスコミの中枢(末端ではない)で働く人々の学歴エリートぶりを鼻持ちならないと感じたことは幾度もあったし、少なくとも90年代以降に限っては彼らが本当に優れた作家クリエイターアーティストを世に出してきたかどうかは疑問だし、そもそも、情報を右から左に流すだけで高額年収約束されていること自体が、異常なことだったんじゃないかと言わざるをえない。出版について言えば、これだけ巷に書物が溢れ返っていることの方が人類の歴史からすれば例外的で、これから本は本当に書きたい人だけが書き、読みたい人だけが読むという、本来の形に戻るだけだ――なんてことを、どこかで橋本治も言っていた。山本夏彦だって繰り返し言っていたではないか、「出版は商売にあらず」と。

対するに、私が身を置く舞台世界など、最初から商売にならないことが前提である。幸か不幸か、デジタル化によって代替が効かないこともその特徴だ。同じく表現者と言っても、商売にならないなりに細々と食いつなぐことを工夫している私らからすれば、デジタル化によって産業が衰退するなんて、いったいどこの世界の話だろうという気がする。音楽産業が衰退すると言ったって、それは主に「J-POP」で食っている連中の話であろう。妥協迎合もせず、インディーズで粘り強くやっているミュージシャンたちは、デジタル化で恩恵を被ることの方が多いはずだ。書き手だって、うかつに商売にしちゃうから、政府だの東電だのの飼い犬になるんだろう。ガチ反骨で文章を書いている人たちが、無償ブロガーとして名を上げている現状の方が、私にはよほど健全に思える。もちろん、編集者をはじめとする、出版で働く人々の共同作業によって生まれる著作のよさがあることは、重々認める。ただそれは、時代と共に消えゆく存在だとしか言いようがない。そして、それでも人類は、文章を書くことをやめないだろう。

著者はあえて、悲観的なトーンでこの本を書いた。それに対して、私はあえて、楽観的なトーンで応じてみたい。書きたい人が書き、読みたい人が読む。歌いたい人が歌い、聴きたい人が聴く。それで何か不都合があるだろうか。20世紀にのみ成り立った商売は淘汰されてしまうが、そもそも市場経済とはそうしたものだ。確かに、アップルだのアマゾンだのグーグルだの、獰猛な連中が「スタンダード」を構築して暴利を貪るのをどう抑制するかは課題であろう。しかしそれ以前に、さんざん小泉構造改革を礼賛して世論を誘導し、今また小沢一郎を葬り去ろうと躍起になっているのは、大手マスコミ自身ではないか。よもや、自分たちだけは規制によって保護してほしいなどと言うつもりはあるまい。デジタル化、電子書籍化、大いに結構ではないか。

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