裏方日記

2006-09-30 プレーパーク

東京都世田谷区内にある世田谷ボランティアセンターにて、NPOせたがやプレーパーク主催の“ボランティア説明会”に参加する。プレーパークは、“自分の責任で自由に遊ぶ”ことをモットーに存在している公園。火おこし可、危険な遊び可。禁止事項が山程ある公園とは一線を画しています。この一風変わった稀有な公園を一体どうやって運営してはるのやろう?誰が支えていることだろう??どんな想いがあるのやろう???と挙げればキリがない程の疑問を解決すべく足を運ぶ。

このボランティア説明会に参加する数日前、実際の現場を拝見させて戴きました。公園では、ごく普通に火おこしをしている子供がおり、見渡してみるとなんたる遊具…、と唖然としつつも見とれてしまう程、スリルに満ちた遊具が満載。なんと言えばいいのやら、全てが規格外。予想外。嬉しくなってしまう程のワイルドさ!なんと潔い…、とかる〜く衝撃を受けていました。“自分の好きな位置で、誰にもはばがからず、自分の好きなように生きていい”こと。思いがけず、そんな原始的なエネルギーを思い出すかのようでした。

こんな魅力的な場所には、人を惹きつける引力があり、秘密がある。なにがしかの魔物がひそんでいるものです。この場所を支えているものがありました。さて、なにか?

それは、“地域の人の力”。そして、“自分の責任で自由に遊ぶ”という想いに共鳴した人が皆で手をとりあって支えていくという“人と人の繋がり”。…恐らく、前回遊びに行っただけではわからなかったことを、今日の説明会で知ることができました。“潔い”という言葉で片付く訳がなかったな。…少し、反省。。

それにしても。“自分と違う世界”・“自分の知らない世界”は、俄然面白い。なんて魅力的なんやろう、と単純にわくわくする。見えないもの・知らなかったこと・自分1人では気づけなかったことを気づかせてくれる他者の存在は凄い。うーわ、なんたる偉大なことでありましょう、と勝手に1人感動した帰り道、闇夜のおぼろ月夜はすっかり影をひそめて、雨が降り始めていた。人との出会いは、凄い。またもや思い知った貴重な夜です。

2006-08-02 花向けの言葉

私がお勤めをしている仕事場(造園会社勤務)に社会勉強の一環として、大学生が研修にきていた。いよいよ今日で最終日。花向けの言葉として、社長さんが研修生に伝えてはった言葉が忘れ難い。それは、問いかけから始まった。

「武士や技術士の“士”って意味がわかるかい?」と。ぼんやりと首を振る研修生にこう仰っていた。「“士”っていうのは、道を志す者が独りで立っていることを言うんだよ。自分ならではの技を磨いて、自分の責任において、物事をやる。精神的に独り立ちすることを言うんだね。」

仕事の片手間に耳に入ってきた言葉にいつの間にか聞き入っていた。あぁ、そうや。

茨木のり子さんの、詩(うた)をも思い出しました。

“よりかからず。”

初めて、この詩集を読んだのは高校生の頃。あまりに凛とした主張に、ぼうっと見とれた日のことを。

「この会社にいる一人一人のスタッフは、お互いに一緒にやっているパートナーであって、寄りかかっている訳ではないんだよ」、と。

“よりかからず”という言葉を改めて、噛み締めたいなぁ、と思いました。

さて、研修生の皆さん。炎天下の元、剪定作業や果てしなく続く草むしり作業…などなど、随分とタフな日々だったことでしょう。あの広大なお花畑の除草作業の日。あの日は、よりによってすこぶる晴れた夏日和で、海に行きたくなる程のピーカンな空!なのに、私達は、山に引きこもって草ばかりむしっていました。

私にとって、屋外での作業は、しんどい反面、めちゃくちゃ楽しいものであっても、あの炎天下では辛そうやったな。…ほんまにお疲れさまでした。

先日あの場所に、コスモンスの種を撒きました。秋になったら、きっとキレイに咲くのでしょう。いつか見にいらしてね。

2006-07-23 暮らしの偉大さ

旅行最終日。あっという間の日々だった。世界遺産である“瀋陽故宮”も見た、“北陵”も見た、“世界園芸博覧会”も見た、東京駅をモデルにしたという“瀋陽駅”も見た、大連の町並みも見た。…でも、何よりも“見た”のは、生身の人間の迫力だった。そこに暮らしている人達の姿。圧倒的だった。

世界遺産の素晴らしさも、喜悲こもごも含まれた、かつての人間の暮らしや、歴史の重みを感じるからこそ、心を動かされるのかもしれない。都会における超高層マンションのハイクラスな生活と、赤茶けた平屋に住む素朴な農村の風景。勿論、どちらがいい悪いではなく、そこにある景色。日々蠢いて、ほとばしるエネルギー。“暮らすって凄いなぁ”と、改めて感じ入る。

今回の旅でお世話になった近畿ツーリストのSさん、たくさんの細やかなお気遣い、誠にありがとうございました。心より、御礼申し上げます。参加している全員が全員、ほぼ集団生活になじめないタイプばっかり、ばっかり!で、最終日まで行方不明にならない人が出ぇへんの不思議やなぁ、奇跡だわぁ、と思える程の顔揃え。(…さりとて、一番の問題児は、こうお話しているワタシなのでした。。)てんでばらばらな行進と、確実に遅れがちな歩みを意に介すことなき者もあり。(これもワタシのことです…。)心中穏やかならざることが多々おありだったかと思います。(後ろから、スリッパで叩いたろかー、と構えたことも1度や2度じゃなかったはずです…。)

Sさんがいらっしゃらなかったら、日本に帰れなかったんじゃないかと心底思います。1つ1つの細やかな気配り、ほんまにありがとうございました。あの場に居合わせた誰もが、“Sさんのおかげで旅行を楽しめた”との想いに、首がもげる程うなずくはずです。この場を借りて、御礼申し上げます。

2006-07-22 あの道の向こう側。

瀋陽から大連へ。旧満州鉄道大幹線を現代の特急列車にて移動。列車で4時間かけての大移動となる。車窓に広がる農村風景。行けども行けども広がるとうきび畑(とうもろこし畑)。…ふと、現地ガイド・張さんの言葉を思い出す。

中国では、“まち戸籍と“農村戸籍”にはっきりと分かれていて、明確な貧富の差、身分の差がある、ということ。農村の暮らしは、厳しいものである、ということ。“まち戸籍”の人が保障されている権利すら、農村の人は所有しない。その生活がどんなに苦しいものであっても、農民という立場から逃れることはできない。全員が“まち戸籍”を所有してしまったら、中国の食料事情の担い手は、たちまち不足してしまうから。2:8のバランス。“まち戸籍2割:農村戸籍8割”が、今の中国の現状らしい。この戸籍を翻す方法は1つだけ。超難関大学を入学・卒業することのみ。「生まれながらの差別である」と、張さんはおっしゃっていた。

行けども行けども広がる農村風景を見ながら、これが中国を支える担い手なんや、と思った。彼らが中国総人口、ひいては輸出大国として世界の食料事情を支える担い手達。彼らの存在なくしては、成り立たないであろう現実。“見えるものは、見えないものによって支えられている。”そうだよやぁ?と、口ずさむように思い出す。


辿り着いた大連でも、衝撃は大きいものだった。その生活格差をまざまざと見せつけられる風景に出くわす。私達の宿泊する4つ星ホテルの道を隔てた向こう側の格差に愕然とする。かたや高級ホテルと名高い宿泊施設、一方で贅沢からは程遠い灰色にすすけた住宅。壊れた窓すら放置され、そのまま生活を営んでいた。

ホテルの裏門、鉄格子越しに見た世界。一本の道の隔たりは、遥かな埋められない差があった。良し悪しではなく、ただそこにある事実。“この世界の歪みについて”。考えざるを得なくなる。もはや、世界園芸博覧会を見る、という当初の目的より現地のそこここで感じるカルチャーショックの方に囚われ、感情を揺さぶられるのだった。…やれやれ。

世界にはほんまに、ど〜〜にもならないことがあって、考えても簡単に答えがでないことばかりやけれど。でも、私達にできること。例え何ができる訳じゃなくても、それでも考え続けることをやめないことや、と心底思う。ボタンひとつで、答えがでるような錯覚をしがちな今、色々と体当たりで答えを探す大切さ。

現地の空気を肌身で感じた1日でした。

2006-07-21 世界園芸博覧会

ookakiuchi2006-07-21

旅2日目。いよいよ本日、今回の旅行のメインイベントである“2006瀋陽世界園芸博覧会”を見学した。2.46k屬箸い広大な土地を利用した今回の博覧会は、“大自然と共に生きる”をテーマに掲げている。今回の園芸博覧会実行委員会の方から、園芸博覧会の企画・設計に関するお話しを特別に伺った。

“今、ここにある条件を生かす”

世界園芸博覧会が開催されている瀋陽は、元々自然条件が揃っている、とのお話だった。山・花・林・水を結合させ、中国北地に位置する瀋陽ならでは…、の雄大さを表現しているとのこと。…なるほど。入口の“鳳凰の翼”というエリアは、文字通りの雄大さを感じた。園内を歩いていても、メイン展示である“各国を象徴する庭園”、“百合の塔”、“バラ温室”、“百花園”を歩く道々の方がずーっと印象に残っている。…一体、どれぐらい広いんやろう。歩いても歩いても、次々何かに出会ってしまう。それ程までに園内は広かった。

今回の園芸博覧会で興味深かったのは、“西洋への憧れがある一方、近年は中国のガーデン思想”に戻っていく、とのお話だった。中国のガーデン思想?はてさて?と首をかしげていると、それは“人間と自然の調和”との解説を受ける。調和。…つまり、それは“生かしあう”ことそのものではなかったか。“生かす”というのは言葉じりでは簡単そうやし、当然のことのように思うけれど自分の視野が狭まっているとき、“生かす”という言葉は全然見当たらなくなってしまう。物事に煮詰まっているとき、誰かと意見が衝突するとき、“生かす”よりはむしろ、お互いのエゴで“殺しあう”。でも、いつ何時も相手を“生かす”にはどうしたらいいんやろ?と発想すると、もう少しゆとりがでてくるかもしられへん。今、ここにある光と影を含めた現実。陰りになっている部分は、できれば見たくもないけれど、そうだとしても“生かそう”と見直してみると案外面白いものが見つかるかもしれない。

散策路沿いに、行けども行けども埋め尽くされた花々を見ながらそう思った。キャンバスを塗りつぶすように植えつけられた花々は、目にまばゆい程人工的そのものだったけれど、林の中に溶け込んでいるように見せている姿には圧巻だった。今回の園芸博は、自然生態系と人口景観を融合させようとしているのかしら。延々と歩きながら、感じたことのひとつだった。

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