大人計画 BIG3 の TR

先日お友達から宮藤さん出演回の録画をお借りしたこともあり、先週の TR クラシック(再放送)により、大人計画のビッグ3こと松尾スズキ宮藤官九郎阿部サダヲの「トップランナー」出演映像が手元に勢ぞろいした形なのだった。折角だし、仕事のキリもいいし、と昨晩まとめて見た結果、んとに面白いなこの人たち…と思った。
一番古いのは松尾さんの回で、わたしが一番、松尾さんに関心を持って、著作などを舐めるように読み込んでいた時期の「松尾さん」だった気がした。常に言葉と、理論をぽくぽくと取り出して来て喋っている感じ。どの質問や話題に対する回答も、松尾さんの中には予め用意されているように見えて、言葉が思考をあらわしている、という意味で、とても作家らしい人であるところが如実に現れてた。
まあ、大モトの人であるからして、それも当たり前かもしれないんだけど、すごいきっちり理論を構築してるなあ、と思った。これって時代もあるのかなあ、エクスキューズも漏れがないし、同調はできなくても理解はできる、というくらいまでの情報を、整頓された状態でスマートに披露してる感じ。自分の出自について、喋り慣れてるというか、台本が脳内にある感じを受けた。「自分」に対する意識の高さ…要するに自意識過剰を足場にものをつくってるひとなんだなあ、と再認識。
それから、劇団員のコメントとして宮藤・阿部も出てるんだけど、彼らがすっごい無責任な出方してるのがありありと分かって、見ていて噴いてしまった。伝えるべきことを持たない状態で、伝える義務に興味がない感じでへらっへらしてんの。にたにた笑ってるし。一方、それをスタジオで見守る松尾さんは苦笑とかしてて、すごく「大人」と「子供」みたいな構図になってたのが面白かった。
次に古いのは宮藤さんの回。「GO」公開前で、「クドカン」を語るためのキーワードとしてはまだ、IWGP しか世に出てないという状態での出演。松尾さんのときにはへらっへらしてた人が、今度は伝える義務を負って「自分」の話をしなきゃいけなくて、相当必死で喋ってる感じ。多分、「自分」についてメディアで話すことに、まだそんなに慣れてない頃だったんじゃないかと思うんだけど、話題の切り捨てが上手くできずに、深追いしてテレビ的にははらはらしちゃうみたいな間が散見されていた。
この後、すごい勢いでメディアに露出するようになって、大事なことをぱっと短い言葉で言って、あとは適度に笑えることを混ぜる、とゆー高度な技が使えるようにまで至ったんだなあ、としみじみしたんだけど、この人って多分、普段は「自分」について言語化して考えてない人なんじゃないだろうか。自意識過剰の度合いは松尾さんにも負けないくらいだと思うんだけど、その自意識を放棄することに全力を注いでる感じがする。両手ぶらり戦法とでも言いましょうか、何も考えてない訳じゃなくて、言葉にしておかないことでフレッシュさを保つ人な気が。
ま、それは多分今もなんだろうけど、この頃の喋りを聞いていると特に、凄まじく直感の人だなあ、と思う。あと、喋っている最中に変な間で笑っちゃったりしてるのは、「カメラの前で喋っている自分」に改めて気付いて笑ってしまってるような感じなのかな。今でも時々そゆとこあるけど、見る側が多分に「クドカン」に対する受け入れ姿勢を取ってるケースがこの頃より増えてるだろうから、慣れだけじゃなく、喋りに余裕が出てきてるのかもしれない。
でも、そうやって聞かれると言葉を捜すのに四苦八苦するくせに、ものをつくるときにはちゃんと、きっちり必要な分の「言葉」だけをがんがんに使い倒す人でもあって、そゆとこ、すごく好きだ、やっぱり、と思った。
で、阿部さんの回。これは今年になってからの放送で、非常に最近。松尾さんや宮藤さんと違って、「つくる」側の人じゃなくて「演じる」側の人だから、作品と離れた形で「自分」の話ができる感じで、結構気楽そうに見えた。こっちも緊張しないで見てられる感じが前2人と違ってて、これはこれでよかった。
でも、「自分」のことを言葉に置き換えるのが苦手なんだなあ、というのは至るところで見えていて、すっと言葉が出てこないと、真剣に言葉を探したりせずに、その場で思い浮かんだ言葉をぽろっと言ってしまうあたりが笑えた。なんも考えてないダロ、あんた…! みたいなね…。
でも、それが憎めない感じで許されてるのも、ひとえに存在の愛嬌というか、役者としての華にも通じるチャーミングさゆえなんだろうな。この人の素の喋りは、いつ見ても、どこまで本気なのかよく分からない印象を受ける。いや、本気といえば本気なんだろうけど、どうせすぐ忘れるのだろうなあ、でも今は本気で言ってるんだろうなあ、っていう、そういう感じか。
わたしは理屈で考えるほうだから、作品を書いてる人の回路にすごく興味やシンパシー(や時に反発)を感じやすいんだけど、そういう意味で言えば、松尾・宮藤はまだ分かる、というか、分からなくても何故/どこが分からないかが分かるんだけど、阿部さんについては、根っこのところからさっぱり分からない。喋ってる言葉が、どういう回路で出て来てるのかが分からなさ過ぎて怖かったり、面白かったりしてる。
まあ、それというのもわたしが、言葉を言葉としてじゃなくて、その背景込みで受け取る癖があるからなんだけどね。その言葉が出てきた背景が見えないと、言葉をどう捉えていいのか分からない、ってことで、別に阿部さんがどうこう、ってことじゃないのは分かってるんだけども。
しかし、いろんな意味で自由な人だよね。「これ言ったらどう思われるか」とか、そういう配慮に縛られてない感じがして、インタビューで喋るのがさほど上手い訳じゃないのに、まるで緊張を感じさせないというか。身軽な人だな…と思うんだけど、縛られている人のほうが、縛っているものから滲む情報が多いから、捉える糸口が多いところがある。阿部さんの素の喋りは付与情報が少なすぎるのかな、わたしには。
でも、分からないからヤだ、というんじゃなく、ぽかんと見てしまう感じ。いつも、「この人って…」と呆れてる間に終了、みたいなことだ。
この3人の喋りを見ていて、まあ時系列に見たら飛び飛びなんだけど、人間、「できること」によって性格が形成される…のか、性格によって「できないこと」が規定されるのか、どっちが先かよくわかんないけど、非常に「よくできてるなあ」という気持ちになったのだった。面白かったなあ、いろんな意味で。
あと、「言葉」っていうのは、同じ言葉を使っていても、信用して使っている人と、信用しないで使っている人とでは、結果的に全然違う意味を持つものなんだなあ、とも思った。勿論、信用しないで使っている=悪、じゃない。信用しない使い方だからこその効能もある訳で。うーん、面白いわ、やっぱり。この人たちと同じ時代に生きてて良かったな。