チェルフィッチュ「フリータイム」/六本木 SuperDeluxe(2008.3.8)

観てからいっぱい時間経っちゃった…でも書くよ、軽く感想メモってことで。
SuperDeluxe のフロアは入り口から見て手前側と奥側、両側に客席が設置されていて、その真ん中に挟まれた帯状の空間がステージというか、パフォーマンスのための空間になっていた。ファミレスのテーブルの背もたれの上部だけが、床からにょっきり突き出しているセット。まるで火山灰に埋まった遺跡みたいだなーと思って、開演前、勝手に「静かに終わってしまった」匂いみたいなのを感じていた。しんとした、現実味がないのに具体的な空間。そこをふわふわ歩く役者たちは、電線に止まったすずめみたいに壁にぺったりくっついていて、つい、と喋り出しては壁を離れてファミレスの上空を浮遊して、また壁に戻っては、白いコンクリートに身を委ねて傾いた姿勢で脱力したりする。その反復。
物語的には、いつものようにいわゆるオシバイではないのだけど、要するに独白の物語で、いちばん多くを語っている女子は、派遣社員で、朝6時に目覚ましをセットして、7時に家を出て7時10分の電車に乗って、職場の最寄り駅に着いたらファミレスに行って、コーヒー1杯160円を注文して30分くらいそこで「自分の時間」を過ごして、それで仕事に出かけてゆく。その「自分の時間」には、日記、文字は使わず、例えばただノートにぐるぐると円を何周も描き続ける、といったようなやり方で綴られる日記をつけたりしていて、彼女は、その「自分の時間」の中で、前夜のデートの帰り道に見た泥酔したサラリーマンの顔が死んだ祖父に似ていると思い、子供時代を振り返ってみたりする。その「自分の時間」をとても大切なものだと、彼女は考えていて、だから、いつか寝坊をしてしまったりしても、寝坊した分、仕事に遅れてでもこの「自分の時間」を確保してから出勤するのだろう自分を想像しては、その時間を持っている自分のことをいとしんだりしている…そういう感じ。
役者たちは繰り返し、入れ替わり、登場人物(主に3人くらい)の台詞を喋ってゆく。登場人物と役者は一対一で対応はしておらず、さっきまで違う人が喋っていた独白を、今度はこっちの人が、こっちの人なりのトーンで喋り始める…というような手法。例えば「自然な発語」っていう、近代演劇のいっこのテーマだと思うんだけど、そういうのに対するアプローチを強調するような、役者ごとに全然違うトーンでその発語の「自然」さをあらわしたり、一度以上聞いたことがある台詞を聞くときの、こっち側の、予め知っている内容だからこそ、言葉を過剰に捉えず半分くらい聞き流して「音」として楽しむことができたり、反対に、反復の不自然さが言葉の意味を際立たせてしまったり、というのを、ごくさらりと提示しているなあと思った。
発展的な労働意識を持ってキャリアを積む訳でもなく、ただ、日々の暮らしのために働く、恐らくは「28歳」くらいの女性。彼女が大切にしている「自分の時間」。その時間を客観するファミレスの店員や、その店員をナンパする男性客、などが現れては、思い思いのことを喋ってはいなくなり、彼女自身の言葉も、いろいろな役者によって繰り返され、拡張されながら、その度に少しずつ、その言葉の強度が高まってゆく。客席でわたしは、不思議な浮遊間を楽しんでいるだけのつもりだったのに、彼女の、すごく最近っぽいずるずるした感じの話し口調によって繰り出される言葉が、徐々にこちらに沁みてゆくのを実感した。その効果たるや驚くほど。
生活のための仕事であっても、毎朝6時にはちゃんと起きて、顔を洗って、電車に乗るということ。世の中を構成している大半の人の持つその勤勉さと、静かな朝のファミレスでの短い、しんとした時間。ぽかりとした気持ち。思い入れているものがない生活の中では、こういう時間に思い出すことはどんどんとりとめがなくなってゆくもので、その取り返しがつかないような、心もとないような思い、その気楽さ…もうなんっか、客席でわたしは、途中からたまらなくきゅーんとなってしまってしまっていたよ。
依るべきものがない立場の人にとっての「自分の時間=フリータイム」なんてたかが知れていて、他人から見たらどうってことないものでしかない。実際、彼女の周囲にいた「その他の登場人物たち」にとっても、彼女のその30分なんてどうだっていいものとして眺めている。でも、彼女にとってはとても大切な時間で、「フリータイム」なんて呼ぶにはあまりにもささやかで、取るに足りない自由さの30分。この30分を、観客が、自分の生活のなか、24時間とか168時間とかのサイクルのなかのどこかと重ねて感じることができるかどうかは、人によって違うのかもしれないんだけど、わたしにとっては岡田さんのちょう口語、みたいな台詞の抑揚も、役者の身体性も、発している台詞とは無関係な、ダンスを思わせるような不思議な動きも、なんかもう、ぜんぜんどうでもよくて、ただひたすらに、30分の「フリータイム」を語る彼女がいとおしくて、その気持ちだけで胸がいっぱいになっていた。
自分の軌道を定めようとすること、ただ、軌道に乗っている自分を確かめようとすること、そうやって埋められていく日々のくらしというのは、他者から見ればつまらないものでも、そうやって暮らしてゆくのがいちばんロスが少ないのも事実であって、多分、それが生活する、ってことの本質なんだと思う。その味気なさのことを、大げさに「現代性」だとか「脱力感」だとか言うような人は、いったいどんだけじゅうじつしたげきてきなまいにちをおくってらっしゃるのかしら、って話で、みんな、多かれ少なかれああやってぽっかりと、自分の置かれてる状況とかから切り離した状態になる時間を持っているはずじゃないのかなあ? って思ったんですけど、そんなこともないんですかね? それを、過剰にシンパシーを誘うでもなく、あの奇妙な浮遊感と、ちょっとのユーモアを以って描いている点に、わたしは岡田さんの意思というか、意志というか、を勝手に感じた。つまり、この作品、今のわたしの気持ちにはすっとフィットするもので、単純にとても好きだと思った、っていうことです。
岡田さんのやってることは、難しく捉えれば難しくみえるし、簡単に眺めればごく簡単で面白いものにみえるような気がする。わたしは後者として、今後もできるだけ、岡田さんの新しくつくるものを目撃して、体験してゆきたいなあと思ってますよ。わかったようなことを言うのは、演劇で食べている人だけでいいんではないのかなーとか。そうい気分。