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December 04(Mon), 2006

ootomi2006-12-04

[]ハッサン・バイエフ氏 東京講演会「チェチェンの現在を語る」

18:45開始。

 林克明: ほとんどが初めての方のようなので、まずチェチェンに関する基礎知識から話をさせて頂きたいと思います。チェチェンは油田で有名な黒海、カスピ海沿岸のコーカサス地域に位置する小さな共和国です。日本で言えば岩手県ほどの大きさで、人口は1つの大きめの都市とあまり変わりません。チェチェンはロシア帝政時代から何度も軍事侵攻を受け、長い間それに伴う抵抗がありました。最後の抵抗はカフカス戦争と呼ばれる人口の半分が戦死した戦争で、その敗北によって1861年に帝政ロシアに組み込まれました。ロシアの一部になった訳ですが、すんなりとロシア化して行った訳ではなく、チェチェン人は独自の文化を守るため、それからも幾度と抵抗を続けていきました。抵抗の歴史の中で1944年にスターリンによって行われた強制移住は忘れる事ができません。

これは、チェチェン人がナチス・ドイツに協力したとして1944年2月の凍える寒さの中、一夜にしてカザフスタンの何もない所へ連れて行かれたのです。この移住で民族の40%、多くて60%が寒さと飢えで死亡したと言われています。この出来事は、すべてのチェチェン人にとって民族的トラウマとなっているのではないでしょうか。フルシチョフの時代に帰郷を許されましたが、戻っても住んでいた家には新しく移住してきたロシア人が暮らしており、ゼロからのスタートを余儀なくされました。チェチェンはソ連解体の1991年に独立を宣言、1994年12月にはロシア連邦軍が投入され、第1次チェチェン戦争、1999年からは第2次チェチェン戦争が勃発、20万人〜25万人が犠牲になっています。1次と2次が違う点は、1次の頃はまだジャーナリストや国際団体などが入れ、外の目がありました。2次の時、特にプーチン政権になってからは入国が困難となり、密室状態での戦争となりました。現在は大きな戦闘はないものの、散発的な戦闘や、親ロシア政権による拉致が続き、人々は恐怖政治の下で怯えて暮らしています。そんなチェチェンにおいて、バイエフ医師は活動されてきたのです。

18:55 バイエフ紹介

 岡田一男:まず、バイエフ氏の来日にあたって協力していただいた団体、個人に対して感謝申し上げます。バイエフ氏は1963年4月4日にグローズヌイ郊外で生まれ、10代の頃、「柔道の天才」と呼ばれる映画の影響を受けて柔道家を目指されました。その後はチェチェン人として初めて名門医科大学に入学、外科、特に形成外科分野において優秀な医師として活躍されていましたが、戦争後帰国し、その後アメリカへ亡命されました。

19:00 トーク [医師の信念はどこから来ているのか]

 林:バイエフ氏の著書である「誓い」を読んで感動したために日本へ呼ぶ事にしました。著書ではバイエフ氏自身だけでなく、チェチェン民族の心の中までが見て取れる本であります。私も現地へは何度も訪れた事があり、チェチェン人家族のもてなしが凄かった事を印象に覚えています。チェチェン人は、チェチェン人を虐殺しているロシア兵さえも宿泊させ、食事を与え、客としてもてなします。このような外から来た人を受け入れるチェチェン社会というもの、なぜ医師として敵味方関係なく医療を続けられたのか、その信念について是非お聞きしたい。

 バイエフ:私は、子どもへのしつけから来ているのではないかと思います。チェチェンではどの父親も楽に生きるようにではなく、困難を乗り越えられるような強さを身につける力を与えるしつけをします。私たちチェチェン人の歴史を見れば当然でもあります。また、しつけによって客を大切にするように学びました。自分の感情をコントロールできるようになりなさいと。私はこのようなしつけを子どもの頃から受けてきたので、数々の困難な状況を乗り越えてこられたのです。客は敵味方関係なく、家へ一歩入れば誰でも客としてあらゆるもてなしをする、それがチェチェン人の特徴だと思います。私の強さは父からのしつけによって養われたものだと思います。例えば、助けを求めている人には助けの手を差し伸べよ、また他人の悲しみや苦しみに無関心であってはならないなど。私自身はしつけの他に柔道精神がありました。私はかつて柔道とサンボの選抜チームの一員でした。そこで培ったものが戦争を通じて支えとなりました。自分の家の周りが砲撃された時、感情をコントロールできたのはその忍耐力があったからです。

19:10

 林:先の強制移住について両親からどのように伝えられていますか?

 バイエフ:ユダヤ人のホロコーストと同じような位置づけができると思います。あの強制移住によって目的地であるカザフスタンに着くまでに人口の半数が死にました。1944年2月4日の事でした。家畜用の列車に詰み込まれ、座る所のないほどの狭さの中で遠いカザフスタンという異郷の地へ運ばれました。寒さと飢えによってたくさんの人が死んでいきました。列車はよく橋の手前で停まり、「遺体はないか?」と訊きました。川へ遺体を捨てるためです。目的地に着く頃には、列車は半分ほどになっていました。カザフスタンに着くと、私たちはバラバラに放り出され、何もない不毛の地での新たな生活を余儀なくされました。病気になって病院へ行っても、チェチェン人という理由だけで治療を断られました。私の父はヨーロッパ戦線からはるばる強制移住させられました。戦争で得た称号も剥奪されました。一人だけソ連の称号をもらえたチェチェン人がいましたが、彼はタタール人へと国籍を変えられてしまいました。フルシチョフの時代にようやく故郷へ戻れるようになりましたが、たとえ故郷へ戻っても昔の故郷はありませんでした。新しくロシア人が暮らしていたのです。私たちは新たな問題に直面しました。住む所や就職をどうするか、その不満をぶつける所はありませんでした。

19:20

 林:2004年7月に日本チェチェン空手大会がありましたね。モスクワの親善試合ではチェチェン人は勝っていたのに負けの判定をされていましたよね。1991年の独立宣言、1994年のロシア軍侵攻の時はどう感じられましたか?

 バイエフ:私はソ連選抜チームに入っていたので、ソ連のチェチェン人に対する扱いは肌で感じていました。ペレストロイカまではどんなに国内で優勝を収めても国外の選手権へは出してもらえませんでした。それが変わったのはゴルバチョフ政権になってからです。チェチェン人が認められるにはロシア人の何倍も優れていなければなりませんでした。なぜなら審判は常に私たちを差別的に見ていたからです。私は1991年に独立宣言をした頃、モスクワで仕事をしていましたが、モスクワ中央政府とチェチェン政府の政治的緊迫を知って開戦前に帰国しました。開戦したのは1994年12月11日の事でした。10月には既に爆撃機が何機もグローズヌイ上空を飛んでいましたが、ロシア政府はロシアの爆撃機だと認めようとしなかったのです。その爆撃機が墜落してようやく認めました。爆撃は私の病院にも落ちたので、故郷のアル・ハンカラへ戻って小さな診療所を始めました。しかしそこにも爆弾が落ちてきたので、私たちは周りと話し、他のメンバーは遠くへ逃げる事に、私は自宅で診療を続ける事にしました。それでも爆撃から逃れる事はできず、とうとう自宅にロケット弾が落ち、崩壊してしまいました。そのため診療は車で移動しながら続ける事にしたのです。第2次チェチェン戦争の時も私は、故郷のアル・ハンカラで診療をしていました。2次は1次と違って、爆撃の規模も大きく、何よりロシア人とチェチェン人の同情心というものがなくなってしまっていました。2次では多くの医師、看護士が犠牲になり、国内の医師は私一人になってしまいました。

19:40

 林:バイエフさん自身、手術中に爆撃を受けて負傷しながら手術したようですが?あとなぜ故郷を捨て、アメリカへ渡ったのでしょうか?

 バイエフ:1次の戦争で多くの医師や看護士が犠牲になりました。確かに私は手術中に爆撃を受け、負傷した事があります。けれどその時は自分が負傷した事に気づかなかったのです。周りから血が流れていると言われても、患者さんの血だと答えていたのを覚えています。しかしズボンの下から血が流れているのを見て、初めて自分が負傷している事に気づきました。そして意識を失ったのです。私がアメリカへ亡命したのはある事がきっかけでした。2000年の始め、亡命しようとした4000人の兵士が地雷原に入ってしまい、多数の兵士が病院に担ぎ込まれてきました。その中にあの有名なシャミール・バサーエフがいたのです。私は彼を治療した事によって、ロシア当局から追われる身となりました。病院は破壊され、ロシア軍には追われ、私にはここに留まる理由がなくなりました。村の長老たちに説得され、出国する事を決意し、まずイングーシ共和国へ行きました。そこで、ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティなどの団体に助けられ、手のリハビリを兼ねてアメリカへ亡命する事に決めたのです。

20:00

映像:チェチェンにはおもちゃに似せた地雷が学校や遊び場の近くにたくさん置かれています。子どもたちはおもちゃだと思って地雷に触れて犠牲になるのです。この戦争によって多くの子どもが障害を抱えるようになりました。最近では先天性の障害も見られています。これは深刻な問題です。

20:30 質疑応答

 Q:ロシア兵を救ったと聞きましたが、敵として憎しみはなかったのですか?

 A:もちろんロシア兵を救った事は何度もあります。しかし私には善人、悪人の区別も、チェチェン人、ロシア人の区別もありませんでした。ただ一人の患者としてみていたのです。でなければ医師とは言えません。

 Q:戦時医療と通常医療はどこが違うのですか?

 A:本来私は形成外科医でした。しかし戦争で専門を変える事を余儀なくされ、患者さんの手足を切断する事は私の専門から言ってとても辛いものでした。

 Q:人類が共存していくためのヒントはお持ちですか?

 A:そうですね、私が思うに今の世界は何かが狂ってしまっています。誰が強国なのかを競っているように思えます。まずは戦争がなくならない限り、犠牲者や負傷者は増える一方です。犠牲者と負傷者が出る戦争に正義なんてないと思います。

 Q:日本各地を回ってどう思われましたか?

 A:私は日本の多くの街を訪れました。そしてどんな国なのかを考えました。私が思うに日本はアメリカともヨーロッパとも違う国です。最も強い印象を受けたのは広島と長崎でした。広島と長崎の悲劇は、街が廃墟と化した点、犠牲者の多くが女性や子供といった一般市民であるという点と後遺症が世代を超えて伝わるという点において、私たちチェチェンの悲劇と似ていると思いました。私は日本国憲法第9条を学び、とても大切なものだと感じました。これは世界の平和の保障となる条項です。平和に暮らしていける国には前進の未来があると思います。私が深刻に思ったのは、日本での子供の自殺です。彼らは両親からの心のケアとサポートが不足しているのだと思います。

20:45

 林:これからの日本をどのようにしていったらいいのかを肌で感じた集会になったと思います。これからもチェチェンの事に関心を持ち続けてもらいたいと願っております。

 バイエフ:皆さんありがとうございました。特に申し上げたいのは、他人の悲しみに無関心でいてほしくない事です。チェチェンの事も世界のどこか遠くの出来事のように考えないで下さい。日本が平和でありますように。

(文責:バイナフ自由通信社)

[]2006年11月25日 ハッサン・バイエフ京都講演会

同志社大学今出川校地寒梅館・地下A会議室 写真は東京集会の時のもの)

16:00〜17:30

第1部 『ロシア・チェチェン戦争と子どもたち』(講演と映像)

司会:

 本日、ご講演いただく、ハッサン・バイエフさんをご紹介します。

 バイエフさんは、チェチェン共和国でお生まれになり、チェチェンの首都グロズヌイで形成外科医をしておられました。1994年にチェチェン戦争が始まった時は、野戦外科医として活躍され、敵味方を区別しないその医療活動から、アメリカのNGOヒューマンライツ・ウォッチ」より表彰されました。それでは、バイエフさん、お話しをお願いします。


ハッサン・バイエフ講演:

みなさん、こんばんは。まず始めに、今回私を京都に招聘していただきました実行委員会のみなさんに感謝申しあげたいと思います。チェチェン共和国についてまず簡単にご紹介申し上げましと、チェチェンという国は、北コーカサスという地域に位置しておりまして、基本的には、三方ロシアに囲まれております。戦争が始まる前は、グロズヌイというチェチェン共和国の首都は、北コーカサスで最も美しい街として知られていました。このように、ロシア連邦に小さなチェチェンという国が囲まれるように位置しているわけです。独立した国ではありませんけれども。南側に唯一の外国、グルジアと接しています。戦争の始まる前にチェチェンの人口は約100万人といわれていました。そのうちの、第一次、第二次と続いた戦争によって、約25万人の民間人が殺されてしまったといわれています。

そのうちの約4万人が子どもでした。戦争というものは、常に民間人を犠牲にするものです。特に子どもの犠牲が悲しいものです。6年間の戦争を通じて、病院に勤務したり治療したりしていたわけですが、私は手や足が切断された子どもたちを1000人、2000人という単位で治療し続けました。これからの将来のある子どもたちが、まだ小さいときに手や足を失ってしまうのをこの目にするというのは非常に悲しい体験でした。いま現在、チェチェン共和国内で、手や足を戦争の影響で失った子どもたちの総数は1万4000人ほどだといわれています。両親もしくは片親を失った子どもたちの数は2万6000人にものぼるといわれています。結核も非常に広まっておりまして、子ども大人を問わず広まっています。血液系の病気も非常に多くみられています。爆撃ですとか銃撃の際の轟音によって、約450人の子どもが聴覚を失ったり障害をきたしたりしています。神経性の病気を患っている子どもの数は1万人にも及びます。先天性の奇形をもって生まれてくる子どもの数も数千にものぼるといわれています。からだの器官の一部が欠損したままで生まれてくる子どもも多くいます。さきほど申しあげたような人口の小国にとっては、いま申しあげた数は、膨大な戦争の結果を物語る数です。このチェチェンでの戦争によって残された傷痕を回復するには、数世代を経なければ無理ではないかといわれております。アメリカに私は移り住んだわけですが、そこで、「チェチェンの子どもたち国際委員会」という組織をつくりました。アメリカ人の友人たちと一緒に。活動の母体となっているのは、私の他に約6名のアメリカ人がいるんですけれど、われわれは、まだチェチェンの領内にいる子どもたちに支援の手を差し伸べています。支援している子どもたちは、いまスライドをお見せしますけれど、支援している子どもたちの一例として、まず、「小児神経科病院」があります。またさきほど、爆撃・銃撃で聴覚を失った子どもたちの話をしましたが、そういった子どもたちがいる聾啞学校にも支援をしております。聾啞学校といいましても、学校の建物があるわけではありません。あるチェチェン人が自分の自宅を開放してくれることによって、彼らを集めて教育の機会を与えることが可能になっています。彼らが元いた学校は完全に壊されてしまっています。この写真は、戦争の最中に、ダウン症候群で生まれてきた子どもたちなんですけれど、先天性の奇形をもって生まれた子どもたちがこの神経科の病院にはいるんですけれど、多くの両親が写真撮影はかんべんしてくれということで、ここには写っておりません。この女の子は、マッハちゃんという子なんですが、彼女が両足を失ったのは、彼女がまだ1歳のときでした。爆撃の際にお母さんが彼女をかばってくれたんですけれど、そのお母さんは爆撃で亡くなってしまいましたが、マッハちゃんの命は救われました。しかし両足を失ってしまいました。いま現在、彼女は12歳です。マッハちゃんのような子どもたちにも、私たちは直接支援をしています。彼女が使っている義足もこの写真に写っていますけれど、成長期ですので、毎年この義足を替えなければいけないわけです。しかしながら、その替えるための資金なども持っていません。3月にこの女の子と会ったんですけれど、家庭訪問しました。いまも学校に行けないんですね。彼女が学校にいくためには自動車で送り迎えをしてあげなければいけないわけですが、その家族は車を持っていないんです。すべて破壊されしつくされてしまったんです。そして、アメリカや日本のように、障害者のためにヘルプ、サポートしてくれるような組織やシステムはまだチェチェンにはありません。こういった子どもたちは支援を必要としているわけですけれど、日本のみなさんのなかでも、彼女たちに支援を与えてくださる方がでてきましたら、それはいかなる額、いかなる量であっても、子どもたちにとっては、かけがえのないものとなると思います。配布されている資料のなかに、私たちの委員会についての資料が入っていると思います。そういったものをお読みになって、ご関心、ご希望がありましたら、連絡をとってくださるなり、支援をぜひよろしくお願いいたします。それでは、次に岡田さんに簡単にチェチェンの状況について説明していただきまして、チェチェン戦争と子どもたちについての映画をお見せすることになります。

岡田一男:

ご紹介にあずかりました岡田一男でございます。ぼくは映像関係の仕事をしておりますが、いまこれからご紹介する二つの作品は、ザーラ・イマーエワというチェチェン人の女性の映像作家がつくったものです。私の親しい友人であるとともに、ハッサン・バイエフさんとも非常に親しい間柄の人物です。ちょっとハッサンよりも年上の映像作家なんですが、彼女は1961年に生まれました。そして、モスクワの映画大学に行って勉強をしたかったということなんですが、残念ながら映画大学に入学できなくて、モスクワ大学のジャーナリスト学科で勉強した人です。私はたまたま彼女が生まれた1961年から66年までモスクワの映画大学、彼女がまさに入りたかったところに留学していた人間です。そういったことで私は非常に親近感をもっておりますし、彼女がチェチェンの問題について、自分の民族について、子どもたちについて考えていることに、非常に共感をもっております。そういうことで、私は、2003年にアムネスティ・インターナショナルが、スピーキング・ツアーという試みを行って、年に1回、人権問題に関わった非常にインパクトある人たちを招待して日本全国をまわるという企画があるわけですが、2003年に「ロシアン・キャンペーン」というのをやったんです。ロシアの人権侵害に関するものを世界的なキャンペーンとしてやるというなかで、日本のアムネスティ・インターナショナルは、ザーラ・イマーエワを日本に招待するということが行われたわけです。私はたまたまザーラを日本に呼ぶということのお手伝いをしました。そして今回、ハッサン・バイエフさんを呼ぶということで、またお手伝いをして、「ハッサン・バイエフを呼ぶ会」の共同代表をつとめております。映画というのは、人に見てもらうもので、そこですべてが語られるわけですから、あまり説明というのは必要はないかと思いますけれど、もしご質問があれば、観たあとで質疑応答をしたいと思います。ハッサンが答えたほうがいい部分はハッサンさん自身がお話しするということで、もし私が補足的に説明することがあれば、私がしたいと思います。それでは、二つ映像をお見せします。ひとつは、子どもが描いたチェチェン戦争に関する絵を簡単なアニメーションで動かしたものです。もうひとつは、チェチェン戦争を体験した子どもたちが、戦争について証言したものを映像にしたものです。どちらも非常にインパクトがあると僕は思ってます。そういうことでまず観て、それに対する感想であるとか、いまハッサンさんがお話しくださったことに対していろいろな質疑応答ができればと思います。それではお願いします。

<映画上映>

『春になったら』

『子どもの物語にあらず』


司会:

それでは、第1部終了予定の5時半までまだ少し時間がありますので、5時半まで、いくつか、ただいま上映された二つの映像につきまして、質問を受け付けたいと思います。ハッサン・バイエフさんと岡田一男さんにお答えいただきたいと思います。質問のあるかたは挙手をお願いします。

質問:

最初の『春になったら』のなかで、「チェチェンの狼は羊を襲わない」というのは何のたとえかお聞きしたい。

答え(バイエフ):

チェチェンでは、みんなが家畜とか羊を沢山飼っているわけですけれど、そのチェチェンの狼がチェチェンの羊を傷つけないとか襲わないというたとえとは直接違うかもしれませんが、羊はチェチェンでは非常に大切な存在なわけですが、その一匹の狼が羊の群を襲ってくると、羊の群を全滅させてしまうほどとてつもない被害をもたらす。それほど狼は恐い存在なわけです。

質問:

端的に、現在のチェチェンの状況を教えていただきたい。

答え(バイエフ):

2000年の頃に比べて、今はかなりその状況は変化してきています。国際団体は隣のイングーシという共和国(ロシア連邦の)があるんですけれど、そこに基本的には多くの国際機関が基地を置いて滞在しています。そこからチェチェン領内に支援を届けようと努力しているようです。いまだに海外のジャーナリストを含めて国際機関はチェチェンの中には基本的には自由に入れてもらえていません。といいますは、ロシア側が、戦争の傷痕を実際に海外の目に触れさせることを恐れているからで、21世紀の戦争でもこのような惨状、とてつもないおぞましい光景を海外の人の目から伏せようとしているからです。まだ戦争の影響で沢山の問題を抱えながら人々が暮らしていることろで、特に、私はいまチェチェン人の心の問題、精神的な問題が大きな問題だと思います。民族がまるごと病んでいるようなそんな状況だと思います。

質問:

言葉なんですが、途中で子どもたちの上から通訳が入っていたと思うんですが、基本的にはチェチェン語で話されているんでしょうか、それともロシア語でしょうか。それに加えて、チェチェンの子どもたちの教育はロシア語なのかチェチェン語なのか教えて下さい。

答え(岡田):

まず、いまのご質問ですけれど、基本的にはこの作品はロシア語でつくられています。そしてロシア語を話したくない子どもとか話せない子どもはチェチェン語でしゃべっています。そのチェチェン語でしゃべっている部分はロシア語で作者のザーラ・イマーエワ自身がそこを訳してヴォイスオーヴァーしているわけですね。で、基本的にはほとんどの人がバイリンガルで、ロシア語とチェチェン語をしゃべるというのがチェチェンの社会です。ただ、家庭ではほとんどチェチェン人はチェチェン語をしゃべりますから、学校教育が健全に行われていればロシア語も覚えるということです。そういう中で、戦争で学校が破壊されたり教師が少なくなってしまって、ロシア語がきちんと教育できないという問題も起こっていますけれど、いまは逆に今度は外国に多くの避難民が出ている状況では、チェチェン語自体がまともにしゃべれない子どもたちが出て来ているわけですから、そういう意味では状況もかなり変ってきているということが言えるんじゃないでしょうか。特に旧ソ連というのは、教育というのはタダだったわけですね。それが、ソ連が崩壊して自由経済が導入されると同時に、いろんな学校が有料になってきた。そういう問題が起こっているわけです。それからもうひとつは、西側に出て行った避難民もいるわけですが、周辺のイングーシだとかアゼルバイジャンだとかグルジアとか、いろんな国に、あるいはモスクワでもいいんですが、避難した人たちが一体勉強ができるのかという問題があります。たとえばアゼルバイジャンとか周辺の共和国では、彼らの言語がロシア語から、ソ連の崩壊に伴って、アゼルバイジャン語とかカザフ語であるとか、そういう民族の言葉に変っているわけですね。そうすると、まだロシア語で行われている学校もあるんですが、そこになかなかチェチェン人の避難民が入れないという状況があります。そうすると非常に大きな問題になります。教育の問題というのは医療の問題と同じように大きな問題になっています。それから、最初の質問で狼の質問が出たんですけれど、チェチェンの象徴が狼なんです。それは伝承で、狼が自分たちを生んでくれたという、牝狼から生まれたのがチェチェン人であるということで、チェチェンの象徴は狼。ですから、チェチェンの国章には、月夜にたたずんでいる牝の狼の絵が入っています。ですから、愛国的な子どもが、チェチェンの狼は羊を害するはずはないという比喩で使われているたとえです。それからジャーナリストの問題なんですが、チェチェンに全然ジャーナリストが行けないということはありません。これは大きな間違いです。というのは、チェチェンに入るにはロシアに入るビザだけではなくて、ロシア連邦外務省の新聞局の取材許可証がいるんですね。これは発行するのが、主にモスクワに支局がある報道機関はロシア外務省新聞局の許可をもらって行くことができます。ただその場合には多くの場合、武装ヘリコプターに乗って、装甲車に乗って敵地に乗り込んで行くような形で入って行くわけですね。これでは自由な報道ができるわけがないわけです。そのために、いろんなジャーナリストがいろんな形で潜り込もうとしているわけですけれども、たいがいチェチェンにたどりつく前に捕まってます。そして、ある私の知り合いのジャーナリストがイングーシで捕まったんですが、そのときに、ロシア外務省の新聞局は、日本のジャーナリストというのは実にけしからん。非常に法規に違反しているというんですが、フリージャーナリストにだいたい新聞局が許可を出さないですから、許可の取りようがない。私は実際その新聞局の発表した副局長に対して質問状を書きました。われわれは別にロシアの法律を侵そうとは思ってない、それよりも許可の取り方を教えてくれと私は書きましたが、全然返事は来ませんでした。三回だしましたけれど三回ともなしのつぶてでした。そんなことで報道の自由というのは非常に限られています。ですから日本以外の報道機関、たとえばフランスプレスであるとかラジオリバティであるとかそういう報道機関は、みんな現地の通信員を雇用しています。ロシア国籍でチェチェン人で現地に住んでいる人を報道機関が通信員としているわけですね。そういう形でチェチェンの報道をなんとか知らせようとしていますが、残念ながら日本の報道機関はそういった現地の通信員を置くということに度胸がないというか、やっていません。そのために日本の報道というのは非常に限られてしまっています。ただ英語であるとかロシア語がわかる人はぜひいろいろな西側の報道機関のロシア語サイトとかそういうのを見て下さい。そういうことを見ることができれば、かなり報道は行われているんだということも良くわかると思います。

司会:

これで第1部を終了します。第2部開始は18時からですが、30分間の休憩とします。休憩時間中に会場を出てすぐの受付に、バイエフさんの著書『誓い』の日本語版及び、本日上映しました二つの映像のDVDほか、チェチェンにたびたび足を運んでいるジャーナリストの著書などが販売しております。ぜひお買い上げ下さい。バイエフさんの『誓い』をお買い上げのみなさんにはバイエフさんがサインをしてくださいます。バイエフさんのサインは受付のテーブルで行います。なお、きょうバイエフさんが言及されました「チェチェンの子どもたち国際委員会(ICCC)」の募金も行っています。バイエフさんがサインをしているテーブルの横に募金箱を置いて募金を受け付けておりますので、募金をよろしくお願いします。




18:00〜

第2部 『チェチェン人のイスラーム信仰とロシア・チェチェン戦争下での私の体験』(講演と質疑応答)

司会:

お待たせしました。ただいまより「ハッサン・バイエフ京都同志社大学講演会」第2部『チェチェン人のイスラーム信仰とロシア・チェチェン戦争下での私の体験』というバイエフさんの講演を1時間の予定でお願いします。1時間、バイエフさんに講演していただいて、そのあと19時から20時の予定で質疑応答の時間を設けますので、質問を考えながらお聞き下さい。それでは、バイエフさん、よろしくお願いします。


ハッサン・バイエフ講演:

一次、二次の戦争を通じて、戦争について人々が関心をもっていたことは宗教ということでした。といいますのは、悲劇が起こるとき、惨劇が身の上に降り掛かるときに、やはり私たちは神の助けを請うものです。神に祈って早く戦争が終わることを願います。これからも犠牲者が生まれないように。その祈りのなかで私たちは常に早く平和が訪れるように、そして早く公正な世の中が訪れるように祈っていました。激しい爆撃や銃撃のなか人々が恐怖に陥ったときには、泣きながら神に向かって自分の命を救ってくださいとお祈りをしていたものです。いろんな年齢の方々が負傷して私の病院に運び込まれてきましたが、特に年配の方々は、手術にあたって、神に祈りを捧げ、忍耐力そして、この痛みを乗り越えられる力を下さいと祈っていらっしゃいました。その一方で、誰でもいつ何時でも死ぬ可能性があるということは常に理解をしているわけです。宗教に関心があったと言いましたのは、そういう意味で常に人々は祈りを捧げ、神に赦しを請うていたという意味です。その際、実際どの神を信仰するかということは、あまり大きな問題ではありません。一番大切なことはそこに信仰があるということです。その信仰はあらゆる人の内面の状態を落ち着かせてくれるものです。私自身、戦争を通じて、何百人という数の人を手術したんですけれど、そのすべての人が祈りを捧げておりました。私自身、手術を始める前、そして負傷した人のからだに触れる前に、祈りを捧げずに触れたことは一度もありませんでした。病院にいても毎日祈っておりました。それによって私は多くの力を得ることができたと思います。信仰がなければ私は生き残れなかったに違いありません。極限状態におかれると、やはり信仰というものが、そこを生き抜く力を人々に与えてくれるのではないかと思います。私の病院には特別にムラーと呼ばれる宗教者がおりまして、コーランからの引用文の祈りを捧げて負傷者のために祈ってくださっていました。一度、グローズヌイ市からロシア人(グローズヌイにはチェチェン人だけではなくていろんな民族が住んでいたんですけれど)、そこにもともと住んでいたロシア人の方々が負傷して約30名程すべてロシア人だったんですけれど、病院に運び込まれたことがありました。彼らはもちろんキリスト教者です。彼らの顔を覗き込むと、ほんとに恐れでひどい表情をしていたわけですけれど、グロズヌイ市の中にザワツコイ地区というのがあります。それは工場地帯という意味なんですけれど、そこに住んでいたロシア人だったんですね。かれらは爆撃、銃撃が始まると、すぐに地下室に逃げ込んでいたようです。彼らの住んでいた建物が崩壊し、そこから奇跡的に逃げ出すことができて、歩いて12キロくらい離れていた私の村まで辿りついたようでした。まず彼らは病院を求めたようです。負傷の度合いも負傷の種類もさまざまだったようですので。負傷だけではなく、肺炎とか、風邪をひいていた人々も沢山いたようでした。ある女性が、そのロシア人のなかでかなり年配のかただったんですが、われわれの病院のムラーにお願いをしました。彼女は神というものは唯一の存在であるはずですので、どんな神でもいいので、いまこの場でその神と交流をしたいと。私はその時に病院にいた他の長老のかたがたとも相談をしたんです。この傷ついたロシアのかたがたは助けを求めていると。ある年長者が、ロシア人であろうとチェチェン人であろうと、そんなことは関係ないと、いまこの戦争状態に置かれたなかで、助けを必要としている人を助けなくていったいどうするんだと言ってくれました。そして、ムラーがロシア人たちが置かれていたテントに入っていったんです。そして彼らに向かって、「どうぞ、あななたちの痛みや悲しみを語って下さい。私が何らかの力になれるように努力します」とそう言ったんです。そのとき私もその場にいまして、ロシア人たちが自分たちの身に降り掛かった悲劇についてムラーに語りかける場を目の当たりにしました。そのときのムラー自身は、宗教者であると同時に、教育を受けた心理学者でもあったんです。心理学を良く知っていた彼は、ロシア人たちの表情を見て、彼らの苦悩、苦しみをすぐに一瞬にして理解したんです。彼らの話を聞きながら、ところどころコーランからの節を引用しながら、まずアラブ語で話すんですけれど、それをロシア語でわかりやすいように、ロシアのかたがたに語りかけていました。その翌日、私はそのロシア人たちのところに行ったんですけれど、彼らの表情はまったく違ったものになっていました。その翌日というのは、私自身が彼らに手術もしくは治療をしてあげたその翌日のことでもありました。私はその中の一人のロシア人の女性に対して手術をしようとしたときに、その女性は私に向かってこう尋ねてきました。「あなたは私のためにも祈ってくれたんですか」と。そのときに、私はみなさんに先ほど申しあげましたように、「お祈りをせずに私の患者に指を触れることは一回もないんです」と、彼女に申し伝えました。そう言ってあげたときに、ロシア人のその女性は、「それではお願いします」と言ってくれました。非常に重傷を負っていた負傷者も沢山いたんです。そういった負傷者を目にしたときに、私たちの病院のムラーは、「イヤーッセ」という、ロシア語なのかアラブ語なのかわかりませんが、死を迎えつつある人に対して捧げる祈りの言葉がコーランであります。その言葉を祈りとしてロシア人たちに語ってあげていました。私は手術をしなければいけない、もしくは治療しなければいけないというその前に、自分の部屋に戻って、そこで祈りを捧げるようにしていたんです。チェチェンでの戦争状況に置かれていた中で、私を救ってくれたものが二つありました。ひとつは、それは全能の神に対する信仰です。二つ目は柔道だったんです。私と柔道の関わりについては私の本に詳しく書いております。戦争状態に置かれたときに、人間は信仰がなければ、生き延びられないと、そのように思います。私が思うには、いかなる人にも信仰というものが必要だと思います。それがどの宗派、どの宗教であるかはまったく重要な大切なことではないと思います。イスラム教であれ、キリスト教であれ、仏教であれ、ユダヤ教であれ、人間は信仰をもつということがとても大切なように思います。その信仰がなければ、人間は強い者にすぐに屈してしまうでしょう。信仰というものがあれば、それは人間に力を与えてくれます。生き延びる力を与えてくれると思います。そのことは、私自身が戦争を通じて体験したことです。戦争状態のなかでは、信仰を持つということは本当に大切であると思うようになりました。私自身は確かにムスリムではありますが、決してムスリムの学者とか、イスラム信仰について特別な知識を持っている人間ではありません。それでも私は一日五回のお祈りは欠かしていません。お祈りの言葉もいいます。私の祈りの言葉のなかには必ず平和を願い、そして亡くなった人たちの平安を祈ります。また、自分の祈りのなかで、戦争がこれ以上起らないように、飢餓に苦しむ人や、寒さに苦しむ人がないように、病気で苦しむ人がないように、祈ります。そういった苦しみによって、数百万の命がいままでに失われてきました。私の話はとりあえずこのくらいにさせていただきまして、みなさんから個別の質問があったほうが、私にとってお話しがしやすいので、そういった形で進めさせていただけますでしょうか。

このスライドショーを見ていただけると、もう少し皆さんにリアルに私がくぐり抜けてきたものをご理解いただけるのではないかと思います。

これがチェチェン周辺の地図になります。基本的にはロシア連邦に取り囲まれているように存在しています。そしてチェチェンという国は、この地図だけではわかりにくいんですが、カスピ海と黒海に挟まれたところになります。

これはチェチェンの山々です。ソ連時代には、多くの山岳愛好家が訪れて山歩きを楽しんでいました。

これは、そういった山岳地帯の典型的な村の一つですけれど、石造りの家が建っています。

これがチェチェンの首都グロズヌイ市の中心部です。

これが旧石油大学です。グロズヌイの中心部を挟んで、ある地点に立つと、反対側まで透けて見えるような、そんな廃墟と化していました。

これが、小児神経科病院なんですけれど、このように爆撃を受けています。この建物をいま再建して病院として再開しようという動きがあります。

これは第一次の戦争のときの写真なんですけれど、やはりグロズヌイの中心部です。この状況でも廃墟のようですが、両側の建物は現在はすでに完全に破壊し尽くされて、なくなってしまっています。そのような廃墟です。

これもグロズヌイの中心部です。大きな建物が破壊されて、残っている小さな部分です。

これは砲弾の破片を顔に浴びた少年を手術しているところです。砲弾の摘出を行っているんですけれど、残念ながらこの少年は失明してしまいました。

このかたはロシア人女性で、ロシアの兵士が装甲車に乗せて、彼女をグロズヌイ市から運んで来てくれました。左肩を狙撃兵に撃たれた負傷でした。しかしながら彼女は2000年の2月に他の7人の若いチェチェン人と一緒に狙撃されて、撃ち殺されてしまいました。彼女の遺体は病院の敷地内に埋葬されました。私は彼女を手術してあげた際に、彼女は手術が終ったらペテルブルクの自分の親戚のところに帰るわと言っていたんですけれど。私が帰ったら、ジャーナリストたちを呼んで、チェチェンの戦争でいったい何が起こっているかその真実を語って聞かせてあげるのよ、と言ってくれてたんです。私は彼女に、いま戦争の真実なんか欲しがっている人は誰もいないじゃないかと言わざるを得ませんでした。

彼女は、私の本の中にも書いていますが、ルマーニという看護師でして、私たちが手術用具を消毒しているときの様子なんですけれど、アルコールを注ぎ込んで、そこに火を付けるんです。彼女も自分の家庭を持っていて、4人の子どもがいました。彼女の夫も子どもも難民として、となりのイングーシにいたんですね。それでも私と一緒にこの病院に留まることを決断して、イングーシに行くことを拒み続けたんです。もちろん多くのものを犠牲にして留まっていました。

これは、腕の切断手術をしているところです。この患者さんは隣村からこの病院に連れてこられた患者でした。さきほどから、病院とか手術という言葉を使っていますが、そのときに皆さんが想像するようなきれいな病院の建物ですとかきれいな手術室ですとかそういったものは決して想像しないで下さい。何も道具がなかったんです。まず、窓ガラスは完全に砂袋で埋めざるを得ませんでした。万が一の時にガラスが吹き飛ばされないようにするためです。電気も通っていませんでした。灯油ランプですとか、ロウソクとか懐中電灯とか、そういったものを使って照らしていたんです。最もいい照明というものが、自動車のバッテリーをはずしてきてくれてそれを使って照明器具にしてくれた時でした。手術の祭にまともな麻酔薬もなかったので、1%のリドコインという薬品を使って、それは鎮痛剤に使う薬なんですけれど、それを用いて局所麻酔をするしかありませんでした。

のこぎりを私は手にしていますが、これは普通の家庭で使うような弓ノコです。この弓ノコを使って手術をしていました。頭蓋開口手術については、普通の家庭用のドリルで行っていました。

これは切断のあとに足に包帯を巻いているところなんですけれど、真ん中にいるのが私の甥っ子です。この時は医科大学の1年生を終えたばかりでした。戦争が始まってしまったので、私の病院で助手をしてくれました。

2000年のことでしたが、身分証明書チェックというのをロシア軍が行っていまして、その身分証明書をチェックして、テロリストとかチェチェン側の武装勢力と呼ばれる人たちだと疑いをかけて、どんどん連行していくようなものなんですが、その際に私の甥も連行されまして、選別収容所、いわゆる強制収容所のようなものに連れていかれました。電気などによるひどい拷問などを受けたようです。彼は40日間にわたってその強制収容所に収められていたんですが、私はそのときアメリカにおりましたので、アメリカの友人たちから1万ドルという大金を集めて、そのお金を身代金としてロシア軍に提出することによって彼をようやく解放できました。現在彼もアメリカに移住してきておりまして、マサチューセッツ州に私たちと一緒に住んでおります。2004年には、テコンドーの世界選手権がカナダで行われたんですが、その時に優勝しております。

これは、世界的にも有名かと思われますが、野戦司令官シャミリ・バサーエフです。2000年の2月1日のことでした。私は彼の右足の切断手術を行いました。彼の首にはロシア側は1000万ドルの懸賞金を賭けていました。ここには100万ドルと書かれていますが、その当時のことで、その後1000万ドルに跳ね上がったようです。

これは、足の切断手術を行った患者の親族が集まっているところです。次の患者が運ばれてくるまでの時間を利用して、親族たちに看護の仕方について説明をしているところです。この写真が私の本の日本版の表紙に使われた写真です。

やけどを負って私の病院に運び込まれた女の子です。彼女は焼けた家の下敷になっていたようです。両親は亡くなっていました。

地雷によって足を失った子ども、男の子です。第一次の戦争が終わったときに、チェチェン全土に渡って、おもちゃに似せて作られた地雷が、学校とか幼稚園とか公園を中心にばらまかれていました。それを拾った子どもたちが、その爆破で犠牲になったわけです。このような負傷した子どもちがチェチェン全土に多くおります。第一次戦争が終わった休戦期間にグローズヌイ市内の病院に勤務していたときのことなんですけれど、二人の兄弟とひとりのお姉さんが、自分たちの兄弟がそういった地雷で被害を受けたということで、病院に担ぎ込んできました。

そんなこともあったわけですけれど、この写真は、となりのイングーシの難民キャンプで撮られた写真です。上にはいろんなデータが書かれていますが。

これは第一部ですでにお見せしたスライドですが、爆撃、銃撃によって、聴覚に障害をきたした子どもたちが通っている学校で、そこを私たちは支援しています。

これは手製の薪をくべて暖房になるような本当に簡単なものなんですけれど、これでは一つの部屋を暖めるのに十分でないので、子どもたちは休憩の時間になると、こうやって暖をとるために集まります。

これは手話を教えているところです。これはもう少し学年が下の子どもたちなんですけれど。

われわれの「チェチェンの子どもたち国際委員会」は、この学校に対して、必要なペンとか教科書とかノートなどすべてをロシア国内で購入してチェチェンに届けました。

聾啞学校での教育ができる先生が非常に不足していて、若い二人の先生をモスクワに十ケ月の研修コースに派遣してその費用なども私たちの委員会で負担しました。経費といいますのは、交通費、食費、宿泊費、そしてそこで教育を受ける研修費です。

これは、その聾啞学校に住み込みながら勉強している子どもたちのために料理を作ってくれている女性たちです。チェチェン全土にそういった子どもたちがいますので、みんながグローズヌイのこの学校に通えるわけではないからです。われわれの委員会では、この学校と、そして小児神経科病院に対して毎朝焼きたてのパンを届けるというプロジェクトを続けています。

これも前半でお見せした写真ですけれど、かつて小児神経科病院があったところです。この病院の為に電気を引いたり、水道を引いてあげたり、そして冷蔵庫、テレビなど必要な備品を購入する資金を提供しました。今年の2月から3月にかけてグローズヌイに帰っておりまして、この病院を訪問したんですけれど、全くおもちゃがありませんでした。そのあと私はアメリカに帰ったんですが、アメリカから彼らのために七つの段ボール箱に入ったおもちゃを送り届けました。

このマッハちゃんという子に降り掛かった悲劇についても前半でお話しをしました。彼女のことについては、いまアメリカでもアラブ諸国でも知られております。展示会なども開かれまして、この彼女の写真がそこで公表されたからです。何人かのアメリカのかたから手紙をいただいたり電話をいただいたりするんですけれど、彼女はいまどんな生活をしているのかということに関心をもってくれているかたがいらっしゃるようです。彼女をアメリカに連れてこようという動き、そういうプロジェクトもあるんです。養子というわけではないんですけれど、長期にわたってホームステイにような形で彼女を受け入れて下さるという家庭が現われつつあります。義足の援助もしてあげようと。それよりも何よりも彼女にとって大切なことは、教育を受けられる環境だと思います。しかしながら彼女をチェチェンから連れ出すことは、そんなに簡単なことではありません。おそらく彼女のような障害を抱えた子どもを国外に、しかもアメリカに連れ出そうということにあたってはロシア側からあらゆる手段を講じてそれを阻害しようとするに違いないからです。まだ彼女は国際パスポートを持っていませんので、その部分が一番大きな問題だと思います。パスポートを取るには非常に多額のお金を払わなければいけないんです。私の家族のことを例にとってみますと、私がまず最初にアメリカに行って、その後家族を呼びよせたんですが、その家族のパスポートを取るために家族一人分のパスポートあたり700ドルという大金を要求されたんです。いま、ロシア国内においては非明文化の暗黙の了解のチェチェン人にはパスポートを発行しないという理解が存在しているからです。チェチェン人を国外に出さないためにです。その暗黙の了解を打ち破ってパスポートを得ようとする時には、そのような非常に高額の価格表が存在しています。いわゆる賄賂です。これで私のスライドショーは終わりにします。質問がございましたらどうぞ。



<質疑応答>

司会:

ありがとうございました。それではこれから20時まで1時間、質疑応答にしたいと思います。皆様のご質問に対して、バイエフさん、あるいは岡田一男さんにお答えいただきたく思います。

ところで、お話しのなかにもありました、「チェチェンの子どもたち国際委員会(ICCC)」の活動のための募金の箱を皆様の席に回しますので、ぜひご寄付をお願いしたいと思います。

それでは、いままでのお話しについて、あるいはチェチェンの状況について、ご質問があるかたは手を挙げてください。


質問:

ハッサンさんは、ロシア人も救うという人道的な活動におもむかれたときに、どういうことを考えてそういうことをしようと思われたのでしょうか。

答え:

実際、私は多くのロシア人兵士、そして傭兵たち、内務省軍の多くのロシア人を治療しました。それと同時に、チェチェンの防衛軍の兵士たちも多く治療いたしました。ですが、もっとも多くの治療をした負傷者は、民間人、子ども、女性、老人、若者たちだったわけですけれど。そこでなぜロシア人までも治療したのかという質問に戻りますと、まず第一に私は医者であるからです。私の手術台に担ぎ込まれた負傷者に対して、私は一度も、お前は何人だとか、どちら側についているかとか、何を信仰しているかとか、そんなことを聞いたことはありません。私が見たのは、血を流している傷口そのものでした。その傷を治してあげるということのみが、私の気がかりだったわけです。その負傷者が求めている私の助けの手を差し伸べただけです。私がそういう原則を貫く人間だということは、すでに第一次の戦争の時に、かなり広く知れ渡っていたようです。私がもし、負傷者を目の前にして、こいつは白だとか黒だとか言い始めたら、私が医者である意味がどこにあるのでしょうか。医師は、政治と距離を置いた存在でなければいけないと思います。私たち医師の役割というのは、治療を必要としている人たちに、その治療を与えるということだけです。その負傷者がたとえばそれまでに人を殺したとか、罪を犯したという人であっても、その人本人が、神の前で裁きを受ければいいわけです。私が手術したロシア兵の多くが、私はチェチェンなんかに来たくなかったとか、誰も殺していないんだとか、そんなことを私に向かって訴えかけていました。私は彼らに向かって、「そんなことをわざわざ私に向かって訴えかけなくてもいいんだよ」と言ってあげたんです。「万が一あなたが、これまでに人間を殺したことがあったとしても、それはあなたの良心が、それに対して答えを出せばいいだけのことです。まだ誰も殺していないのであれば、あなたのこれからの運命はもっと良いものになるはずだ」と語ってあげました。

質問:

こんばんは。まずドクター・バイエフとそれからチェチェンでがんばって医療で戦っている皆様に頭が下がる思いです。といいますのも、私も医療の世界に身を置いている人間ですので、胸が詰まる思いでした。それで、ひとつお願いと、質問があるんですが、まず質問なんですが、スライドの中でも、医療危機の中で、およそ70%の子どもたちが結核菌の保有者ということがあがっていました。これは非常に恐ろしいと思いますし、もしチェチェンが戦争状態でなければWHOやCDCが絶対関与しなければならないほど、厳しい状態だと思うんですけれども、こういった中で、薬剤耐性結核菌の問題も起こっているように思うんですが、そういったこともかなり深刻になっているということで、結核菌を取り上げているのかということをまず質問させていただきたいと思います。

答え:

私が2月、3月にチェチェンに帰っていた時のことなんですが、多くの若者が、咳をしたりするときに、軽く血が混ざっているものを吐き出していたんですね。そういった咳をしているような若者、年配の人も含めて、私がチェチェンにいる間に多くの死を見届けることになってしまいました。私に何か医療機器や医薬品があれば、彼らたちの命を救ってあげることができたのかもしれませんが、全く何も残されていなかったんです。本当にそういった人たちの姿を見るのはつらいことでした。たとえば、私の村の若い女性が、やはり結核症状で、イングーシにまず連れ出そうということで、たまたまロイターの記者がいたので、まず連れて行って、そこからロイターの記者にイギリスに行って治療を受けさなければいけないというふうに、お願いをしていたんですけれど、その時にイングーシに辿りつく前に、その女性は命を落としてしまいました。いま、結核の予防のための薬をチェチェンの人ほぼ全てが必要としていると言っていいと思います。そういった課題に取り組むには、大変な医療体制を築き上げなくてはいけないわけですけれど、そのためのまず病院が、全ての病院が破壊されていますので、医薬品もありませんし、体制を整えられるような状態にはないんです、チェチェンは。しかしながら、チェチェンの現在の結核の状況を解決する為に支援してくれている国際団体もあります。もうひとつ、私がアメリカに住んでいるボストンの近くにあるハーバード大学で、あるプロジェクトを申請して、それに対する助成金が認められました。そのプログラムによって、多くの人が、もしくは企業かもしれませんが、無償で副作用のない医薬品を提供してくれました。しかしながら、せっかく集められた医薬品をモスクワ(ロシア中央政府)が持ち込みを阻止してしまったんです。その言い訳は、ロシアにも素晴らしい医薬品があるのだから、わざわざなぜ輸入物を使わなくてはいけないのかというようなことだんですが、しかし、そのロシアの医薬品を使うと、確かに結核には効果があるかもしれませんが、副作用が肝臓とか腎臓に出てしまう。そういった状況なんです。全く何もなされていないわけではありませんが、結核の問題に取り組むには非常に大きな体制を構築しなければいけない。その体制を構築する可能性がないんです。まともな治療を受けるためには、チェチェンの外に出なければいけないんですけれど、チェチェン領内を出て、ロシア国内でもいいんですが、チェチェンを出なければまともな治療は受けられない。しかしながら、そのためにかかる経費は、チェチェン人にとってはとんでもない額なんです。


質問:

講演の中で、二人に一人の赤ちゃんが先天性の障害があるというお話しでしたが、その原因は何だと考えられますか。母体の栄養不良だとか、ストレスであったり、いろいろあると思いますが。実際どういった障害であるのか教えて下さい。

質問:

バイエフさんが現場で非常に苦しい場面に出会ったときに、自分のなかに確固たる決意とか、心情がどういうものがあれば教えていただきたいと思います。

質問:

小児神経科病院の再建の話をされていましたが、具体的な疾患、聴覚障害とは神経障害、精神障害、PTSDなど、どういったものがあるのかということと、スライドのなかで国土の75%が汚染されているというお話しがありましたが、たとえば劣化ウラン弾を使っていたのか、それとも放射性物質ではなく、地雷とかそういったものを含めての汚染なのかということと、スライドの写真ですが、非常に手術中の写真とか、なかなか撮りにくい写真だと思いますが、これを実際にお撮りになった方がどういう方なのか教えて頂きたい。大所高所の話になると思いますが、ジェノサイドというかユダヤ人と同じようなコンセントレーション・キャンプがあったり、今までのユダヤ人の歴史のようなものをチェチェンが負わされているというふうに思われるのですが、そういった考え方についてどう思われるか。以上四点です。

質問:

先ほど、結核の薬などを集めたけれども、それがモスクワで止まってしまって、チェチェンに持っていけなかったというお話しがありましたが、物資が届かないということや、ジャーナリストの人があまり入れないということをおっしゃっていましたが、そうすると病院の再建とかできるんでしょうか。私たちが結局何ができるんだろうか疑問に思って、募金とか集めてもどういうふうに現地の人のために使われることになるのでしょうか。

質問:

スライドのなかで、病院に運ばれてきたロシア人の女性の方が、「ペテルブルクに帰ったらジャーナリストにチェチェンのことを話すんだ」とおっしゃっていたことに対して、バイエフさんが、「戦争の真実を欲しがっている者は誰もいないじゃないか」と答えられたというコメントをされていましたが、実際のところ、ロシアの政府じゃなくて市民の人はチェチェンに対してどのように思っているのか、お聞かせ下さい。

答え:

まず、奇形の原因ですけれど、チェチェンの国内での環境汚染にあると思います。環境汚染については、数カ月にわたって、(チェチェンは石油がとれる国なんですけれど)油井が燃え続けていた状況があったわけです。その燃え続けていた油井からでてくる油カスをわれわれは吸い続けていたわけです。それに加えて、爆撃、砲撃、そういったものがやはり影響を残すのも当然のことです。それはやはり、人々に大きなストレスを常に与え続けるものだからです。第二次の戦争の時、99年から私が国外に出る2000年の間に、12人の子どもが私の病院で生まれました。その子どもがまだお母さんのお腹のなかにいたとき、母親たちの心理的な状態というものは、みなさんなかなか想像するのも難しい状況だと思いますが、そのお母さんのストレスですとか、吸っていた汚れた空気ですとか、精神的な状況、それはすべて胎児が引き継ぐわけですね。それによっていろんな問題が生じても全く不思議ではないと思います。

ジェノサイドという発言がありましたけれど、国民の25%が殺されてしまっているわけで、これをジェノサイドと呼ばずに何と呼んだらいいのでしょうか。私は本の中でも、ユダヤのホロコーストと、私たちチェチェン民族がいま苦しめられているジェノサイドについて言及しているわけですけれど、我々のような少数民族の25%、25万人の人口がこの戦争で殺されいるわけで、そのうちの4万人が子どもなわけです。まさしくホロコースト的な状況だと言わざるを得ません。そして、強制収容所という発言がありましたが、罪のない人、若者たちが収容所に入れられるわけですが、そこでとてつもない拷問を受けて、家族が短期間でそういった若者たちを救出できない場合は、その若者たちが行方不明になってしまったり、一生涯、障害者として暮らさなければいけないということになってしまう訳です。ですので、全くジェノサイドと言わずにはおれません。

(岡田:ちょっと補足しますと、アメリカにはUSホロコーストミュージアムというホロコースト記念博物館がありますが、そこでは、チェチェンの問題もホロコーストの一種としてきちんと展示されています。そして、ホロコーストミュージアムで、ハッサン・バイエフさんが呼ばれて講演した講演録も載っておりますので、英語のわかるかたは是非見て下さい。それから、一部訳したものは、我々のウェブサイトにも収録されていると思います。)

どのような神経的な症状かという質問ですけれど、たとえば、あるとき爆撃の下で一晩過ごさなければならなかった男の子が病院に連れてこられたことがあります。その男の子は一晩で頭の半分が白髪になってしまって、眉毛も白髪になってしまっていました。ほかの女の子は、そういった爆撃のストレスの影響で、顔が全体的に歪んでしまっていました。そしてその他の症状ですけれど、まず不安、恐怖心、不眠症、手足のふるえ、食欲不振、何かちょっと不審な音が聞こえただけで、子どもたちがすぐパニック状態に陥ってしまったり、子どもたちの神経系というのは非常に脆弱なものですので、神経的な異常をきたすのに多くのショックは必要としないわけです。小さなショックで異常をきたしてしまいます。そういった子どもたちを両親が、大丈夫、何も起らないから心配するなと、なだめてあげるんですが、そういったなだめているそばから、砲弾が近くに被弾するとか、そういったことが沢山あるわけで、なだめることさえも全く役に立たないということがままあります。そのなかで最も恐ろしい症候といいますか、影響は、子どもが自分の命を断とうとしてしまうということです。もうひとつは、神経系ということとはちょっと違うと思いますが、子どもたちは戦争を経験していくなかで、非常に早く大人になってしまうんですね。もう子どもとは思えないような行動をします。モスクワに、ある一定の年齢の子どもたちが何名かグループで招待されたことがあります。そのときに、ロシアの子どもたちとの交流会を開いていただいたんです。それは9歳から10歳の子どもたちだったんですけれど、そのチェチェンの子どもたちは全く遊びということに関心を示さなかったんですね。ロシアの同じ年の子どもたちは一生懸命遊んで騒いでいたんです、そのそばでです。さきほど申しあげたように、子どもたちが大人になってしまって遊びに関心を失っていたからだと思います。

広島にもこの滞在で訪れているんですけれど、そのとき原爆資料館で、原爆後に降った黒い雨の跡が残っているんですが、その展示を見ました。同じような黒い雨がチェチェンにも降りました。私は自分で目撃しています。その雨が降った後、帽子を被っていなかった人たちに、特に多くの人たちに脱毛症状が出てきました。それは、燃えていた油井のためかもしれませんし、そういった状況があったということは事実ですし、またチェチェンでは第一次の戦争が終わったときに、放射性の物質が見つかっています。休戦状態で、トラクターを運転していた人たちが畑を耕していたんですが、あるとき畑で何か美しく輝く物質を見つけて触ってしまったんだそうです。そうしたらその人の手の筋肉などの組織が崩壊してしまったという症状があったそうです。

医療品をどうやって届けるかということですが、モスクワでまず購入することが可能です。というのは海外から何かを届けるということになると、税関の問題が必ず起ってきます。ですので基本的には、前回もそうでしたけれど、私がチェチェンに行く時に資金を持って、モスクワもしくは他の都市で購入してチェチェン届けるという計画をしています。

この撮られた写真についてですが、これは私の他の甥っ子です。本にも書いてありますけれど、ロイター通信でフリーランスとして雇われていた甥っ子が撮ったものです。しかしその甥っ子は2000年にロシア側によって銃殺されてしまいました。これは写真のようになっていますけれど、基本的にはビデオカメラで撮影したもので、その映像から写真化しているものです。

ロシア人もチェチェン人も治療を続けられてきた力がどこからかということですけれど、家族のしつけというものがあります。子ども時代からチェチェン人は強くあれというしつけを受けてくるんです。われわれチェチェン民族の両親というのは自分たちの子どもを決して楽な生活に慣れさせようとはしません。困難に耐える力を養っています。神への信仰も含めてです。もう一つは、私自身、柔道をずっと続けておりまして、ソ連邦の選抜チームにも選ばれていたんですけれど、そこで培った体力です。これが全てのものだといえます。

いまのロシア人のチェチェン人に対する姿勢なんですけれど、第一次戦争が始まったころ、もしくは続いていた時期に比べると、そのときは非常に強力なアンチ・チェチェン人プロパガンダがロシア政府によって繰り広げられていましたが、そのころに比べると、かなり改善されていると思います。しかしながら基本的にはロシア人の大半がこの戦争を起こした張本人はチェチェン人であると思っています。その他にもチェチェンはロシアとの歴史を通じて沢山の悲劇をくぐり抜けてきましたが、そういった悲劇に対しても全て私たちが悪者にされるんです。しかしいま少しずつ態度が軟化しているのではないかなと思われます。ですがまだ大半のロシア人のチェチェンに対する目は非常に冷たいものです。


質問:

第一部のお話しと、配られた資料にもあるんですが、チェチェンで広がっている疾患でHIVの感染のことにも触れていますが、これはどういったことで感染が広がっているんでしょうか。それはロシア軍によるチェチェンの女性へのレイプとかそういうものよるものなのか、あるいは麻薬とか、ロシアから売春婦の人たちが入って来るとかそういったこともあるんでしょうか。そういった場合の教育ですとか、治療も苛酷な状況で行われいるようですが、防護といいますか、たとえば帝王切開のときにドクターが血を浴びるとかいうこともあると思うんですが、そういうことも含めて対応をどうされているのか教えて下さい。

質問:

10月にモスクワでアンナ・ポリトコフスカヤさんが殺されました。報道によると、プーチン政権が関係したとか、チェチェン共和国政府の犯行とか、いろんなふうに報道されています。この事件の背景について、バイエフさんと岡田さんからご意見をうかがいたいと思います。もう一点は、テロの関係ですけど、プーチン政権やブッシュさんは、チェチェンの方の運動をいうときに、民族独立ではなくてテロリズムだといっています。その反証として、よく、アルカイダとの関わりとか、実際、二年前にベスランで小学校占拠事件があったとき、犯人のなかにアラブ人の方も何人かおったように報道されました。プーチン政権やブッシュ政権がいう、チェチェンの独立派の方とアルカイダあるいはアラブ人の関係説、その真偽というか可能性について、お聞きしたいと思います。

質問:

私は中学と高校で地理の教員をしております。高校の地理の教科書にも、第一次チェチェン戦争で破壊されたグロズヌイの写真が載っているんですけれども、質問が二つあります。中学や高校の授業でチェチェンについて取り扱おうと思ったきっかけが、北オセチアでの事件なんですが、チェチェンの方にとってあの事件はどのようなものだと理解されているのかということが一つと、もう一つは、日本の学校のなかで、チェチェンという問題を子どもたちに伝えていくなかで、ぜひこれだけは日本の中学生、高校生に伝えて欲しいということがあれば、教えていただきたいと思います。

質問:

私は、アゼルバイジャンのバクーというところで、チェチェン人の子どもたちを支援する活動をしていたんですけれども、そのときに子どもたちと関わっているときに感じたのは、そこまでロシアに対して敵意や憎しみをもっていないのではないかと感じたんですが、ロシアのサインのついた帽子をかぶっている子どもがいたりとか、結構意外だったので、実際に、ご自身ロシアについてどのように考えられているのか。それと、私自身、心理学を専攻していますが、精神的なケアというものはどういったものが実際されているのか興味があります。

答え:

最初の、HIVもしくはエイズに関する質問ですが、戦争が続いていた10年間もしくは12年間にわたって、HIV関係の状況の調査ですとか、その対策は全くとられていないんです。というのは、医療に関するシステム全体が崩壊しきっていたからです。チェチェンにどうやってHIVのウィルスが入ってきたかということですけれど、私たちの伝統文化のなかで、HIVに冒されるということそのものが非常に特別に苦痛を伴うものなんですね。しかしながら戦争状態に置かれていると、人々は、HIVの感染経路や、なぜそれが起っているのかということについて知るすべを持っていないんです。戦争の際、10万人から15万人というロシア兵士がチェチェン領内に留まっていたわけです。その兵士たちのために、ロシアから「ボランティア」として志願してやってきていた女性たちがいたんです。でも彼女たちは基本的にはロシア軍兵士たちのために奉仕していたに過ぎません。そういった菌が注射針ですとか、もしくは麻薬常習者などを通じて感染した可能性はあります。私は、戦争を通じて手術の際、基本的には手袋などをつける余裕はなかったわけです。本にも書いていますけれど、手術で手袋もしないで素手で家庭用の糸で体の繊維を分けて、手で入って行って骨まで触っていた、そんな状況だったんです。48時間ぶっ続けで、手術にあたったこともありました。そんな状況に置かれると、私の手にはただれが発生していました。モスクワにその後行く機会があったんですけれど、全ての菌に関して、結核菌とか肝炎とかHIVも含めてですが、全ての感染性の菌の検査を受けました。私が思うには、全能の神が慈悲の心を私に対して現してくれたんだと思います。2月、3月に帰ったときなんですけれど、HIV、エイズに関する多くのポスターがグロズヌイ市内に掲げられていました。グロズヌイ市内の建物に大きなポスターが掲げられていて、「エイズから背を向けてはいけません」というようなキャッチフレーズが書かれていて、非常に驚きました。若者向けのラジオ番組でもエイズの問題については毎日のように番組で流れていました。チェチェン人の伝統的な精神文化を考えたときに、このようなエイズに関するプロパガンダがされているということは、私にとっては大きな衝撃だったんです。

ポリトコフスカヤに関していいますと、非常に勇敢な、そして正直な、真実を伝えるジャーナリストだったと思います。チェチェンの真実を伝えてくれる唯一のジャーナリストだといえます。そのことで自分の命が犠牲になってしまったわけですけれど。誰が犯人かということについては、私は100%自信を持って言えることは、チェチェン側ではないということです。ロシアは現在多くのジャーナリストが弾圧されて、暗殺されたりしていますけれど、それは全てチェチェン人のせいにすればいいということになってしまっています。しかし多くのロシア人が、彼女の死に対して、チェチェン人の仕業ではないということをわかってくれていると思います。私自身、ロシア側の政権に追われたことがありました。

第二次戦争の時には、確かにアラブからチェチェン領内に来た人はいました。最大の見積もりで150人から200人くらいだと思います。しかしながら、ハッターブという指導者が殺された後に、彼らは全てチェチェンから出て行ったはずです。チェチェンの人たちは、そのアラブ人に対して非常に快く思っていませんでした。というのは、彼らの存在は、ロシア側にチェチェンとアルカイダが関係があるというようなプロパガンダを広めさせる言い訳となってしまうからです。もちろん、チェチェン人もビンラディンという人がいるということは知っていましたけれども、彼は一度もチェチェンに来たこともありませんし、チェチェン人の誰もが、彼が一体どこに潜んでいるのか知ってはいません。そのチェチェン領内にいたアラブ人が、ビンラディンとかアラブのテロリスト側と関係があったかも知れませんけれども、それは私たちが知るところではありません。

ベスランの事件は本当に恐ろしい事件だったと思います。チェチェン人のなかで、あの行為を支持した人は誰もいません。そのときにチェチェンでは、何千人という規模のベスランのテロに反対する抗議行動が行われたそうです。それはもちろん、チェチェン人たちは、自分たちの肉親を失っていない人はいないんですね、チェチェンの今の状況のなかで。ですので、子どもが殺されるということがどういうことなのかと一番良くわかっているのは私たち自身なんです。チェチェンのなかでは、その囚われた子どもたちの身代わりになってでも、子どもたちを救い出したいという希望者が何千という単位でいたようです。そのことに関しては、誰も報道してくれる人はいませんでした。そのことに関しては、デモや集会ですとか、抗議行動が行われたということは、私が家に電話したときなどに、お姉さんが、そういった抗議行動が行われているということを報告してくれましので、実際に起きていたという事実を知っております。そういった非常にネガティブな感情をチェチェンの人たちはあの事件に対して持っています。にもかかわらず、やはりあの事件の影響を最も大きく受けたのはチェチェン人たちです。

次の質問ですけれど、地理の先生だというですけれども、やはりチェチェンがどこにあるかということを教えていただきたいです。しかも今日、私のお話しを聞いていただいて、多くのことをチェチェンについて学んでいただいたと思いますので、スライドなどでお見せしました子どもが犠牲者になっているということについてぜひお話ししていただきたいと思います。子どもが戦争の犠牲になっているということを。

バクーでチェチェンの子どもと交流して、ロシア人に対してそんなに憎しみを抱いていないようだということですけれど、私たちチェチェンの家庭では、人を憎むということは教えていないんです。ロシア人自身は、私たちの悲劇について、一般人が責任を持っているわけではありません。多くのロシア人が実際この戦争に反対の声を上げていてはくれたんです。この問題について戦争について責任を持つべきはロシア政権です。私自身、ロシア人に対しては基本的に何も問題を感じていません。ロシア人の友だちも沢山います。その友だち関係は今でも変っていません。このチェチェンの戦争ということが、私たちの友情関係には影響を落としていません。というのは、彼らが私の性格ですとかそういったことを良く知っているからです。まず第一に、私が医科大学で勉強した時の教授は全てロシア人だったわけです。シベリアのグラスノヤルスクというところにある医科大学だったんですけれども、その私に外科医となることを教えてくれたロシア人の先生たちには今でも非常に感謝しています。彼らのおかげで私がこの戦争で数千人のチェチェン人に対して治療してあげることができたからです。それが私のロシア人に対する感情です。


質問:

チェチェンの伝統文化のなかで、子どもはどのように位置づけられているのか。傷ついた子どもたちのケアがなされているのか。

質問:

国際的な場で、たとえば国連を通してとかNGOを通して、チェチェンに対していま何が必要か。国連の決議もあり得るし、国際社会がいまできることか何か。

答え:

まず子どもたちにとって一番必要なことは、リハビリを受けるということです。そして子どもたちに伝統文化を継がせていくということは、今でもその状況は変わっていません。しつけという面でいいますと、チェチェン人の家庭では男の子には男の子なりのしつけの仕方があり、女の子には女の子なりのしつけの仕方があります。ただ共通していえることは、子どもたちを精神的にも肉体的にも強い子どもたちにするということが私たちのしつけの最大の目標といえます。それは世代を越えて受け継がれているものです。私自身もそのようにしつけられました。いま起っているような民族的な悲劇に対して、子どもたちを精神的に備えさせておくという意味ももっています。さらに子どもたちには、年長者を敬うということを必ずしつけます。弱い者を助けるということも教えます。そして母親も敬い、もちろん父親も敬い、姉妹、お姉さん、妹も敬うということです。それは親戚についてもいえます。そういったチェチェン古来の伝統的なしつけがなければ、私たちチェチェン民族というものはとっくに無くなっていたと思います。私たちはこの伝統を礎に生きのびてきたんです。

まず、国際社会ができることということについて言いますと、このロシアとの戦争という問題の解決に協力して欲しいということです。いま現在、国連でさえもチェチェンの紛争に首を突っ込むことに及び腰です。なぜかといいますとそれはもちろん、国連にもロシア側の政府代表が居座っていて、この問題をコントロールしているからです。私自身、国連で発表、報告をしたことがあります。難民の状態についてです。そのときに、アメリカは現在、各国から難民を受け入れているようですが、なぜチェチェンからは受け入れてくれないんでしょかと。そのときの答えは、プーチン大統領が許さないからだというものでした。国連というものは、他の誰かのためには、確かに存在意義があるようですが、私たちチェチェン人にとっては、その存在意義はないんです。国連は常に大国の益になるようには働きますが、弱者のためには何もしてくれないものだという印象が形成されてしまいました。それは実は全く逆でなければいけないはずだと思います。


岡田:

さきほど、ポリコトフスカヤさんのことについて、私の意見も求められましたが、私自身は、ポリコトフスカヤさんと連絡は取り合ったことはありますが、個人的には会ったことはありません。私は10月にちょうどポリコトフスカヤさんが殺された直後にモスクワに仕事で行っておりましたけれども、残念ながら、彼女の葬儀の一日後にモスクワの着いたために何もイベントに参加することができませんでした。その後、私はロンドンに移ったんですけれど、ロンドンの追悼集会にも一日遅れで行けませんでした。そんなことで、ポリコトフスカヤさんのことについて最終的に語り合ったのは、モスクワにもう一回戻って、そのときにモスクワに住んでいる歌唄いのチェチェン人のところで、長いことポリコトフスカヤさんのことについて話し合いをしました。どのくらいチェチェン人たちが、ポリコトフスカヤさんのことを頼りにしていたかということは、ほんとに最後の拠り所は、彼女にいろんな話を通報して話を聞いてもらうことだったんです。それがなくなったということを悲しんでいました。ポリコトフスカヤさんがただ唯一の人だったかどうかということは、これからの問題だと思います。というのは、モスクワあるいは旧ソ連、ロシアでも、チェチェンに対して支援をしようという心を持っている人というのはかなりいるわけです。そしてその人たちというのは、完全にロシアの民主化を戦った人たちと一致しています。それはソ連の崩壊を導いた人たちですし、そして各共和国で自分たちの地域の民主化を戦った人たちなんです。これはアゼルバイジャンでも、あるいはカザフスタンでも、あるいは外コーカサスの他の国々でも同じです。ロシアでも同じだと思います。ですから私はロシアの民主主義とチェチェンの自由というのは不可分一体のものだと思っています。ですから逆にロシア人を憎むこともありません。ロシアで世論統計をすると、戦争をしないほうがいいという人が必ず多数を占めてきています。それはチェチェン人が悪いんだと言っている人たちでも戦争には反対だと人が多い。ただし、プーチンに対する世論調査をすると支持している人がかなり多いというのも事実であります。私はとんでもないことを言っているようですけれども、ぼくは必ずしもプーチンの体制というのは盤石のものではないと思っています。もし本当にプーチン政権が強力ならば、ポリコトフスカヤさんを抹殺するようなことは必要なかったわけです。金持ち喧嘩せずといいますけれど、余裕で彼女に意見をしゃべらせていたと思います。そういう意味で、見た目ではプーチン政権は強力に見えますけれども、勢力は伯仲している。いつか必ずひっくり返る可能性がある。そういうなかで、チェチェン人の問題は存在している。そういうことが僕の印象ですね。

それとももう一つ、できるだけ皆さん、こうやって関心を持って来てくださっているわけですけれども、日本にもチェチェン関係のウェブサイトというのはかなりあります。そしてかなりいろいろなものが翻訳されて載っています。子どもの問題については、私が訳した、最初に載ったのは『読書人』という書店とか本の好きな人向けの週刊新聞紙ですけれども、それに今日第一部で御覧いただいた、ザーラ・イマーエワが書いた論文が載っております。これはベスラン事件の直後に書かれたもので、子どもの問題とベスラン事件に関するチェチェン人のことが非常に詳しく書かれています。その中で、きょうバイエフさんも子どものしつけの問題を話していますけれど、これは「アダート」といわれている伝統的な不文律のことをしゃべられているんです。この「アダート」に関することもかなりザーラ・イマーエワは詳しく書いています。そしてその社会というのが、ザーラ・イマーエワ流に言いますと、ホメオスタシー文化だと、要するに、暑くなっても寒くなっても人間の体温は維持されますが、そういうのをホメオスタシスというわけですけれど、この伝統的な不文律によってすべてが律されているから、状況がどう変ろうとチェチェン人の心理状態はそれほどぶれが生じない。そういうなかで、ベスラン事件の