アンナ・ポリトコフスカヤ

ナタリヤ・エステミロワ
2007年10月5日 グロズヌイ(ロシア)

 彼ら――ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤと警察のセルゲイ・ラピン――が最後に会ったのは2003年11月、グロズヌイにあるオクチャブリスキー地区裁判所の荒れ果てた建物の中でである。彼は特別装甲部隊の重武装で迷彩服を着た護衛団に付き添われていた。彼女は何人かの友人とともにそこにいたが、それぞれラピンかその仲間いずれかの手によって痛めつけられた人たちだった。

 彼は裁判にかけられていたのだが、その大部分はアンナによるものである。彼は被害者にぼん引き(Cadet)というあだ名で知られていた。それより2年前の2001年9月、アンナは一人息子のゼリムハンが失踪したムルダロフ一家と会っている。彼が失踪した場所にある建物は、当時ロシア北部のハンティマンシスク自治区からの警察官チームによって占有されていた。チェチェン警察はチェチェンの秩序や法を維持する能力に欠けていると見なされていたため、同様の部局が並列して設置されロシア他地域から来た警官が配属されたのだ。

 “ハンティ”は2000年1月にその建物(耳の聞こえない子どもたちの寄宿学校だったが、他の場所へ移った)へと引っ越した。2001年1月、彼らは26歳のゼリムハン・ムルダロフをその中に引きずり込んだ。

 後に知れ渡ったように、彼は情報提供者になることを強要されて何時間も拷問を受けたのだった。そして、彼は半ば意識がある状態のまま独房へと投げ込まれ、翌朝死んだムルダロフは再び引きずり出された。それが目撃された彼の最後である。(彼は最後の被害者となった)。

 警官たち自身その年にその建物でどれだけの犠牲者を生みだしたか思い出すのは難しいかもしれない。しかし、大勢がその寄宿学校の中や周辺で失踪したことは明らかである。この死の工場は彼らを手伝っているらしい人々からの反感や恐怖にもかかわらず、彼/彼女らの息子の運命について真実を明らかにするため戦ったゼリムハンの両親によって止められた。

 ゼリムハンの母親の絶望にショックを受け、父親の決意に感銘を受け、アンナは「失踪(The Disappearance)」という見出しのもとでひとつの記事を書いた。その中で彼女は容疑者の一人でぼん引きとして知られるセルゲイ・ラピンを名指しした。目撃者が彼女の記事の中で語り始めたとき、ラピンがしたことの恐ろしい詳細は多くの読者の背筋を凍らせた。

 アンナの新聞社は記者へ報復すると脅すラピンからの脅迫状をすぐさま受け取った。その脅迫状はアンナがムルダロフ一家に注意を向けている間に検察官の手に渡ったが、それは明らかに危険であった。

 ムルダロフ家は廃墟となった家にまだ残っている二部屋に住んでいた。通りから部屋の中が丸見えだったが、そこはアンナが何度ものチェチェン訪問で滞在した場所である。

 彼女は向こう見ずではない。危険をよく承知しており、特にハンティマンシスクから警察派遣隊がチェチェンに戻ってきた2002年3月にそのことをよく学んでいた。

 彼女の恐怖に根拠がなかったわけではない。ある日ナンバープレートがない車がムルダロフの家に停まり、ハンティらが周りを取り囲む間、覆面をした殺し屋が入ってきてせいぜい気をつけるようにと一家に警告をしたのだ。

 アンナはゼリムハンの母親ルキーヤさんと姉妹のザリーナさんをロシアの外へ連れ出すことに成功した。それによって、彼らは想像を絶する正義の追求を達成し遂げたのである。ラピンは勾留されグロズヌイへ連行された。ゼリムハンに起こったことはすぐに明らかにされ、容疑者は罰せられるだろうと誰もが考えていた。アンナもチェチェンの検察官に召喚された。彼女は同様にラピンの脅迫の被害者であったのだから。

 このとき彼女は公式訪問としてチェチェンへ来て、検察官のオフィスで安全な夜を過ごすものと考えられていた。しかしその夜――2003年2月28日――は彼女の人生で最も痛ましいものひとつであったことが判明する。最初に彼女は聴聞の時間になるまで通りで検察官のフセヴォロド・チェルノフと取り調べ官のイグナチェンコを待って過ごしていた。引き続き夜まで長引く審問が行われたが、その後取調官は彼女を建物の外へ連れて行くよう命令したのだ。真夜中であった。

 彼女の訪問の数日前、まったく同じ場所で男性が真昼間に失踪していた。アンナはそのことを知っていた。彼女がその時に感じたことを想像できるだろう。彼女は一日中何も食べたり飲んだりしていないばかりか、トイレさえ行っていなかった。彼女は新聞社に連絡をすることもできず、知人の誰もそのとき電話を持っていなかった。このことは彼女の権力への信用が悲劇的な結果をもたらした初めてのことではない。

 その後、彼女は知人とだけ一緒に過した。たとえロシアの兵士や略奪者によって何度も破壊されたドアやガラスなしの窓だろうと、彼女は私のアパートに泊ることも嫌がったりしなかった。

 ラピンは長期間勾留されはしなかった。検察官は彼を彼自身の管理下に釈放したのだ。彼の釈放の直後、彼の事件に関係する30もの最重要文書が消失している。もし彼女の記事になっていなかったら、事件はなくなっていたかもしれない。しかしアンナはなくなった資料をコピーして持っていた。

 ラピンの裁判がようやく始まる前の2003年秋のことだった。最初のうち、彼は様々な口実を使って姿を現さなかった。やっと現れたとき彼はまるで護衛のようで、裁判所の逮捕業務に従事している役人よりも重武装をしていた。それがアンナとラピンが最後にお互いを見た時だった。彼女は彼をまっすぐ見つめていたが、彼は目をそむけたままだった。

 1年半後、裁判官が最終的に彼に手錠をかけるよう裁判所員に命じたとき、アンナはそこにいなかった。チェチェンの状況は彼女に対して危険すぎるものになっており、知人らが離れるよう彼女に懇願したのだ。

 編集長もまた彼女が動くことを止め、彼らの間で厳しい口論があった。彼女はこの事件でものすごく懸命に仕事をしていた。グロズヌイへ行くことに同意してくれそうなモスクワ唯一の弁護士を見つけ、アムネスティ・インターナショナルに依頼料を払うよう説得、裁判を放送するロシアのテレビ局まで見つけたのである。

 彼女の努力のおかげで、アムネスティ・インターナショナルはラピンに正義をもたらすようウラジーミル・プーチンを駆りたてる世界規模のキャンペーンに乗り出した。そうして、裁判官は判決を申し渡したのだ――11年と。

 これはまだ始まりにすぎない。ラピンは正義から逃れている彼のボスと共に裁かれるべきだ。国際家宅捜索令状が彼らに出されている。

 アンナは2006年10月7日に殺された。10月26日、最高裁はラピンの有罪判決を一転させる。新たな裁判は今グロズヌイで進行中である。もう一度私たちは、心臓が止まりそうになるオクチャブリスキー警察署の独房での事件について証言を聞き、もう一度私たちは起こりうる悪影響にもかかわらず目撃者が名乗り出るよう説得すべきなのか?それで誰が勝者なのか?

 そんな人は誰もいない。たとえ彼/彼女らがそれを知ることがないとしても、まだ大勢の若者の命は救われている。ゼリムハンが彼の早すぎる死の結果を決して知らなかったのと同じことである。アンナももういない。彼女の仕事を続けることは私たちに課せられている。 


人権グループ「メモリアル」の活動家であるナタリヤ・エステミロワは、戦争や紛争での女性人権擁護者に贈られる「RAW(Reach All Women) in WARアンナ・ポリトコフスカヤ賞」の最初の受賞者である。Agence Globalから配信。

原文 http://www.iht.com/articles/2007/10/05/news/edestem.php?page=1
参考記事 http://chechennews.org/archives/pr20050331amnesty.htm