ジャック・レモン


フィラメントは、ソーダガラスの球体の、80Wの白熱電球で発光していた。バルブを透かして世界を照らす。世界とは、欲望のない男の、25㎡のキッチン付アパートメントのことである。欲望のない男はベッドに腰掛けて、デリバリーのピザを食べている。キッチンでは、コーヒーを淹れるだけだ。沸騰する薬缶から、男の夢想が蒸発する。蒸発し、部屋の窓の隙間をぬけて雨雲になる。フィラメントの頭上で、欲望のない男の夢がアパートメントの屋根をたたく。メロディのない、単調な雨音である。

めずらしく蒸気が鼻歌をともなって神田川の向こう岸までただようことがあった。川沿いにあるレストランのカウンターで、マティーニをなめながら何時間も恋人を待っているようだった。オリーヴのスティックが16本、カクテルグラスの結露にふやけたコースターをぐるりと囲んでいる。店内では、ひとびとが語っている。笑う。食器があたる。ウエイターが威勢よくオーダーを読み上げる。フィラメントには、ソーダガラスの球体の外側からくぐもって聞こえるだけだった。夜もふけて、蒸気は川底のカビと汚泥のにおいになって、アパートメントの湿気にもどった。フィラメントは部屋に明かりをともすが、タングステンが沸点に達してきて昇華しソーダガラスの球内を曇らせた。1000時間の寿命が近づいた。

フィラメントは、欲望のない男の光だっただろうか。いや、球切れになれば交換されるだけの存在だ。
白熱電球の真空には、希望も絶望もないのだ。


© prose poetry by hiromi suzuki, 2015

書き下ろし散文詩ジャック・レモン』 / 鈴木博美