長い不在


何度も来たような気がするガラス張りの事務所だった。アルバイト初日、私の机の上のドキュメント・ファイルには督促状が溜まっている。一ヶ月ならまだしも十年の未納もある。仕事はわかっていた。失効期日を確認しながら順番に切手を貼り郵便局に持っていくだけだ。

昼時が近づいて、営業所長がソワソワと皆にランチを呼びかけた。「今日の定食はハンバーグだぞ。デザートに餡蜜いくか」とはしゃいでいる。ガラス張りの要塞は、いつの間にか小糠雨に包まれていた。私は傘を忘れたので、ランチには合流しない。もっとも、書類は午前中で片付くものでない量だ。皆が出払ったオフィスで、ひとりぼっちで腹を空かしながら腹が立ったので、誰もいないのをいいことに所長のPCのメール・ボックスを開いてみた。

件名に「督促」とある私からのメッセージがひとつ、封も解かれずに落ちていた。送信者が私と同姓同名なのだろう、身に覚えがない。

昼食を終えた社員たちが戻ってきたので、申し訳なさそうに席についた隣のデスクに「傘を貸してくれないかしら」と耳打ちする。郵便局へは私鉄を一駅先まで行かなければならなかった。所長が私の名前を呼ぶ。ドキリとする。

「ちょっと屋上の倉庫までつきあってくれないかな」と頼りなさげに言う。「倉庫といっても、プレファブの物置」。エレベーターの中で、4・5・6・R と上昇を示す点滅に目を逸らして言う。所長とは肩書きだけで、私より若いようだった。空に近づく。曇天の隙間から薄い光が一本射し込んでいる。スケルトンのゴンドラの下に隅田川が流れる。無言のうちに、セーヌ左岸を散策している気分になる。エレベーターに所長のコロンの香りと川からから立ち昇る煙霧がこもった。遠く列車の警笛が、なにかの合図を鳴らした。

倉庫から溢れ出た雨ざらしの手紙がコンクリートの屋上に散らばっていた。所長は水滴に錆び付いた手摺りに両手を広げ、磔のキリストのようなポーズをつけて急に叫ぶ。「すべて君からの手紙だよ!」。向こうに東京タワーが霞んでいる。「手紙は所長の、ただの思い出ですよ」。どうみても溜め込んだ未処理の督促状だった。ロマンチストはエッフェル塔を夢みて、今にもスーツの袖から翼を取りだしそうだ。「僕は、君を愛していたのか」

今、君を思い出したんだ。

私は今、はじめて、あなたを知った。


© prose poetry by hiromi suzuki, 2015

書き下ろし散文詩 『長い不在』 / 鈴木博美