不連続な読書日記

2009-08-15 Web評論誌『コーラ』8号が発行されました。

 「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第11章・第12章を寄稿しています。よかったら眺めてみてください。



■■■Web評論誌『コーラ』8号のご案内■■■


 本誌は〈思想・文化情況の現在形〉を批判的に射抜くという視座に加えて、〈存在の自由〉〈存在の倫理〉を交差させたいと思います。そして複数の声が交響しあう言語‐身体空間の〈場〉、生成的で流動的な〈場なき場〉の出現に賭けます。賭金は、あなた自身です。


 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。

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●シリーズ〈倫理の現在形〉第8回●

 倫理のふるさと

 ──存在の暴力性と、共に存ることの基盤


  岡田有生

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-8.html


●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  「第11章 貫之現象学の課題」

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-11.html


  「第12章 貫之現象学の課題・補論」

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中原紀生


●連載:新・映画館の日々」第8回●

 〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉

    ――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)


  鈴木 薫

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-8.html


●コラム「コーヒーブレイク」その2●

  啄木の妻──節子の「初恋のいたみ」


  橋本康介

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

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2009-08-11 子どももおとなも共に育つ社会──柏木恵子『子どもが育つ条件』

 児童相談所に勤める知人から「読むと必ず目からウロコが落ちる」と薦められた。たしかに何枚もウロコが落ちた。

 たとえば、第1章で紹介される「育児不安」の実態。著者は「育児・子どもがらみの不安や焦燥よりも、現在の自分についての心理的ストレスの方がはるかに強い」という。育児には時間や労力など多大な「資源投資」が強いられる。その結果、子育てしている者(多くの場合は母親)が「おとなとしての成長・発達の機会から疎外」され、固有名詞をもった個人=主体としての「存在感・成長感」が損なわれる。このことが育児不安を深刻化させているというのだ。

 続く第2章では「子育ちの不在」が論じられる。戦後、子どもは「授かる」もの(子宝)から「つくる」もの(親の選択の対象)になった。この「人口革命」が子どもの数と生活の豊かさをトレードオフの関係に変え、「少なく生んで良く育てる」という考え(少子良育戦略)をもたらした。その結果、子どもたちから自ら成長・発達する機会を奪う「先回り育児」が蔓延する。そこには「子育て」はあるが「子育ち」はない。

 第3章では「変化する家族」の問題が取り上げられる。ここでも、家族とは単なる集合ではなく相互に機能的に関係しあうシステムだ、家族を「もつ」ことではなく「する」こと、すなわち主体的に家族の役割を果たすことが大切だ(子どもが家事を担当するのは、子ども自身の社会性と自立性を育むチャンスである)等々、説得力のある「啓蒙」的な指摘が続く。

 これらの議論を踏まえて、第4章で「子育ち」、第5章で「親育ち」の条件が論じられる。「子どもを「育ち」の主体として受容するためには、親も自らが「育ち」の主体として生きることが必要」(育児は育自)である。だとすると、子どもが自ら育つことと子どもを育てること、そして親が自ら育つこととが両立(鼎立)する社会、すなわち「子どももおとなも共に育つ社会」をいかにしてつくっていけばいいのか。その一つの解が「育児の社会化」である。


《子どもの養育については、「誰がすべきか」はもはや最重要ではないこと、「母の手で」が至上でも絶対でもないことは、今日では明らかです。家族が一番、母親との一対一が何よりとの考えは、偏見でしかありません。…いま「保育に欠ける」のは、母親がいない、あるいは母親が養育しないということだけではありません。…(母親が孤独に養育し、しかも父親が育児に関わらない)「母子隔離」的な環境こそ、むしろ「保育に欠ける」とみることもできます。…重要なのは、「誰が」よりも「どう関わるか」、すなわち養育・保育の質です。保育の質として重要なのは、子をよくみて理解し、それに基づいて応答的に関わることにつきます。…したがって、子どもと程よい距離をもって、子どもをよくみて、子どもの立場にたって応答的に関わることのできる人、すなわち「社会的親」「心理的親」と呼べるような立場の人間が、子どもにとって必要です。》(180-181頁)


 いま一つの解が「男性の育児不在」の解消もしくは「男性の育児権」の制度的保障、すなわち「ワーク・ライフ・バランス」の確立である。


《ライフとは、家事・育児など家庭のことをすることではありません。家事は生きるうえで必須の労働であり、ワークです。ライフとは勉強、教養、趣味、スポーツなど心身の成長・発達のための個人の活動です。こうした活動は経済と家事・育児といった生きるうえでの安定、すなわちワークの基盤があってこそ成り立つ活動です。家事・育児も、義務感や不公平感を感じることなく、また過度に負担とならなければ、ライフとして楽しむことは可能です。しかし、その条件が整っていません。男性は職業のワークを、女性は家事・育児、あるいは、それに加えて職業というワークを過重に担っており、男女いずれも、ライフを享受する時間も心理的余裕もないのが現状です。

 日本の課題は、まずワーク上の二つの問題を解決することです。すなわち、家事ワークのジェンダー・アンバランスの解消と、長すぎる労働時間の短縮です。その解決なしに、ライフを考えることは困難であり、ましてワークとライフのバランスはとうてい望めないでしょう。》(222頁)


 ジェンダーという語彙に不信感をいだき、男らしさ・女らしさの尊重や親学の必要性を力説する方がいる。そういう方には是非本書を読んでみてほしいと思う。「それぞれの体験に根ざした論だけでは、今日の家族や子どもの育ちの問題は解決できません」。冒頭に記されたこの言葉が、本書を読み終えたとき鮮やかに甦ってくる。実証に基づいた政策(エビデンス・ベイスト・ポリシー)とは、このような研究の上に成り立つもののことだ。

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2009-08-02 政権を選択することの意味──佐々木毅『政治の精神』

 先月、神戸・東京間の新幹線の中で、飯尾潤著『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書)を読んだ。いまさらと思いながら、それでも一心不乱になって読んだ。法学部系政治学、とでもいうのだろうか、歴史的・制度論的な思考の書物を読むのはずいぶん久しぶりのことで、とても懐かしく、そして新鮮だった。

 続けて、佐々木毅著『政治の精神』(岩波新書)を読んだ。かつて丸山真男、ハンナ・アレントを読んでいたときの、頭脳と情動を同時に揺さぶられる感じが甦ってきた。政治学がもつ力を再認識した。引用された文献のうち、ルバート・O・ハーシュマン『失望と参画の現象学』(佐々木毅・杉田敦訳,法政大学出版局)を是非読んでおきたいと思った。


     ※

 可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、(最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。

 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバー、シュムペータートクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせながら読み解くことを通じてしか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。

 しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の時において考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。

 政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内部競争によって質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者のあり方と表裏一体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。

 それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人間の弱さを共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発するという快感」を(そして、失望を)知ることである。


《二OO八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧しさと行き詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が問われる歴史的段階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件である。その機能を果たせない政党には退場してもらうまでのことである。》


 この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見るのは早計である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実態そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。

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2009-07-12 日本近代文学と数学、横光利一『旅愁』のことなど

 村上春樹の『1Q84』で興味を覚えたことの一つに、偶数章の主人公・天吾は予備校の数学講師で幼少の頃は数学の神童だった、という設定がある。

 村上文学は生物学、生命科学と相性がいい。なんとなくそう感じていた。(初期の「鼠三部作」の主人公はたしか大学で生物学を専攻していた。)

 だから、村上春樹と数学の取り合わせは新鮮だった。(ただし、そこでの「数学」は、数学には答えがあるが物語にはないといった、「物語」との対比のためだけに出てくる程度で、作品世界の奥深いところに内在的につながっている印象は希薄だった。)

 まだ読んでいないけれど、小島寛之著『数学で考える』(青土社)に「暗闇の幾何学―数学で読む村上春樹」の章がある。いったいどういうことが書かれているのかとても興味がある。


 そもそも数学と文学の組み合わせ自体が興味深い。そういう視点で日本近代文学を考えてみるときっと面白いに違いない。

 といっても、夏目漱石の「坊ちゃん」が数学教師で、立原正秋の小説の主人公がフェルマー予想の証明を趣味にしているとか、あるいは、その漱石が坊ちゃんよりも数学が得意で、立原正秋は小説を書くのにいきづまったら『解析概論』を読んでいた、等々の(片野善一郎著『数学を愛した作家たち』にでてくるような)エピソードに興味があるわけではない。

 数学の概念と小説の観念とががっぷり四つに組んだ、そのような作品の系譜がありうるのではないかと思うのだ。[*]

(たとえば小川洋子著『博士の愛した数式』はその系譜につらなるのではないか、つまり単に数学者が登場するだけの作品ではないのではないかと思うが、あまり自信がない。それに「坊ちゃん」だって、立原正秋の作品だって、『1Q84』だって、単に数学者や数学愛好家や数学講師が出てくるだけの作品ではないのかもしれない。)

 これはまだ思いつきの域を出ないが、『光の曼荼羅──日本文学論』(安藤礼二)に取り上げられた作家たち(埴谷雄高、稲垣足穂、武田泰淳、江戸川乱歩、南方熊楠、中井英夫、折口信夫)の多くは、その系譜に入るのではないかと思う。

 その安藤氏が取り上げていない作家、作品のうちで、もっとも興味深いのは、横光利一の『旅愁』『微笑』である。

 といっても、これらの作品も未読なのであまりエラそうなことは言えない。直観的にそう思っただけの話で、実証はこれから。

 青木純一氏のブログ「ハトポッポ批評通信」の「横光利一」の項など眺めながら、関心が続くかぎり、おいおい取り組んでいこう。(そうそう、「日本近代文学と数学」を考えるのなら、横光利一の弟子・森敦のことを忘れてはいけない。)


[*]数学知と文学知の関係はとても妖しい。そこに哲学知や宗教知(や精神分析知や芸術知や技術知や科学知)などがからんでくるともっと妖しい。数学知と哲学知の関係については、『現代哲学の名著──20世紀の20冊』の序文の扉に記されていたカントの言葉が印象深い。


《さて、すべての理性認識は、概念による認識であるか、概念の構成による認識であるかの、いずれかである。前者は哲学的と呼ばれ、後者は数学的と呼ばれる。[略]それゆえにひとは、いっさいの(ア・プリオリな)理性の学のうちで、数学だけは学ぶことができるけれども、(それが歴史的なものでないかぎり)哲学についてはけっして学ぶことはできない。理性にかんしてはせいぜい、哲学するのを学ぶことができるだけなのである。》(カント『純粋理性批判』第二版八六五頁)


 この論法を拡張して、つまり「概念による認識=数学知」と「概念の構成による認識=哲学知」の二対に、「観念による認識・実践=宗教知」と「観念の構成による認識・実践=文学知」の二組を重ね合わせて、たとえば「日本近代文学における数学」などといった議論を展開することができるのではないか。そんなことを考え始めると眠れなくなる。

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2009-07-11 『1Q84』の四項関係のことなど

 『1Q84』(村上春樹)と『ベンヤミンと精神分析──ボードレ−ルからラカンへ』(三原弟平)が同じ発行日付をもっていて、だからというわけではないが、この二つの書物はまるで双子のように一方が一方を照らし出していた。

 前回そこまで書いておきながら、後が続かないままになっている。三原本の再読が思うように進まず(いまだ最終章まで読みきれていない)、そうこうしているうち読後の印象が拡散してしまった。[*]

 村上本に関する新聞書評の切抜きが相当たまっている。じっくりと読み込み、自分自身の読前読中読後の印象と比較してみたい。「謎解き」ではなくきっちりと「解析」しておきたい。そう考えていた。

 いずれ時が満ちれば作業に取り組むことになるのではないかと思うが、それもまたしだいに億劫になりはじめている。

 先日、書店で『村上春樹の『1Q84』を読み解く』(データ・ハウス)という本をみつけた。村上春樹研究会編。中身は見ていないが、この速さはすごい。

 どんな人が書いているのかネットで検索していて、『村上春樹『1Q84』をどう読むか』(河出書房新社)という本がまもなく刊行されることを知った。(もう出ているかもしれない。)

 今を代表する論客が、様々な角度から村上春樹の「1Q84」を照射し作品の謎を紐解く。この惹句にいう「論客」には、加藤典洋、内田樹、安藤礼二といった面々が含まれている。これはいちど読んでみたい。(例の作業は、この本を読んでからにするか。)


[*]このままではほんとうに霧散してしまいそうなので、村上本と三原本を読み終えたばかりの時に書いた文章をペーストしておく。


 『1Q84』が4分の3まできたところで、つまり「BOOK2」の第12章、ふかえりが天吾に(お祓いをするために)「こちらに来てわたしをだいて」と言うところまで読んだちょうどそのとき、にわかに(今となってはとても偶然と思えないのだが)『1Q84』と同じ発行日付をもつ『ベンヤミンと精神分析』が読みたくなり、以後、二冊の書物を同時併行的に読み進め、同じ日のほぼ同じ時刻に相前後して読み終えた。

 『ベンヤミンと精神分析』の第4章に、フロイトが治療に失敗した女性同性愛にかかわる二つの症例を、ラカンが「奇妙な〈愛〉の理論」をもって読解したセミネール4「対象関係」の議論が紹介されている。そこに(第一の症例でいえば、同性愛者の「娘」とその「父」と「弟」、そして娘がつきまとう「高級娼婦」の)「四項関係」という言葉が出てきて、これが「青豆」と「天吾」と「ふかえり」と「ふかえりの父」の四項関係につながっている。(ただし「天吾─ふかえり」と「青豆─ふかえりの父」の二つの世界はついに交わることがない。少なくとも「BOOK2」では。)

 しかも、ラカンの「奇妙な〈愛〉の理論」というのが「愛の贈与においては、何かが無償で与えられ、その与えられるものもまた無に他ならず」というのだから、これは青豆が天吾に与える愛の贈与のことを言っている。その青豆には同性愛的な関係を封印した親友がいる。そして『ベンヤミンと精神分析』で、ボードレールにおけるレスビアン=ヒーロー仮説が論じられる。等々。

 そんなふうに、強いて関係をみつけようとするといくらでも二つの書物を関連づけることができる。観点によって見えるものが決まる。そういうわけで、村上春樹をラカン派の精神分析学で解読する(ついでに、最近関心が高まっているルーマンの社会システム論でもって解読する)という、くだらないといえばくだらないことを考えている。

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