不連続な読書日記

2011-12-30 今年読んだ本

 今年読んだ本のなかから、心に残ったものを拾ってみた。●印がベストテン、◎印が次点、といったところ。


●中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店:2010.5.28)

佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』(中公新書:2010.9.25)

●内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫:2011.9.10/)

●吉本隆明『初期歌謡論』(ちくま学芸文庫:1994.6.7)

●安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社:2010.7.29)

●丸谷才一『樹液そして果実』(集英社:2011.7.10)

●絲山秋子『ばかもの』(新潮文庫:2010.10.1/2008.9)

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社:2011.10.12)

●盛田隆二『ささやかな永遠のはじまり』(角川文庫:2011.1.25/2007.10)

●杉田圭『超訳百人一首 うた恋い。2』(メディアファクトリー:2011.4.29)


前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社:2007.4.20)再読

◎ツベタナ・クリステワ『心づくしの日本語──和歌でよむ古代の思想』(ちくま書房:2011.10.10)

◎山折哲雄『愛欲の精神史3 王朝のエロス』(角川ソフィア文庫:2010.3.25)

佐々木中『定本 野戦と永遠──フーコー・ラカン・ルジャンドル』上下(河出文庫:2011.6.20/2008)

◎小田切徳美『農山村再生──「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレット:2009.10.6)

◎村上春樹『1Q84 BOOK3〈10月─12月〉』(新潮社:2010.4.16)

◎川端康成『みずうみ』(新潮文庫:1960)

◎吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫:1982.5.25/1978)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20111230

2011-12-16 Web評論誌『コーラ』15号のご案内

 「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第19章「哥の現象学あるいは深読みの愉悦──ラカン三体とパース十体(急ノ参)」を寄稿しています。よかったら眺めてみてください。



 ■■■Web評論誌『コーラ』15号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html


 ●現代思想を再考する2●

 ヘーゲルの「不在」が意味するもの――記号と埋葬1

 

  岡田有生(コメント:広坂朋信)

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/gendaisisou-2.html

  前回のおさらいから始めたいのだが、掲載されたST氏の論文では、

 デリダの諸論文における「継承」のテーマの内容が整理され、そこ

 では「現在の同一性への閉塞」ということが「継承」を困難にする

 のだという認識が提示されていることが語られていた。

このアポリアは、まさに先程私たちが見た現在の同一性の閉塞で

あり、隔たりを解消しようとする継承の考え方である。つまりこ

のアポリアを私たちは継承の問題として読むことができる。すで

に構成された点的瞬間の幅を持たない現在(そしてその継起とし

ての時間)を想定すると、未来は未だ存在しない非−存在者とし

て、あるいは絶えず点的現在に引き戻される(隔たりの解消)べ

きものとして考えられ、現在の閉塞に陥り、結局未来への継承が

不可能になる、あるいは時間は存在しないものとなる。

  また、この「現在の閉塞」は、デリダが取り組んだ西洋の形而上

 学の文脈においては、「意味」の支配と呼べるものに結びついてい

 ること、それは存在者のみならず「存在」という概念を「現前」と

 して扱う態度(ハイデガーを指す)にも深く関わっているのだという、

 デリダの考えが示されたのである。

  このように整理されるデリダの考えは、たとえば「記憶」という

 事柄については、次のように表現できるものとされる。

 (以下、Webに続く)

---------------------------------------------------------------

  ●新連載〈心霊現象の解釈学〉第2回●

  単なる経験の範囲内における心霊現象

  広坂朋信  

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/sinrei-2.html

  前回、カント『視霊者の夢』について面白おかしく書くつもりが、

 東日本大震災の衝撃にうろたえて中途半端なものに終わってしまった。

 幸い挽回の機会を与えられたので、今度こそ面白おかしく書こうと構

 想を練り始めた矢先、まことに私的な事柄で恐縮だが、長い付き合い

 の大切な友人の訃報が届き、それに私はすっかり打ちのめされてしま

 って、それからしばらくは悲嘆にくれるばかりで何も手をつけられな

 かった。半年ほどたった頃、ようやく黒猫編集長との約束を思い出し

 てキーボードを叩きはじめたのだが、どうしても喪の気分が抜けず、

 またもや面白くもおかしくもないメモを提出することをお許し願いた

 い。(以下、Webに続く)

---------------------------------------------------------------

  ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  第19章 哥の現象学あるいは深読みの愉悦

  ──ラカン三体とパース十体(急ノ参)  

 

  中原紀生

  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-19.html

  前章で、佐々木中著『野戦と永遠』から、その一節を孫引きした

 中井久夫氏の「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」

 (『アリアドネからの糸』所収)に、「文体の獲得」なしに創作行

 為はなりたたないと書かれています。

《なぜなら、まず、文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化

の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジ

ナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわ

めき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会

うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、

その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なく

しては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文

体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)で

ある。》

  中井氏はつづけて、二十世紀後半の文学の衰微は、「文体」概念を

 「テクスト」概念に置換したことにある(「それによって構造主義

 既成テクスト…の精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産す

 るのに失敗した。」)とし、また、無意識は言語のように、あるいは

 言語として組織されているというとき、ラカンが言語をもっぱら「象

 徴界」に属するものとして理解していたことを惜しみ、さらに、文体

 獲得の後にはじめて、言語は作家のなかで四六時性をもつことになる

 のだと論じ、そうして、あらためて「文体」とは何かと問います。

 (以下、Webに続く)

----------------------------------------------------------------

  ●連載「新・玩物草紙」●

  声/黒い靴

  寺田 操

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-5.html

  人は誰もが現実社会で起こる出来事とは無縁に生きられない。津波、

 地震、原発と、春3月の未曾有の東日本大震災においても、誰もが圧

 倒的な現実の凄さに打ちのめされながら、声を、言の葉を求め、発語

 へと突き動かされた。圧倒的な力を発したのは、繰り返し繰りかえし

 流れた金子みすゞの童謡詩《こだまでしょうか、いいえ、誰でも》や、

 宮沢章二《心は誰にも見えないけれど/心遣いは見える》などのAC

 公共広告。また、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、和合亮一のツイッタ

 ーでの《放射能が降っています。静かな夜です》「詩の礫」。

  なにげなく過ごしてきた日常がとつぜん断ち切られ、非日常へと呑

 まれていくことは、1995年の阪神淡路大震災で体験したのだが、

 津波の映像を見て怖くて泣いた、身体が震えた。三陸海岸の地図が、

 目に見えない放射能が夢のなかまで追いかけてきた。

 (以下、Webに続く)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20111216

2011-11-14 和歌における思想的構造の意味論的研究・承前


 引き続き、若松英輔氏の文章から。


《井筒豊子は俊彦の妻でもあるが、独立した一個の思索者である。小説集、複数の訳書もある。しかし、彼女の業績のなかで最も注目するべきは和歌における「思想的構造の意味論的研究」である。

 成果は「言語フィールドとしての和歌」、「意識フィルールドとしての和歌」(雑誌「文学」岩波書店)そして「自然曼荼羅」(岩波講座 東洋思想『日本思想』岩波書店)の3部作に見ることができる。私たちはそこに井筒俊彦が畏怖と深甚な感動を覚え、蠱惑的と感じた世界へ単独で進んでいった一人の女性を発見するのである。

 井筒俊彦がこれらの論考を評価していたことを書いておきたい。井筒豊子については、改めて別稿で論じることになるだろう。》


 井筒豊子をめぐる別稿は、見あたらないが、若松氏の著書『井筒俊彦 叡知の哲学』の第六章「言葉とコトバ」に「和歌の意味論」の項があり、その254頁以下でわずかながら言及されている。

 いま手元に、井筒豊子の三部作がそろっている。若松氏の著書とあわせて読むことで、私なりの、和歌(古今、新古今)における思想的構造の意味論的研究に取り組みたい。


◎井筒豊子「言語フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻1号、1984年1月)

◎井筒豊子「意識フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻12号、1984年12月)

◎井筒豊子「自然曼荼羅」(『岩波講座東洋思想16 日本思想2』1989年3月)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20111114

2011-11-13 和歌における思想的構造の意味論的研究


 井筒俊彦への関心が高まっている。

 司馬遼太郎との対談で、「私は、元来新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」と語っているのを目にして以来のこと(『十六の話』文庫版の附録「二十世紀の闇と光」)。


 慶應義塾大学出版会の特設サイト「井筒俊彦入門」に収められたエッセイ「新古今和歌集」で、若松英輔氏が先の井筒の発言を踏まえて次のように書いている。


《和歌における思想的構造の意味論的研究、この分野は、今にちも未だ黎明期である。万葉集を対象に佐竹昭広、あるいは白川静が論考を書き、それぞれ秀逸な成果を残しているが、古今集さらには新古今集まで領域を広げると、ほとんど着手されていないといってもいいのではあるまいか。》


 若松氏によると、佐竹・白川が注目したのは、「万葉集における「見ゆ」の世界、古代人における「見る」の意味論」で、「それは神との交わりと神への賛美と神が遍在する世界への祝福を意味した」。

 これに対して、古今、新古今では、「眺め」という語彙がキーワードになる。


《古今の時代、「眺め」は、折口信夫のいう通り、春の長雨のとき、「男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思い」を意味した。

 しかし、新古今の時代になると様相が一変する。「眺め」とは情事を示す一語に留まらない、存在論的な「意味」を有するようになる。現象界の彼方を「眺め」ようと試みる歌人、現象的には詩人だが、精神史上の役割においては、彼らはむしろ「哲学者」だった。

 「彼は天稟の詩魂を有つ詩人であることによって、ギリシア形而上学の予言者となった」と井筒俊彦が『神秘哲学』でクセノファネスを論じていった同じ言葉が、新古今の歌人たちにむけて発せられたとしても、驚くに当たらない。

 「眺め」とは、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった」とき、「事物の『本質』的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度」であると井筒俊彦はいう。

 「眺め」ることが即時「存在」との応答になる。「一種独得な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わり」となるというのである。》


 若松氏はつづけて、風巻景次郎の『中世の文学伝統』に対する井筒俊彦の評を紹介する。

「日本文学史の決定的に重要な一時期、『中世』、への斬新なアプローチを通じて、文学だけでなく、より広く、日本精神史の思想的理解のために新しい地平を拓く。」

(1987年の『図書』のアンケート、岩波文庫「私の三冊」に答えたもの。ちなみに、他の二冊は『善の研究』と関根正雄訳『旧約聖書 創世記』。)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20111113

2011-10-24 最近読んだ本─中沢新一『日本の大転換』ほか

 中沢新一著『日本の大転換』を読んだ。


 ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。

 たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的交換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネーによる「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってありますから、ここでは多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。

 そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文明がもつ「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。

 また本書で始めて、マルクスやバタイユやハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提唱されているのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネルギー革命は一神教から仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。

 そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、中沢新一のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。


 それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。

 それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではなかったからである。

 この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者・中沢新一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。


《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生まれ変わりへの道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前方に向かって、エネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。

 もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆けて自覚的に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に基づくそれを第七次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に、大きな転換をもたらすのである。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》


 最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インターフェイスの構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。

 勢いで田口ランディさんの『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』を一気読みした。いろいろ思うところがあったが、まだ整理できない。読後の感銘は、もしかすると中沢本以上の出来映えではないかと思った。


     ※

 吉行淳之介『夕暮まで』を読んだ。


 「言葉に酔う」としか言いようのない体験からひさしく遠ざかっていた。『夕暮まで』を読み進めている間中ずっと、吉行淳之介が繰り出す言葉に酔い続けていた。文章に躰が反応する。至福であるが鋭く痛い。

 梨木香歩の『家守綺譚』はまだ途中だが、映画「西の魔女が死んだ」を観た。素晴らしい作品だった。映画の感想を語る言葉がほしい、身につけたいと痛切に思う。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20111024