不連続な読書日記

2018-04-22 Web評論誌『コーラ』34号のご案内

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  

  第45章 錯綜体/アナロジー/論理(その1)

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  中原紀生

   貫之現象学を織りなす諸相群の基底となるA層。その第一の相は、「錯綜

 体/アナロジー/論理」の三つの項で構成されます。以下、順次、概観します

 が、その前に、いわばウォーミング・アップとして、伊藤亜紗著『目の見えな

 い人は世界をどう見ているのか』の議論を引きます。

  いわく、美学とは「言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学

 問」(25頁)である。「言葉にしにくいもの」の第一位は質的なものをとらえ

 る感性のはたらきで、感性的認識は身体のはたらきである。第二位は芸術。芸

 術作品にも身体は密接にかかわってくるのであって、美学の究極形態は「体に

 ついて(言葉で分析したものを)体で理解する」(26頁)ということだ。それ

 は「身体一般」などという実在しないものをめぐる抽象論ではない。普遍と個

 別の中間あたりで体をとらえ、身体一般の普遍性が覆い隠していた「違い」を

 取り出そうとするものである(28頁)。

  この「新しい身体論」(新しい美学)の最初のリサーチの相手として、著者

 は「見えない人」に白羽の矢を立てました。以下、私自身の手控えとして、伊

 藤氏の著書からいくつか、琴線に触れたところを抜粋します。

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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第12回●

  不完全な交渉 

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  広坂朋信

  前回、中村雄二郎と小松和彦の往復書簡『死』(岩波書店)から、中村のア

 ニミズム理解、その形而上学的表現である逆光の存在論を取り上げた。これ

 は、私にとっての心霊現象、私に立ち現われてくる幽霊をいかに語るかという

 このエッセイの課題からは脱線のように見えるかもしれないが、そうでもな

 い。

  中村の逆光の存在論をいささか独断的に敷衍するならば、死は生者にとって

 絶対他者の領域、絶対の異界である。亡霊とは、この絶対の異界からこの世に

 立ち現われるエージェント、相対的他者である。私たち生ける者は、このエー

 ジェントとの交渉を通して、絶対他者の領域を予感する。しかし、亡霊は相対

 的他者としてしか現れないため、その交渉はいつも不完全である。この不完全

 さにはいくつかのヴァリエーションがあって、それに応じて死者をめぐる物語

 の類型が生じる。それらは必ずしも怪異体験談とは限らない。

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 ●連載「新・玩物草紙」●

  ヴァージニア・ウルフ/爪をめぐる不思議な冒険

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-38.html

  寺田 操

  ヴァージニア・ウルフがモデルの映画『めぐりあう時間たち』(2002、

 米、監督=スティーブン・ダルドリー/主演ニコール・キッドマン)をBSで

 見た。1923年ロンドン郊外、病気療養中のヴァージニア・ウルフは「ダロ

 ウェイ夫人」の執筆をはじめる。当時、神経を病んで彼女は、夫とともに田舎

 に移りすんだが、退屈な田舎暮らし、町への外出禁止、使用人たちに監視され

 ているような生活に、病いを深くしていた。都会のような刺戟がないのが何よ

 りも辛いのだ。静かな場所が精神状態を慰藉してくれるというわけではない。

 ロンドンへ帰ろうと黙って家を出た彼女を追って駅までさがしにいく夫。田舎

 生活を切り上げたふたりはロンドンへ戻るのだが、彼女は入水自殺する。

 (Webに続く)

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2017-12-28 心に残った本(2017年)

●正岡子規『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書』

 今年の「発見」は正岡子規。きっかけは、小森陽一著『子規と漱石──友情が育んだ写実の近代』。

 まず俳論・歌論からと思って、岩波文庫で『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書』と読み進め、年をまたいで『俳諧大要』を読んでいる。面白い。文章が生きて跳ねている。

 子規論では、小森本のほか、中沢新一の「陽気と客観」(『ミクロコスモス2』)が面白かった。ネットで見つけた芸術人類学研究所のシンポジウム「正岡子規と《写生》の思考」での中沢や小澤實の発表が刺激的だったので、この二人の共著『俳句の海に潜る』を読んでみたら、これもまたすこぶる面白かった。

 その他、長谷川櫂『子規の宇宙』、森まゆみ『子規の音』も記憶に残った。


●中沢新一『熊を夢見る』『虎山に入る』

 今年は中沢本にたくさんの刺激を受けた。『ミクロコスモス1・2』に続く二冊の小曲集は、極上の短編小説の味わいだった。

 他に『レヴィ=ストロース 野生の思考』と、松岡正剛・赤坂真理・齋藤環との共著『「日本人」とは何者か?』が記憶に残った。

 今年の2月、大阪の北御堂で内田樹・中沢新一・釋徹宗の三氏が出演する公開シンポジウム「儀礼空間の必要性とはたらき」があった。残念ながら参加出来なかった。

 その替わりというわけではないが、12月、京都のジュンク堂で催された内田樹・安田登の公開トークに出かけた。『変調「日本の古典」講義』の続編につながる、とても怪しい対談だった。

 安田師の『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』『能──650年続いた仕掛けとは』も記憶に残った。来年は古事記論が刊行されるという。


●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』

 Web評論誌「コーラ」に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」が新段階(泥沼?)に突入した。

 昨年から今年にかけてヴァレリーの「錯綜体」の概念から「アナロジー」「論理」と進み、今年は「夢」に始まり「パースペクティヴ」を経て、来年にかけて「時間」へ。その後、「映画」や「記憶」に取り組んだ後で、日本語の深層に存在する「やまとことばの論理」((c)中野研一郎)へと進む予定。

 渡辺本以外に刺激を受けた(か役に立ったか、それほど刺激は受けずあまり役に立たなかったがヒントは得た)参考書を挙げておく。(次の項目に挙げた國分本、池田・福岡本からも多大な刺激を受けた。)


◎『ヴァレリー集成2〈夢〉の幾何学』巻末の「解説」(塚本昌則)

◎オギュスタン・ベルク『風土の日本──自然と文化の通態』(篠田勝英訳)

◎木岡伸夫『邂逅の論理──〈縁〉の結ぶ世界へ』

◎カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理──記憶の人類学』(水野千依訳)

◎湯浅泰雄『身体論──東洋的身心論と現代』

◎真木悠介『時間の比較社会学』

◎中野研一郎『認知言語類型論原理──「主体化」と「客体化」の認知メカニズム』

◎山田哲平『反訓詁学――平安和歌史をもとめて』


●國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』

●池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む──生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』

 偶然、この二冊の書物を連続して読んで、そこにとても深い繋がりがあるのを発見して興奮した。

 それは、『中動態の世界』のプロローグに書かれていることが、『福岡伸一、西田哲学を読む』の中核をなす西田幾多郎の「逆対応」をめぐる議論と結びついていて、そしてそれは、(松岡新平著『宴の身体』の第11章「紀貫之と世阿弥」に書かれていた)「見つつ・見られる関係性」の議論に接続される、ということだった。

 これについては、機会があれば(その気が充満すれば)このブログに書いてみたいと思っている。


※國分本の読後感想文が、図らずも最近書か(け)なくなった「書評」めいたものになっていたので、自己引用しておきます。

《依存症から抜け出すのは本人の努力しだい。誰かから強制されたわけではないのだから、あとは本人の自由意思の問題。そんな「能動態/受動態」(あるいは「自由意思/強制」)のパースペクティヴで物事を考えるようになったのは比較的最近のことで、かつては、(たとえばホメロスが神々と英雄の物語を朗誦し、海月なす漂へる時に葦牙の如く萌え騰る物によりて神が成った頃には)、「中動態/能動態」のパースペクティヴが基本だった。

 著者はバンヴェニストやアレントの議論を参照し、途中に言語と思考の関係、言語(文法)の歴史といった興味深い議論を挿入しながら、失われた中動態の世界を探求していく。ハイデガー、ドゥルーズ、そしてスピノザの思考の根本に中動態的なものを見出し、メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』の読解をもって書物を閉じる。

 豊饒な中身をもった魅力的な著書。読後、物の見方(パースペクティヴ)が回転する。》


●篠田英朗『ほんとうの憲法──戦後日本憲法学批判』

 この本は、ほんとうに面白かった。目から鱗がおちた。法学部の学生だった頃に読んでおきたかった。

 関連はしないが、他に人文・社会系で記憶に残った本を挙げておく。


◎加藤典洋『敗者の想像力』

◎『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

◎ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳・注解と論評)

◎山田陽一『響きあう身体──音楽・グルーヴ・憑依』


●絲山秋子『離陸』

●カズオ・イシグロ『日の名残り』

 同時に読んだ『騎士団長殺し』(村上春樹)よりも『離陸』の方が面白かった。謎が解き明かされず謎のまま残る。この(人生そのものと言ってよい)感覚がいつまでも後を引く。

(同様に謎が謎のまま残る村上本も面白かったし、村上春樹はもう何だって書ける域に達したと驚嘆させられもしたが、それでも絲山本の方が面白かった。)

 ノーベル賞受賞を知って、8年ぶりに続き(後半)を読んだ『日の名残り』は、これが小説を読む愉しさだ、としか言いようがない極上の経験を与えてくれた。

 他には、蓮実重彦著『伯爵夫人』、藤井雅人著『定家葛』が記憶に残った。


●恩田陸『蜜蜂と遠雷』

●高田大介『図書館の魔女』

 エンターテインメント系(国内篇)ではこの二冊。いずれも絶品。


●ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 知りすぎたマルコ』上下(吉田薫訳)

 エンターテインメント系(海外篇)の最大の収穫が「特捜部Q」シリーズ。

 まず『檻の中の女』『キジ殺し』『Pからのメッセージ』と映画で観て、その後『カルテ番号64』『知りすぎたマルコ』『吊された少女』と読み進めた。来年は第七作が翻訳されるらしい。待ち遠しい。

 マーク・グリーニーの『暗殺者の飛躍』(伏見威蕃訳)も楽しめた。


●松本紘『改革は実行──私の履歴書』

 今年の「拾い物」。著者の講演を二度聴いた。その肉声が書物を通して聞こえてくる。

 その他、尾畑雅美著『パーソナル・フレンド──情報に生きる』(非売品)も記憶に残った。

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2017-12-15 Web評論誌『コーラ』33号のご案内

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  

  第44章 貫之現象学の諸相・総序

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  中原紀生


  ■貫之現象学の由来

  これより、貫之歌論(貫之現象学)をめぐる後段の議論に入ります。

  そもそも「貫之現象学」という呼称、そしてこれを通じて私が構想し、その

 実質を究めたいと目論んできた貫之の歌と歌論の世界は、永井均著『西田幾多

 郎──〈絶対無〉とは何か』における「西田現象学」という語に由来し、そし

 てそこでの永井氏の議論にほぼ全面的に準拠していました。ここでその原点を

 確認し、かつ、初心に立つため、永井氏の議論の骨組みをあらためて概観して

 おきたいと思います。


  第一、貫之現象学(クオリア篇)。

  西田幾多郎が初期には「純粋経験」と呼び、その後は「場所」と呼んだもの

 (57頁)。そのような、すべてがそこから始まる「無の場所」に向かう西田の

 哲学的探究を、永井均は「西田現象学」と呼ぶ(84頁)。

  西田現象学において「あるものを知ることは、そのあるものになること」

 (21頁)であり、善や美もまた「主客の合一としてのこの統一作用と別のもの

 ではない」(23頁)。

 「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたもので

 もよい。元来物と我と区別のあるのではない。客観世界は自己の反影といい得

 るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。」

 (『善の研究』)

  純粋経験=直接経験は、たとえば「言葉に云い現わすことのでない赤の経

 験」のように、「じかに体験され、意識される生々しい感じ(これを、「クオ

 リア」という)をともなう」(40頁)。

  永井氏は、そのような「生[なま]の事実」(41頁)を西欧中世哲学にいう

 「実存(事実存在)、エクシステンティア」に、これと対になる「論理的推

 論」を同じく「本質(本質存在)、エッセンティア」にあてはめている。

  デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」においては、「論理的推論と生

 の事実、つまり本質と実存は連続している」(41頁)。そして、デカルト以後

 の西洋哲学史が「生の事実ではない側を自立させる方向へと展開した」*1]

 のに対して、西田は「初発からこの展開を拒否した」(41-42頁)。


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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第11回●


  魔女ランダの亡霊──中村雄二郎における逆光の形而上学 

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  広坂朋信


  前回、個人の意識を基準に怪異を叙述する際の難点を指摘したが、それでは

 視点を変えて、心霊現象を巨視的にとらえる場合にはどういう問題が考えられ

 るのか。このテーマについては、かつてこの連載「心霊現象の解釈学」でも、

 円了妖怪学と柳田民俗学を題材にした第7回「妖怪学の衝突」、香川雅信『江

 戸の妖怪革命』を題材にした第8回「「不気味なもの」の向こう側へ」でも取

 り上げたことなので芸がないと言われればそれまでだが、別の題材によって再

 度考えてみることで新たな発見があるかもしれないという淡い期待を抱いてい

 る。

  今年の夏(2017年8月)に亡くなった哲学者・中村雄二郎氏は、人類学者・

 民俗学者の小松和彦氏との共著『死 21世紀へのキーワード』(岩波書店、

 1999)で亡霊や怨霊に言及している。私は膨大な中村氏の著作をつぶさに読ん

 だわけではないが、おそらく『死』は、中村氏がリアルな亡霊に言及してい

 る、かなり希少な一冊である。ここでリアルな亡霊というのは、演劇や文学作

 品に登場する役柄としての亡霊ではなく、経験談として語られた亡霊という意

 味である。それは、共著者の小松和彦氏が『憑霊信仰論』、『悪霊論』などの

 著者だからというサービス精神によるものもあったかもしれないが余計な憶測

 はやめておこう。

  同書(p96)で中村氏は「私は亡霊というのを人間の心に並々ならぬ力で作

 用するヴァーチャル・リアリティーの一種だと考えている」と書いていた。亡

 霊とはヴァーチャル・リアリティーの一種だと中村氏は考えていたのである。

 これは、私の「心霊学」にとっても考えさせられる論点を含むと思われるの

 で、あらためて読み直しておきたい。なお、同書は共著者小松和彦氏との往復

 書簡という体裁で編まれているため、必要最低限の範囲で小松氏の発言にもふ

 れる。


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 ●連載「新・玩物草紙」●


  杉山平一の推理小説/書物検索サイト

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  寺田 操


  《十七億の人間の指紋が、いちいち違う、といつて、人は驚いているが、も

 し同じものがあつたなら、それこそ驚かねばならないのである。この世に、雲

 のたたずまい、汚点のかたち、道を行く一匹の犬、何ひとつ同じものはない。

 きよう、空に見る雲のかたちを同じものは、もう何千年たつても見ることはで

 きない。》

  書き出しから引き込まれたのは、まげものスリラー『三つの駕籠』(新関西

 新聞/1955・9・11)である。非番の侍が用人部屋で格子越しに月明りを楽し

 んでいた。そこへ「ほい」「ほい」「ほい」とかけ声とともに土塀に添って現

 われた一挺の駕籠。それから小半時も経たずに、「ほい」「ほい」「ほい」と

 また一挺の駕籠。寸分たがわぬ情景に、また「ほい」「ほい」「ほい」のかけ

 声とともに現れた一挺の駕籠。いずれも前の駕籠かきの腰がへっぴり腰だか

 ら、三挺は同じ駕籠かきだ。何かある、追いかけていけば、ある邸のあたり

 で、ふっと消えた。

  作者は映画評論、詩、童話とジャンルを横断する表現活動で知られていた杉

 山平一氏(1914〜2012)だ。杉山氏が推理小説を数多く発表されていたのを

 知ったのは、「杉山平一、花森安治展」――詩人探偵と暮らしの手帖探偵

 ――」(帝塚山学院同窓会顕彰ホール/20173・3・22〜31)にでかけたことに

 よる。杉山氏蔵書の探偵・推理小説の展示を観覧しながら、意外という気がし

 なかった。杉山氏の詩には、短詩にも散文詩にも、ミステリー的な要素や謎と

 きめいた作品が少なくなかったからだ。


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2017-08-16 Web評論誌『コーラ』32号のご案内

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  

  第42章 和歌三態の説、雑録──心・イマージュ・映画

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  第43章 中間総括──古今集仮名序をめぐって 

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  中原紀生


  ■心の四分岐をめぐって

  雑録の一。第40章で、心と世界の四層構造に思いをめぐらせていた際、脈絡

 なく同時並行的に読み進めていた三冊の書物の、それぞれから切り取った断片

 が一つにつながっていった。そのことをここでとりあげる。

  (その1)

  津田一郎著『心はすべて数学である』は、刺激的な話題に充ちた書物だっ

 た。

 (たとえばエピローグにでてくるチューリングと夏目漱石をめぐる議論は秀

 逸。チューリング・テストは本来「機械か人か」を当てるゲームではなく「男

 か女か」をテストするものだった。マンチェスター工科大学近くの銅像には

 「偉大なるロジシャンにしてホモセクシャルで論理学者のチューリングに捧げ

 る」と刻まれている。自分は男なのか女なのか、いったい男と女は何が本質的

 に違うのかという実存的な悩みに直面したチューリングが自分のような人間の

 表現形として、生物としてのセックスのない中性的な機械を考えた。これと同

 じように、ただしチューリングとは逆に、漱石は西洋と東洋の差異という実存

 に迫る深い苦悩をモチベーションにして男女の性(恋愛)をめぐる小説を書い

 た。漱石が描く女性は西洋近代を象徴していて、東洋的で優柔不断な男性たち

 を独特のロジックでやり込め、たじたじにさせたのである。)


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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第10回●


  父の怪談  

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-10.html

  広坂朋信

  仕事帰りにスーパーで買い物をしていた私の携帯に老母から電話。何事だろ

 うと思って出ると、「お父さんが帰って来て、自分の寝るところを探している

 から、お前にすぐに伝えようと思って」という。

  老父は昨年冬に認知症で入院してから、入院中に肺炎を起こして何度も危篤

  におちいり、今も病院のベッドで寝たきりである。

 「それは夢を見たんじゃないの。お父さんのことを心配しているからだね」と

 言い聞かせるが、実はこの日の朝、母から「玄関でお父さんの声がする」と電

 話があったものだから、ついに老母もか、と不安を覚えていた。

  しかし、考えてみると、こうした話は今にはじまったことではない。もう一

 年ほど前になるだろうか。父の認知症が疑われはじめたころ、実家に立ち寄る

 と、父が「ふすまの向こうに婆さん(父の母・故人)がいる。白い手を出して

 おいでおいでをする」という。そういう話をしていたら母が、「夢を見ていた

 のか、寝ていると誰かが私の布団のまわりをぐるぐる歩いている。誰だろうと

 思ってみると、父(母の父・故人)が歩いている。お父さんが何人も何人も

 ……」というのであっけにとられた。

  私の両親には以前からこういう話題を口にする傾向があった。とくに母に

 は、夢を一種のお告げのようにとらえる傾向がもともとあって、これまであま

 り気にも留めていなかったが、後期高齢者になってからますますそういう話が

 増えたような気がする。

  両親ともに、もう六十年近く東京で暮らしているわけだが、昔気質な人たち

 で、世間話にもどこか民話のような響きがあって、閑なときに聞くぶんにはよ

 いものである。

  閑話休題。夏の暑さに寝苦しい夜が続く。私の家族の与太話よりも、まずは

 怪談の名手による作品をお読みいただこう。


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 ●連載「新・玩物草紙」●


  吉増剛造はムツカシイ?!?/エンド・ゲーム

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  寺田 操


  吉増剛造はムツカシイ……と敬遠されていると小耳にはさんで、何かゴツン

 と頭を叩かれた気がした。若い日には、これは何だと驚愕した詩と詩人たちと

 の出会にこそ興奮したものだが。

  吉増剛造『黄金詩篇』(思潮社/1970・6・1)赤瀬川原平の装幀に度肝を抜

 かれた。水紋のなかから黄色い指がヌット突き出し、その指の爪の先にも水紋

 があり、なでしこのような花首がいくつも散っていた美しくて不気味な絵だ。

 扉を開けば吉増剛造の青いペン書きの詩篇。完成された作品ではなく、書き込

 みや削除などの痕跡が生々しいが、これもお気に入りだった。


 (Webに続く)

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2017-04-15 Web評論誌『コーラ』31号のご案内


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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  第41章 和歌三態の説、定家編─イマジナル・象・フィールド


  中原紀生

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 ■モネを超える試み、言葉のかたちをとる想念、レミニッサンス

  前章の末尾、筆が走って思わず書きつけた「生きる歓び」の語に触発され

 て、定家の歌の世界における「歓び」に関連する話題を二つとりあげ、定家を

 めぐる予備的考察をしめくくりたいと思います。一つは、プルーストの無意志

 的想起と定家の本歌取りに共通する、認識と言語にかかわる「特別な歓び」や

 「力強い歓び」について。二つ目の話題は、世阿弥を典型とする日本の中世美

 論における「感」、すなわち「かたち」を通じて「もの」の「いのち」にふれ

 た時に得られる「深遠な歓喜」をめぐって。 (以下、Webに続く) 

 

 

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●連載〈心霊現象の解釈学〉第9回●

  よく似た物語は同じ物語か

  ─―怪談の発生と伝播について

  

  広坂朋信

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-9.html


  前回(連載第八回、本誌26号)、「怪談の解釈学の目指すものは、体験を語

 る物語の類型が語られた体験に与える影響を、民話学などを参考にしながら中

 和し、「よくある話」「よく似た物語」から体験の異様さを救出することにあ

 る」と大見得を切った。大見得を切るところまではよかったが、そこからが難

 所である。私自身、それではどうしたら体験の異様さを取り出せるのか、正直

 言って考えあぐねている。ここからは手探りで考えることになるので、多少の

 論理の飛躍はこれまで以上にご容赦願いたい。(以下、Webに続く)

 

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 ●連載「新・玩物草紙」●

  夢の話/車中のひとは


  寺田 操

  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-35.html


  明け方よく夢をみる。たいていは断片しか覚えていないが、ときに「物語」

 を紡ぐように鮮明に覚えている。脳内に映像化されている箇所を書きだそうと

 するが、うまく表出できなくてもどかしい。ひとつひとつの場面は鮮明に思い

 出せるが、言語化には距離ができる。(以下、Webに続く)

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