(2)撃たれた名探偵

「きゃーっ、撃たれた!」
 帝都サブカル文化の発信地、中野ブロードウェイまでわずか徒歩二分という好立地にそびえる開化アパートに、とつじょ絹をさくような三十路男の叫び声が響きわたりました。
 どうやら、なぞの悲鳴の出どころは映画探偵ヒモロギ小十郎氏が事務所を構える三階の角部屋のようです。
「あっ、今のはヒモロギ先生のお声にちがいないぞ。ぼくが先生のお声を聞きまちがえたりするもんか。……これは一大事だ!」
 ちょうど買い物を終えてアパートに戻ってきた大林少年は、一階の玄関でこの悲鳴を聞くや、大あわてで階段を駆けあがりました。……なんと、かの名高き名探偵ヒモロギ氏は、お話が始まってそうそうに、悪の兇弾にたおれてしまったのでしょうか?

「先生っ、ご無事ですか!」
 大林少年が息せききって書斎の扉を開けると、室内ではヒモロギ探偵が安楽イスから身を乗り出してテレビモニタを凝視していました。いやはや、どうやら名探偵絶命の危機というわけではなさそうです。
「おや、お帰り大林くん。ずいぶん早かったのだね」
「そんなことより先生、いまの悲鳴と銃声はいったいなんです? もしかして二十世紀FOX面相の手の者が……」
「いや、さっきAmazonから届いた『Call of Duty:Modern Warfare 3』に興じていただけだよ。マルチプレイで遊んでいたら、ロシアだかベラルーシだかの小学生に背後から蜂の巣にされてしまい、心の底からくやしがっていたという次第さ。しかし、今日びの子どもは加減を知らないというか、この僕をボニーとクライドあつかいだよ。残弾すべてを撃ちてしやまんまで、しこたまぶちこむこたあないじゃあないか。マジで泣きそうになったよ」
「そうだったんですか。でも、先生を背後から撃つなんて、なんて汚い露助だろう。僕がきっと必ず仇をとってみせます」
「ハハハ……それは頼もしいね。ところで大林くん、買い物の首尾はどうだったのかな」
「はい。ぼくの目利きで、これぞというものをいくつかみつくろってきました」
 そう言うと、大林少年は手にした紙袋から数点の品物を取り出して机の上に並べはじめました。
中島らものエッセイと、完全自殺マニュアルと、死ぬほど辛いデスソースと、ガーネッシュのスティックお香と、お香の香りが衣服に染みつくガーネッシュ柔軟剤と、店内で流れていたジブリ・ジャズのCDと、それから……」
 大林少年は嬉々としてそれぞれの品物の解説を始めましたが、ヒモロギ先生は眉にしわを寄せて何やらうかぬ顔つきです。
「大林くん。僕はきみに、ナミさんへのプレゼントを見つくろってほしかったのだがなあ」
「はい。たしかに、そのようなお言いつけでした」

 ナミさんというのは、ヒモロギ小十郎と大林宣雄少年助手が足しげく通う新宿のカフェー「けもの部屋」に勤める女給の源氏名です。
 みなさんはまだ行ったことがないでしょうから、少し説明をくわえておきますと、カフェーの女給というのは、皆さんのお父さんやお兄さんみたいな愛に飢えたやさぐれ男どもに対して、チップと引き替えにお色気サービスを提供する女性たちのことで、いわゆる夜の蝶、もっとありていに言えば、水しょうばいの女です。
 ヒモロギ先生が特にお気に入りのナミという女給は、眼があった者をヘッドショットで射殺するような鋭い眼光と、俗世の男とは語る言葉を持たぬとばかりにきっと結んだ口もとのりりしさは、なるほど、この広い東京にもそうそういない美貌の持ち主でありましょうが、客しょうばいだというのに一言もしゃべらず、脇に座らせてみたところでお酌をするでもなく、ただうつむいて大理石のテーブルでスプーンをこすり、ひたすらにその先端を鋭くとがらせているという、まるで気ちがいじみた女なのですが、ヒモロギ先生はこの怪女給の、むしろそのような不遜で猟奇なそぶりがかわいらしくてたまらないのだそうです。
 年わかい大林くんにはナミさんの魅力がどうしても理解できず、同じくナミさんの上客でありヒモロギ先生の友人でもある平良警部に、彼女の魅力をそっとたずねてみたことがありました。平良警部はそれを聞くとにこにこと笑い、
「それはそうだ。きみぐらいの年であの女の魅力をやすやすとわかってもらっては困るぜ。おれやヒモロギ氏のように、若いころたいそう屈折した青春を送ってみて、そうやって初めてあの女の狂気に惚れることができようというものだ」なんてことを言うのでした。それを聞いた大林くんは、
「ははあ、さすが人生経験の豊富なお二人だ。僕のような尾道あがりのひよっこは足もとにもおよばないや!」
とおそれいり、そしてますますヒモロギ先生への敬慕の念を深めたものでした。

 さて、お話を怪女給から開化アパートの書斎へと戻しましょう。
 眉をしかめたヒモロギ先生はため息をつきながらこんなことを言いました。
「ナミさんみたいに大人な女性が喜ぶシャレオツなプレゼントを用立ててほしかったのだがなあ。どうやらきみには少し荷が重いミッションだったようだね」
「ですから、ですから……ここにこうして買い揃えてきたではありませんか……」
 自分の買ってきた品じなが先生に気に入ってもらえない理由がわからず、職務に忠実な大林少年は思わず泣きべそをかいてしまいそうになりました。
「ふむ。ふむ。しかるにこのセレクト、さてはヴィレッジ・バンガードで買ってきたとみえる」
「アッ、さすが先生、お見事な洞察力でいらっしゃいます。なにしろ、この界隈で大人でおしゃれなお店といえばヴィレッジ・バンガードをおいて他にはありませんからね」
「きみの故郷である尾道にはビレバンなぞなかろうから、あの店はさぞ桃源郷のごとく目に映るのかもしれぬが……いいかね大林くん、きみにひとつ、この世のことわりを教えてあげよう。ビレバンはけっして……大人おしゃれなお店ではないんだ!」
「エエーッ、なんですって!」
 なんということでしょう。尾道出身の大林少年が思いっきり背伸びして出掛けた吉祥寺のヴィレッジ・バンガードが、まさか大人おしゃれなお店ではないだなんて! 店内はあんなに濃厚なお香のにおいがじゅうまんしているというのに、それでも大人おしゃれなお店ではないだなんて! 大林少年はキツネにつままれたような気分になってしまいました。あのビレバンが大人おしゃれなお店じゃないですって? 本当に、そんなばかなことってあるのでしょうか?