2012-01-03
2011-12-31
2011年が終わる
研究生活 | |
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公私ともに凄まじい一年だった。
1月に担当授業が終わるやいなや、アメリカ・ジョージア州、アトランタ近郊にあるケネソー州立大学に飛んだ。Visiting Assistant Professorとして一学期間、3科目担当するフルタイムのポジションをいただいたのだ。初回の授業では逃げたくなった。母国語ではない上に、進め方も違う。暮らしも落ち着いていない。飛び込んで挑戦したようなものだ。研究室を一室いただき、住まいは4人のルームメイトと学内の一軒家をシェアして暮らした。
2月に入ると、アメリカでの暮らしもどうにか軌道に乗ってきた。免許・車の取得に自分で運転していかないとならないのが怖い。担当していた講義は2コマ連続(約3時間)で、終了が23時前にもなる。帰宅してから居ずまいを整えて、IT戦略本部の規制・制度改革専門調査会にSkypeで参加することもあった。ルームメイトたちに、現地で入手できた材料で寿司を振る舞ったこともある。
3月には一週間の春休みがあった。この機会に西海岸に飛び、Google本社やStanford大学などを訪ねる。旧知の友人たちにも会うことができ、いい旅行だったと帰路につく前夜、ホテルで震災のニュースを知った。日本には電話はつながらなかった。かろうじてTwitterで連絡をとり、Skypeで家族の声を聞いた。NHKとCNNの映像、TwitterのTLを見ながら、体感もできない、関わることもできない、それでいて情報だけが入ってくるという悪い夢さながらの時間が、のろのろと過ぎたことだけを覚えている。ルームメイトたちが私をPCとテレビから引きはがした。地震、津波、原発と続くニュースに、何に対してではないが祈ることしかできなかった。
4月に入ると学期末大詰めに近づく。一週間の授業をオンライン講義にして、ボストン、ニューヘイブン、ニューヨークと旅をした。今年はイースターの週末が、日本時間での私の誕生日!時差があるので二度も祝ってもらい、ルームメイトたちと羊を焼いてパーティーをした。その傍ら、生活をたたみつつ、成績付けという大仕事があって息もつけない日々だった。
この裏庭に、どれだけ人が立ち寄ってくれただろうか。あり合わせで美味しいものを作り、ルームメイトが選んできたワインをいただきながらときには夜中まで語り合う時間。
5月に帰国。しばらくは「すみません」という言葉が出てこなかった。日常生活すべて英語だったので、とっさの言葉が口からでない。津田塾のゼミナールを遅れて開講。あらゆるところが薄暗く、節電を実感する。
6月には、Trust2011での講演の機会をいただき、ピッツバーグへ。そのままボストンにも飛び、MITで開催されたNSTIC Privacy Workshopに参加。identityに関して、日本がスルーされているのではという危機感を肌で感じる。
7月は諸々の遅れを取り戻す時期だったように思う。8月には科学教育学会に実行委員として&発表者として&講演者として参加した(注:非会員です)。夏は、いろいろなことを立て直したり、見直したりする期間だったと思う。
9月は、北海道、信州と旅した後、ヘルスコミュニケーション学会に参加のため博多へ。家族がこの月に学位を取得。学位授与式にともに参列した。短い期間に、仕事を持ちながらよく成し遂げたと尊敬する。
10月は国際会議でギリシャへ。まさにストとデモの真っ最中。意外にのんきでしたたかな一面も見てきた。帰ってすぐに経営情報学会で松山へ。渡米前にご挨拶できなかった先生方とも、Facebookを見ていたよ!とお声がけいただいて話が出来た。
11月に、初めて被災地に伺った。石巻、南三陸町、山元町。何もなくなった光景には今も言葉がない。記憶にある閖上がまったく違う場所になっていたこと、1階だけが黒く抜けた家、本当に海まで見通せてしまう、駅だった場所。
12月からは走り抜けた気がする。OpenIDサミット、属性之道、ICIS@上海、知識共有@仙台と続いた。人との出会いは楽しいが、一方でそろそろ、これらのインプットをまとめたいと感じるようにもなってきた。
感謝とともに。
2011-12-11
第4回知識共有コミュニティワークショップ
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(このエントリは後日書いています)
今年で4回目になる知識共有コミュニティワークショップを、東北大学および秋保温泉で開催した。震災以降、東北での学会開催が減っていると聞き、小さいワークショップながらぜひ東北で開催したいと id:arg さんと話しており、この度実現した。
まずは、柴田邦臣さん(大妻女子大学准教授/日本社会情報学会災害情報支援チーム代表)より、山元町での写真保存プロジェクトを中心としたお話をいただいた。特例補装具の事例。実際に使われ、役立っている歩行器であるにも関わらず、基準の上では不適合とされ、利用者から取り上げられたという話から始まった。「プラン・実践から評価まで整った専門知識」を適正なる知識とするならば、非常時に必要なのは、非適正なる知識だと言う。そして、障害を持つ方々は、ずっとそうした非常時に対処してきたと。口で棒をくわえてタイプをするとき、その棒をひっかけておく場所があれば落としたとしても大丈夫など、ほんの少しの工夫が大きな効果を生む。被災地でも、そうだったという。「ネットとテントが張れる人」が必要とされていた。
引き続いて、ニフティ株式会社の鈴木隆一さん、東京工業大学の寺野隆雄先生にもご登壇いただき、パネルディスカッション。
この日の発表セッションは、査読論文セッションでも山元町の取り組みの紹介があったほか、福島第一原発に関する情報の評価、Q&Aの投稿場所の推移など、震災に関わる発表が続いた。
発表の途中で地震。悪い意味で揺れに慣れたのがよくなかった。いったん中断して、逃げられるようにすべき。
夜からは、秋保温泉ばんじ家に移動して、夜のセッション。
国立教育政策研究所 教育研究情報センターの江草由佳さんから、saveMLAKのご紹介をいただいた。博物館・美術館 (M) 、図書館 (L) 、文書館 (A) 、公民館 (K) (M+L+A+K=MLAK) の被災・救援情報サイトであり、Wikiのため誰でも情報提供をすることができる。
最初から完璧な書き込みを期待しない、そのときに書き込める情報が重要で、書式の修正などは後からなんとでも出来る。ゆめゆめ、電話をかけて現場に問い合わせないこと!というのが印象的だった。何らかのきっかけで(もちろん現地を訪れることも含めて)知ることができた情報を共有する、それを積み重ねていく活動だ。
夜のセッションはモデレータをさせていただいたが、非常に難しい。現地に行ける人、行けない人、行ったから分かること、そうでなく俯瞰するから分かることが様々だと感じた。それぞれの思いの強さ、必要とされること。できることと無力さ。まとめられることでは無いが、被災地における性質の違う取り組みについて、お話しいただき、意見交換の機会を持てた、ということだろうか。
2011-12-07
ICIS2011に参加して
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(このエントリは後日書いています)
ICIS2011に参加しての雑感。ICISの参加は2005年、まだ博士の学生だったころが最初で、それ以降5回目の参加だ。
今回の発表では、ソーシャルメディアを対象としたものが相当増えたように思う。テーマは一見新しいが、いわゆる伝統的な情報システム研究のお作法で、RQと先行研究からモデルを構築し、データを対象に分析し、考察するスタイル。未だにTAM(Technology Acceptance Model)が多かったようだ(私が見た発表では)。1セッション3発表で、発表と質疑の組み合わせでさくさく進む。萌芽的とか冒険的な研究は殆どなく、いわば当たり前のことを当たり前に検証しようとする、カタイ研究だ。ポスターセッションですらそうだ。
正直、今回はあまりおもしろいと思えなかった。。研究のお作法のお手本としては、未だに貴重な会議なのだが。むしろ、年に一度しか会わない人とのネットワーキングが中心になりつつある。
2005年、ラスベガスで開かれたICISに参加したときは、発表者+ディスカッサントで1組、すなわち一つの発表に対してその解釈とコメントの発表で二つの発表がなされていたのだ。じっくり、ゆっくり進められる研究発表は非常に勉強になった。(ICIS2007に参加したときは、出先で博士号取得のお知らせを聞いたなあ…。)その後、ICIS2008に参加したときは3つの発表に対して1人のコメンテータがコメントをする、という形になったが、今年はコメントもなく発表と質疑の、いわば普通の学会になっていた。
採択率は20%程度。情報システム系では最難関の学会。投稿は増えていて、以前ほど一つの発表に時間が取れなくなったとも聞いた。
かっちりとまとめるのはこの学会で。萌芽的や挑戦的なのは別の学会でと棲み分けていくことになるのかな。
2011-12-04
OASIS Workshopにて発表
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(このエントリは後日書いています)
上海国際会議場へ。ホテルから歩いて15分弱。横断歩道に信号などなく、うまく車道を頃合いを見ながら渡るしかない。
ICIS本会議前には、様々なWorkshopが開かれる。IFIP8.2のOASIS Workshopに参加した。このOASISは、2005年に初参加したときから断続的に参加している(毎年Business Meetingに参加しないとMemberの資格を保持できず、Friendになってしまう)。今年は、(1) ラウンドテーブルで議論をするセッション と (2) 通常の研究発表 の二つがあった。それぞれに自分のテーマを投稿した。
まずは朝イチで、Round Table Session。ここでは、近頃考えている「実名とは何か?」を持っていった。
"What is your definition of “Real Name” on Social Media?"
Akiko Orita
本人到達性(本人を特定できるかどうか)と、リンク可能性(同一人物と分かるかどうか)の二軸で、これまで実名・仮名・匿名と分類してきたが、果たして実名・仮名を分けるものは何か?というのが私の疑問だ。このセッションには欧州の人たちが殆どだったが「ブログでは名前を使い分けている。本名を使うものもあるけれど」という意見がちらほら。ただ、本名とそれ以外という区別はあるものの、本名よりも仮名の方が「有名」になってしまう場面は想像しづらいようだ。ここにIDの保証レベルを関連させようとすると、まだ話が共有できるレベルにならない。と、いう難しさを感じたセッションだった。
次のセッションでは、ケネソー州立大学でマンガ教材を使った授業を行った報告。
"Practical IS-Education using MANGA"
Akiko Orita, Atsushi Yoshikawa and Takao Terano
たとえば「オフィス」と言ったとき、アメリカの学生が思い浮かべるキュービクルと、私が想定している大部屋は違う。こうした背景の違いをあれこれするより、いったん描画で共有しておいて、その上で議論することで、共通点と相違点を浮かび上がらせることができる、という可能性について報告した。このマンガ教材が、「読んで分かる」もの(いわば分析をした事例ケース)とは違い、「問いと組み合わせて意思決定するもの」(いわば教材ケース)に近いものだ、ということは、幸い理解された模様。イスラエルの大学の方が興味を持ってくれた。
OASISのセッションは全体的に、今回はかっちりした発表が多く、さながらICIS本会議に近い雰囲気だった。RQがあり、メソッドがあり、仮説があり、モデルがあり、分析がありと、殆どの研究がお作法通りというか、型通りに進んでいる。私のは報告だったし、他にも少し枠を外したものもあったが、おとなしい研究が多かったかなあという印象だ。
2011-12-03
初めての中国本土(上海)へ
(このエントリは後日書いています)
国際情報システム学会(AIS)の年次大会、ICIS2011に参加のため、上海へ。前日まで京都大学でのWSに参加していたため、関西国際空港から上海浦東空港へ飛び立った。がら空きのフライトで3時間もかからずに到着。
到着するなり、さっそく「中国だ!」と体感することが。空港でWifiは取れるけれど、Twitterにつながらない。メールは読めても、Googleのいつもの検索が使えない。つながらないインターネットを早速体感する。
空港からホテルまでは、だいたい200元だと聞いていた。このときは風邪が抜けずにぼんやりしていて、タクシーはどこだろうと歩いていたら、こぎれいなカウンターの近くでスーツの人に呼び止められる。ここで前払いでタクシーに乗れるという話。空港のカウンター内なら安心だろうと行ってみると、600元と言う。ばかな!高すぎる、200元と聞いていたと言ったら400元になった。まあいいか…と支払い、連れられて行くと、こぎれいなバンを貸し切りだった。よく見るとレシートには、運転手付きレンタカーとある(見るべし!)。やられた!ただ、ものは考えようで、きれいな車で問題無くホテルにつけたので、あとはラクだった。具合が良くなかったことを考えるとこれでよかったのかもしれない(と、後に引きずらないのが旅の安全のこつだと思う)。
ホテルでネットにつなぐと、Gmailは読めてほっとする。Twitterは、movatwitterをPCから使えるように設定していったので、そこ経由で投稿も閲覧もOK。ただし、Facebookは見られないし、Googleはco.hkのサイトに行って中国語優先になってしまう。やはりここは、Great Fire Wallの内側なのだな。
ホテルは、テレビ塔のすぐ傍、Gran Melia Hotel。スペイン系のホテルのようで、新しく部屋も広くて豪華。ここがカンファレンス指定のホテルなのだが。。
2011-11-28
山元町訪問
旅 | |
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(このエントリは後日書いています)
2日目は、宮城県の南部、山元町へ向かった。まずは常磐線が通っていた頃の山下駅周辺。
かつて線路が通っていたところ。
電車が通らない遮断機だが、ここを通り抜ける車両は皆、一時停止されていた。
山下駅にはたくさんの看板と貼り紙。常磐線を復旧させるルートをどうするか、いろいろな考え方があるようだ。通り過ぎただけの私には、何も言葉がない。
わずかに南下して、坂元駅周辺へ。
何もなくなっていた。
残っている土台から判断するに、大きな家がたくさんあったのだろうか。今は海まで見える。何もなかった。
大通りだったはずのところ。何もない。
この場に居たときも、それから1ヶ月経ってこれを書いていても、未だに表す言葉が見つからない。
午後は、山下中学校でPhotoshopのインストールをお手伝いし、その後伝承館へ。写真を洗浄し、分類し、デジタル化して検索できるようにもしている取り組み「思い出サルベージアルバム」のお話を伺った。写真のゼラチンを、海水にすむバクテリアが食べてしまうとのこと。カメラで撮影してデジタイズしたり、洗ったりなどで守られた写真が整理されている。
夕刻に仙台駅に戻り、帰途へ。まだ言葉が見つからないし、何が具体的に出来るわけでもないことを感じただけだったかもしれない。
2011-11-26
東北訪問(宮城県)
旅 | |
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震災後初めて宮城県を訪れた。親戚の縁があったり、父が2年前まで名取で仕事をしていたり、折々に訪れていたところではある。今回は、現地で既にさまざまな活動をされている田代さん(ニフティ)のご案内で、初日はいろいろまわることになった。新幹線で仙台で降り、関西からの合流組を迎えに仙台空港へ。
空港の周辺。土台の跡は、かつて建物があった場所。
車窓から、道ばたに乗り上げた船が見えて驚く。
これだけ大きな船が流されてきたのか。
閖上(ゆりあげ)。海まで見渡せる。記憶にある場所とは違う。。
その後、石巻へ。
中央分離帯に、鯨大和煮の巨大缶詰が転がっている。明日、移動するという。
遠目には、一見、多くの民家が残っているように見える。けれど、よく見ると、建物の1階がからだった。
がれき。近くで見ると、つぶれた車と、木と、生活を思い起こさせるものが混ざっている。
90度に折れ曲がった。
堤防の外と内。外側の海面のほうが高い。
今日は大潮。水位が高いため、低くなってしまったところが水浸しになっている。
水産加工工場。
水鳥の大群。そういえば、こちらに来てから鳥の群れが多い気がする。
看板が鮮やかで、きれいで、そして津波が突き抜けた1階はからのまま。
海岸近くのこのあたりは、信号も動いていない。電気が来ていないのだろう。道を渡ると信号も点灯し、人が住まっている住宅もあった。
少し走って、「石巻ボランティア支援ベース絆」を訪問。印象に残ったのは、流されてきたものの保存と、家族への手渡しの話。集められる場所では、年内までと区切りをつけたけれど、心の整理がつかずに、まだ家族の名前が書かれた、残されたものを見ることができない人たちもいるという。
北上して、南三陸町へ。山道を走るうちに、家の土台だけが残るあたりになった。津波がここまで来ていたのだ。海からは距離があり、山に囲まれている場所に津波が来るとは、私には想像できなかった。
大潮で冠水する道。これ以上進めない。海はもっと先。けれど、山の中からここまで、本当に何もなかった。土台だけが残っていた。
プレハブで営業されている、大森屋商店で飲み物とお菓子を買って帰路についた。いち早く、たばこやパンを販売されていた店だ。今は、お酒、野菜、雑誌なども置いてある。大潮の満潮時、私たちが着く30分前まで駐車場は水をかぶっていたようだ。
南三陸町では、星がくっきり見えた。数年ぶりに天の川を見た。
2011-10-25
ストの中帰国
旅 | |
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(このエントリは後日書いています)
最終日はまたもやストだという。ホテルの電話線も、ストの影響でつながらず、通常のクレジットカード決済ができない。紙でがっしゃんと昔ながらのやり方でやり、ホテルのスタッフが携帯電話でカードを確認した。故障を直さないのもストの一つだという。これはなかなか慣れず、いらいらする。
タクシーと鉄道のみ動いているが、こういう日は空港行きのタクシーはぼったくるのでやめておけと言われた。鉄道の路線とダイヤを調べてもらい、ホテルから10分ほど歩いて駅へ。9時29分発の電車のため、9時20分頃には駅にいたのだが、時刻になっても電車は来ない。ホームには旅行者が次々と現れる。10時になっても電車は来ない。この頃になって、ギリシャ人らしき人たちもホームに現れた。もともとから、電車が遅れるという前提なのか。
40分遅れて電車が来た。この路線はまっすぐ空港には行かないので、2つめで乗り換えろと言われていたが、社内の路線図を見ると何か違う。。
この路線図を見ると、まっすぐ乗っていれば着くように見える。が、乗り継ぎ先は > の分岐を戻ったところにある。意味不明だ。乗っていた観光客たちでざわざわと騒いでいたところ、ギリシャ人の乗客があっさりと「二つめがその駅だから大丈夫」と言う。表示が違うと言ったら、それは新線に更新されてないだけ。自分を信じろと。かくして、2つめの駅で皆降りたのだが、降りた先でも途方に暮れた。
情報量ほぼゼロの電光掲示板。。アナウンスは聞き取れない。入ってくる電車が空港行きかどうか、ホームにあふれる観光客同士で「これ違う!」とか「これがそう!」と互いに合図しあって乗る。まさに、ソーシャルだ。互いに助けあって情報共有。時計は止まっていて、アナウンスもなくて、ギリシャ語が皆読めるわけではない。観光立国でこれはないよなあと思いつつ、システムがうまく動かないことを前提に、教えてくれるギリシャ人とか、観光客の助け合いでなんとかなっちゃうのが凄い。いらだちよりも、「まあ、いいか」と思えるようになっていた。
帰りはルフトハンザでアテネからミュンヘン経由。ルフトハンザの機内に乗り込んだとき、すっきりとした座席に「ギリシャから帰るのだな」と実感した。
2011-10-24
デモのあとのアテネ
旅 | |
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(このエントリは後日書いています)
ヒオス島からアテネに戻り、打ち合わせを挟んで一日アテネで過ごす時間があった。デモの際には封鎖されていた駅が、今は開いているとのことで、シンタグマ広場に向かった。地下鉄の構内では、ギリシャ全土からの物産展をやっていて、蜂蜜やジャム、クロレラなどが売られていた。ここで、試食させてもらった蜂蜜が美味しくて、松の実の蜂蜜漬を購入。これだけで元気になりそうだ。
シンタグマ広場に出たところで、「日本人ですか?」と話しかけられた。Apostolosが対応してくれたが、そのおじさんは手持ちのビニール袋から折りたたんだ感謝状を取り出した。日本語だ!昭和44年に愛知県で海に落ちた児童を救助したという感謝状。その船がギリシャ船籍で、それを造ったというおじさんだった。これを英語に訳して欲しいと言う。その場で辞書を引きつつ翻訳。それにしてもなぜ、彼はコピーをずっと持ちながらここにいたのだろう?
博士4名総掛かりで訳している。犬はどこでもこうやって横になって寝ている。
ただ、シンタグマ広場の周りは、やはりここで激しいデモがあったのだという痕が残っている。タイル、地下鉄の入り口、ホテルの階段に至るまで、無残にも大理石が砕かれている。これを投石するそうだ。もったいない。。いや、危ない。









































