リンカーン:スピルバーグの憂鬱

★★☆☆☆

ダニエル・デイ・ルイスの迫真の演技に不満のある人は少なかろう。レンブラントの絵画を思わせるカミンスキーの光と影の使い方にも惚れ惚れとさせられる。多彩な顔ぶれの配役も適材適所、実に申し分ない。だが、物語はあまりにも小さい。それはこの映画が南部の奴隷利権をめぐって生じた南北戦争(大農場の綿花栽培のために奴隷制度が必要な南部11州と、工業化と保護貿易を推進したい北部23州による内戦)の全貌を俯瞰するものではなく、奴隷解放のための下院における政治的な駆け引きのみを描いているためだ。アクションやサスペンスによって観客を魅了してきたスピルバーグだが、本作ではその持ち味を抑え、議会政治の言葉の応酬にレンズの焦点を合わせている。これは監督の「成熟」なのだろうか? 本作は当初、南北戦争全体を描く予定だったが、脚本の第一稿では4ヵ月間の話となり、最終的に1ヵ月間の話に短縮されたという。では、スピルバーグは何故このように撮ったのか? 若き日のリンカーンが見たであろう、重い鎖に繋がれた奴隷の長い列の場面からなぜ映画を始めなかったのか。米国史上最多の犠牲者を出したこの内戦で北軍が行った焦土作戦や戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いをなぜ物語の中心に据えて描かなかったのか。想像するに、10年に及ぶ長い脚本作りの過程を経てもスピルバーグが関心を持ち続けることができ、かつ描きたかったものは、政治家リンカーンの中に見出された自分自身の影、すなわち孤独そのものだったのではなかろうか。完成した映画では、議会工作を通じて党内や他党で反対している者を自分の側にいかに取り込むかが語られる。政治家としての本音と支持者に対する建前のはざまで、あるいは個人的な信条と党派の利害の間で揺れ動く議員たち。飴と鞭を使い分け、また限りなくグレーな手法も交えながらリンカーンは悲願の奴隷解放(合衆国憲法修正13条の可決)を成し遂げる。『ジョーズ』や『シンドラーのリスト』など、スピルバーグが過去の作品の中で繰り返し描いてきた「目的を果たすためには敵を取り込むことも辞さない」というユダヤ人的な価値観*1が、ここではリンカーンの唱える主張に重ね合わされ、〈普遍的な正義〉として賛美されている一方で、戦争責任の所在はほとんど描かれない。もちろん、南北戦争の勃発は奴隷解放論者リンカーンの大統領就任が契機となっている。戦場に累々と築かれる死者、焼け野原となった国土。これらの責任の多くはリンカーンに帰するはずだ。しかしスピルバーグはそれを描かない。というより、描くことに興味がないのだ。妻や息子との確執さえも、〈正義の人〉リンカーンの孤独感を強調するための演出上の小道具に留まっている。つまるところ、この映画はスピルバーグが是とする〈政治の教科書〉となるべく企画されたものの、ハリウッドの中でユダヤ系のクリエイターとしてしたたかに戦って現在の地位を築いた監督自身の現在の心情を述懐する作品となってしまったのだと思う。民意(といっても一部の民意だが)を背景に、議会の中で独裁者の如く強権を奮って修正案を通すリンカーンの姿は、ハリウッドに君臨するスピルバーグその人でもある。映画の冒頭で〈ファン=正義の信奉者〉たる兵士たちと接するリンカーンの醒めた反応から滲む孤独は、スピルバーグ自身の孤独といっても良い。


しかし、目を背けたくなるような歴史から意識的に距離を置き、テクニカルな議会工作に焦点を絞った今回の撮り方はやはり好きにはなれない。自国の内戦が欧州のホロコーストよりも身近すぎて正視したくなかったという訳でもあるまい。南北戦争を十全に映像化できる力量と地位を有していながら、スピルバーグが米国の暗い歴史を正面きって描くことを避け、 本作を自身の孤独の投影、あるいは単なる教科書的な物語に落とし込んでしまったことを、私は残念に感じた。

監督スティーヴン・スピルバーグ, 脚本トニー・クシュナー, Lincoln, 150mins, 2012。

*1:本作の脚本はスピルバーグと同じユダヤ系米国人が手がけている