似非科学と経済学(玉虫色になってゆく私)

御無沙汰です。自分としては、あっという間に感じるのですが、疑似科学関連のエントリを一生懸命書いていたので、経済学やめたんかと思われているような気がする。それはそれでいいんですけど。

疑似科学のことを考えながら、意識していたことは、科学の対象たりうるもののと自分の直面している状況の落差だ。科学方法によって確実な知識がえられるのは、再現性があり、試行の繰り返しによって、現在の仮説が正しいかどうかを何度も検証することができる。しかし、我々の直面している状況はほとんどが一回限りで、自分の状況への認識が正しいかどうかを確実に検証するすべがない。たとえば、ホメオパシーが十分に大きな集団に対して、確率的にプラシーボ以上に効き目があるかどうかは、その集団に対してのデータがあれば、統計的に検証できる。しかし、私が妻のホメオパシー嗜好に対してどのように対応すべきかについては、大規模な統計的データからえられるプラシーボ以上の効き目はないという情報だけでは対応できない。それはたとえば、その場での妻と私の人間関係が関与するし、その関係自体、日々変化しているので、昨日うまくいったと思ったことが、今日も有効かどうかさえわからないし、そもそも、昨日うまくいったと思えたことが、本当にうまくいったのかどうか判断することさえ不可能に近い。

私に限らず、科学に関心をもつ動機の根本は自分の住む世界について本当のことを知りたいということだろう。もちろん、科学の対象となる、再現性のある状況について確実な知識がえられることもそれ自身として意味があることだ。しかし、私は再現性のない、一回きりの状況に対して現実的に対応したいし、そのためにその一回きりの状況についての確実な知識が必要と感じる。

しかし、多分、この願いはかなえられない。しかし、漠然と感じるのは、科学の対象となるような再現性のある状況についての確実な知識は我々が個人的に直面する一回限りの状況の認識を行なう上でのてこの支点のような役割をはたしてくれはしないかということである。

たぶん、今書いていることと基本的に同じ図式が経済学というか、経済についての認識についても成り立つと思う。特定の時代の特定の地域の経済状況は再現性がなく、一回限りである。通常、我々が経済について確実な知識をもてるのは、経済の現実ではなく、現実を極度に単純化したモデルである。さらに、言えば、新古典派であろうが、ケインジアンであろうが、マルカード、スラッファなどの古典派のモデルであろうが、ほとんどの経済モデルは、現実の歴史的時間がたえず調整のプロセスが進行しているのに対して、ほとんどの調整のプロセスが終了していることを仮定することによって、多変数の連立方程式として、経済を記述することを可能にしている。(理科1分野の経済学:どうして経済学はむずかしいのか - 痴呆(地方)でいいもん。を参照)もちろん、直前のリンク先の中で言及している吉田雅明さんの仕事のように、再現性のない歴史的な時間としての経済の進行をモデル化する努力には多いに期待するが、その一方で、我々が現実の経済を認識する上での地図として、経済の数量的な関係についての確実な知識をあたえるものとして、調整がゆきついた先の仮想的な経済についての知識が不要になることはないように感じている。(そのモデル化の説明力の評価に関して、吉田さんのような仕事が寄与することことが必要だとも感じる。)

それと、疑似科学について書く以前から、実証研究で新古典派のモデルをつかう人々へのアンビバレントな印象を感じていた。私は就職してから、ミクロ経済学を教えてきたが、ミクロ経済学、とりわけ、初級のテキストであつかわれる完全競争モデルが現実を経済をそのままモデル化したものとは教えてこなかった。それどころか、「今教えていることはフィクションである」ということを毎年強調していた。初級の教科書でも、多くはそのあたりに無自覚で、経済理論としての完全競争モデルを、そのまま現実を説明するかのように書く教科書は、その部分については馬鹿にしてきたし、いまでも馬鹿にしている。しかし、ある時期から、同じナイーブな完全競争モデルを実証の道具として使う研究に関しては、そういう反感をまったく感じなくなった。ほとんどの応用的な理論の研究についても同様に感じるようになった。経済の進行過程として記述として、新古典派の妥当性を鵜飲みにするのは、いまでもアホだと思っているが、現実の地図として新古典派のモデルを使う人々へは、すくなくとも、経済の進行プロセスとしての新古典派理論の欠陥をいうだけではしょうもないと感じている。

というわけで、実証新古典派や応用新古典派を容認しながら、経済観はアンチ新古典派という玉虫色になってしまったのだった。

具体的な展望のない、机上の空論のようなことを書いてしまったが、これを書きながら、宇野弘蔵の三段階論があたまにうかんだ。(例によって、これについては、ちゃんと勉強していないんだが)それと、われわれの状況のローカルさ、再現性のなさについては、下の鬼頭先生が関わった本が理解を深めてくれると思う。今、科学観に関して、私はあきらかに鬼頭さんに科学史を教えてもらっていた時期の相対主義的な発想とは正反対といっていいほど、変ってしまった。個々の認識にかかわらず、存在するであろう、現実を知る手段として科学を考えている。また、一見すると、鬼頭さんの本は反科学的主張にみえるかもしれない。しかし、鬼頭さん達のいうローカルな思想は、私の考える日常的な状況への知識そのもののように感じている。

ローカルな思想を創る―脱世界思想の方法 (人間選書)

ローカルな思想を創る―脱世界思想の方法 (人間選書)