九州ローカルNEWS&倭人伝

osamuharada2013-12-07

昨日の、諫早湾干拓地の裁判ニュース。堤防の水門を開いてくれないと有明海側に赤潮が発生して〈漁民〉が困ると訴える。海水の満ち引きの問題ですね。水門を開いたら諫早干拓地でキャベツなんかをつくっている農地が水浸しになって〈農民〉が困るじゃないか、という死活問題の争いごと。半世紀も続いてる。日本最大の干潟である、諫早(いさはや)湾の問題点。
この諫早湾の自然を壊滅させる長大な堤防をつくったのは国で、これがうまくいかなくなると、漁民VS農民の間で適当にうまく折り合いつけといてくれヤ、とまるで他人事のようだ。しかしこれはフクシマと同じく、国による人災だと思うけどな。有明海の〈漁業〉は佐賀県側で、諫早干拓地の〈農業〉は長崎県側だから、県と県の争いごとに発展させて国は逃げている。
この現代のニュースを見ていたら、二千年前の邪馬台国論争【奴國】の位置問題を思い出してしまった。この諫早の干潟こそが奴國(なこく)だったとヤツガレは考えているからです。(注:コレから先はまた古代史ファン向けでつまらないかも) 女王の都する【邪馬台国】が、沖縄本島北谷沖の海底遺跡だという木村先生説を全面的に首肯しているヤツガレですが、御用学者の間で定説化しつつある倭人伝の行路問題、【一大國】が「壱岐島一支国説」と、九州上陸後の【末盧国・伊都國・奴國・不弥國】の位置問題は、すべからくまともだとは思えない。南を東の誤記だの、一大が一支や、陸行一月を一日の誤記だとか、あまりにデタラメすぎるだろ。以前書いた→《邪馬台国ノート》
縄文時代は、気候がいまより温暖化していたために、海水面が上昇していた。関東でいえば、いまの東京都心は海中で、多摩丘陵のあたりまでが陸地の海岸線だったそうだ(縄文海進といいます)。次の弥生時代600年間は、地球の寒冷化がすすんで、逆に海面が下がっていた(弥生海退です)。沖縄は亜熱帯ではなく温暖な地になっていて、珊瑚礁の干潟もひろがっていた。
上の手描き地図をご覧ください。諫早湾の干潟も海面がずっと引いて、広大な平地(赤の斜線部分)だったでしょう。外側の有明海が干潟か浅瀬のようだったはずです。ここを【奴國】と比定します。【奴國】は所帯数が20,000戸もあったと記述されている。一戸に10人くらい住んでいたとしたら、人口20万人都市になる。食料は、汐が引けばすぐ近所で豊富な魚介類や海草を収穫できちゃうから、家族総出で潮干狩り。これなら多勢が食うに困らない。そのかわりここでは弥生時代遺跡の最大特長である水田や農耕文化は、塩害で成り立たない。つまり倭人とは農耕系弥生人ではなく、海洋系縄文人だったと考えればつじつまが合う。やがて再び四世紀から地球温暖化が始まって、現代のあたりまで海面が上昇したため【奴國】は消えて干潟になる。奴國の人々は他の場所を求めて民族移動したことでしょう。そして歴史上では〈空白の四世紀〉を迎えることになる。( 付記:有明海は現代でも干満潮差が国内最大6mあり!)
【奴國】に入る手前の【伊都国】(たったの1000余戸)に、なぜ卑弥呼は「一大率」という小軍団を置いたのか《 女王國以北特置一大率 》。これは地図を見ればひと目でわかる。有明海対岸の平地には、邪馬台国より以前からいた弥生人の【吉野ヶ里遺跡】の大きな国が存在していた。農耕民族VS漁猟民族の対立は、現在の諫早干拓地ニュースを思わせちゃうな。女王国へのルートを有明海対岸の弥生人から守るためには糸岐という辺りがふさわしい。その【伊都國】からさらに東南へわずか百里(短里で約10km)で現在の諫早湾【奴國】に至る。
【奴國】から東へ百里の【不彌國】(ここは戸でなく1000余家とある)が港町という感じで、ここから船で出発して九州西岸を巡り《 南至投馬國水行二十日 》で「サツマ国」(50,000余戸)こと今の鹿児島に着く。また地名で思いつくのは、「ナ国(奴國)」の西側最先端にあるのが「ナがさき(長崎)」となったのではないだろうか…。ナがながおタイクツさまでした。