原田治ノート

2005 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2012 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2013 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2014 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2015 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2016 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 |

2015-04-27 うらゝかや

osamuharada2015-04-27

四月二十七日。ヤツガレ69歳の誕生日とあいなりました。いつからか自分の誕生日は、生んでくれた「親に感謝」する日と自分勝手に決めております。

敗戦後の、あのひどく荒廃した時代に、命がけで育ててくれた親がいなければ、いまの自分は存在していない。黄泉の国の親に「ありがとう」をつたえたい。今朝は、恒例の「祥瑞の茶碗」を出してきて新茶を喫しました。慶事の日にはいつもこの茶碗なのです。→id:osamuharada:20070312

よく晴れた一日。久保田万太郎の句を読んで、気分を新たにしています。六十代も終盤ながら、暢気なせいかトシとったという自覚はまだないものの、客観的に老いを感じるには俳句がいいですね。老いもまた楽しとかや…。

     う ら ゝ か に き の ふ は と ほ き む か し か な

     何 を い ひ だ す か わ か ら ず 麗 ら か に

     う ら ゝ か に 汗 か く 耳 の う し ろ か な

     う ら ゝ か に す こ し 風 で て 來 り け り

     う ら ゝ か に 心 た の し き か ぎ り か な

     う ら ゝ か や こ ろ ば ぬ さ き の 杖 を つ き

2015-04-22 床の間と新茶

osamuharada2015-04-22

午後には、窓を開けはなった畳の部屋でも「新茶」を喫しています。自己流「床の間」には、最近手に入れた川端先生の四十歳代の水墨作品をかかげてみた(写真右側)。左のコンテによるエスキースは先生が八十歳代のもの。二つのモノクローム作品を並べてゆっくりと眺めてみる。

先生がNEW YORKへ移り住む前の四十代作品は、まだ半具象画的だったのがよくわかる。これはイタリアの古い街を描いたもの。しかし早くも渡米後の抽象表現主義に近づいている。八十代のエスキースのほうは直接先生から譲り受けたもので、この時代の完成作品とまったく同じ筆勢です。しかも四十代の筆勢とも同じであることに気がつきました。運筆には気迫がこもり、しかも清冽な印象はまったく変わっていなかった。そのことにもぼくは感動していました。

文人画ではないけれど、見ているうちに鉄斎を思い浮かべずにはいられなくなってきた。こんどは宇治の煎茶をいれて飲みながら、富岡鉄斎の画文集をひもといてみる。先生の絵と鉄斎の芸術には、共通分母のようなものが存在しているなあ、とつくづく思った。

ルーツは、二人とも同じ京都で、代々呉服関係の家系であるというから、古くは「秦氏」の血脈にあるのではないか…。秦(ハタまたはハダ)の読みは故あって、歴史のある時代からは消え、羽田(ハダ)や川端(かわバタ)などの表記に隠されてきたとも言われている。ちなみに原田(ハらダ)も同じ文脈らしい。こんなことを考え始めると、芸術から古代史方面へ寄り道して、いつものことながら終らなくなる。こんどは書庫兼書斎に引っ越して古い文献をあさることになる。

静かに「煎茶」を喫するということは、ただ単に お茶を飲むだけにとどまらず、意識を働かせれば それだけで時空間を飛び超え、やがては仙境へと至ることができる近道だとも思える。しかも煎茶は簡単で、実によくできた作法のような気がしてきましたよ。これもまた鉄斎翁の言うとおり。即ち《 今人古心 》でしょうか。

自己流「床の間」のことは→id:osamuharada:20090721 写真は→http://osamuharada.tumblr.com/

2015-04-16 今年最初の新茶

osamuharada2015-04-16

南方から、今年の「新茶」が早くも出ていますよ。いつも愛飲している屋久島産の有機栽培茶。さっそく日比谷の鹿児島県物産店と銀座松屋「茶の葉」で買いだめをして、いまは島のアトリエにて喫しています。せっかくの新茶、東京の喧噪の中で飲むのはもったいない。爽やかな風に吹かれる新緑の季節、とくに新茶は場所を選んで静かに喫すべしというわけね。 詩人・北園克衛の俳論集『句経』には《 茶は新緑の庭に向かって釈然と飲むに良い。》と書かれています。

今年の台湾で手に入れた小振りのガラス急須。それと去年買った茶碗よりひとまわり小さな詩の書かれた茶碗を買い、待っていた新茶に合わせて使います。島桜は花が散って若葉になった。ときどき鶯もやってきて美声を聴かせてくれる。新茶を喫するに作法も茶室もいらない。自然がそこにあれば他に何も必要としない。「自由自在」が煎茶の極意であり、伝統でもある、と思う。

北園克衛は『句経』でこう書いている。《 僕たちが伝統の如何なる部分を止揚し、如何なる部分を進展せしめて行くかは各個人の環境に依存するものである。だが、より深遠な意味に於いてはその人自身の民族的自覚の深浅強弱に依ることを否む訳にはゆかない。》

中国から入って来た茶は、日本人の自然観によって変化した。味覚も、作法までも違っている。使用する茶器は似ているけれど、ちょっと好みが違う。抹茶(茶道)の形式主義、煎茶の文人趣味、ともに中国由来だけれど、すでに日本化した歴史がある。これもまた「民族的自覚」によるものなのかな。中国と日本、ともに仲良く、素晴らしい文化遺産を受け継いでいる。

写真の急須と茶碗は台北「茗泉堂茶荘」→id:osamuharada:20140304

ニューヨークでも「新茶」だった。→id:osamuharada:20130629

2015-04-09 ペーターとパレットクラブ

osamuharada2015-04-09

久しぶりに銀座の書店へ寄ったら、ペーター佐藤の再刊本コーナーができていた(この写真)。突然、亡き親友の面影を本屋さんで見つけて、ハッとさせられた。周囲に人がなければ、涙が止まらなかっただろうな。数えてみたらペーターが亡くなって二十年が過ぎていた。

この本の初版は1987年で、ペーター存命中に出版されていた。ペーター現役時代二十年間分の仕事をまとめた作品集。ぼくの築地事務所に戻ると、その寄贈本が版元の玄光社さんから届けられていていた。ページを開けば、懐かしさがつのる。

パレットクラブ」のはじめは、たんなる仲良し朋輩の集まりで、1979年にグループ展をするときにペーターが命名をしてくれたのです。前に書いたパレットクラブのこと→id:osamuharada:20050221

築地のパレットクラブにて、初めてのペーター佐藤回顧展を準備していたのは2011年の春でした。その年の3.11、天災と人災に遭遇したために展覧会は流れてしまった。ゆっくり落ち着き、亡き友を仲間で回顧するような気分にはとてもなれなかったのです。

その時には、ペーター展の案内ハガキも刷りあがってきていて、あとは発送するだけでした。会期中には、安西水丸さん新谷雅弘さん両先輩とぼくの三人で、ペーター佐藤をめぐる思い出のトークショーをする予定もありました。

そして去年、そろそろペーター展の計画を見直そうかなと考えはじめたやさきに、水丸さんは急逝してしまった。もう水丸さんと、ペーターの昔話で花が咲くということもなくなってしまったんだ…。それがぼくには心残りです。

水丸さんとパレットクラブ→id:osamuharada:20140327

ペーター佐藤 作品集 ポートフォリオ

ペーター佐藤 作品集 ポートフォリオ

2015-04-03 沖縄ノート

osamuharada2015-04-03

沖縄は、もうすっかり初夏のようです。窓をあければ吹きこむ風が心地よい。こちらでは春から梅雨入り前までの「うりずん」とよばれる、爽やかな季節なのです。ブーゲンビリアやハイビスカスがすでに真っ盛り。のどかな本島最南部に寓居していると、北部の辺野古問題や、中国人と台湾人であふれかえる那覇も遠いところのように思われる。

しかし沖縄にしばらく寄寓してみると、つくづく軍事的植民地としての暮らしぶり、というものに思い至る。本土復帰などなかったかのように、いまでも日米両政権に蹂躙されたまま何も変わっていない感じを受ける。本土ではなく辺野古に新たな基地を押しつけるなど、沖縄の歴史を考えれば許されることではない。これがアベ&アソー薩長政権による「琉球処分」でなくて何だろう。

沖縄では、毎日どこかで、第二次大戦中に日米両軍が残した不発弾の処理が行われている(年間600〜700発)。処理班のトラックがサイレンを鳴らしながら通り過ぎるのを何回も目撃した。戦後七十年たっても、危険な不発弾処理は終らず、この先何年もかかるらしい。しかもこの処理にかかる費用は国と沖縄の折半で、不発弾がどこにあるかを調査するには、その調査費用をすべて民間で支払わねばならない。なぜ最大の被害者である沖縄が払わなくてはいけないのか、まったく腑に落ちない。

アメリカが占有している軍用地は、日本国がタダで提供している。いっぽうで沖縄の一部の地主は、その軍用地を国に貸して多額の借地料を毎年もらっている。いまや軍用地主は働かずして沖縄トップの富裕層になってしまった。その軍用地主たちは4万7000人。彼らにとっての基地返還は、ありがた迷惑であるらしい。不動産屋の広告には軍用地の売買が目立つし、沖縄の銀行では軍用地ローンとして投資をすすめている。ここでは返還されにくい土地ほど高くて人気があるそうだ。何でもカネにする人たちがいる。沖縄本島の人口約140万人。格差はますます広がっている。

北部の、むかし米兵相手の基地の街は、いまやどこもシャッター街になり果てている。逆に開発がすすむ中部や那覇は、本土からやってくる企業や資本家の経済的植民地と化している。大阪からはお笑い吉本興行が勢力をのばしてきた。カジノ法案が通れば、一大歓楽街になることを見込んでのことだろう。平和憲法を改悪すれば、日米合同軍のアジア最大の前線基地にもなるだろう。

そういえばまだ沖縄のリゾートホテルに泊ったことがない。美しい海岸のすぐ背後には、有刺鉄線が張られた米軍基地があるから、ぼくにはとてもリラックスなどできそうもない。もっとも近頃は日本中どこにいようが薩長政権のせいで、落ちつけないのだが…。だからもちろん I am not ABE です。