藤田嗣治のは偉大な日本人。自画像研究から生まれた思わぬ結論。

THE TED TIMES 2024-14「藤田嗣治」 4/5 編集長 大沢達男

 

藤田嗣治のは偉大な日本人。自画像研究から生まれた思わぬ結論。

 

1、自画像

藤田嗣治の風貌に似た美術評論家の布施英利(1960~)が、「画家の自画像 十選」という面白い記事を、日本経済新聞に連載しました(3/4~3/19)。

10の自画像とは、ダ・ヴィンチレンブラントクールベ、モネ、ゴッホセザンヌ、ルッソー、ピカソフリーダ・カーロ藤田嗣治の10人のものです。

書き出しでノックアウトされました。

<西欧の中世に自画像がなかった。というのは、中世には個人が存在しなかったから・・・>というものです。

西欧近代といえば、理性的な個人がいるアトム(原子)的世界観があり(『日本国家の神髄』  p.46~7 佐藤優 産経新聞社)、それが人権・自由・平等のリベラリズムに発展していき、有機的な共同体は成立しないものとされてきました。

ですから、個人が存在しない、に驚きました。・・・リベラリズム批判がされ、共同体の考察がされる・・・でも期待は裏切られます。

レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像(1517~18年ごろ)から9人の作品が続き、期待とは正反対に自画像が、「自我」像、「自己」像に発展していく過程が記述されます。

不満を持った訳でも、文句を言いたのでもありません。

『ヌードがわかれば美術がわかる』(布施英利 集英社インターナショナル)に見られるように、布施英利は、絵画から社会を考察を広げる人(explosion)ではなく、逆に絵画から人体へ筋肉へ骨格へと研究を縮小(inplosion)する人だからです。

 

2、ピカソ

「画家の自画像」の話に戻り、私の好きな作品をとりあげます。

まずゴッホ

切り取られた耳に包帯をし、パイプをくわえ、煙を出している自画像(1889年)です。

布施は、ゴッホがまず理性の人であった、と指摘します。

緑の服と赤の壁、青の帽子とオレンジの壁、補色で画面が構成されています。科学者のような色彩研究の人です。

一方でゴッホは自分の耳を切り落とし娼婦に贈った狂気の人でした。ゴッホは狂気と理性の人でした。

単なる自画像ではありません。その怪しい目つきは、自らが何者であるかを問うた「自我」像とでもいうべきものです。

つぎはピカソ

青い背景に黒の衣装のピカソ(1901年)がいます。圧倒的な画面構成、圧倒的なうまさです。

現代アート村上隆は、近代絵画がピカソで終わった、としました。

なぜならピカソ以上に上手く、だれも絵が描けないから。ピカソが絵画の全てを征服しまったからです。

全くその通りです。

ピカソの自画像は、自分を描いたに止まりません。

そのテクニック故に、自らの内面をも描き出しています。この絵を見ていると見つめ返され、気が狂いそうになり、逃げ出したくなります。

つまり「自我」像さらに「自己」像になっています。

そして藤田嗣治です。

布施英利と同じ、おかっぱで丸メガネの藤田がいます。

スペインの若者ピカソがパリに行って成功したのように、藤田嗣治も日本からパリに行き世界の「フジタ」になり成功しました。

日本のファッションデザイナーである三宅一生川久保玲も、そして「サムトラケのニケ」も「ミロのヴィーナス」も、ギリシャからパリのルーブルに行き、有名になりました(『ヌードがわかれば美術がわかる」布施英利 p.72)。

パリには魔力があります。

藤田の絵には日本人にしか描けない、細い線と乳白色の白い肌があります。

布施英利は10人の画家の最後になぜ藤田嗣治を選んだのかその理由はわかりません。

しかし藤田嗣治の選択で、今回の自画像の連載は社会へ世界へと爆発(explosion)する、布施の意図を遥かに超えたものになりました。

 

3、藤田嗣治

藤田嗣治(1886~1968)はなぜパリで死んだのか。従軍画家として戦争画を描き、日本を追放されたからです。

「私が日本を捨てたのではない、日本が私を捨てた」。

この藤田の言葉は痛切です。

ピカソは「ゲルニカ」を描き反戦と平和を表明しました。

一方で藤田は「ハルハ河畔の戦闘」(1941年)で日本人の英米秩序への反抗を描き、「アッツ島の玉砕」(1943年)でその無残な敗北を描き、戦争画の常識を変え、日本近代美術最大の成果にしました(『保田與重郎と昭和に御代』 p.25~6 福田和也 文藝春秋)。

藤田は「臣民」として戦争画で「忠君愛国」を果たし、「滅私奉公」「則天去私」を生きました。

一方で藤田嗣治は「フジタ」としてフランスで生活し、芸術家としてパリで認められ、「独立自尊」を生きました。

自画像ではありませんが日本には歌人肖像画を使った「百人一首」があります。

そこには天皇、僧侶、武士、歌人も、みな平等にひとりの歌読みとして名を連ねています。

百人一首」には有機的な共同体として日本の国があり、それぞれの分をわきまえた日本人がいます。

<中世には個人がないから自画像がなかった。対してルネサンスで個人が誕生したから自画像が生まれた>。

布施英利は冒頭で提示した西欧社会の矛盾を論じませんでしたが、図らずもダ・ヴィンチで始まりフジタで終わる構成は、世界の新しい秩序への解答になっていました。

藤田嗣治有機的な共同体の人であり、フジタは近代社会の個人でもありました。

藤田嗣治こそ世界に誇るべき歴史と伝統の日本人です。

 

 

 

「三島由紀夫」のようには誰も書けませんが、将来のAIなら書けます。

THE TED TIMES 2024-13「三島由紀夫」 3/29 編集長 大沢達男

 

三島由紀夫」のようには誰も書けませんが、将来のAIなら書けます。

 

1、モテない男たち

三島由紀夫の代表作といわれる小説『金閣寺』を読んでの感想は、あまり情けないので言うのをためらいます。

思い切って言えば、これはモテない男たちの話で、さらにあまりにも失礼ですが、女を知らない男たちの話です。

私は三島が亡くなった時の倍に近づいている高齢というだけで、ドンファン、ジゴロ、プレイボーイでもありません。

偉そうにオンナを語れるオトコではありませんが、年寄りの戯事(ざれごと)として、ご容赦ください。

1)失恋

まず『金閣寺』は、吃りの主人公溝口の有為子(ういこ)への失恋物語です。

中学生の溝口は、近所に住む舞鶴海軍病院の特志看護婦(従軍看護婦)で、目が大きく澄んでいる有為子を好きになります。

ある晩、有為子の体を思って、暗鬱な空想に耽って、ろくに眠れなくなり、ストーカーのような行動に走ります。

しかし溝口は有為子に拒否されます。

有為子は死んでしまいますが、溝口の中に有為子は永遠の存在として生き残ります。

それは小説の終章近くになって有為子が思い出が登場することでもわかります。

溝口は、遊郭街五番町でまり子という娼婦と同衾しますが、心では有為子のことを考えていました。

「(有為子と)、もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする」(p.290)。

そして金閣寺への放火を決行する、完全に失恋物語、溝口は有為子だけのために生きました。

オンナにモテなかった男の失恋物話です。

2)恋愛

溝口が関係した有為子の他の女性は、下宿の娘、生花のお師匠さん、五番町の娼婦まり子だけです。

素人の二人はともに、友人の柏木によって溝口にあてがわれたものです。

柏木はモテたようですが、違います。自らの身体障害をネタに女を手に入れています。

好きとか嫌いとか、愛だとか情だとか、言える筋合いのものではありません。

恋愛ではありません。柏木も溝口もモテたわけではありません。

さらに遊郭街五番町で、溝口はまり子と知り合いますが、これは商売女です。

加えて、鹿苑寺の老師も五番町の馴染みの客でした。

老師と芸妓の同行を溝口が目撃したことから、溝口と老師の関係も複雑になっていきます。

有り余る鹿苑寺の資金で老師は遊んだ、当たり前のようですが、嘘があります。

老師はモテなかったからです。

モテない男が遊郭で遊ぶ、それはいまも昔も変わりません。

つまり『金閣寺』はモテない男たちのそろい踏みの話です。

3)官能

金閣寺』の主人公である溝口は女と交わると、快楽、官能、満足を必ず口にします。

それは誤解。

恋と愛がなければ、やさしさとおもいやりがなければ、満足は訪れません。

性とは、「和を以て貴しとする」(強姦ではなく和姦)、「客よし店よし世間よしの三方よし」(彼女満足、僕満足、過度なSMは避ける)、「滅私奉公」(よがらせること)です。

性とは、「コミュニケーション(愛の交信)」、「プレゼンテーション(性技の提案)」、「ネゴシエーション(恋の駆け引き)」、「カスターマーズ・サティスファクション(よがらせること)」です。

身を粉にして相手に尽くさなければ、抱擁、愛撫、性交は、快楽、官能、満足に、直結しません。

溝口は中学時代の有為子との関係(ただ見つめていただけ)で、身のしびれる官能の悦びがあったと、回顧しています。

それも誤解。

性は一人で楽しむものではありません。

・・・では、『金閣寺』の全体を読み直してみましょう。

 

2、小説『金閣寺』の再読

第1章

私(溝口)は舞鶴の岬にある寺の住職の子として生まれた。

中学校に、舞鶴海軍機関学校の生徒が遊びに来たとき、私は仲間に加われなかった。

吃りだったからだ。

近所の有為子(ういこ)を心を惹かれ、ストーカーのようなことをし、嫌われた。

「私は今まであれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。」(p.19)

しかし彼女はある事件で突然死ぬ。

春休み。病の父は私を住職に紹介するために、金閣寺を訪問する計画を立てる。

金閣寺は美しくなければ、ならなかった。

「私はまた、その屋根の頂に、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。」(p.27)。

しかしその旅は物悲しかった。

金閣を美しい、と思うことはできなかった。

父は住職に「この子をな、・・・・・・」と頼んでくれた。

自宅に帰り、金閣はだんだん私の心に、実在するようになり、金閣の全貌が鳴りひびくようになる。

「地上でもっとも美しいものは金閣だ、お父さんが言われたのは本当です」(p.39)。

しかし父は死ぬ。

中学時代の溝口が、学校に遊びに来た先輩の舞鶴陸軍機関学校学生の短剣の柄に、傷をつけるシーン、そしてもうひとつ海軍の脱走兵が溝口が愛した有為子と死ぬシーンがあります。

何かを暗示する海軍に対する象徴的な出来事ですが、概念的すぎる、なんとなく作り話のような気がしました。

しかし鳳凰が時間の中を飛んでいるという一連の描写の名文には驚くだけです。

 

第2章

父の遺言通り、私は金閣の徒弟になる。

金閣は、戦争の暗い状態を餌にして、いきいきと輝いているように見えた。

米軍はサイパンに上陸していた。

やがて本土空襲、金閣が灰になることは確実になった、という考えが私に生まれた。

寺の同僚に鶴川という東京近郊の裕福な寺の子弟がいた。

鶴川は吃りの私をからかわなった。

「『だって僕、そんなことはちっとも気にならない性質(たち)なんだよ』」(p.56)

「私は愕(おどろ)いた。田舎の荒っぽい環境で育った私は、この種のやさしさを知らなかった。

私という存在から吃り差し引いて、なお私でありうるという発見を、鶴川のやさしさが私に教えた。」(p.56)

終戦までの1年間、私は金閣の美に溺れた。

「私を焼き滅ぼす火は、金閣をもまた焼き滅ぼすだろうという考えは、私をほんどんど酔わせたのである。」(p.59~60)。

私と鶴川は南禅寺で思わぬ光景を目撃する。

長振袖の女と若い軍服の陸軍士官の男。女は自らの乳を搾り茶に入れ、男に飲ませたのだった。

金閣の美に溺れた、とありますがその気持ちは、無教養な私には近づけるものではありません。

そして陸軍士官と乳を搾り飲ませる女、印象的ですが、作り話が過ぎると思いました。

しかし私も金閣も焼き滅ぼされるという美学的テーマがここで提示され小説は走り始めます。

そして「私」という主語の度重なる使用は、翻訳、つまりノーベル文学賞を狙っていると思わせました。

 

第3章

父の一周忌。

舞鶴中学校1年の夏休み帰省したときの思い出がある。

母と縁者の男、父と私の4人が同じ蚊帳の中で寝た。私が夜中に目を覚ました時、私の目は父の手で覆われた。蚊帳の中で私が見てはならないことが起こっていたのだ。

母が鹿苑寺に来た。

「彼(鶴川)は私のまことに善意の通訳者、私の言葉を現世の言葉に翻訳してくれる、かけがえのない友であった。(中略)私は写真の陰画、彼は陽画であった。」(p.72)。

母は私に言った。

「ええか。もうおまえの寺はないのやぜ。先はもう、この金閣寺の住職様になるほかないのやぜ・・・」(p.76)。

戦争が終わった。

金閣は音楽の怖しい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。『金閣と私の関係は断たれたんだ』と私は考えた」(p.81)

老師の講話があった。南泉斬錨(なんせんざんみょう)である。

敗戦は開放ではなかった。仏教的な時間の復活だった。17歳の私は決意していた。

『世間の人たちが、生活と行動で悪を味あうなら、私は内界の悪に、できるだけ深く沈んでやろう』(p.88)

金閣の見物はおいおい数を増した。

外人兵が娼婦を連れて見物に来た。

女を雪の上に仰向けに倒し、私に踏めと命じた。

私は実行した。

外人兵は外国煙草を2カートン私にくれた。

私は2カートンのチェスターフィールドを老師に差し出した。

「卒業次第、大谷大学へやろうと思っている。」(p.101)と、老師は私に告げた。

蚊帳の中での母の性行動の意味はよくわかりません。

さらに妊婦を踏みつけるシーンは、歌舞伎からの引用だそうですが、作り話にしか思えません。

しかし小説は「起承転結」の「承」の部分に入ります。

終戦により、滅びの金閣と滅びの私の関係は断たれ、金閣は永遠、私は破滅向かって疾走し始めます

 

第4章

娼婦が鹿苑寺に来た。私は流産した。金を貰いたい。老師は渡す。

私は何も知らされず、老師は不問に附した。私は籠に捕まえられた小鳥のようになった。

私は鶴川と大学に進む。

私に柏木という内翻足(ないほんそく)の友人ができる。

「君が俺に何故話かけてくるのか。ちゃんとわかっているんだぞ。溝口って言ったな、君。片端同士で友だちになろうっていうのもいいが、君は俺に比べて自分の吃りを、そんな大事だと思っているのか」(p.118)。

柏木は女の話をした。神戸の女学校を出た裕福な家庭の娘に愛された話、老いた寡婦の話、エロティシズムの論理の発明の話をした。

柏木と私は授業を怠けて、大学の外に散歩に出た。

そのとき一人の女が向こうから歩いてきた。

内翻足の柏木にどう感情移入すればいいのか、わかりません。

しかし読者は柏木に付き合わされます。

 

第5章

柏木は女が歩いてくる突先に崩折れた。

そして女に向かって、俺を置いてゆくのか、君のためにこんなざまになったんだぞ、薬ぐらいないというのか、と怒鳴り散らした。

私は柏木を令嬢の家の門に放置して逃げた。

金閣に向かい、私の心は和み、恐怖は消えた。

あくる日、柏木と学校で会った。「怪我だって?」、と彼はとぼけていた。

鶴川は、私と柏木の交渉を、快く思っていなかった。

5月、柏木と令嬢、柏木の下宿の娘と私は、嵐山に出かけた。

行きの電車の中で下宿の娘が、とんでもない話をした。

生花のお師匠さんに陸軍の将校の恋人がいた。親の許さね仲だったが子供ができた。

しかし死産。将校さんは戦地に行くことになり、お別れに母親のお前の乳を呑みたいと言った。

そこで薄茶に乳をしぼって入れ、飲ませた。その恋人は戦死した。

私と鶴川が南禅寺で見た光景である。私は黙って聞いていた。

嵐山で昼になった。令嬢持参の豪華な昼食になった。

柏木が突然、痛い!と叫び始めた。嘘だった。でも令嬢は脛をだき、接吻した。柏木は治ったと驚いていた。

二組は別れ、別行動になった。

下宿の娘は柏木と関係があると告白した。

私と娘は接吻した。私は手を女の裾のほうに辷(すべ)らせた。

そのとき金閣が現れた。

下宿の娘は塵のように飛び去り、私は幻の金閣に抱擁されていた(p.160~1の要約)。

鶴川が死んだ。又、私の孤独がはじまった。

私の金閣に対する感情も微妙に変化していた。

柏木とのプロットはあまり好きではありません。

 

第6章

孤独なある日、柏木が二菅の尺八を持ってやってきた。一つは自分用、もう一つは私へのプレゼントだった。

柏木は小曲を吹いた。そのたくみさに私はおどろいた。

「音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。」(p.177)。

その後私は毎夜尺八の上達にいそしんだ。

尺八のお礼に寺の花を持って(盗み)柏木の下宿を訪れた。

令嬢はどうした?と柏木に聞いた。彼女は結婚したと答えた。

柏木は花を活け、そして生花の師匠は、子供を流産し夫を戦地で失い、男道楽をしている軍人の未亡人であることを明かす。

私は錯乱した。あの白い乳房に、すでに柏木の手が、触れているのだ。

やがてその彼女が下宿にやってくる。

しかし・・・柏木は、もうあなたに教わることは何もない、と女に手をあげ部屋から追い出す。

そして私に、女を追いかけてそして慰めろ、と促す。

私は女の家に上がり、私が南禅寺での出来事を話す。

女は驚き、なんという奇縁どっしゃろ、と心も体も許す。

乳房が金閣に変貌する。

「何故なら金閣そのものが、丹念に構築され造型された虚無に他ならなかったから。そのように目前の乳房も、おもては明るく肉の耀きを放ってこそおれ、内部はおなじ闇でつまっていた。」(p.194)。

「深い恍惚感は私を去らず、しばらく痺れたように、その露わな乳房と対座していた。」(p.194)。

そして金閣に帰った。

「いつかきっとお前を支配してやる」(p.196)

起承転結の「転」の部分が始まります。

陸軍士官と永遠の誓いと転生を願った女は、士官が戦死した後、未亡人として柏木の手に落ちていました。

海軍機関学校の生徒の短剣の柄に傷をつけた溝口にも天罰が加わろうとしていました。

愛や誓いなどに永遠などない、永遠は金閣の美だけに独占されていました。

 

第7章

「女と私の間、人生と私の間に金閣が立ちあらわれる。」(p.199)。

昭和24年の正月のことであった。

新京極で老師(住職)と芸妓(げいぎ)と思しき二人連れに出会う。しばらくしてまた二人に出会う。

「馬鹿者!私を追跡(つ)ける気か」(p.205)。

その叱咤で老師に間違いないことがわかった。しかし寺に帰ってからの老師はそのことに無言だった。

老師の無言はのしかかる不安になった。

私は祇園で、葉書大のその芸妓の写真を見つけ買い、新聞に挟み老師に届けた。

何の反応もなし、写真は私の机の抽斗に戻されていた。私は写真を切り刻んで捨てた。

その年の11月、私は出奔した。

一つは後継にするつもりはない、と老師に告げられたこと。

一つには学校の成績が悪く欠席が多いこと、を老師に叱責されたこと。

老師は写真の件も娼婦の強請(ゆすり)の件も触れなかった。

出奔の前日の朝、老師に呼び出された。

「亡くなったお父さんはどない悲しんでいられるやろ・・・・・」(p.222)。

柏木に3000円を借りた。条件は月々1割の利息だった。

10日の朝、神隠しにあったかのように、私は出奔した。

列車の中の禿頭の老人たち話が聞こえてきた。

金閣の年間収入は500万円。経費は、電気代、水道代・・・20万円。余った金は和尚が毎晩祇園で使っている。

訪れた舞鶴湾はすべてが変わっていた。

連合艦隊はすでになく、英語の交通標識があり、米国兵の往来(ゆきき)していた。

私は由良川の川口に向かった。

荒凉たる土地だった。

「そのとき何かの意味が私の心にひらめいた。」(p.240)。

金閣を焼かなければならぬ』(p.243)。

なんと師(住職)までも、花街の客でした。まあ小説だからいいのでしょうか。

溝口の転落も加速します。

さらに海軍機関学校があった故郷の舞鶴も米国兵に占領されていました。

永遠の金閣は虚無にしか過ぎない。

焼かなければならない、という結論に達します。

 

 

第8章

由良館に宿を取った。

なぜ金閣を焼こうと思ったのか。

「人間のようにモータルのものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅のものは消滅させることができるのだ・・・」(p.246)。

内儀の通報で警察官がやってきて、連れ戻されることになる。

鹿苑寺では母が出迎えた。

「不幸者(ふこうもん)!恩知らず!」。母は私をうった。

冬が来た。

金閣がいずれ焼けると思うと、耐えがたい物事も耐えやすくなった。」(p.254)。

昭和25年3月17日に大谷大学予科を終了した。19日に満21歳になった。

5月のある日、柏木に会った。

「5000円だぞ」と彼は言った。

「・・・どうあっても、とるだけのものはとってみせる・・・」。

そして6月10日、柏木は老師のもとを訪れる。

老師は、金を柏木に返し、私にはもう寺におけん、と言う。

私の部屋に立ち寄った柏木は、鶴川の形見だといい、鶴川から柏木への数通の手紙を出す。

そして鶴川は失恋がもとの自殺であった告げる。

二人は親しい議論のやりとりをする。

「・・・美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」、

私は言った。

溝口の没落の描写は見事です。

出奔した溝口の警察による保護、母の叱責、柏木による借金の最速、そして老師による溝口への破門の通告。

交響曲の最終楽章が始まるかの如きです。

 

第9章

柏木が金を取りに来た5日後に老師は、授業料、通学電車賃、文房具購入代として、私に4000円ちょっとをくれた。

授業料を使い果たせばいい。

6月18日、北新地の五番町に行った。この一角に有為子が生きていると信じていた。

まり子という女だった。

「私はたしかに快楽に到達していたが・・・」(p.288)。

「(有為子と)、もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦びをすでに味わっているような気がする」(p.290)。

二度目は自堕落な満足だった。

「新聞に僕のことが大きく出ると思う」(p.293)

まり子は笑い出した。

6月25日朝鮮に動乱が勃発した。世界が確実に没落し破滅する。

金を娼婦に使い果たし破滅する、いかにも小説的です。

しかしその虚構は朝鮮動乱のひとことで現実に転化されます。

 

第10章

私はカルチモンと小刀を買った。

その日が来た。昭和25年7月1日である。

「細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美にそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つここには存在しない美の予兆が、金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆しだったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。」(p.321~2)。

「それにしても金閣の美しさは絶える時がなかった!その美はつねにどこかしらで鳴り響いていた。」(p.322)。

火は藁の堆積の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。

私は駆けた。左大文字山の頂きまで来たのだった。

はるか谷間の金閣の方を眺め下ろした。異様な音がそこからひびいて来た。(中略)金閣の空は金砂子を撒いたようである。

小刀とカルチモンを谷底に投げ捨てた。

生きようと私は思った。

*

金閣は虚構の美。だから焼き滅ばさねばならない。難解です。

しかしその美は絶えず、鳴り響いている。これも難解。

しかし自らも滅びることを覚悟でいた溝口は最後に生を選ぶ、三島由紀夫は考えに考え抜きました。これが結論、これも難解です。

 

3、三島由紀夫

1)ピカソ

絵画はパブロ・ピカソで終わった、という話があります。

なぜなら、ピカソほどだれも上手く絵が描けないからです。

それでマルセル・デユッシャンは、便器を展示し、『泉』という作品にしたと言われています。

三島由紀夫も日本の小説界のピカソです。

三島の文章を読んだらお終い。自分には小説は書けない、だれもそう思ってしまいます。

さらに三島は『金閣寺』で自覚的にピカソを目指しています。

ノーベル文学賞のために、ザイン(現実)ではなくゾルレン(理想)へ文体の変革を、しています。

「私は愕(おどろ)いた。田舎の荒っぽい環境で育った私は、この種のやさしさを知らなかった。

私という存在から吃り差し引いて、なお私でありうるという発見を、鶴川のやさしさが私に教えた。」(p.56)

この二つの文章での「私」の多用はなんでしょう。

そして恐るべきは、ギリシャバロックロココアールヌーボー、西欧の美学の粋を集めた邸宅に、三島はスティール製の事務机を配置し、そこで小説を書いていたことです。

書くことは、観念を事務的に処理する、仕事でしかありませんでした。

2)共感

金閣寺』の構成は見事です。全10章が整然と並び、交響曲のように起承転結があります。

三島由紀夫という人の頭脳はどう構成されているのだろうかと思うほどです。

しかし登場人物には誰一人感情移入できる人がいません。やはり観念で作られた人物だからです。

たとえば『人間失格』(太宰治)の主人公には、これは僕だ、私の秘密が書かれている、と感情移入ができました。

溝口、鶴川、柏木、老師、だれもが小説の中だけのよそよそしい人としか思えませんでした。

そして冒頭の「モテない男の小説」という結論になってしまったわけです。

3)モテる男

三島由紀夫太宰治に対して、私はあなたの文学が嫌い、と言ったと伝えられています。

その通りです。

太宰治は、モテる男の文学、だったからです。

もうひとりモテる男がいます。

谷崎潤一郎です。

対して永井荷風はフランスへ行っても女を買っていました。その自慢話を読んでいて悲しくなってきました。

日本で、よほどモテなかった。

対して谷崎はいい男、モテモテでした。

さらにモテモテの石原慎太郎がいます。

石原は三島の才能を尊敬していましたが、いつも(肉体と行動を)からかっていました。

将来、三島の素晴らしい文章はAIが書けるようになります。

なぜなら三島の文章は卓越した頭脳の産物でしかないからです。

しかし石原の悪文はAIには無理。石原の文章には一度限りの行動の裏付けがあるからです。

AIにモテる男の小説は書けません。私はモテる男の文学が好きです。

 

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『青春ジャック 止められるか、俺たちを 2』、 久しぶりに映画を楽しみました。

THE TED TIMES 2024-12「青春ジャック」 3/22 編集長 大沢達男

 

『青春ジャック 止められるか、俺たちを 2』、 久しぶりに映画を楽しみました。

 

1、映画検定

数年前に「映画検定」なんて、映画の教養を試すテストが流行りましたが、あんな感じです。

映画『青春ジャック』を観ていて、元気のいい昭和の映画を思い出しました。

そこで問題です。

問題:以下の映画の監督名を答えてください。         

1、『日本春歌考』(昭和42年)                   

2、『ザ・オナニー』(昭和45~55年)

3、『水のないプール』(昭和57年)

4、『洗濯屋ケンちゃん』(昭和57年)

5、『コミック雑誌なんかいらない』(昭和61年)

解答(順不同):大島渚滝田洋二郎、藤井智憲、代々木忠若松孝二

藤井智憲と代々木忠はちょっと難しすぎますね。

でも二人の作品についても、映画『青春ジャック』の中で語られています。つまり昭和の常識なんです。

 

2、井上淳一

映画『青春ジャック』は若松孝二(1936~2012)と若松プロに入社した井上淳一(1965~)の物語です。

若松プロダクションの設立は1965年(昭和40年)ですが、昭和のあの頃は大島渚の時代でした。

『日本の夜と霧』(昭和35年)、『忍者武芸帖』(昭和42年)、『日本春歌考』(昭和42年)、『絞首刑』(昭和43年)を立て続けにヒットを放っていた大島渚は時代のスーパースターでした。

若松孝二がその名を知られるようになったのは、『処女ゲバゲバ』(昭和44年)、『ゆけゆけ二度目の処女』(昭和44年)で、「オモテ」の大島渚、「ウラ」の若松孝二、若松はピンクや裏ビデオに近い存在でした。

独特のフィルムメイキングの才能をもつ若松作品が上映されていた「新宿文化」周辺の新宿3丁目には独特の雰囲気あり、「インテリ・ヤクザ」が集まっていました。

無名の北野武もいたはずです。

事実、『その男、凶暴につき』(1989年)や『3-4X 10月』(1990年)のころの、北野武は当時の若松孝二の存在によく似ています。

井上淳一は『水のないプール』(1982年)を観て、若松以外に映画監督は考えられないと、若松プロを志願しています。

映画『青春ジャック』のなかで、井上が撮影現場で邪魔者扱いされるシーンがいいです。

照明の前でカチンコを持って立っていると照明さんから怒鳴られます。「ライト前ッ!」。さらに動くとそこにも照明が、「何度言われるとわかるんだ」、また怒鳴られます。そしてやっと見つけた空きスペース。若松監督「バカッ!そこは俺の場所だ!」

笑い話ではありません。現場を知らないと実際に起こります。

つぎは、井上が脚本を書けなくて苦労するシーンがいいです。

若松「お前、こんなのしか書けねのか。(中略)早く書かねえと、撮影できねえぞ。(中略)パクりゃいいんだ。あれとかどうだ、あれ。ホラ、ボクシングの」

井上「ロッキーですか」

若松「そうだよ。ロッキーだよ。絶対勝てねえと思われていたヤツが勝つ。映画の基本だよ」

「パクる」は下品な表現ですが、クリエーティブは模倣です。傑作には元ネタがある・・・それが面白いんです。

そして名古屋にある「シネマスコーレ(映画の学校)」についての「アオ」い映画館経営理論を展開するところもいい。

「東京にどんどんウチみたな単館がたくさんできているじゃないですか(中略)独立系の映画が増えていくと思うんですよ。(中略)中国映画も今面白くて、東京じゃ岩波とかでドンドン上映している・・・」

『青春ジャック』は脚本・監督井上淳一ですが、脚本はうまいものです。

若松孝二(1936~2012)を演じているのは、井浦新(1974~)です。全く畑違い、生まれも、体型も違う若松孝二をうまく演じています。

観客の笑いを取っていましたから、大したものです。

 

3、映画監督

若松「本当に映画監督になりたいんなら、何か見つけないと。腹立っているものでもいい。誰かを殺してやりたいでもいい」

私は映画監督ではありませんが、お言葉に甘えて言わせていただきます。

私は、映画『福田村事件』に、腹が立っています。

『福田村事件』は、荒井晴彦企画、佐伯俊道・井上淳一荒井晴彦脚本、森達也監督、しかも主演は井浦新、『青春ジャック』の兄弟のような映画です。

日本アカデミー賞で、優秀作品書、優秀監督賞、優秀脚本賞を受賞、2023年日本映画界を代表するとされている映画です(余談ですが、田中麗奈井浦新を抱える芸能事務所「テンカラット」は注目に値します)。

何に腹を立ているのか。

映画のリベラリズムの主張に対してです。

まず、流言飛語に惑わされ四国の人を殺害した福田村(現・野田市)の人を馬鹿にし、「朝鮮人」、「センジン」を連発することで、韓国の人が嫌がる映画を作っています。

それでも映画は最後には、社会主義者も弾圧されたと人権、自由、平等のリベラリズムの主張で締め括り、それを正義だと信じ込んでいます。

リベラリズムとは、朝日と毎日の論調です。

2024年の元旦の社説で、ウクライナとガザでの紛争をテーマに取り上げた両紙はなんとその結論で、朝日は「理不尽の芽を見逃すな」そして「暴力への関心を持て」、毎日は「多様性の尊重」そして「他者のとの共生」を説きました。

なにか紛争解決の糸口になっているでしょうか。平和への提案になっているでしょうか。

リベラリズムを主張する日本の新聞と日本の知識人は世界から完全に取り残されています。

リベラリズムの英国はインドと中国で何をしましたか。リベラリズムの米国はインディアンと黒人に何をしましたか。

そしていま、リベラリズムの国々はウクライナで「リベラリズム帝国主義」として追い詰められているのではありませんか。

さらに将来の日本は、米国独立宣言と同じ文章のあるリベラリズム憲法のために、滅びようとしています。

じゃ、どうなるんだ? 日本は?世界は? 私にわかるはずはありません。

それをやるのが芸術家です。

ただ私にもわかることがあります。もはやリベラリズムはインテリ・ヤクザの勲章にはなりません。かっこ悪い。

『青春ジャック』そして『福田村事件』の映画人の時代は終わりです。

「(リベラリストは)理論においては過激、行動では遅疑逡巡、反対するときは強硬、権力を握れば無力、机上においては正しく、政治においては無能である」

ピーター・F・ドラッカー 上田惇生訳 『産業人の未来』 p.191 ダイアモンド社)。

 

映画館みたいな映画館、黄金町の「シネマ ジャック&ベティ」で、『福田村事件』を観ました。

THE TED TIMES 2024-11「福田村事件」 3/15 編集長 大沢達男

 

映画館みたいな映画館、黄金町の「シネマ ジャック&ベティ」で、『福田村事件』を観ました。

 

1、「シネマ ジャック&ベティ」

見逃していた映画がありました。

ネットで調べたら東京と神奈川ではたった1館、横浜・黄金町の「シネマ ジャックアンドベティ」で、やっていることがわかりました。

ようし、行ってみるか。

京浜急行横浜駅で、ちょっと戸惑いました。どの電車に乗ればいいのだろう。

もちろん各駅停車で、戸部、日ノ出町、黄金町、横浜から三つ目です。

駅を出て、川を渡り二本目を左に曲がり、三本目の通りの角。10分弱で簡単に到着しました。

川は日ノ出町から横浜港、東京湾に出る川ですが、だれかがこの川を名前で呼んだのを聞いたことがありません。名前を知りません。

調べてみたら「大岡川」、初めて知りました。

シネマ ジャック&ベティの昔の名前は「横浜名画座」、以前なんとなく来たかもしれません。

でも横浜の大学に通っていたのは60年前の話ですから・・・。

「ジャック&ベティ」のその名の通り二つのスクリーンを持っていました。

団塊の世代とおぼしき「昔」の若者が群がっていました。ほんと映画館みたいな映画館でした。

待合室の壁に、客がリクエストを書いて貼る、ボードがありました。

市民生活に馴染んでいる、文化的なインフラになっている、かっこいい映画館。いい印象を持ちました。

 

2、野毛商店街

映画が終わってのが4時すぎ、黄金町から日ノ出町そして野毛商店街を目指しました。

黄金町は、学生の頃は怖くて近寄らず、歩いたことがありませんでした。

伊勢佐木町大岡川にはさまれた地域は花街です。ソープランド、ラブホテルが林立しています。

今回歩いて目についたのは、タイ料理やタイマッサージのお店でした。

人通りは少なく、客引きはいませんでした。

しかし途中で大岡川を渡り、野毛を目指した時、誰もいない角に一人の女性が立っていました。

彼女は10メートルほど私についてきました。私は話しかけなかった。彼女はプロだったのか・・・。

こんど黄金町に来る時には、お金を持ってこないと、意味のない反省をました。

野毛の商店街に入ると、黄金町とは打って変わって大混雑、人で、それも若者で溢れていました。

人気の焼き鳥「末広」には若者ばかり20人ぐらいが並んでいました。

一人で入れるお店なんかない。私は2周ほど、野毛商店街をウロウロしました。

そんななかで店の前に打ち水をしている焼き鳥屋がありました。

5時開店、1分前でした。二人の男性が並んでいました。

私はやり過ごして、もう一周、野毛を歩き、そして思い切ってその店に入りました。

よかった。私の後には二人の男性が、カウンターの隣に入っただけ、満員になりました。

ホッピー、イカ納豆、モモとカワの焼き鳥を頼みました。

入店して10分後に不思議なことが起こりました。

一人の女性がムービーのカメラマンを従えて入ってきて、そのあとに録音、照明、演出のスタッフを従えて入ってきました。

カメラは回っていました。

センティングも、リハーサルも、まるでなし。いきなりの本番。

女優は私が座っているカウンターより奥にある4人席に着くと、ひとりで演技を始めました。

話かけている相手はいません。別撮りなのでしょうか。

それにしても不思議です。奥のテーブルの客も、まして私が座っているカウンターの客も、撮影に全く関心をもたないのです。

女優の座った隣テーブルの客は仕込みだったのでしょうか。

もちろん私はスタッフや客に「あの方はどなた?」と聞くこともできませんでした。

撮影の最中にお店を出ました。

お店の名前は「鳥しげ」(045-241-1603 二日酔いイチローさん)です。

どうも予約が必要なお店のようです。

 

3、『福田村事件』

いけない。

何の映画を観たのかを言い忘れました。

『福田村事件』(森達也監督 2023年)です。

昨年8月末の試写会の時に、元朝日と元毎日に新聞記者に誘われて行ったのですが、遅れて行った私だけ満員で観ることができなかった、曰く付きの作品です。

1923年9月1日の関東大震災のあと9月6日に起きた事件のドラマ化です。

震災の後、朝鮮人が井戸に毒を入れた、乱暴狼藉をはたらいている、と流言飛語が飛び交います。

千葉県の福田村では自警団を作り警備にあたります。

折り悪しく香川県からの15人の行商団が福田村に入ってきて、朝鮮人の集団ではないか、と疑われます。

言葉がおかしい、歴代の天皇の名前を言えない、天陛下万歳が言えない。複雑なのは行商人が被差別部落の人々であったことです。

ちょとした行き違いから集団心理に火がつき、福田村自警団による幼児と妊婦を含む9人の行商人の虐殺事件に発展します。

事件を知った新聞記者は記事に書こうとします。しかしデスクは許可しません。なんのために新聞はあるのか・・・これがドラマのサブテーマ。

自警団の何人かは逮捕され実刑判決受けますが、大正天皇崩御の恩赦で全員釈放されます。事件を歴史の闇に葬り去ってはいけない・・・これが映画製作の動機です。

『福田村事件』は、第47回日本アカデミー賞で、優秀作品賞、優秀監督賞、優秀脚本賞を受けています。

昨年の日本を代表する作品です。

ところが映画を見終わって私は、いやーな気持ち、になりました。

映画を作った人の正義派のリベラリズムの主張に吐き気がしました。

その理由を書きます。

まず第1。

映画の中で、「本所」(東京)がひどい被害を受けた、「本所」で大火災が起きた、という噂話が村民の間でなされます。

私の母は明治生まれの「本所」の人、若い頃にまさに関東大震災に出会っています。

朝鮮人」が井戸に毒を入れたという「噂話」や、その結果何人もの「朝鮮人」が警察に連行されたという話を、母から何度も聞いて育ちました。

ですが母は、噂話も警察も、全く信用していませんでした。

お上が言うことなんか、「ハナ」から信じちゃいないよ。面従背腹(面従従腹かな)。それが下町、それが庶民です。

映画『福田村事件』は上から目線で、福田村(現在の千葉県野田市)の人を浅はかな田舎者として描き、馬鹿にしています。

第2。

映画の中で「センジン」だとか「朝鮮人」という言葉が、連発されます。

私は背筋が寒くなりました。

専門学校の教師をやっていたときに、私は韓国の留学生から、私が授業で「朝鮮」と言うのを注意されたことがあります。

「先生『韓国』です!」、「『朝鮮』ではありません!」。

韓国人の心情を忖度せずに、ただ関東大震災100年という理由で、『福田村事件』は映画の中で「センジン」、「朝鮮人」を連発しています。

逆に被差別部落の人々への配慮は過剰で、その対比は象徴的です。

映画『福田村事件』は人権や正義を語っていますが、結果として韓国の反日感情を煽っています。

第3。

映画は、「朝鮮人」や被差別部落の人への差別だけでなく社会主義者も弾圧され、人権、自由、平等が奪われたというリベラリズの結論で結ばれます。

驚きます。

今、ウクライナで何が起きているのでしょうか。

リベラリズムNATOが支援するウクライナの敗北が予想されています。

そしてグローバルサウスの国々は、ウクライナとそれを支援するリベラリズの国々を、支持していません。

17世紀末に人権、自由、平等の『統治二論』(ジョン・ロック)が書かれますが、それ以降のイギリスはインドで中国で何をしたのでしょうか。

1776年にアメリカは人権、自由、平等の独立宣言を書きますが、その後アメリカ人はインディアン(ネイティブ・アメリカン)と黒人に何をしたでしょうか。

そしていま、人権、自由、平等のリベラリズム国際紛争のもとになる「リベラリズム帝国主義」になっています。

リベラリズムとは、人類の普遍原理でも何でもありません。英米を中心とする「核家族制度」のイデオロギーです。

直系家族制度の日本人がその主張をするのは「白人の真似っこ」でしかありません。

映画『福田村事件』は、白人流のリベラリズムで正義を語り、日本の歴史と伝統を否定し、日本国の国益に背いています。

 

結論。

横浜市民の文化センターのような「シネマ ジャック&ベティ」には、団塊の世代が集まっていました。

映画『福田村事件』が、彼ら老人たちに支持されている、と考えるとやるせ無い気持ちなります。

私たちの曽祖父母や祖父母は「朝鮮人」を虐殺した(誤解をしないでほしい。福田村事件はデッチ上げだと主張しているのではない)。

朝鮮人」を従軍慰安婦として連行し、日本兵は性を弄(もてあそ)んだ(朝日新聞は「吉田発言」を訂正した)。

さらに南京で日本兵は罪もない中国人市民を数十万人を虐殺した(本田勝一記者は中国共産党の招きで訪中し、伝聞で『中国の旅』で「南京大虐殺」を書き、いまだに朝日新聞誤報として訂正していない)。

日本は二度と戦争をしてはならない。平和のために日本民族が滅びてもかまわない(『私の根本思想』山口瞳)。

そして「平和と民主主義」の日本人は、山口瞳のアドバイス通り、滅びの道を実行しています。

2023年の日本人の出生数は戦後最少の75.8万人、団塊の世代の頃の3分の1になり、30世紀には日本は地球上から姿を消します。

日本は、リベラリズムの知識人の唱える「平和と民主主義」で、滅びの道を歩んでいます。

以上が、映画『福田村事件』を観た後の、いやーな気持ちの、正体です。

End

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映像の天才「塚本晋也」、しかし賛同できないのは、なぜ?

THE TED TIMES 2024-10「塚本晋也」 3/7 編集長 大沢達男

 

映像の天才「塚本晋也」、しかし賛同できないのは、なぜ?

 

1、カメラ=ペン論

「カメラ=ペン(万年筆)論」というのが、1960年代の映像の世界にありました。

ペン(万年筆)による言論で世界を動かすように、カメラによる映像で発言しようというものです。

塚本晋也(1960~)の映画を観るたびに、この言葉を思い出します。

塚本は映像を自由に扱い、発明に満ち、本来的な意味で映画を創造しています。

さらに言うなれば、塚本の映像にはマチエール(絵肌)があります。

明暗、色調、ボケ具合・・・映像に独特のタッチがあります。

その才能は、うらやましい、クリエーターに嫉妬させるものです。

映画『ほかげ』(脚本・撮影・監督:塚本晋也 2023年)を観て、またまた同じ感想を持ちました。

戦後のどさくさを舞台にした映画の前半、居酒屋兼売春宿のシーケンスでは、そこに住む一人の女を描きます。

登場するのはヒモの男、客の復員兵、そして浮浪児だけです。

カメラは外に出ません。だからロングの画はありません。狭い、光が差し込まない部屋での絶望的で不条理な人物のアップだけの暑苦しいカットが連続します。

まなこ、あぶら汗、絶叫する口しか写っていないようなシーンが連続します。

写真家荒木経惟のデビュー作「さっちん」を連想させます。

荒木は戦後の下町の廃墟で遊ぶ少年たちに密着し、その生き生きとした表情を撮り、太陽賞を獲得しました。

映画は、何もない部屋で、何かがある人間に迫って、映像化しています。

その映像は日本映画史上に燦然と輝く、宮川一夫溝口健二監督)、厚田雄春小津安二郎監督)、中井朝一黒澤明監督)の撮影に匹敵するものです。

繰り返します。

カメラをペンのように持った塚本の映像には、マチエール(絵肌)があります。

 

2、オールマイティー

塚本晋也は特異な映画監督です。

なんでも自分でやります。

脚本、撮影、編集、監督、制作・・・映画製作の全てです。

さらには塚本晋也は役者でもあります。

この才能はうらやましくありません。嫉妬しません。

なぜなら、そこが映画監督塚本晋也の、強みと弱みがあるからです。

まず先ほど触れたように優れた映画監督には、かならずすぐれたカメラマンがいました。

照明、美術、衣装もいました。

そして撮影現場に入る前、脚本の段階でも、映画監督にはパートナーとなる脚本家がいました。

溝口健二には脚本の依田義賢小津安二郎には野田高悟、黒澤明には橋本忍がいました。

たとえば、小津の場合は、1升ビンが100本並ぶまで旅館に閉じこもったと言われています。

二人だけで、まるまる3ヶ月かけ脚本を完成させました。

脚本には映画撮影に匹敵する長期間の戦いがありました。

言語頭脳と音楽頭脳と映像頭脳、ロゴスとパトスとエロス、大脳の新皮質、旧皮質、古皮質の戦い。

そうして私の考えだけでなく、私とあなたの次元を高めた新しい創造の世界が生まれます。

これこそがクリエーティブな仕事の醍醐味で楽しみです。

脚本だけの話ではありません。

監督の狙いを超えたカメラマンのアングル、カメラマンを超えたライトマンのライティング、衣装も美術も同じです。

オリジナルのアイディアが、スタッフ一人が加わるだけで、ワンステップ登るのです。

これが映画製作です。

塚本晋也はすべて一人でやってしまいます。

それは才能ですが、ある意味、悲しい才能です。

似た人がいます。北野武監督です。

北野監督の場合は、脚本を一人で書き、自らがビートたけしとして主演しています。

もうひとりチャーリー・チャップリンがいます。

チャップリンは脚本・監督・主演そして音楽も自分でやっています。

しかしオールマイティに溢れる才能がいいのかは疑問です。

塚本晋也のCM監督時代に出会ったことがあります。

私の仕事ではありませんが、監督がナレーターをやったと聞いて、驚いたことがあります。

作るのが好き、演ずるのが好き、塚本晋也はエネルギッシュなクリエーターでした。

 

3、平和の思想

『ほかげ』で納得できないところがあります。

映画の後半のプロットは、軍人時代の上官に非人間的で許せない奴がいた、その彼への復讐劇です。

反戦思想の濃い、極限状況になると人間はなにをするかわからない、人間批判の物語です。

なぜいまさら、塚本晋也が戦争への反省を描くのか、さっぱりわかりません。

さらに、浮浪児が戦後の闇市で働くシーンがあります。

メシ屋の食器を洗う浮浪児、メシ屋の親父に蹴飛ばされる浮浪児、それでも食器を洗う浮浪児、するとメシ屋の親父は何気にスイトン(雑炊)を板の台の置いてくれる。浮浪児は食べる、また皿を洗う、今度は板の台に小銭が置いてある。

戦争になると人道上許せない軍人がいる。一方で戦後の闇市にも光り輝く人間がいた。

人間批判と人間讃歌。悪い奴のいればいい奴もいる。

しかし、そんなことが映画表現のテーマになるのでしょうか。

塚本晋也の才能のために、脚本家とのタッグマッチを勧めます。

自らの天才と決別してはいかがでしょうか。

 

神に感謝。めったの読まなかったま川賞で大型新人「九段理江」に出会いました。

THE TED TIMES 2024-09「九段理江」 2/28 編集長 大沢達男

 

神に感謝。めったの読まなかったま川賞で大型新人「九段理江」に出会いました。

 

1、ザハ・ハディト

「ザハ・ハディトの新(「シン」筆者の命名)国立競技場は必ず建つ。実現する。でも、それは負のレガシーのようなものにはなり得ない。なぜなら圧倒的に美しいから。そしてザハ案が選ばれたのは、東京に不足する不足する美しさを彼女だけの案が備えていたからに違いない。もしそれが建たなければ、東京が満ち足りることはない。」(p.31)。

「夕焼けが夜に完全に侵食されると、スタジアム全体は幻想的な紫色の光でライトアップされ、東京の景色を一瞬にして何十年も加速させた。(中略)奇跡としか言いようのないその光景を、私はいつまでも飽きることなく眺めていた。今にでも動き出すのではないかという生命感を湛えた構造物は、周囲に林立するビル群や道路を走る車のライトを養分にして独自進化を遂げた、巨大生物のように見える」(p.32~3)。

なんという名文でしょう。

いまでは新国立競技場は隈研吾案で完成しています。ザア・ハディット(Zaha Hadid)のシン国立競技場の設計案を議論する人など、誰もいません。

過去の決定を覆すような議論は潔(いさぎよ)くないとは、知っていますが・・・。

名文です。東京の都市計画の本質をついています。未来があります。

 

2、シン国立競技場

明治神宮外苑は明治天皇昭憲皇太后の御遺徳を伝えるために作られた美しい庭園でした。

明治神宮競技場が大正13年聖徳記念絵画館、野球場、相撲場が大正15年(1926年)、そして昭和6年に水泳場が完成しています。

1958年から、私は神宮球場の前にある都立青山高校に通うことになり、外苑とともに青春を送ってきました。

しかし明治神宮外苑はそのころからすでに破綻を見せてきました。

まず、「明治神宮外苑競技場」が1957年に取り壊され、アジア大会のために「国立競技場」になったことです。

緑の森に異種のコンクリートの構造物が現れました。それは1964年のオリンピックに向けてさらに巨大になります。

つぎに1961年に、大相撲夏場所(1947年)が開催されたこともある、相撲場が壊され第2球場が建設されます。

悲しむべきは、絵画館前の広場が軟式野球場になり、バッティング練習場までできたことです。

加えて水泳場は高速道路に削られ、最後にはなくなってしまい、絵画館裏には首都高速の出口ができました。

絵画館前の「角池」を子供用プールとして開放したことがありました。なんと馬鹿げたことをしたものでしょう。

明治天皇に敬意を表す場をプールにするなど、どなたの発想だったのでしょうか。

絵画館前の広大な広場を野球場にするというのも同じ発想です。

246号線からの銀杏並木があり、広大な広場があり、かなたに絵画館を望むから、明治天皇をしのぶにふさわしく神聖なのです。

国立競技場の建設に始まる矛盾だらけの神宮外苑再開発に対して、新たに計画されたザハ・ハディトのシン国立競技場の設計案は、晴天の霹靂でした。

矛盾だらけの神宮外苑を一新するもので、新しい東京の、いや日本のランドマークになるものでした。

私たちは熱狂しました。

かつて1964年の東京オリンピックのときに、代々木競技場を設計した丹下健三は、コンペで当選したもののの予算オーバーで、設計変更を命令されていました。

丹下は時の権力者田中角栄に直接電話をします。

丹下「設計変更を求められていますが、設計図をご覧になればお分かりいただけますが、変更はできません」。田中「いくら足りないんだ?」。丹下「×××円です」。田中「よっしゃ!」

アンビルト(建築されない)になる運命の代々木競技場は、田中角栄の力で、建設されました。

ザハ・ハディトは、安倍総理に、電話できませんでした。

シン国立競技場案は「アンビルトの女王」の傑作に新たな1ページを加えるだけに終わりました。

しかしいま、東京と日本を革新するザハ・ハディトのシン国立競技場は、小説家・九段理江により、建設され現実のものになりました。

 

3、『東京都同情塔』

小説家・九段理江は、ザハ・ハディト案の実現だけに終わりません。

神宮外苑に聳えるザハのシン国立競技場への回答を用意します。

それは、スカイツリー、東京タワーに次ぐ高さの「塔」を、神宮外苑の隣の新宿御苑に建てるというものです。

これもまたなんと美しい。

「塔は国立競技場という問いに対する完璧な回答である」(p.135)。

塔の名は『東京都同情塔』、その機能は刑務所。

未来の東京では、シン国立競技場と東京都同情塔、二つの巨大建築は同時にライトアップされ、完全に調和し、親密に話し合いでもするようになります。

小説家平野啓一郎は九段理江の受賞に対して、「圧倒的」と評しました。まさに圧倒的です。九段理江さん。芥川賞おめでとうございます。

30年後、50年後、100年後でも、シン国立競技場と東京都同情塔、この美しいアイディアが実現するように、私たちは努力すべきです。

日本映画大学の卒業制作を観て、天国から今村昌平先生の声が届きました。 「映画技術の天才(まあ職人かな)はいたかもしれないが・・・映画製作の不良はいなかったね」

THE TED TIMES 2024-08「日本映画大学」 2/21 編集長 大沢達男

 

日本映画大学の卒業制作を観て、天国から今村昌平先生の声が届きました。

「映画技術の天才(まあ職人かな)はいたかもしれないが・・・映画製作の不良はいなかったね」

 

1、不良で天才

「俳優というのは不良だ」

「不良が映画の世界では主役を演ずるから面白いんだよ」。

三船敏郎という役者は当時の不良。その不良を黒澤明監督が連れてきて映画で主役に使った、だから面白いんだ」

「最近の不良では、・・・女優とトラブルを起こしている長渕剛というのがいるらしいが、奴が面白そうだ」

「監督は?」

「・・・監督は・・・不良で、天才!かな」

日本映画学校に市民が参加できる「土曜映画会」というのがあって、今村昌平校長が話してくれたのを鮮明に覚えています。

1986年に日本映画学校新百合ヶ丘に移ってきて、1992年から日本映画学校では石堂淑朗先生が校長になっていますから、その間のことでした。

日本映画学校は、2011年から新百合ヶ丘駅前から白山キャンパスに移り、日本映画大学になりました。

その卒業制作上映会が2月10日に新百合のイオンシネマの大スクリーンでありました。

今村昌平先生が期待するような「不良で天才」監督は誕生したでしょうか。

 

2、家族

3本の卒業制作を続けて観ました(5本上映でしたが、時間の都合で途中で失礼)。

そして驚きました。

どれもこれも「家族」がテーマの映画だったからです。

20代前半の若者それも映画表現を学んでいる学生の最大関心事が「家族」というのに驚きました。

卒業制作はその作家(学生)の一生を左右します。いや決定づけます。

東京芸大の油絵画家の卵は、卒業制作に「家族」をテーマに選ぶでしょうか。

あり得ません。

まあ、変なツッこみはヤメましょう。

『卒業制作』 vs 『プロの作品』。

二つの作品を対決させて鑑賞し評論します。

これは面白いことになりそうです。

 

1)『あしあとステッチ』 vs 『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』

第1作目は『あしあとステッチ』、35分のドキュメンタリーでした。

兄と私そして両親の家庭です。

不幸が突然訪れます。

建築設備業で順調に業績を伸ばしていた父の会社が、反社(反社会的勢力)と関係を持っていたということで、社会から追放され倒産します。

私は父に何が起こったのかを検証するために取材を始めます。

父と兄、父と母、そして父と従業員、そして私は父と直接対決します。

映画解説のパンフレットは、「家族とは何なのだろうか」と、結ばれています。

映画が描いた「九設倒産」は実在の会社で実際に起こった事件です。

もし父(田島貴博)が反社勢力と関係がないなら、テーマは『冤罪』になります。

しかし父が反社勢力と関係があるなら、反社勢力が何者かがテーマになります。

どちらのテーマでも取材はむずかしい。

かといって「九設倒産」を家族の問題に矮小化することはできません。

作者の学生のみなさんに、質問します。

香港映画のドキュメンタリー『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』(劇場公開2022 監督:香港ドキュメンタリー映画工作者)をご覧になりましたか。

香港民主化デモの中で、2019年に警察が香港理工大学を包囲し学生をキャンパスに閉じ込めた事件を、学生側から撮影した映画です。

香港、中国では上映禁止、でも日本では観ることができました。

反乱を起こした学生たちは、大学の中に留まるべきか、逃げるべきか。

決断をしなければならない運命の時が迫ってきます。

きみならどうする?

キャンパスからの脱走はできます。

塀を乗り越え飛び降りる、生きるか死ぬかの決死行、しかし裏切り。

残ったものは警察との最終決戦になります。

これも地獄です。

観客はいつも決断を迫られます。

対して『あしあとステッチ』では、作者自らが安全地帯にいて、「九設事件」に迫っていない。

不満が残ります。

なぜ、父の罪について警察と対決しない?・・・反社の人へのインタヴューをしない?・・・父と反社の人が会食したレストランの話を訊いてみない?・・・

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「お疲れさまでした」

「 『九設事件』の本質は、大分の事件なのに福岡県警が出てきていることです」

「ひとりの学生がテーマにできる事件ではありませんでした」

「ただし取材を拒否していた父親を説得し、インタヴューに成功したことで、作品は形になっています」

「そこは評価します」

「しかし、疎遠だった父との関係が改善された、という結論では弱い」

「父が家庭を顧みなくなったのは、仕事だけですか。隠された理由があるのではないですか」

「すべての人を問い詰めなければ、観客の心を捉えることはできません」

「ずる賢く、醜い、人間の悪を撮るのです」

 

2)『つきあかり』 vs 『兎たちの暴走』

第2作目は『つきあかり』、25分のドラマでした。

東京のバレエ団でプリマをしている私が2年ぶりに故郷に帰ります。

姉が先に帰っていました。

母は一人暮らし、父は2年前に亡くなっていました。

姉はそれと気がついていませんでしたが、母はボケて耄碌(もおろく)していました。

医者に見せるとアルツハイマー認知症、一人暮らしは難しいと診断されます。

私は東京帰りを延期し母を介護します。姉は施設に入れろと提案します。

私は「バレエと家族、どちらを取るべきかで、悩み続けること」(パンフレットより)になります。

プリマは一日として稽古を休むことはできません。

バレリーナは1日休むと自分ではわかり、3日休むと観客にわかるという厳しい仕事です。

ドラマはバレリーナの現実を無視しています。

介護では「地域包括ケア」が社会のテーマです。

家族、となり近所、ケアマネ、医師が、支え合い・助け合うのです。

室内だけの描写ではだめ、近所と社会を撮るべきです。

そして一番の問題は「認知症」という言葉です。

「Dementia」の訳語に「認知症」を決めた厚労省は間違えています。

高齢化によるボケ・耄碌(もおろく)は病気ではありません。ですから治療・治癒はできません。

学生の皆さんに質問します。

昨年(2023年)公開の中国映画『兎たちの暴走』(『兎子暴力』 The Old Town Girls 2020年 中国)を観ましたか。

中国語でいいます。「兎子暴力(Tuzi baoli=ツージ バオリー)」です。

この映画も『つきあかり』と同じように、母と娘を扱っています。

しかし心温まる家族とは正反対です。母と娘は、娘の同級生を誘拐し、殺害してしまいます。

主人公は母と娘、そして娘を中心した4人の女性、そして女性のシェン・ユー監督の撮りました。

伝統的な価値観の崩壊、無制限に解放される欲望、アノミー状態(規範の崩壊)の市民を描いています。

勝手にしやがれ』(1960年 ゴダール)、『理由なき反抗』(1955年 ニコラス・レイ)、『俺たちに明日はない』(1967年 アーサー・ペン)です。

パンキッシュなファッション、ワイングラスが並ぶスタイリッシュなテーブル、アンニュイ(物憂げで気怠い)でノンシャラン(無頓着で投げやり)、フリージャズのような映画です。

こんな中国映画は初めてです。

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「エンディング。『つきあかり』の中で、母親の前で踊る娘のシーンはうまく撮れています」

「お疲れさまでした」

「ところで、私の『楢山節考』を観てくれましたか」

「老いを究極まで問いました」

「『つきあかり』は、老いの問題から逃げていませんか」

「ボケと耄碌(もおろく)の母による家庭の破壊を、地域社会の破壊を、撮ることから逃げていませんか」

「冒頭の評価と矛盾しますが、老いの問題に対して心優しい人々を描いても解決になりません」

 

3)『ママ』 vs 『苦い銭

第3作目は『ママ』、53分の中国を舞台にしたドキュメンタリーでした。

中国人の母親(私)の物語です。

私の夫はレストラン経営の社長、私には子供が3人います。小6、小4、小1の3人の娘。

ただし末娘は自閉症

私は社員トレーニング学校の校長を務め、小さい頃からの夢、花屋の経営を始めていました。

自閉症の子の特殊教育と家族のケア、そして夢の花屋の経営、私は「家族と夢の両立を果たすことができる」(パンフレットより)でしょうか。

「家族と夢の両立」って何ですか。

なぜ、家族が夢にならないのですか。なぜ、家族と夢が対立するのですか。

西欧流の個人主義のようで問題の立て方で発想がおかしい。

中国は「仁義礼智信」の外婚制共同体家族の価値観です。

「人権・自由・平等」は英米核家族イデオロギーです。

学生の皆さん、中国映画『苦い銭』(『苦銭(Bitter Money) ワン・ビン王兵監督 フランス・香港合作 2016年製作 2019年公開)を、観ましたか。

出稼ぎ労働者少女シャオミン(16歳)の話です。

賃金は12時間以上働いて、70~150元(1190~2550円)、粗末な食事、狭い部屋にベッドが並ぶタコ部屋での生活です。

ゴミが散乱している粗末な街にベンツが我が物顔に乗り込んできます。

カメラがメチャクチャいいです。

すし詰めの車内、女工たちの日常、言い争い、夫婦喧嘩、髪や首筋をつかむドメスティック・ヴァイオレンス

おまけに登場人物が突然カメラマンに命令します。ついてきて、そして撮って。

カメラマンは5人。中に日本人が一人いました。

監督からは、1日最低3時間、5時間は撮れと命令されました。

1人5時間、5人のカメラマン、1日25時間、1週間で175時間。そこから2時間の映画が制作され、中国の格差社会を告発しました。

苦い銭』は、動物のように生きうごめく人間どもを撮り、時代を撮りました。

私の判定:×学生の負け、○プロの勝ち

 

○天国からの今村昌平先生の声

「私が作った学校の生徒が中国で撮影できるなんて驚きです。関係者のみなさんに感謝します」

「気に入ったシーンがありました」

「納品した花に対するクレームの電話のシーン、自閉症のこどもが、粘土細工の人間の足や腕をもぎ取るシーン」

「いいじゃないですか。あのキャメラ・アイです。お疲れさまでした」

「ただし、あとは散漫。本(脚本)の問題でしょう」

「『ママ』の家族は恵まれていませんか。上の下あるいは中の上でしょう」

「だから問題の立て方が難しい」

「病気と医師と医療施設、商売と利権と官僚、教育と地域と中国共産党

「どれでも掘り下げられます。うごめく人間を描けます」

 

3、映画の発明

1)何を撮るか

今回の卒業生は、コロナ禍に学生時代を送っています。

コロナがみなさんを内向きにし、「家族」と向き合うことしかできなくした、と考えると悲しい。

しかし、なぜコロナを問わない?という疑問も生まれます。

○文明の環境破壊がコロナを起こしました。武漢の問題を究明すべきです。

○医学は伝染経路を解明できていませんでした。マスクとワクチンは新たな公害を起こしています。医学を疑うべきです。

○中国には「QRコード」による人民支配の問題があります。私は22年11月にイーキン・チェンのコンサートのために香港に行きました(映画スター・鄭伊健=イーキン・チェンのマネージメントスタッフ)。ホテルで2日間足止めされ、政府からQRコードが送られてきて、外出が可能になりました。私も中国人の行動も中国政府により監視されています。

○民主主義は危機にあります。香港には周庭(アグネス・チョウ)の問題もあります。

○あなたたち学生の発言もすべてAIにより就職先から検閲されています。AIによるキーワード検索の前に言論の自由などありえません。

○映画『ブレードランナー』の次の時代をテーマにすべきです。シンギュラリティを前にして何を学習すればいいのか。ベーシックインカムで私たちは労働を奪われるのか。

○ここでは国際政治の問題には触れません。政治のテーマを議論できないほど、時代は深刻です。

1989年の天安門事件を描いた『天安門、恋人たち』(『頤和園=イーフォユェン』  Summer Place 2006)を日本では観ることができます。

ロウ・イエ監督を過去の人にしてはいけません。

2)どう撮ったか。

いままで辛口にみなさんの仕事を評価してきましたが、作品は仕上がっていました。

作品がしっかりとしていたから、感想があり、評論ができました。

どう撮ったかの映画技術はしっかりしたものです。キャメラ、照明、美術、衣装、編集、MAに破綻はありません。

とくに印象に残ったのは音楽、音の作り方、使い方がうまいことです。

映画職人の養成はできています。素人の意見ではありません。

私は電通のCMクリエーターで、企画、脚本、演出、撮影、編集、ナレーション、MA、予算がなければオールマイティでした。

CMクリエイターは、日本の映画人はもちろん、英・米・仏・独・中、海外の映画スタッフと同じ釜の飯を食い、仕事をしています。

さらに企画とプレゼンテーションのプロです。

今回の卒業制作で感じたのは、プランニングとプレゼンテーションが内向きすぎること、世界感覚がない・・・(広告のチンドン屋が偉そうですみません)。

日本映画大学でもCM講座を1コマ持ちたかったのですが、いまとなっては残念です。

3)映画の発明

映画職人の養成だけでは、映画大学とはいえません。

映画は、映画という確固たる概念があって、それを作ることではありません。これが映画だ!を発明しなければなりません。

エイゼンシュタインは2~3秒のフィックスの短いカットをつなげモーションピクチャー(動画)にしました。

逆に溝口健二はワンシーンをワンカットで撮りました。奇跡のキャメラワークとライティングがそれを支え、新しい映画が生まれました。

さらにゴダールは手持ちのカメラの長いカットを使い、揺れ動くアプレゲールの心を撮り、ヌーヴェルバーグになりました。

日本映画大学の英名は、”Japan Institute Of The Moving Image” です。映画(cinema)ではなく、動画(moving image)を使っています。

そこには映画という固定観念を打ち破る、映画を発明する確固たる意思があります(それにしても分かりにくい英語。学校名としては不適切)。

 

○天国からの今村昌平先生の声

「卒業制作、お疲れさま」

「残念ながら、今回の作品では『不良で天才』に出会えなかったね」

「映画技術の『天才』(まあ職人かな)はいたかもしれない、でも映画製作の『不良』はいない」

「なぜならば私が好きな、「うじ虫」のような人間を、撮れていなかったから・・・」

「問題は脚本。いや脚本以前の、企画の問題だろうね」

「ことしの卒業制作では映画は発明されていなかった。来年また、お会いしましょう」

End