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花田清輝 『鳥獣戯話』(講談社)2/2

 鳥獣戯話の第三章『みみずく大名』は、1549年、フランシスコ・ザヴィエルが日本に漂着して以降、キリスト教がある程度広まったとされたことについて書かれたものだ。イエズス会が設立した学校,病院などの業績,日本国内の出来事などが報告されている『耶蘇会士通信』の記事を批判しながら、当時のポルトガル人宣教師と日本人僧侶の宗教問答を、花田は面白おかしく、きわめて鋭い調子で書いている。もちろん大新聞やグーグルトップページに載っているような、高校教科書を焼き直したごとき話ではない。
 p56−7
 『耶蘇会士通信』が誇っているように、ポルトガル人宣教師の大名たちへの布教活動によってどんどん信者が増えていったとしても、その「信者」が真にキリシタンの名に値する連中だったかどうかとなると、大いに疑問なきを得ない。信者の「数」についても無論のことだが、日本の僧侶とたたかわせたとする宗論の「質」についてもはたしてどうだったのか。いたるところで宗論を行い、片っぱしから日本の無学な僧侶たちをぐうの音も出ないほどとっちめていったという耶蘇会士たちの自慢話には、かなりの誇張があるのではないか。
 宗論はもちろん話し言葉によって行われる。日本の僧侶がポルトガル語を知っていたわけはないから、この場合は日本語によって行われたに違いない。しかし来日して以来まだいくらもたっていない耶蘇会士たちに、高度な宗教論争ができるほど高度な日本語が操れたとはとても思えない。せいぜい以下のような珍問答が続いたと考えても、まったくおかしくないだろう。
日本の僧  しからばお尋ねいたすが、デウスとやらは、どこに祭られ、いかなるお姿の方であらせられるかな?
耶蘇会  デウスはどこにも祭られておりませんですね。しかし、どこにもおられないということはありませんですね。
日本の僧  とすると、ここにもおられるといわれるか?
耶蘇会  はい、ですね。わたくしどものすること、みな、見ておられますですね。
日本の僧  いやはや、これはまた、奇怪千万なることをうけたまわる。しからばそのデウス殿に、さっそくお目にかかろうか。お呼び出しあれ。
耶蘇会  デウスには形はありませんですね。
 ―――といった調子では、日本の僧たちが舌のまわりかねる相手を憐れんで、苦笑しながら得意の問答を打ち切ったにしても一向に不思議はなかろう。ところが、おのれの滑稽な姿に少しも気がつかない耶蘇会子たちは、てっきり問答に勝ったのだと思い込んでいい気になって、イエズス会本部に報告していたのである。少なくとも『耶蘇会士通信』の「仏教恐るるに足らず」といった部分にはこのような事情が隠れている。
 一般に耶蘇会子たちはユーモアを解さない。ザヴィエルでさえ、というよりもザヴエルこそぼくねんじん中のぼくねんじんだったのかもしれないが、鹿児島・島津家の菩提寺で座禅をしている僧侶たちについて、住職忍室禅師の闊達なユーモアをまったく理解できず、仏教僧侶のモラルを勝手に弾劾するようなただの堅物だったのである。
 ザヴィエルが座禅を組んでいる僧たちは何を考えているのかと問うたのに対し、忍室禅師はこう答えたという。「ある者は檀家から巻き上げた銭の勘定をしておる。ある者は自分たちに待遇改善について頭をひねっておる。またある者は、若いおなごや稚児のことなどを思っておる。ひとりとしてろくなことを考えておるやつはおり申さん。」 ザヴィエルは、とぼけたような忍室禅師の説明を真に受けて、そこから、日本の僧侶たちはひどく堕落していると言い出す始末だから、手が付けられない。