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フィリップ・ボール 『かたち』(早川書房)3/3

 生物の「かたち」の多様性は、同じ語彙――生物なら化学物質――を与えられても全く異なる文学が出来上がることに似ている。
 p225−6
 あのラドヤード・キップリングによれば、シマウマのシマ模様は、実はカモフラージュとして「有用」で、サバンナの中で丈の高い草や潅木の陰が一種の日焼けによって動物の皮膚に刻印されたものらしい。ヒョウの、まだらに斑点のある皮膚も、日の当たるところがまだらになっている潅木森の中では、獲物に忍び寄るのにうまく適応しているとキップリングは言う。これでは、シマウマとヒョウのどちらの適応力がすぐれているか、まったく分からない。
 こうした模様が形成されるメカニズムについてキップリングが述べている説明は、もちろん楽しいくらいに空想的だ。しかしダーウィニズムには、その代りに提示すべきものなどおよそないように思われる。ひとたび定着すると、「有用」な模様と形態がどのように集団の中で持続するかをダーウィニズムは説明する。ところが、そもそもこういう模様や形態がどのようにして生まれたのかという問題について、ダーウィニズムは沈黙を守っている。
 いまでは、一部はラマルクの用不用説も取り込んでいるのかと思わせるほど難解なネオダーウィニズムが、遺伝物質の伝達を通じたシマウマの縞模様の受け継ぎ方を教えてくれる。しかし、「縞模様」遺伝子は、シマウマの体の形を決める遺伝子ほど決定論的ではない。――というのもシマウマの脚と耳はいつも親と同じ位置にあるが、縞模様の条はそうではないからだ。「縞模様」遺伝子は、単に、縞模様に向かう傾向だけを伝えるだけのように思われる。あたかも、巻貝「外殻」遺伝子が、カルシウムイオンに対して対数らせん形状をとる傾向だけを伝えるかのように。
 p229−30
 どの多細胞生物も、分裂初期の受精卵は球対称性を備えている。それが、外からどんな乱れももたらされずにどのようにして、球対称性が破れ、細胞群が種々の器官に向かって分化し、別々の発達の道をたどって、発生初期の球対称性とはほど遠い形態になりうるのか。
 多細胞生物の個体にあるさまざまな器官は、すべて同じ遺伝物質を持っていながら、明らかに互いに異なる機能を果たしている。理由は、器官ごとに遺伝子の活動パターンが異なることにある。たとえば、ある遺伝子が肝細胞では積極的に読み取られても、ほかの器官の細胞、たとえば骨形成細胞では「沈黙」していることがあるのだ。器官や組織によるこうした遺伝子の発現の違いには、器官や組織ごとに異なる酵素タンパクの違いが関係している。
 しかしながら、「器官や組織ごとに異なる酵素タンパクの違い」といっても、もともとはそっくりの細胞が集まったにすぎない発生初期の胚のはずである。この均質な集団がどうやって、それぞれに特定の位置と発達上の運命がある細胞群に分化し、それぞれ独自な酵素タンパクを生成していくのか。
 p231
 「発生初期の胚の対称性の破れ」について画期的な仮説を立てたのは、いまのコンピューターの基礎理論を確立したチューリングである。チューリングは、ある数種の有機物質をよくかき混ぜておくと、最初は均質な拡散状態を維持するが、これを一定条件下に放置すると、化学組成が際立って異なる三次元のパターンが生じることを発見した。
 チューリングはこう考えた。有機体が成長していくあいだに、「モルフォゲン」(その生体独自の変異因子)と呼ばれる化学物質が組織の中に三次元拡散して、異なる細胞の遺伝子のスイッチを入り切りするのだ、と。 たとえば、脚に成長を促す「脚喚起モルフォゲン」や、皮膚の色素沈着に影響するモルフォゲンもありうるとチューリングは推測した。
 組織ごとに異なるモルフォゲンも、元はといえば初期胚の分裂をうながす初期モルフォゲンであり、それが次の器官や組織への成長をうながす。つまり、モルフォゲンは自己触媒的に働くのであり、モルフォゲンがいったん働き始めると、その器官は自分自身が自動的に生成していく。器官の発生、成長を指示する命令は、その個体の外から何ものかによってなされるわけではない。
 p260
 この「チューリング理論」は、シマウマやヒョウや昆虫や貝などの、カモフラージュ、危険標識についても意味のある説明ができる。ダーウィン自然選択説では、これらの豊かな自然の芸術を解釈しようとしてもあまりうまく行かない。貝の中には、泥に埋まって生きているものが数多くあり、泥の中では、手の込んだ「選択されるための外装」も、完全に隠れてしまうからだ。
引き出せる結論はただ一つ。「自然」は、模様や形を作り出したいという抑えようのない衝動をそれ自身かかえており、「必要」など擬人化された条件などなくてもそうするというものである。
 p276
 ある蛾が形と色の点で、あるハチに似ていれば、歩き方と触角の動かし方もハチのようで、蛾らしくない。チョウが葉っぱの様に見えれば、葉っぱの細部が見事に表現されているばかりでなく、虫食い穴を擬態する模様もごていねいに入っている。ダーウィン的な意味での「自然選択」では、模倣的な側面と模倣的な振る舞いの奇跡的な一致を説明できない。また、捕食者の理解力をはるかに上回る微妙な、豊富な、贅沢な擬態を目にするとき、そこには単純な「生存競争」や「有用」の理論を上回る、非功利主義的な「自然」の衝動、喜びが働いていることはあきらかである。
 p403
 粗っぽい話だが、これは音楽や文学の創造性にたとえることができる。「世界」というものは個々のセンテンスを組み立てる文法規則が突然開いてくれるものだ分かったとき、人は物語を書き始めることができるのだ。