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無骨な日記

2012-03-31

機関誌に寄稿した文章

12:24

【序章】
オタクのマーケットは常に二次創作と共に発展を遂げてきた。それはマーケットの発展や人材発掘の場であることも然り、規制や社会的バッシングも然り。
二次創作に宿ったこれらの問題はどこから生まれたのか。まさにエロティシズムからだ。またそのエロティシズムとはキャラクターの可能性を指す。当文面では二次創作に宿ったエロティシズムの可能性について述べ、データベース化された記号がどのようにキャラクターに身体性を与えるかについて述べたい。
二次創作において描かれるのはある作品やキャラクターの可能性である。全年齢対象であろうと、成人対象であろうと物語やキャラクターを「自分ならばこう描く」という表現である。ではそのキャラクターの「可能性」をさらに絞り、当文面では性表現から語りたい。では二次創作の性表現における可能性とはなんなのだろうか。それは記号、さらに言うならばデータベースの集合体であるキャラクターに身体性を与える可能性を描くことだといえる。それはキャラクターの身体的可能性だといえる。
人間はフェティシズムを持つ。性的だと感じる身体的特徴からエロティシズムを読み取ることができるのである。ではキャラクター表現においてフェティシズムはどのように考えることができるだろうか。
【1.キャラクターと近代ヨーロッパの博物ブーム】
キャラクターに直接的な身体性を見て取るのは難しい。しかしキャラクターは記号へと分解し捉え直すことができる。この章では東浩紀のデータベース論、村上裕一のキャラクターデータベース論、15〜19世紀にかけての博物ブームを参照にしながら記号とキャラクターの関係について検討してみたい。
キャラクターを形作る記号がなぜ日常と乖離したような色彩、様式をしているのかを考えるときに類似性が指摘できるのは15〜18世紀にかけて登場してきたヴンダーカンマーと19世紀にジェレミー・ベンサムによって考案されたパノプティコンの視点からである。
ヴンダーカンマーとは王侯貴族の集室のことであり、珍品を集め置いていた場所のことである。珍品とはオウムガイで作った杯、ダチョウの卵、一角獣の角などが飾られていたと言われる。これらの珍品に求められたのは現実から乖離した非日常的な物品であるといえる。またヴンダーカンマーは知的欲求を満たし収集者の富や権力のものさしとしての機能を持っていた。この「知的欲求を満たすため」の機能を考えただけでもすでにオタク的な側面を嗅ぎとることができる。
しかしヴンダーカンマーは極私的な範囲での収集であった。ヴンダーカンマーはやがて18世紀に変化し始める。(類⊆駝私的コレクションの公開がヴンダーカンマーの機能となっていく。ヴンダーカンマーの部屋が一つでなくなり、分割される。ここで分類/整理/収納の機能としての側面が強くなっていく。また秘匿性や神秘性が失われ、現在の博物館的様相が強められることとなる。
【1-1.パノプティコン】
当時は市民革命の全盛期であり例に漏れずヴンダーカンマーの貴族趣味的価値観も壊されていった。ヴンダーカンマーのいかがわしさ、神秘性、オカルト性が削がれていったことを意味し、同時に芸術から醜いものが排除されていったことを示す。こういった流れの中でヴンダーカンマーは衰退し、現代の美術館が台頭していくこととなる。
ここでパノプティコンに注目したい。パノプティコンの建築様式は円形であり、見られることを常態化する作用が働いていた。そしてこの円形プランは美術館にも採用されるようになっていく。ここで芸術品を見る/が見られる関係が生まれてくる。芸術は多くの人々に見られ、芸術は人々の啓蒙/教育的機能を担うようになった。これは貴族文化の排除でもあり、美術が大衆を迎合する過程での文明の選別でもある。
バタイユは、――「最初子供はわれわれの動揺には無感覚である。したがってこのような側面、嫌悪を催させるこのような臭いは、それ自体としては人を不快にするものではないと考えざるを得ない。(中略)われわれはこの世界から絶えず「汚物」が締め出されなければその機構が解体してしまうような形で自己の周囲にこの世界を組織してきた。だが、われわれにこの絶えざる拒絶の運動を要請するもの自然のものではない。いや全く逆に、自然の否定の意味を持っている。子供がわれわれに似ることを望むなら彼らの示す自然の運動に抗しなければならない。(中略)しかし、われわれに子供の体を洗わせ服を着せる運動を子ども自身が共有するようになるまで、すなわち、肉の生、裸の、隠蔽されない生への嫌悪を共にするようになるまで手を緩めないのだ。」――(エロティシズムの歴史 呪われた部分――普遍的経済論の試み/ジョルジュ・バタイユ ちくま学芸文庫より引用)と述べる。まさに国家が国民への啓蒙/教育を施すときに自然物の否定を行う過程でヴンダーカンマーに含まれた、人間的でない、醜悪なものを排除した。
【1-2.パノプティコンとキャラクター】
この西洋の美術史の変遷はサブカルチャーの一次創作におけるエロティシズムの抑圧と類似性が指摘できる。それは人間の動物的な部分を覆い隠し、しかしその中で美しさを描き出そうとする点においてである。現代のキャラクター文化において排除されたのは性器や、直接的に人間の動物性を想起させる部分である。それはまた西洋において排除されてきた汚物、死を想起させる醜さであるとバタイユのテクストから読み取ることができる。
さらに言うならばパノプティコンの語義pan-optikon[全て-視る]を考えることで類似性が指摘できる。パノプティコンにおいて採用された円形プランは視点を中央に置くことで建物内のすべてを見通すものだった。パノプティコンにおいては時代、地域、流派によって区分がなされた。これはデータベースのキャラクター化/キャラクターのデータベース化との類似性を指す。
我々はデータベースに対して直接的な視点を持ってはいないが、不可視の視線によってキャラクターの背後に隠れた属性、記号に含まれる意味を読み取っているからだ。
それは記号に与えられた意味を自然と分類している点からも言える。例えば「金髪ツインテール」から読み取るツンデレというキャラクターの属性などだ。芸術においては様々な技法からその作品全体を読み解くことができる。技法に現れた特徴はその作品におけるステータスを表すこととなる。これはまたキャラクターにも同様であり、記号の集合体であるキャラクターは各記号部分からそのキャラクターのステータスを読み解くこととなる。この不可視の視線によって全てを視ようとし、管理する――キャラクターにおいてそれは無意識に――構造の類似性は博物ブームの変遷を追うことで確認できたのではないだろうか。
【2.キャラクターの身体性】
しかし芸術とキャラクターには大きな違いがある。それはキャラクターがベタな意味で物語の中で動かなければならないということだ。その時にキャラクターはより私達生身の人間に一歩近づくことになる。しかし人間とキャラクターには決定的な差異がある。それは身体性だ。キャラクターは人間を模しているがどこまでも人間とは相容れない。キャラクターには死と性器がないからだ。手塚治虫はキャラクターの死やエロティシズムを描くことによってキャラクターに身体性を与えようとした。
では死やエロティシズムとはなにを指すのか。人間が自然から作られたものであることを示すことだとバタイユはいう。ならばキャラクターは人工的に生み出された造形であるから絶対に死やエロティシズムを獲得することはできないはずなのである。本稿では「死」について詳しく言及することは控える。しかしエロティシズムについては疑問が残る。なぜならば性産業としてのキャラクター文化もまた立派に成り立っているからである。キャラクターはエロティシズムを持っているということができるだろう。ではキャラクターのエロティシズムがどこに宿り、キャラクターに宿った身体的可能性はどのように身体性へと昇華するのか。
この問題を考えるとき一次創作と二次創作との関係を取り上げたい。二次創作では身体的可能性が描かれると述べた。ではその身体的可能性とはどこに宿るのか。それは性を彷彿するシンボルや肉体的な性交渉においてだといえる。
ここでエロゲーと呼ばれるノベルゲーは含まれない。これらのジャンルにおいてはすでに作品内で性交渉のシーンが描かれている。これらは一次創作の時点で身体的可能性を宿しているのではないか、と思われるかもしれない。これは後ほどに触れるが、紙面の便宜上今は目を伏せていただきたい。
この章においては一次創作において性表現が含まれない二次創作を扱う。一般的に一般放送、マンガ誌、家庭用コンシューマーゲームにおいては直接的な性描写が描かれることは少ない。もちろん例外はあるがそれは規制への反発に含まれる。ここで問題となるのは規制、抑圧についてである。二次創作とは一次創作に描かれるキャラクターの身体的可能性を物語という抑圧から開放し描くことだ。
【2-1.性的なアイコンとキャラクター】
一次創作で抑圧されたキャラクターの身体性は、キャラクターであることをデフォルメされた性的なアイコンによって主張し続ける。デフォルメされた性的なアイコンはデータベース化されている。例えば女性的なアイコンといえば乳房である。乳房からキャラクターに与えられた属性を読み取ることは可能である。「ロリキャラ=貧乳」のように。例外的に「ロリ巨乳」なる属性も存在するがそれは「ロリ」キャラの脱構築だといっていいだろう。他の例を挙げ始めるときりがないのでここでは言及しないが、「乳房」というアイコンから想起できるキャラクターの属性はある程度分類化できる。このようにデフォルメされた性的なアイコンはデータベースに組み込まれている。
しかしキャラクターの性的なアイコンはキャラクターの性別をいまだに明確にしない。なぜなら人間としての性の機能が隠されてしまっているからだ。ジェンダーとしての性別ではない。セックスとしての性別のことである。それは性器がデータベース化されていないからだ。「バカとテストと召喚獣」を例に挙げよう。木下秀吉は性別を男だと主張する。だが、姉である木下優子を隣に並べ見比べてもどちらが男性か非常に見分けにくいのである。(*資料1)それを見分けるために男性的/女性的なアイコンを配置し差別化を図っているかもしれない。しかし秀吉が男装をし、自分が女性であることを否定する倒錯した女性キャラクターである可能性は性器を確認するまで否定出来ないのである。
それはキャラクターが記号の集合体であることを暗に表してもいる。現実の私たちはその人の骨格、喉仏の有無等で性器を確認するまでもなく性別を見ぬくことは難しくない。しかしキャラクターはデフォルメ化された身体記号の集合体であるため、その境界が曖昧になってしまう。つまりキャラクターは身体性を抑圧されているのだ。ここでは中性的であり一見性別の判断がつきにくいキャラクターを意図的に使ったが、もちろん他のキャラクターも同様である。両性具有の可能性は否定出来ない。まさにそれを逆手にとったような「ふたなり」というジャンルも存在するのだから。
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(*資料1)左が木下優子、右が木下秀吉

【2-2.データベースに含まれないもの】
性器は規制によって全年齢対象作品では描かれることはない。しかし彼ら/彼女らが人間を模しているのならば必ず性器を持っているはずなのだ。その可能性を描くのが二次創作においてであり、そのため二次創作とはキャラクターの身体的可能性を描くことにあると表記した。そしてその身体的可能性は性器によって身体性へと昇華する。
一次創作においてすでに性交渉が描かれるキャラクターは身体的可能性をはじめから持ち合わせているのではないかという疑問に応えたい。性器はデータベース化されていないと先述した。キャラクターがデータベースによって組み立てられているのならば一次創作の時点で作られたキャラクターのデータベースにも性器は登録されていない。つまり物語において性交渉が描かれ物語内で性交渉のシーンが描かれ、身体性を獲得しようともキャラクターとして生み出された段階においては、いまだ身体性を獲得していないといえるだろう。
しかしキャラクターは性交や性器以外によって身体性を獲得することもある。それは排泄、嘔吐から考えることができる。バタイユは人間が腐敗物へと還る諸過程に自然的な所為があるからこそ、腐敗物を想起させる対象を忌避するようになったと考えている。性器は排泄器官に近接するからこそであり、死は腐敗物へと還るからだと考えた。我々はそういった人間が自然的、動物的であることを想起させるものは抑圧され忌避すべきものとして教育された。バタイユは「死とは間違いなくこの世の青春である」(上記同書)と表現する。しかし人は死を見据えその目眩を楽しむことが限界だと述べる。
では逆説的に死を想起させる腐敗物についても性器や性行為も同様にキャラクターに身体性を与えるのではないだろうか。そこで「断面図」を取り上げたい。主に性器が描かれることが多いが時には人体模型を思わせるほどの断面図もある。断面図に描かれる臓器は人間が抗うことのできない、生の誕生によって与えられた器官である。排泄行為、嘔吐行為はこれらの諸器官の運動によって生まれる。排泄物、嘔吐物とは生命活動の一環であり身体において不可欠なものだ。しかし一次創作においてそれらが直接的に描かれることは少ない。臓器もまたデータベースには含まれない。
しかし二次創作においては度々描かれる。例えば性行為中の性器の内部を断面図として描かれることもある。さらに直接的に臓器を描くジャンルも確立されつつある。それはイラストコミュニケーションサービスサイトpixivにおいて「臓物」「内臓」のワードで検索をかけると200件を超える投稿作品が見られることからも確認できる。この創作活動もまた抑圧された身体的可能性を描こうとした結果生まれた手法であるといえるだろう。
【統括~萌えはかわいい猫をみた時と同じ感覚?~】
キャラクターに与えられない身体的可能性とはつまり抑圧されたエロティシズムや死を想起させる対象のことである。そしてそれら身体的可能性はある意味で恣意的に排除されたといえる。なぜならキャラクターの表現に対する法規制やバタイユが言ったような子供を教育する上であえて遠ざけたからだ。本来キャラクターには身体性が宿らなければならない。それは人間を模写し、われわれと同じように物語が与えられているからだ。
しかし恣意的に抑圧された身体性はエロティシズムとしてデータベースの背後に隠された。その抑圧された身体的可能性=性器やキャラクターの生々しさを見たいという欲望がキャラクターの身体的可能性の獲得する条件であるといえるだろう。
東浩紀はオタク系性表現に慣れているからこそキャラクターにおいても動物的に性器を興奮させることができると述べている。当紙面はこの論をなぞる形で補足できることがある。それは本来動物的な性行為を人間的な抑圧によって禁止することで、キャラクターに含まれた身体的可能性を描こうとする。そしてその意志によって動物的な欲求がキャラクターに宿る。その欲求は本来キャラクターに宿りえないが、その可能性はいつしかデータベースの背後に宿り、自然とキャラクターにエロティシズムの可能性を見て取ることができるようになったということだ。それをかすかに嗅ぎとることが「萌え」と呼ばれるものなのではないだろうか。

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フーコーを読むために、バタイユを読んでいた時に「抑圧」と「視線」を使って動ポモを読み解けるんじゃないだろうか、とふと思ったのが今回の執筆動機です。同時にそのころ読んでいた「ゴーストの条件」を用いながらキャラクターのエロティシズムとはなんなのかという日頃疑問を覚えていた部分に切り口を当ててみようと考えました。本来はこれほどの文章量で済むはずのない問題なのですが、これを書いていると自分の性欲とかそういう根源的な部分を自分で疑っている気がして、非常に疲れてしまいました。キャラクターのエロティシズムについてはまだまだ書いてみたいことがあるのですが、一旦離れもう少し時間ができたら再度取り組んでみたいと思います。