“手で書けもしない漢字”が読めたっていい

 本日、常用漢字表が改正され、5字削除、196字が追加されたそうです。
 常用漢字表の範囲外の漢字を追加するという案に反対意見を述べる人もいたようですが、昔からよくある反対意見の一つが「手で書けもしない難しい漢字なんて、ひらがなにすればいい」というものです。近年は「ワープロやインターネット等の発達で、手で書けもしない難しい漢字をどんどん使う傾向がはびこっているのを憂慮する」、という意見も時々目にします。
 確かに、「何とか読むことはできても、書くとなると難しい」漢字が、今回常用漢字表に追加された字の中にもあります。「書けもしないそんな漢字は、常用漢字表なんかに入れずに外しちまえ」という意見も、表面的には、正論のように見えます。

「読める漢字の数>書ける漢字の数」は当たり前

 でも、ちょっと考えてみてください。皆さんは、道路の「交通標識」を見て、「これは工事中の標識」「これは横断歩道の標識」と区別することができますか。きっと、大半の方は「はい」と返事することでしょう。
 それでは次に、「工事中の標識や、横断歩道の標識を実際に画用紙に描いてみてください」と言われて、正確に描ける人はどれだけいるでしょうか。この文章を書いている私ですら、ちょっと自信はありません。
 これは交通標識に限らず、企業のロゴとか、漫画のキャラクターとか、美術作品等にも言えることです。
 このことからわかるように、「見て識別する能力」と「鉛筆やペンなどで書いたり描いたりする能力」は、同じものではありません。後者に比べれば前者は簡単であることも、見て識別できるものは多いが、書いたり描いたりできるものは限られているということも、むしろ当たり前のことなのです。
 話は脱線しますが、「聴く」のと「話したり歌ったり演奏する」のも、また違います。私は大阪弁をうまく話せませんが、聴いて理解することはできます。音楽を聴くのが好きでも、歌ったり演奏するのは苦手という人は多いでしょう。それと同じことです。
 「誰もが簡単に描けるほど単純な図形でないと、道路標識として使ってはいけない」なんて決まりはありません。「グリコのマークを描けないと、ポッキーを食べてはいけない」とか「エレキギターを弾けないとJ-POPを聴いてはいけない」なんて決まりもありません。文字についても同じ事が言えるのではないでしょうか。

そもそも、「読める漢字の数=書ける漢字の数」であるべきという誤解はどこから?

 これは私の持論ですが、そもそも「かつての文部科学省の定める、学校での漢字の教え方」が間違っていたのだ、と、はっきり断言します。これまで長い間、文部科学省検定教科書では、「書けない漢字の読みなんて教える必要はない」という間違った前提のもと、「まだ書き方を習っていない漢字」を、わざわざ平仮名にして、「漢字の教え渋り」をしてきたのです。
(私が小学生の頃は「人名や地名など一部例外を除き、書き方を教わってない漢字は原則として平仮名」だったと記憶していますが、最近は方針が変わってきているようです。id:Nemyさん、ご指摘ありがとうございました。)
 でも、子供はそんなにアホじゃありません。振り仮名さえ振ってあればちゃんと読めますし、それがきっかけで漢字を覚えてしまうことがよくあります(漫画が良い例です)。幼稚園児でさえ、まだ習ってないのに「仮面ライダー」の「仮面」の字をちゃんと読める子は、きっと少なくないはず!

小6の時、親に内緒で学校で「ギャグ」の出し物をやった話

私が小6の頃のある日のこと、母に、学校のお楽しみ会で私が何をやるのかと聞かれました。今より語彙の少なかった私は、「ギャグ」と答えました。
すると、驚いた事に、両親の顔の色が変わったかと思うと、すぐに家族会議が始まったのです。そして、父も母も「そんな下品なものをやるとは何事だ!」「そんなのやめなさい!」と、ヒステリックに怒り出しました。私が具体的にどんなネタをやるのかも聞かずに、です。
今思うと、恐らく両親は、私がドリフやひょうきん族みたいなああいうギャグでもやるつもりだと誤解したのでしょう。これらは、今でいう「クレヨンしんちゃん」以上に、一部の親には猛烈に叩かれていました。でも、私はまさかそういう誤解が原因なのだろうとは思ってもみませんでした。とは言っても、それにもし気付いたところで、一旦燃え上がった火を消す事は、まだ子供だった当時の私には到底無理な話でしたし、そんな余裕もまずありませんでした。
さて、親に言われてやめる事になったとなると、親の体面に関わるとでも思ったのでしょうか、両親は言いました。「もうやると言ってしまったのなら仕方ないから、下品じゃない洒落とかにしときなさい。"しっぽが白くて、面白かった"、それでいいじゃない」。
「はい、はい、そうします」。仕方なく私は答えました。でも、当然ながら、私はその「押し付けられたくだらないネタ」を使う事はありませんでした。
そして本番当日。私は圓樂さんみたいに司会、そして友達は笑点メンバーを真似て回答者を演じながら、「笑点」という出し物をクラスのみんなに披露しました。「ギャグ」の正体とは、この「大喜利」のことでしたが、教室は笑いと拍手が湧き、大成功のうちにお開きになりました。でも「このことは両親にだけには絶対教えてやるものか」と思いました。本当は「笑点」が好きで、日曜夕方になるとよく見ている両親であったとしても。
※この物語はどう見てもフィクションにしか思えませんが、それでもノンフィクションです。