「変人」は褒め言葉 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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2005-07-03

[]おたく客と家族客が共存共栄する中野ブロードウェイ おたく客と家族客が共存共栄する中野ブロードウェイ - 「変人」は褒め言葉 を含むブックマーク おたく客と家族客が共存共栄する中野ブロードウェイ - 「変人」は褒め言葉 のブックマークコメント

 中野ブロードウェイはすごい。すご過ぎる。これまで存在を知らなかったことが大いに悔やまれるくらいすごい。

 何たって、おたくなヴィンテージアイテムの店が迷宮のようなビル内にずらりと並んでる。昔の漫画に、昔のアニメレコードCDDVDに、怪獣のソフビ人形にノベルティグッズに、とにかく見ているだけで飽きない。地元にある「千葉中央鑑定団」という少々マニアな雰囲気のリサイクルショップが好きな私には、まさに楽園のような場所である。

 とは言っても、店舗部分である地階から四階すべてがおたくな店で占められているわけではない(注:五階から上は住居)。スーパーもあれば、食堂や昔ながらの喫茶店もあれば、婦人服の店もある。四階はおたくな店中心で、一階と地下は普通の店中心。上の階に行くに従って、おたくな店の占める比率がクサビ状に次第に高くなっていくといった具合だ。

 そして、普段秋葉原というおたく街の風景にすっかり慣れっこになってしまった私にとって、当初奇妙に思えた事があった。これが今回のタイトルである「おたく客と家族客の共存共栄」である。私も含めたおたく客と、幼稚園から小学生くらいの息子や娘を連れた父母が、二階や三階のヴィンテージ玩具屋の同じフロアで、同じように陳列された商品を眺めている。秋葉原では間違って入ってしまった客を除けば、アニメショップやゲームショップやフィギュアショップに家族連れが来ることなんて、滅多にないが、中野ブロードウェイではそうではない。これは新しい発見であった。

 なぜそれが可能なのか。私が思うに、一番の理由は「主婦層にも用のある場所」だからであろう。食料品店に化粧品店に婦人服の店。要するに普通のショッピングセンターと同じである。だけどそういう一般的なテナントに交じって、すぐ一件隣にはおたくな店も存在しているのだ。子供連れで買い物に出かけたら、主婦は食料品や婦人服などを買って、子供が「おもちゃを見たい」と言ったら上のおもちゃ屋のある階に連れて行く。そこには今の子供が楽しめる最近の新品を扱った店もあり、昔のヴィンテージアイテムを扱った店もあり、後者は父親や母親の世代にとって懐かしくて、「これ、子供の頃よく見てたなぁ」と、つい見入ってしまうものだ。もちろんマニアにとっても垂涎の品である事は間違いない。

 百聞は一見にしかず。この光景は、“おたくは一般人にとことんまで毛嫌いされていて、共存共栄なんて夢のまた夢”という私の旧来の常識を一気に崩しにかかるために、私の目の前に実際の証拠として突きつけられたものであった。そして私は、2005/02/22-03/13に東京都写真美術館で「おたく:人格=空間=都市」という展覧会が開かれた時の事をふと思い出した。私の観察していた限りでは、一般人の来場者は美少女系作品の展示を「わからん!」という目で見ていたが、一方で1970年の万博に関する展示を懐かし気に見ていたり、レンタルショーケースのうち一般受けしそうな漫画やアニメのフィギュアに限っては、「これ昔やってたね!」と、また懐かしそうに話し合っていたりと一番人気だったものである。

 つまり、一般人だって、自分が子供の頃に見ていた、自分の守備範囲の漫画やアニメなら、今でも懐かしい、今でも好きだという人は結構多いのではないか(特にテレビ東京の「なんでも鑑定団」の影響で、昔の漫画・アニメ・特撮系のヴィンテージアイテムについては、今や多くの一般人もそれらが「ちゃんとゲンナマに換算できる価値を持っている」ことをちゃんと知っているほどだ)。そして、ここらへんの共通理解をもとにすれば、とかく対立しがちなおたくと一般人の間の相互理解も、必ずしも夢ではないのかもしれないというかすかな希望を胸に抱きながら、この新たに見つけた場所を後にした。

[]スパルタ教育の功罪 スパルタ教育の功罪 - 「変人」は褒め言葉 を含むブックマーク スパルタ教育の功罪 - 「変人」は褒め言葉 のブックマークコメント

 日本テレビで「女王の教室」というドラマが始まったが、私が思うに、これは半分ネタとして、つまり半ば冗談っぽく楽しむような作品だろう。“スポーツ根性もの”ならぬ“勉強根性もの”というところか。主人公の良くも悪くもアナクロなスパルタ教育は、どことなく「巨人の星」の星一徹を思わせるものがある。

 さて、スパルタ教育は良い教育法か。だらけ根性を叩き直してしっかり規律を身に付けるという、確かに良い面もあるだろう。しかし危険な副作用も兼ね備えている事を決して忘れてはならない。とは言っても、1983年にあるスパルタ教育のヨットスクールが死亡事件を起こして問題になった時のような、身体的暴力ばかりが副作用の全てではないし、必ずしも身体的暴力を伴わないスパルタ教育も存在する。しばしば忘れられがちだが、精神に与える影響もそれと同じくらい問題視すべきである。スパルタ式に偏った教育は、人の心をガチガチに押さえつけ、心がカタワの人間に育て上げることだと、はっきり警告しておく。

 まず、スパルタ教育は自尊心を破壊する危険がある。自分はどうしようもない愚かなダメ人間なのだとさんざん刷り込まれていくうちに、本当に愚かなダメ人間になってしまう事がある。あるいは、鬱病になる危険もあるだろう。自分の心が耐えられる範囲内での適度な精神の叩き直しは、人の心を鍛えるかもしれないが、度を過ぎるなら、心を鍛えるどころか取り返しの付かない傷を付けることになりかねない。

 逆に自分の得意な分野についてスパルタ教育を受けるなら、歪んだ自尊心を持つ危険もある。スパルタ式とは強さが善、弱さが悪という思想である。その思想にどっぷり浸かっていくうちに、自分はどんな試練も乗り越えてきた秀才だが、周囲の人間はそのレベルからはほど遠い凡人だ、そうみなして人を知らず知らずのうちに見下してしまうかもしれない。

 また、多くの場合、スパルタ教育とはすなわち奴隷教育である。規律に盲目的に従う事は教えられるが、融通の良さは教えられず、順応性に富んだ自己判断力の成長を阻害する危険がある。指導者の言う事を一字一句しっかりと覚えて実行する事が大事であり、それに疑いを差し挟むことは反抗であり悪であると看做される傾向が往々にしてあるが、それでは教えられなかった事に出くわしたらどうだろう。たとえ自分はどう行動したいのかわかっていても、結果を無意識に恐れるあまり、どうしても指導者の顔色をうかがってしまう。「もし間違いだったらどうしよう、それは人間として許されない悪になるのだ」と、尻込みしてしまうことになりかねない。人間として許されない悪、これは当事者にとって決して極端な表現ではない。

 そしてその融通の利かなさは、自分自身ではなく他人に対してもそのように言える。極端な教条主義の信奉者、つまりある決まりを状況に応じて柔軟に適用する代わりに、それを無視してただ機械的に適用するような冷たい態度を取るような人間を生み出す結果になりかねない。そこに浪花節とか義理人情なんてものは無く、ただコンピュータのように0か1かで他人を判断する冷酷な人間になるというわけだ。

 さて、私は具体的にどのような現場での教育を念頭に置いて上の指摘をしたかというと、これはただ単に教育ママや一部の学校や塾といった子供の教育だけに限った問題ではない。わかりやすい具体例が軍隊だろうし、スポーツ系の部活の一部もそうかもしれない。あとはカルト宗教や、マルチ商法を含めカルト的雰囲気の会社組織での人間教育もスパルタ的と言える。しかし、たとえ同じ組織内であっても、上位の人間の資質によって雰囲気は冷たくもなれば暖かくもなる。その大きな鍵を握っているのは、融通と人情である。つまり、上位の人間がいかに柔軟な発想をできるか、下の人間の出来る事の限界を知り、その弱さを暖かく受け入れる事が出来るか、そしてユーモアのセンスを理解する事ができるか、などにかかっている。だからこそ、軍隊での思い出や部活での思い出が、たとえ厳しくとも懐かしい思い出になっている人が多いのだろう。

 このように、スパルタ教育とはかなり毒の強いものである。とは言え、良い部分だけはチョコッと見倣って薬として使えるのではないか。もちろん先に指摘したように、スパルタ式とは、ともすると形式ばかりを重視するあまりに人情を軽視する罠に陥りがちなものであるから、その部分を十分補完する必要があるだろう。「あなたが弱音を吐くのは弱い証拠、あなたの為を思って厳しくして何が悪いの」と、相手の心や限界を無視して無理な要求をする独りよがりな“愛”なのか、それとも相手の限界を理解し、厳しさの後にはフォローを忘れないか。その違いが大きな違いである。

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