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2004-03-21

[]「若者は安易にフリーターの道を選ぼうとしている」か 「若者は安易にフリーターの道を選ぼうとしている」か - 「変人」は褒め言葉 を含むブックマーク Add Star

 ふざけるな。現状を知りもしないのに、他人の受け売りを馬鹿の一つ覚えのように繰り返していい気になるな。自分が正社員であることを鼻にかけて、「正社員にあらずんば職業にあらず、アルバイト・パートは人生の落伍者」などと、堂々と差別発言を繰り返している輩は、明日リストラ解雇されちまえ。そして、自分たちがあざ笑っていたアルバイト仕事でやっと糊口をしのぐしかない現実を自分が体験してみるがいい。

 フリーターの若者が多いのは事実である。しかし、“彼らは正社員として働く気がないぐうたら者だからフリーターになるのだ”というのは偏見である。確かにそういう人も全くいないわけではない。しかし、アルバイト生活を選びたくて選んだのではない人も多いのだ。今の世の中、「不況に便乗したリストラ」「不況に便乗した正社員削減」がはびこっており、正社員よりも、会社としても責任の軽くなるアルバイト社員を雇いたがる傾向がある。本来なら、どこかの会社に正社員として就職したかったのに、求人自体がほとんどないのだから、選びようがない。そしてやむなくフリーター生活を送っているという若者が多いのだ。

 自分が正社員であることを誇ってフリーターを見下しているような人など、仕事というものを馬鹿にしているとしか言いようがない。しかし、たとえ収入が不安定でもしっかり汗水流して働くフリーターがいるなら、その方がよっぽど立派な働き手だ。

 小津安二郎映画に「大學は出たけれど」とか「東京合唱」というものがある。どちらも、昭和初期の不況の頃を描いた作品である。なまじ高い学歴を持っていると、たとえ他の仕事が無くとも、プライド邪魔して、いわゆる3K職業には就きたくないと思うことは、昔も今も同じである。「東京の合唱」の作品中では、主人公が解雇され、せっかく大学時代の恩師に仕事をもらったのに、チンドン屋みたいに町を練り歩いて洋食屋の宣伝をする仕事には非常に抵抗があったし、本人はともかく奥さんが「いくら職がないといっても、世間に肩身の狭くなるような仕事はやめてください」としきりに懇願する。

 しかし、本当に金がないのなら、「世間に肩身が狭い」だの何だのと、そんな贅沢を言ってる暇などないはずだ。大学出のチンドン屋、立派じゃないか。「もっと学歴を活かせる仕事があるだろうに勿体ない」と思って仕事をえり好みするのは、バブル時代の贅沢だ。その自分に合った仕事が見つかるまでは、とりあえず、肉体労働だろうが、3K職業だろうが、アルバイトだろうが、えり好みせずやるしかないではないか。

 フリーター否定論者は「若者がみんなフリーターになったら日本は滅びる」と言うが、たとえ世間に肩身の狭いことのあるフリーターでも仕事をしているだけマシだとは思えないのか。もし仕事をえり好みしてアルバイトにさえ就かない人だらけになったら、日本はそれ以上にもっと悲惨なことになる。私は、アルバイトやパートや日雇い労働も正社員と同じく立派な労働だと思っている。それを、きちんと労働意欲があって働いている彼らを「無職」などと呼ぶのは暴言以外の何物でもない。日本はそろそろ「正社員にあらずんば職業にあらず」という“正社員原理主義”を見直す時期に来ているのではないだろうか。


[]「舊約聖書の神は怒りと憎しみと嫉妬の神、新約聖書の神は愛の神」? 「舊約聖書の神は怒りと憎しみと嫉妬の神、新約聖書の神は愛の神」? - 「変人」は褒め言葉 を含むブックマーク Add Star

 結論から先に言ふが、それは間違ひである。新約聖書の神も舊約と同じく、怒りと憎しみと嫉妬の神である。他人の受け賣りで上のような文句を言ふ人は、「默示録」だつて、「ハルマゲドン」だつて、舊約ではなく新約にあることを、すつかり忘れて仕舞つてゐる。兩者がどのやうな物であるかに關しては敢へて字數を費やさぬが、この二つの言葉が世界中の人々の恐ろしい想像をかき立てて來たといふ事實を述べるだけで十分だらう。

 いや四福音書ですら、神の怒りを象徴する事柄があちこちに出て來る。如何にもイエス・キリストは慈愛に滿ちたる神の御子と思へるだらう、しかしイエスはパリサイ人(今風に言ふならユダヤ教原理主義者)達を齒に衣着せ

ぬ言葉で激しく糺彈したし、「宮清め」の逸話も決して忘れてはならない。「イエス宮に入り、その内なる凡ての賣買する者を逐ひいだし、兩替する者の臺(だい)・鴿(はと)を賣る者の腰掛を倒して言ひ給ふ、『「わが家は祈の家と稱(とな)へられるべし」と録(しる)されたるに汝らは之を強盜の巣となす』」(マタイ傳21:12,3)。しかし、これだけでもほんの一例に過ぎぬ。

 從つて、舊約の神と新約の神の性格は、本質的に變つてゐない。大體、「愛の神が怒り、憎み、嫉妬する筈が無い」といふのが抑(そもそ)もの誤りである。人間でも、自分の結婚相手が浮氣したとしたら、其の事に對し怒らず嫉妬もせぬ人を見附ける方が難しいだらう。舊約聖書の出エジプト記20章5節に「我ヱホバ 汝の神は嫉む神なり」と記されてゐるやうな、一神教の「嫉妬する神」とは、これに似た概念だと説明すれば、一般的日本人にも理解し易いだらうか。つまり、他の神に浮氣する事は不倫のやうなものといふ概念が一神教にはある。理由もなく氣紛れで怒り、憎しみ、嫉妬するといふ意味ではなく、愛するが故に、その愛を妨げるものがあるなら怒り、憎しみ、嫉妬するのである。

 また、古今の宗教戰爭なるものも、單に敵國憎しの感情からではなく、自分の信ずる神に對する愛情と、その愛を妨げる異教に對する憎しみと嫉妬といふ圖式があるからこそ、雙方とも眞劍になるし、一筋繩で解決しない問題なのである。

 結論として、一方は新約に、一方は舊約に表れてゐると一般に思はれてゐる、その「愛」と「憎しみ」とは、實際には表裏一體のの關係なのだ。インドのネール元首相は「愛は平和ではない。愛は戰ひである」といふ言葉を殘したが、愛とは其程に激しいものである。愛が深まれば深まる程、その愛を裏切るやうな行爲に對して餘計に憎しみが深まるといふのは、舊約の世界でも新約の世界でも全く共通の約束事である。

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