如月『漁り火』

 おい、今から白海老を獲りにいくぞ。夫の小吉は思いついたらすぐに荒々しく動く。寝間でぐずぐずしていると叱り飛ばされる。エツは乳飲み子を姑の手に預け小舟を出す支度にかかった。明け方の海はまだ暗い。


 エツの生家も漁師だった。九つの年から船に乗って沖に出ていたので海のことならたいてい心得ている。エツは漁場を読む勘の非常に鋭い子供で、大人たちが舌を巻くほどだった。それだから夫の小吉もエツを頼みにして船に乗せることが多かった。小吉とは見合いで一緒になった。見合いといっても昔のそれも田舎のこと。仲人がお互いの親に写真を見せ、双方が納得すれば早々に祝言の手はずになる。小さな写真には印半纏の若衆が三人並んでおり、エツの相手はこの網元の兄弟の次男坊だと告げられた。しかしどれが自分の夫となる人物なのか定かでない。相手の顔を知らないまま婚礼の日が来た。祝宴が一昼夜続いて、酒臭い大座敷から人が引き払い、綿帽子の顔をおそるおそるあげると自分ともう一人だけが取り残されていた。隣で大の字に寝転んでいる酔っぱらい。どうもこの男が自分の夫になるようだ。エツは男に向かい三つ指をつき、消え入りそうな声で挨拶をした。泥酔した夫の鼾は、なんだかすっとぼけて愛嬌があった。
 小吉は無骨で頑固な若者だった。それでも不器用にエツを慈しみ、二人はすぐに子供を授かることができた。


 沖までは小吉が櫓を漕ぐ。エツは小舟から波間に向かって眼をこらした。潮流を見極めて網を投げる。風はなく波は静かだ。だが水面下の潮はめまぐるしく動いている。このぶんだとそこそこ穫れそうだ。寒い間に栄養をつけた海老はたっぷりと肥えて旨い。さて、市場に持ってゆけばいったい何銭になるだろうかとエツは算段した。それにしても寒い。小島の間を大阪商船の灯が優雅に滑ってゆく。客室の中はさぞかしぬくぬくと暖かく、旅の人々は安らかに夢をみていることだろう。


 と、そのとき。大きな旅客船からなにかが落ちるのが視界に入った。それは白い羽根をひるがえした鳥のように見えた。直後、ぱあんと水を打つ大きな音がして夫が叫ぶ。
「人が落ちたぞ!」
驚いて眼を凝らす。暗い水面に人の頭が浮き沈みしているのが見える。大変だ。助けなければ。夫が素早く船の方向を変えた。頭はしばらく波間に漂っていた。だが、突然意を決したように方向を変え、落ちてきた船とは逆に泳ぎ始めた。ぱしゃんぱしゃんと抜き手を切っている。女だ。泳ぎを心得ているようだ。潮は早いはずなのに確実に船から離れてゆく。岸までゆくつもりなのだろうか。無理だ。軽く二里はある。それにこの寒さだ。岸に着くまえに身体が凍えてしまう。


 女はそれでもしばらく泳いでいた。が、動きがだんだん鈍くなり、頭が水面に浮いたり沈んだりしていたかと思うと、ふっと見えなくなる。ああ、いけない。溺れかけている。小吉が身をいっぱいに乗り出して櫓を差し出す。
「これにつかまれ!」
女はげふっと水を吐き、もがいている。それでもなんとか櫓を探しつかんだようだ。


 ふたりで女を引き上げる。濡れた女の上半身がエツに多い被さった。ぞっとするような冷たさに思わず「ひぃっ」と悲鳴が漏れ、自分で驚く。ざああっと袂から水が滴り落ちて小舟は水浸しになった。女は振り袖を来ている。上等の綸子。白地にあでやかな牡丹の柄だ。帯は金子銀子をふんだんに使った豪華な品で、複雑な形のお太鼓に折られてある。しかし、こんなに重たい着物でよく泳げたものだ。女は甲板に這いつくばり苦しげに息をしている。小吉が二言三言問いかけをしたが、うつむいたままひとことも口をきこうとしない。


 とにかく岸まで急いだ。夫は船をつなぎ、俺は駐在を呼びにいってくるからと、エツに耳打ちした。
「あの女は眼を離すと逃げるぞ。逃げないように見張っておくんだ。いいな。」
小吉はいつになく興奮している。
 とりあえず番屋に火をおこし女を着替えさせることにした。隅の物入れから着替えを出した。レースの襟のワンピース。女の背格好は自分よりもいくぶん大きい。でも着られないことはなかろう。この服は市場にいくときのために置いてある。多少落ちぶれたとはいっても網元の家の嫁だ。あまりみすぼらしい格好はしないでおこうと気をつけていたのだ。服はエツの一張羅だが、目の前の娘にしてみればおそらく初めて身につける粗末な衣類なのかもしれない。ものうげな横顔の風情がなんとも気高くて、そんなものを着せるのが少し申し訳ないような気持ちになった。


 たき火の前に立たせ、濡れた着物を順番に脱がせていった。水を吸い込んだ正絹の結び目はきしきしと固まり、ほどくのに難儀する。女は黙ってされるがままになっている。重たい長襦袢を脱がせ、最後に朱色の肌襦袢に手をかけ息をのんだ。観たことのないような美しい裸身がそこにあった。いっさい日に焼けず労働にも荒んでいない女の肌をエツは初めて見たのだ。手ぬぐいを熱い湯に絞りその身体を拭き清めた。女は恥じらう様子もなく焚き火の前に立ち、放心しているのか痴れ者のような表情をしている。どこを観るでもない奇妙な目つきだ。ああ、これは、と思った。似ている。波一つなく鏡のように真っ平らで穏やかにみえるのに、ほんの一寸下には激しく潮の動きがある、あの海に。


 その後、娘は警察に引き渡され、それきり顔をみることはなかった。


 翌々日、娘の親族だと名のる人達が挨拶に来た。観たこともない黒塗りの立派な車から紳士が数人降り立ち帽子を取り深々と頭を下げた。きけば、娘は今治の大きな菓子問屋の末子で、年は数えの二十一。誰もがうらやむような縁談話が持ち上がり先方の住む神戸まで遠出した帰りの船の中、付き添いが眼をはなした隙のあっという間の出来事だったという。