「はてなグループを管理する責任」ってそんな大げさなもんかな?

開放的・閉鎖的 - babie, you're my homeを発端にして、はてなグループの管理、運営に関して - mrのRuby学習帳 - はてな?Rubyグループhaskellグループの運営について考えました - 結城浩のHaskell日記 - haskellから。
個人的な感覚としては、その後のhaskellグループの運営について、もっと考えました - 結城浩のHaskell日記 - haskellのhyukiさんの結論が一番同意できる。
なんか最初のhyukiさんの思考とかmr-80bさんの思考だと「いろいろな人が利用するはてなグループを管理するのは大変だし責任とれない。(だから、自分一人か、招待制で知り合いだけが使う)」みたいな大げさな責任感が伺える。
おそらく「断片部に入っているidの人は○○だ」とか「サブテクグループの人って、なんか××だよね」みたいな、所属によってレッテルで判断したり、「Javaプログラマは△△だ」とか「Perl書きって▲▲だよね」みたいな帰属意識で群れを作ったりする感覚が関わっているのだと予想したり。
「公益性の高い言語名グループのスクワッティング」という問題提議は分からなくはない。でもg:pythonとかg:perlもg:phpあったりするけど、どれも活用されている感じはしないな。(phpグループが承認制だけど、他の二つはオープンだから、単に利用したい人が少ない状態。つまり占拠されているわけではない)
はてなグループって、そんなに管理者が責任を感じるほどのものでも無い気がするな。特に言語名グループみたいな公益性のある名前であれば、レッテルや帰属意識問題もそれほど問題にならないだろうし。

妖精現実 Baka Memo 2006年5月から

http://www.fairyland.to/BakaMemo/2006-05.phpから http://www.faireal.net/about/#public_domain に従って転載。
新着iTunesの支配力: レコード業界、可変価格を断念か」2006年4月のメモをそのまま。オンライン販売の一般化を想定した「物理的な音楽の小売りは終わる」(2003年9月)から3年後、「次はAppleを中抜きする番だ」との予感がある。しかし問題はそう図式的に単純ではない。
冷徹に割り切れば、

(X) “高い信頼”のシステム = 高いコスト =「払うことを強制するためのDRMの技術ライセンス料と運営コスト、必要に応じて強制執行する法的コスト」+「それを実行する中間管理者のコスト」

(Y) “低い信頼”のシステム = 低いコスト =「ファンとアーティストの間のあやふやな関係に依存」

この二つを比較して、損益を予想すると、それぞれを最適化した場合、最終的に、1%未満の超人気作品は(X)システムの方がアーティストの利益が多く、99%以上の中間的〜マイナー(マニアック)な作品は(Y)システムの方がアーティストの利益が多い、と考えられる。
ソフトはすべて無料にして広告でもつければいい、などという意見もあるようだが、そこまで簡単な話でもあるまい。またそうした意見に対して、「社会に出て働くようになれば、物作りやサービスには多大な労力がかかる事、製作者・提供者に当然の報酬が支払われるべき事は身に染みてわかるでしょう」などというコメントがあったが、それも容易に否定できる:
客を乗せて人力車を実際に引いてみてください。人力車の運転手がどんなに大変な仕事だか、身にしみて分かるでしょう。だから、人力車の運転手の努力を無視する自動車や新幹線など発明してはいけないのです。――そう言うのに等しいからだ。「今の社会」だけを前提に、良い方向に変わっていける可能性を頭から否定することは、ばかげている。JASRACの渉外職員がどれだけすンごい「労力」を費やしているとしても…。
媒体(作品)に広告をつけるのではうまくいかない点について。テレビ番組が成り立つのは、放送、例えばアニメに広告がついているから、ではない。「テレビ番組に広告が付いている」のではなく、「テレビというインフラが広告配信に使える」のだ。Flashを例に具体的に言うと…
多くのユーザーは、ブラウザにFlashプラグインをインストールしている。Flashムービーなどを見て楽しむためだ。そうやって楽しむ個々のFlashムービーには通常、広告などついていない。しかしFlashプラグインというチャンネルは、広告配信にも使える。
実際、多くのユーザーはFlashの広告を見ることになる。だから、Flashプラグインが普及すると、それが広告に使えるので、結果的にFlash技術の開発元、作成アプリ、作成代行などに金が入り、対コストで有意に広告効果があれば広告主も儲かるのだが、それが成り立つためには、個々のFlashムービーに広告がついている必要はない。むしろ個々のFlashムービーに必ず広告がついていたら、Flashは人気が出ない。おもしろいFlashを見る目的と考えさせておいて(錯覚させておいて)、見たい対象には広告などついていないが、同じチャンネルで広告配信をしていて不可避的にそれにさらされる、という構造がキモだ。
テレビ放送も、自分はCMカットする、録画しておいてCMなんか早送りして見ない、ということが許容されていなければ――例えば、作品自体に広告がセットされていれば――人気が出ない。
Flashでもテレビでもその他成功するメディアは「おいしいところだけ取られてしまう使い方」を許容しているから、そういう「うまい利用をしよう」と思うユーザーを引きつけ、かつ、その上を行くことで(あるいは偶然に頼ることで)、ユーザー平均では十分に、広告を見せている。頭がいいと思っているユーザーは「自分はふだんは広告をうまく除去している。うまくやっている。まあたまに“失敗”して広告を見せられてしまうくらいは、いいだろう。それでも自分の方がトクをしているのだ。それにコマーシャルも案外おもしろいしね」と計算するが、トータルでは、それで収支が合っている。
だから、現行のシステムは(X)でなく(Y)ではないか。微視的な効果を絶対的に確保する広告強制・課金強制ではなく、信頼性の低い偶然に頼ることで、より巨視的に効果を挙げている。
逆に、強力なDRMを使おうとしたケースでは、高い確率で全体が失敗する。DRMが破られるのでなく、その情報伝達チャンネル全体が受け入れられないで、全体が失敗する。DRMが失敗するのでなく、アプローチ自体がダメなのだ。Appleが今のことろ成功しているのは、DRMが弱いから、信頼性が低いからである。信頼性の高いがちがちのDRM、露骨なDRMを使おうとして失敗した例は枚挙にいとまがない。
個人的にもDRM保護されているメディアの鍵を買うためにお金を払ったことなどほとんどないが、オープンソースのソフトにはその何千倍も金を払っている。性善だからでも思想でも倫理でも何でもなく、作者のファンだから、ミーハーだからに過ぎない。自分が敬愛し尊敬する作品、その作者に直接支払い支援している確かな実感があること、それがどんな快感かをみんなが一度体験してしまえば、勝負あったと言っていいくらい、状況が変わると思う。すべてがオープンになるべきだなどと極論するつもりはないが、オープンソース性善説で成り立っている存在ではない、それは断言できる。OSS開発者の多く(全員とは言わないが)は平気でペイウェアをクラックする。ストールマン自身がクラックはいいけど隠れて使わなければいけないのが問題だ、と言い切るくらいで、オープンソースは善人だから・善人だと思われたいからソースを公開するという思想ではない。

企業だってユーザーともっとつるむべきなのだ。ソニーだって、昔はかっこいいイメージがあった。機能的には大差なくても、好きだから…という“いい加減”な理由で選びもした。技術的保護の強弱自体より、好き嫌い嬉しい悲しいといった“いい加減”な感情の方が影響力が大きい。人間を相手にする以上、やはり技術より人間なのだ。「消費者はこっちが作るものを買うしかないのだから」「作る側が偉いのだ」というやり方は、徐々に機能しなくなるだろう。1%未満の超特別なものだけは例外で、その地位やそれ自体の力によって何をやっても平気だが、99%以上の一般ケースでは、客を泥棒扱いすれば失敗するに決まっている。客を信頼しないなら、ファンを信頼しないなら、自分も信頼されないだろう。

第一、何のために音楽をやるのか。儲けたいから有名になりたいからなのか。そんなんなら、滅んでも滅ばなくても損も得もない。歌わずにはいられない書かずにはいられないどうしようもない内的必然性があるのではないのか。考えるより先に口が開き、詩があふれ出て、指が動く、探る、見つける、発見する、ピアノの前で止まらない、止められない、それが音楽ではないか。音楽がおまえの奴隷なのではなく、おまえがミューズの奴隷なのだ。詩人であることは権利ではない。義務なのだ。おまえはミューズから選ばれた特権階級などではない、ミューズのためだけに生きて死ぬことを課せられた奴隷なのだ。そして誰も二人の主人に仕えることはできない。

要はミュージシャンなるものはミューズの国とつるんだ存在で、直接的には社会を変えるだの、どう変わるべきかだの、そんなことはどうでもいい、というべきだろう。CDもレコード屋RIAAAppleも滅ぶが、歌は続く。この歌もあの音楽も、同じオリジナルの劣化コピーに過ぎない。別にしくみとして音楽家を保護しなくても、向こうから勝手に来続けるのだし、どちらかといえば、音楽家をもっと社会的に迫害したほうがいいくらいだ。音楽家の社会的地位が下がれば「有名になって大金持ちになりたい」みたいな勘違いがさまよいこむこともなくなる。呼吸が歌である「リンゴかじ〜って オ・ン・ガ・ク♪」(注)な者だけが、音楽をやることになり(意識して「やる」というより本人には止められない)、相手が貧し過ぎて中間流通もたいして搾取できなくなる。

今のままの方が良い部分

中間の無駄を省いて、音楽家とファンが直接やりとりした方が楽しいし無駄がない…というのは、確かにそうなるように思えるが、そうなると別の問題も出る。

中間の無駄を省けば、確かに音楽の値段は今の10分の1くらいになって、音楽家の収入は変わらないか逆に増えるだろう。けれど、このことは、音楽家が、資本力のある機関からの直接交渉で容易に買収されやすくなることをも意味する。相手が、今の10分の1の金で動くようになるからだ。この観点からは、音楽家の自由を確保するために、直接取引ではなく、あえて第三者を介在させ、直にコンタクトをとれないようにした方が都合が良い。少なくとも、ある日、突然、制度が変わると、過渡期の混乱で、一方では約10倍のお金を払う従来型ファンがいて、他方では10分の1で流通させられる者が出るため、良心的ではない行動が可能になる。今でもオークションで転売することだけを目的にレアものを買っておく人などがいるのを考えれば、急激にしくみが変わると、情報格差によって、そこから甘い汁を吸う「新寄生商売」が成り立つ。よって、いくら現在のしくみに問題が多いと言っても、いきなり著作権や現在の流通システムを全廃することは適切ではなく、徐々に変化しないといけない。その意味では、物理CDが長期的にはすたれるといっても、急に中抜きになるのでなく、オンライン販売というワンクッションが入るのは過渡的に好ましい。

第二に、音楽家とファンが直接やりとりというと、人間的な心の交流も増えて良いことも多いのは確かなのだが、
心ないファン、ストーカーのたぐいも発生する。ファン一人が年に500円払うだけで音楽家は十分に暮らしていけるようになるかもしれないが、そのとき、あえて100倍の5万円を払う人がいたら(50万円でも払えない額ではない)音楽家はその1ファンを特別扱いしなければならなくなる。ましてや、マイナーな立場で、余裕がないとすると、50万円払った相手は音楽家にとって特別な存在となる。そしてその一人は結果的に、創作活動に口をはさみ影響力を持つだろう。ファンのための音楽、エンターテインメントとしての音楽なら、それでも良いかもしれないが、純粋にミューズに捧げられるはずの絶対音楽の場合、たとえ音符1個でもたった50万円で影響されてしまうのは好ましくない。中間の無駄を省くことは、音楽をより純粋に成立させる方向にあるはずなのだが、実際には、このように、音楽に不純な要素を介入させる道を増加させるのである。現在でも、音楽に不純な要素は入るが、混入の道はスポンサーなどごく限定されている。音楽が「オープン」になると、音楽は「自由」になると同時に、たくさんの予期せぬ危険にも直面するのである。長い目で見れば克服しなければならない試練の道であるが、中間の寄生が消えてお金のやりとりさえ解決できればすべてうまくいく、という単純な問題ではない。

(注)「 ONGAKU」…地図帳を広げるのも音楽、ピアノによじ登るのも音楽、リンゴをかじる音、電車の走る音、すべて音楽。な多幸症っぽい曲。サティー家具の音楽に類似? そんな無邪気で単純な信仰なのだが、他方、歌が始まるときは前奏から3全音上の一番遠隔調まで来ているというひねりまくっている曲。全部のキーが好きで好きでたまらないのでそれが楽しいというだけの理由で12調の180度反対側まで転調しまくったと解釈できないこともないが、3全音の距離というのは現代の音楽から見るとむしろ「ありがち」(技術的に言うと、同じ減七の和音が、どちらにも解決できるので)でも何となく分かるなあ…「ラピュタの美しき魂が…」みたいなばかげたパロディーでさえラピュタの「ピュタ」とプリキュアの「キュア」が脚韻を踏んでいる、みたいな。