半藤一利 『幕末史』

 嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航に始まって、明治10年(1877)の西南戦争勃発と終結、そして翌11年5月14日の東京麹町・紀尾井坂下における大久保利通暗殺という、維新三傑の退場(木戸孝允西郷隆盛、大久保)と山県有朋による統帥権独立(「国の基本的骨格のできる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた」)までの四半世紀にわたる「幕末・維新史」が語られる。勝海舟岩倉具視坂本龍馬近藤勇高杉晋作孝明天皇徳川慶喜…と、幕末動乱の立役者、稀代の「人物」らが現れては去ってゆく様は、後世の脚色を間引いても圧倒的に面白い。
 
 孝明天皇の「不審な死」、何としても朝敵にはなりたくなかった慶喜の心中、無血開城を控えた勝海舟のイギリス行使パークス訪問――。数多くのエピソードの中でも興味深かったのが明治4年、「廃藩置県詔書」のくだりだ。
 
 アーネスト・サトウはパークスの感想として、「欧州でこんな大変革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実験を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」(p.392)と記したというが、その一方で、宮武外骨の『府藩県制史』によれば、県名と県庁所在地の名前が違うところが17県あり、そのうち実に14県が「朝敵藩」なのだという。すなわち「この期に及んで明治新政府がいかに西軍と東軍の差別をはっきりしていたかがよくわかる」。「新潟は県名と県庁所在地が一緒といっても、明治元年ごろの新潟なんてのは単なる小さな港町でした。まさに『長岡県』にしたくなかったからと言わざるを得ません」。このあたり、歴史を学ぶことの、不意を衝かれたような面白さと言えるのではないだろうか。
 
 付言すれば、「明治はいまの日本をつくりあげた母胎なのである、という近代化論にはいささか疑問をもちつづけています」と留保する半藤氏の歴史的センスにも唸らされずにはいられない。「西郷起つ、の報告をうけて大久保が『笑み』を洩らしたのは当然であった」との一節に、本書の真骨頂を見た思いがする。あまりにもロマン主義的な幻想を承知で引用するならば、幕末史とは、いわば「古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義者の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる『私闘』」であったのだ。